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勝手に読書感想文。漫画も映画も含みます

タグ: エッセイ

  • お金のかからない人生の楽しみ方『深夜高速バスに100回ぐらい乗ってわかったこと』

    BSよしもとの「第一芸人文芸部 俺の推し本。」という番組で銀シャリの橋本さんが推していた『深夜高速バスに100回ぐらい乗ってわかったこと』を読みました。

    番組中で橋本さんが「読むYouTube」みたいな例えをしていました。「○○してみた」のような企画っぽい内容が多い点を言っていたのだと思います。それもそのはず、著者のスズキナオさんはデイリーポータルZなどで記事を書いているライターさんじゃないですか。本書にもデイリーポータルZが初出の記事もたくさん収録されていました。

    読む前にはもっと派手な企画を想像していました。もっと「いいね」を! もっと注目を! もっと再生回数を! みたいな感じで、最後はYouTuberが警察に捕まったりする話も聞くので。

    スズキナオ氏さんの企画はその逆を行く感じです。私が好きだった企画は「誰も知らないマイ史跡めぐり」です。友人であるハナイさんの地元の街に行き、ハナイさんの「マイ史跡」を紹介してもらうというもの。そりゃ「誰も知らない」わけです。

    ここでよく食べたてなーというラーメン屋に行ったり、そこがすでに移転して閉まっていたり、宮沢りえが表紙の雑誌を立ち読みしていたら近くに宮沢りえ本人が立っていたという経験をしたコンビニに行ったり。(このエピソードについてかなりインパクトのある、ほぼピークに相当するものかと思います)

    あとは、子供の頃に遊んだ公園とか、中高生のときに散髪していた理髪店とか、「夜、ボーッとしてた歩道橋」とか、「好きな子に電話したことがある電話ボックス」とか。

    有名人のゆかりの地をめぐることがツアーとして成立するなら、自分にとっては関係の深い友人のゆかりの地を本人に案内してもらうことは、とても価値のあることじゃないかと。そして、そんな変な企画につきあってくれる友人がいることはとてもすばらしいことじゃないかと。

    ラーメン屋や居酒屋などの飲食店をめぐる記事も結構多いですが、よくあるグルメレポートとは違います。どこ違うんだろうと考えてみたところ、スズキさんは人にフォーカスを当てているんだなあと思いました。出てきた料理も紹介するけれど、それだけじゃなく、お店をやっている人の人生も紹介するんですよね。なぜこの店を始めたのかとか、どうしてこんなメニューなのかとか、阪神淡路の震災のときはどうだったとか(関西のお店が多いので)、ご主人と結婚したきかっけとか、けっこう個人的なことまで。

    「おいしい○○」を食べに行くということだけが、お店に行く目的じゃないんだと思うんですよね。人に会うのが目的だから、動物園で飲んでもいいし、舞浜に行ってディズニーランドに入らなくてもいいし、終電を逃したつもりで朝まで歩くだけもいいんだ。そう考えると、なんだか納得しました。

  • こじらせた自意識のエピソード『東京百景』

    オフィスワークに就いていて、Teamsなんかを使っている人だったら分かってくれるんじゃないか思います。チャットの時とかに発言者のアイコンが表示されますよね。あれって、昔はIDカードに載せるような、履歴書に貼るような、正面を向いて、カメラ目線で、真顔で、スーツを着ていて、みたいな、そんな写真だと相場が決まっていました。でも、最近ちょっと自由になってきて、もっとカジュアルな写真を使ってもOKみたいな流れがあるような気がします。

    自由になると、みんな個性を出してきます。ディズニーランドで撮った写真だったり、ペットと写っている写真だったり、渓流の釣り人だったり。

    趣味のテイストが出てくるのは、そんなに気にならないのですが、仕事の感じが出てくると、ちょっと不穏な空気が漂います。マイクを持って講演しているような写真を見ると「俺、壇上から教える側だけど、何か?」と、どや顔が語りかけてきます。

