『私の嫌いな10の人びと』を読んだきっかけは、『第一芸人文芸部 俺の推し本』というBSよしもとの番組で、ガクテンソクの奥田さんが紹介していたからです。
いきなり脱線して『俺の推し本』の話をすると、レギュラーの2人(ファビアン、ピストジャム)に加え、1人か2人のゲストが登場して、本の紹介をするというシンプルなトーク番組です。私がこの番組が好きな理由は、いかにもお金がかかっていなさそうなところです。私は贅沢が嫌いで、自分で高いものを買うのが好きではないのはもちろんですが、(あまりないですが)人におごってもらうような機会でも、安い店のほうが嬉しいです。接待費で落とすからみたいな感じ、高級な飲食店に連れて行ってもらっても、ちっとも嬉しくないばかりか、こんな無駄遣いして・・・、という感情しか湧いてきません。
そういえば以前、違う会社の数人で飲むことになったときに、どうやら会社の接待費でおごってくれそうな流れだったのですが、お店選びをまかされた私はサイゼリヤにしときました。たらふく飲み食いして、1人当たり3000円切ってました。大満足です。
ゴールデン番組などで、お金がかかってそうな企画をやって、山ほどゲスト呼んで、でも2,3回しかしゃべる場面がなかったり、みたいな無駄な感じになるくらいなら、数人の出演者の持ち味だけで勝負する(そして、たまに外れ回もあったりする)ような番組のほうがいいですね。そんな私ですので、『俺の推し本』が好きです。「安くてそこそこの店」みたいな感じで。
さて、『私の嫌いな10の人びと』です。番組中ではガクテンソク奥田さんが、自分はひねくれていると語りつつ、このひねくれた哲学の先生が書いた本を推していました。何回か読んでいるとも。
この本であげられている10の人びとは「笑顔の絶えない人」「常に感謝の気持ちを忘れない人」「みんなの喜ぶ顔が見たい人」のように、一見、好ましいとされるような属性の人だったりします。読めば分かるのですが、それ自体を嫌っているというよりは、その裏にある感覚や常識や要求のようなものを嫌っています。「嫌いな10の人びと」を語るうえで、話はあっちこっちに飛びますが、根底にあるのは、よく考えもせずに何かを信じ込んで、それを周りに押し付けてくるような人々への批判です。よく考えない人を批判するあたりは哲学の先生っぽいですね。
著者の中島義道氏は、この本が出版された当時は電通大の教授でした。知らない人のために補足しますと、電気通信大学というのは東京にある国立大学です。地方出身の私はよく知らなくて、仕事で会った人に「電通大で○○を研究している□□です」みたいな挨拶をされたときに、「ついにあの広告代理店が研究や教育にまで触手を・・・」と思ったものです。
この本には中島先生の大学での行動や研究界隈での言動のエピソードも出てくるのですが、およそ国立大学の先生っぽくないあたりが興味深いです。「教授」といっても正社員のようなパーマネントの教授と、一時的な研究プロジェクトに対してアサインされている特任とか特命のような肩書の教授もいます。中島先生は前者です。教授会ではさぞ変人扱いされていたことでしょう。
この本を読んで、中島先生の考え方のすべてに納得したり共感したりする人は少数でしょう。私は半々くらいでしたね。「そうそう」と思ったところだと、ヨーロッパと日本のスポーツ中継での表現の違い。ヨーロッパは淡々と事実だけを実況するのに、日本では選手の心情にまで踏み込んでくること。ハプニングでの棄権などがあれば、「悔しいでしょう」「無念でしょう」みたいなことまで実況に混ぜ込んでくる。家族とか人生ドラマを絡めてくるとか。あと、勝つ見込みが薄くても、決してそういう表現はせず、応援ムードを醸成する感じとか。あるある。
以下は私の感覚なのですが、人生ドラマ・応援ムードの前提でインタビュアーが質問を発しているときとかないですか。「今日の活躍を天国のお父様が見守ってらっしゃったと思います。そのお父様に真っ先に優勝の報告をしたいんじゃないでしょうか?」みたいな。もはや質問でもないという。
「どうでしたか?」みたいにオープンに聞いて、そのあとに選手から「報告したい」っていう発言が出れば、それをさらに聞けばいいけど、報告したい前提で質問を繰り出す。
前述の例ほど極端じゃないですが、「この喜びを誰に報告したいですか?」というのはよく見かけますよね。「報告したい」ことが前提になっています。「たぶんテレビ見てると思うんで、大丈夫です」みたいには答えにくい。
「みんなの喜ぶ顔が見られたらそれでいい」(中略)彼らは自分の望みがとても謙虚なものと思っている、という根本的錯覚に陥っており(中略)その願望は、結局は自分のまわりの環境を自分に好ましいように整えたいからであって、エゴイズムなのです。
なるほど。でもなー、こういうこという人がそんなに悪い人だとは思えない。「なぜこのような活動を?」みたいな質問されて、まあ定型的な返し文句のような気もします。「けっこう、儲かるんですよ」とか、「優勝して優越感に浸りたい」とは答えにくい。「みんなを勇気づけられたら」なんてもの、もう社交辞令かも。
「自分の仕事に『誇り』をもっている人」での、同業者への目も厳しい。
(略)自分に近いところから見ると、哲学(研究)者として誇りをもっている人とは、同じ部屋の空気を吸っているだけで不愉快です。私の美意識では、こんなことをして金をもらってもいいのだろうかという根本的疑問に日夜さいなまれていいはずですが、そういう仲間はことのほか少ない。
著者の中島先生は尊大そうに見えてなかなか謙虚なのです。
大学の先生って「偉い」ってことになっていて、そしていかにもそんな感じでふるまっている人もいるけど、私立大学にだってそれなりの税金が充てられているし、国公立大学ならなおさらです。学費だって、もとはといえば、ほとんど研究とは縁のない一般の企業で働く親御さんが払っているものです。最近の「させてもらっている」言葉は嫌いですが、大学教授に関しては「研究させてもらっている」というほうが適切なのではないかと思います。「しょーもないことほじくって、どや顔で披露して、何が研究だ」と我々には、取捨選択する権利と義務があるのです。
中島先生は割り切っていて、「哲学がそんなに好きなら、『家で』やればいい」と言い放