    子供と一緒に写っている写真もけっこう多いです。それくらいならまだいいのですが、純粋に「子供だけの写真」という人がいました。何がしたいのでしょうか。誰なのでしょうか。子供の許可はとったのでしょうか。気になります。

    何の話をしたかったのか忘れかけていましたが、作家が自著にのせる自身の写真に苦労した話が『東京百景』にありまして、自意識をこじらせた人(=又吉氏)の苦悩を思い知らされました。

    後輩がさらっと「新進気鋭の作家みたい」な写真を撮ってくれたのですが、

    その写真を見た人間の大多数が、こいつ作家を気取りやがってと鼻で笑うはずだ。

    と、却下です。

    変な顔でとってみては? とも考えるのですが、

    周りの眼を気にせず、自分の大切な初めての著書に変な顔を載せるなんて、凄く男らしくて素敵だ。

    自身が決してそういうタイプではなく、周りの人間がそのことを知っていると確信する又吉氏は、そんな偽りの「男らし」さが滲み出るようなことは許容できず、変な顔の写真も採用できません。

    目を閉じて撮ったり、走っているとこを撮ったり、歯を食いしばって撮ったりしても、違和感が払拭できず、結局、一心に蕎麦を食べている写真を使ったようです。(どの本でしょうか、知っている人がいたら教えてください)

    ちなみに私の手元にある単行本版の『東京百景』には、古びたアパートのドアの前で、微妙な感じ(決して「しっかり」ではないし、ポーズもとっていないし、ふざけてもいない)で立って、カメラではない方向を見ている又吉氏の写真が載っていました。これが答えの一つなのかもしれません。

    ちなみに、会社のTeamsでの私のアイコン写真は、コンビニ前の証明写真機でスーツとネクタイで撮ったものを使い続けています。

  • 又吉直樹と太宰治と自意識過剰

    普通に生活しているとたくさんの人のことを知ることになりますが、そのほとんどの人に対して特別な印象を持つことがありません。好きでもなく、嫌いでもくなく、興味もない。もっと言うと、「興味がない」わけでもありません。なぜなら「興味がない」には、もはやネガティブなニュアンスが感じられるからです。

    「人のことを知る」というのは、一緒に仕事をするとか、遊ぶとか、たまたま雑談を交わすとかもありますが、もっと広く、一方的にこちらがその人を知っているだけの、有名人のことを見聞きすることも含めています。

    私が又吉さんに対して、ニュートラルな状態でなくなった瞬間は、又吉さんが太宰治について語っていたときでした。インタビュー記事だったのか、テレビ番組だったか、もはや覚えていないし、このような言い回しを使っていたかもあまり自信はないのですが内容としては「好きな作家として太宰治をあげるのはけっこう勇気がいる」みたいなことでした。

    この感覚、どのくらい多くの人と共有できるでしょうか。太宰治を読んだことがない、イメージもないという人はこういう感覚を持ちえないでしょう。太宰治にはまって、たくさん読んで、好きな作家を聞かれて、迷いなく「太宰治が好きです」という人と共有できる感覚でもありません。

    太宰治について、暗いとか重いとかそんなイメージを持っている人は多いと思います。でも、太宰はキャッチーでもあるのです。万人受けする作家なのです。万人受けが言い過ぎなら、「千人受けする」という言い方がぴったりかもしれません。『人間失格』あたりを中高生で読んで、

    「こ、これは、俺のことを書いている・・・」

    と思う人は結構多いはずです。すでに数十万人の若者がこの体験をしていることでしょう。

    そして、どうやらそうらしい、きっとそうなんじゃないか、と思いこむと、「太宰治を愛読しています」と言うことが恥ずかしくなってきます。そんな宣言をすれば、「あらあら、文学青年気取りですか?」みたいなことを思うやつがいる(のではないかという被害妄想に取りつかれる)からです。実際はそんな意地悪な人はほとんどいないのでしょうが、太宰が自分の代弁者であるかのような感覚を少しでも感じた人間が、実体をもたない「世間」を否定しながらも、その「世間」に怯えることは十分にありうることです。

    又吉さんが書いた『東京百景』にはいろんな要素が詰まっているので一言では言い表せません。上京してきた「何者でもない」若者のエピソードが書かれたエッセイという表現は数十パーセントは表現できているかもしれませんが、それだけではありません。売れない芸人、ちょっと売れ始めた芸人、いろんなものに怯えすぎる若者、体験談に近いものもあれば、亀や流れ星が話しかけてくる妄想に近いものものもあります。自意識過剰をこじらせすぎておかしなことになっている話もあります。人に話したくなる「すべらない話」の要素も含んでいます。

    そして、『東京百景』は究極の「人生最後に読みたい本」なのですです。なぜかというと、BSテレ東の「あの本、読みました?」とう番組で、又吉氏自身が「人生最後に読みたい本」として、この『東京百景』をあげていたからです。

    作家が「人生最後に読みたい本」を聞かれて、自身の著著をあげたのです。太宰好きを公言するときに発揮したような勇気を再び発揮し、なしとげた快挙なのではないかと思います。

    これを見て私はさらに、又吉さんに対してニュートラルではなくなりました。お気づきだと思いますが、素直に好きだとは言えない状態になっています。なぜ?って。そこを汲み取っていただけない方とは、分かり合えそうにありません。

  • 『アウト老のすすめ』(みうらじゅん著)の図書分類

    ちょっと前のことですが(50代にとって半年前は「ちょっと前」の範疇です)、「あの本、読みました?」というBSテレ東の番組に、みうらじゅん氏が出演していて、『アウト老のすすめ』というエッセイ集が紹介されていました。

    あの本、読みました?いま話題のエッセイ!みうらじゅん「老い」万城目学「万博」(BSテレ東、2025/10/16 22:00 OA)の番組情報ページ | テレ東・BSテレ東 7ch(公式)

    タモリ倶楽部に出ていたときや、あるいは、いとうせいこう氏や安斎肇氏と共演しているような番組でのMJ(ぼくら、みうらじゅんフリークはこう呼んでいるよ)は安心して見ていられるんですが、「普通」のタレントさんと共演しているときのMJを見ていると、気が休まりません。

    なんか、こう、「絡みにくい人」みたいな空気になっていて。「あの本、読みました?」でも、事故り気味でした。

    みうらじゅん(以下 MJ)「だんだん年取ると、ちょっと「ケンイ コスギ」になるとこあるじゃないですか」

    鈴木保奈美(以下 リカ)「あー」

    MJ「何したわけでもないのに、年取ってるだけで・・・」

    (リカの微妙な表情を見て)

    MJ「あっ『権威 濃すぎ』の話ですよ。ケインじゃないですよ」

    自分が作り出した造語を、さも一般にも浸透しているかのように、会話に織り交ぜてくるMJ。「ケンイ コスギになるじゃないですか?」に対して、「はぁ?」と返してくれればいいんですが、きっと何か真面目なことを言っているんだろうと思って、普通に相槌を打ったりすると、ちぐはぐな会話になってしまいます。

    そうです、これがまさに「権威濃すぎ」現象なのです。若手の頃ならぞんざいにつっこんでくれたのに、権威のせいで、相手は「そうですね」「分かります」「勉強になります」みたいな反応をしてしまい、このような悲劇が起きるのです。

    今後MJを起用しようと考えているテレビ関係者に肝に銘じておいてほしいのは、「MJはまじめな話などしない」ということです。つねにふざけていると思って対応するのが吉です。「つっこめる人」「ひろえる人」に共演していただくのもいいと思います。

    つっこみ役として、より権威の濃い人に一緒に出てもらうのもいいと思います。森繁久弥さんとか、勝新太郎さんとか、内田裕也さんとか。え? あぁ、そうですか。残念です。

    「あの本、読みました?」では、「権威濃すぎ」のことを自ら説明せざるをえない苦境に追い込まれたMJに対して、万城目まきめ学氏が

    万城目「自分で言うのつらいですよね、今のところね」

    とフォローしてくれたので、なんとかなりました。消火はできました。全焼のあとでしたが。

    番組によると『アウト老のすすめ』が売れているらしいとのこと。MJの本は書店の隅でひっそりと売られるものだと思っていたのですが、書店で平積みになっていたり、自治体の図書館のサイトで見てみたら予約待ちになっていたりして、この「らしくない感」 にモヤモヤしました。

    これまた、ちょっと前のことですが(今度は15年前だよ)、川崎市立図書館の児童向けの保健体育のコーナーにこの本が置かれていました。

    その時の衝撃については、こちら(図書館で「正しい保健体育」(みうらじゅん著)の置き場所が間違っていた話: 主張)に書いておりますので、ご参照ください。司書のかたはタイトルだけ見て青少年向けの真面目な本だと思って分類してしまったのでしょうか。おそらく、著者が誰であるかを見落としてしまったのだと思います。

    ただ、しばらくして行ってみたら、児童書のコーナーからはなくなっていました。サブカルチャーのコーナーに移動したのかもしれません。有害図書として廃棄されていないことを祈ります。

    そして、これはほんとに「ちょっと前」の話なのですが、これまた川崎市立図書館で、美術や芸術関係の真面目な本に混ざって、この本が並べられていました。

    「芸術新潮」に連載されていたそうで、分類としてはギリ合っているのかもしれませんが、「はかせたろう」活動などの話も出てくる対談なので、本棚で異彩を放っていました。ちなみに「はかせたろう」とは、下着を穿いていないなら「穿かせたろう」という、ヌード写真に下着を書き足すという活動で、これについては『アウト老のすすめ』にも書かれていました

    『アウト老のすすめ』は、MJが「アウト老」を勧めている本というわけではなく、すすめている話ばかりが載っている本ではなく、「週刊文春」に連載されていたエッセイをまとめたものです。

    普通のエッセイっぽくちょっとしたエピソード話もありますが、架空の漫才、金〇工場のインタビュー、老いるショック・セミナーでの講師と生徒のやりとりなど、妄想系のコンテンツも多いデタラメ自由なエッセイ集です。

    大人向けの話も多いです。と、思ったら週刊文春での連載名は「人生エロエロ」だそうです。なぜそのまま単行本のタイトルに使わなかったのでしょうか。書店でレジに持っていくのが恥ずかしくて、売れ行きに影響がでるからですね。愚問でした。単行本化にあたって書名を変えられた出版社・編集者さんの判断は正しかったようです。

    ふと思ったんですが、みなさん「アウト老」の意味はご存じでしょうか?

    みうらじゅんのザ・チープ」という番組の「#4 拓本」の回で、MJが非常に分かりやすい例をあげておられたので、ここで紹介いたします。

    MJが小学生だった頃、母方の祖父(饗庭蘆穂氏)が定年後に拓本(石碑などの表面に紙を置き、墨で文字や模様を写し取る技法)にはまり、『拓本による京の句碑 上』(当時 4,800円)という本を出版しました。

    お祖父さんは、親戚が集まっている場に、ものすごい量の本を持ってきて、こう言い放ちます。

    「1家庭に2冊以上買って欲しい」

    この、親戚内での「押し売り行為」を、「アウトロー」ならぬ「アウト老」であるとMJは評していました。非常に分かりやすい例ですね。

    さて、この『アウト老のすすめ』は図書館ではどのコーナーにおくべきでしょうか。NDC(日本十進分類法:図書館などでの分類に用いる体系)では、「159 人生訓」などがあります、どうでしょうか。もしくは「367.7 老人.老人問題」でしょうか。それとも有害図書として廃棄されてしまうのでしょうか。

  • 『ここで唐揚げ弁当を食べないでください』を読んで学生の頃を思い出す

    この本(「ここで唐揚げ弁当を食べないでください」 小原晩 著)を読んだきっかけは、テレ東の「あの本、読みました?」の「エッセイ特集」自費出版“唐揚げ本”が異例のヒット! 小原晩&吉本ばななが語るエッセイの魅力」(テレ東BIZのサイト。動画は有料なのでサムネイルだけ、参考までに)に作者の小原晩さんが出ていたのを見かけたから。

    あと、BS12(トゥエルビと読む)の「BOOKSTAND.TV」にも出演されてました(インスタグラム)。BS12を見るとか、目のつけどころがシャープでしょ。「ザ・カセットテープ・ミュージック」も好きです。

    自費出版から火がついて、大手の出版社から出すことになったというエピソードと共に語られることが多いみたい。自力で書店と交渉して、発送などもやっていたらしいから、すごくしっかりした人なのかと思ったら、なんだか頼りない感じで、でもって繊細なエピソードが多く、意外でした。あと、よく一人外食(買い食い含む)する人だなあと思いました。あと、よく夜の公園に行く人だなあと思いました。

    学生だった頃を思い出しました。「夏の記憶に三人で居る」なんか、自分の経験とは全く似てないのに、自分の経験が想起されるような読後感。

    深夜に外出するとか、目的とか行先があやふやなまま出かけてみるとか、くだらないことで盛り上がるとか、変なルール決めるとか、今考えると何でそんなことしたんだろうとか、若い時の感じだよなあと懐かしむ私、50代。

    切れ者の著者がいかに巧みに活路を見出したか、みたいなドヤ顔の本には食傷気味なあなたに、胃薬になるようなエッセイです。

  • 『とっておき名短篇』と『世界音痴』

    『とっておき名短篇』(北村薫、宮部みゆき 編)という文庫本を妻が図書館から借りてきた。タイトルからいって、短編小説のアンソロジーなのだろうと思った。が、最初に取り上げられている作品『愛の暴走族』の著者は穂村弘さん。「今まででいちばんこわかったこと」についての知人との会話がメインで、家で飼っている「金魚のエサが増えてた」話、「部屋のなかにシャボン玉が浮いてた」話についての会話などが出てくる。家族と同居しているならあり得る話かもしれないが、もちろんそうではない状況。

    この流れで、次のことが語られる。

    別れた恋人の家に、彼女から貰ったラブレターをそれらが入った引き出しごと、、、、、、返しにきた男の話を聞いたことがある。

    妻とこの本について会話したとき、妻はこの『愛の暴走族』を小説だと思っていた。その発想はなかったわー。穂村さんは短歌を詠む歌人で、エッセイなども書く人、というのが私の認識。そして、私はこのときたまたま『世界音痴』(穂村弘 著)というエッセイ集を図書館で借りていて、そこにこのエピソードの詳細版が載っている。

    電話で別れを告げた相手が夜中に突然やってきたという話を、知り合いの女の子から聞いた。玄関のチャイムが鳴ったので、出てみると、目を真っ赤に充血させた元恋人が抽出(ひきだし)を持って立っていたのだと云う。「これ」と云って渡された抽出のなかには、彼女がいままでに出した手紙がぎっしり入っていた。

    なので、『とっておき名短篇・・』に収められているとはいえ、『愛の暴走族』はエッセイであり、実話に基づいているはずである。と私は信じている。

    が、本当にそうだろうか? そう言い切れるだろうか。エッセイにフィクションを混ぜてもいいのではないか。いや、よく見ると『世界音痴』には、これはエッセイ集であるだとか、実話であるだとかは書いていない。「すべらない話」とは違うのである(いや、あれも・・・)。

    たしかに、『世界音痴』の後半に収録されている作品には、明らかに実話ではないエピソードや妄想の会話のようのようなものもたくさん出てくる。

    これは小説である、エッセイである、詩である、ノンフィクションである、みたいな前提をおいた上で、作品を読むという姿勢は、そもそも本質とはズレた行為なのだろうか。なんだかよく分からなくなってきた。(完)

     

     

     

    ・・・ ちなみに、上記は小説である。なぜなら、私は未婚で妻などいないし、そもそも小学生だ。

     

     

     

    ・・・というのはウソです。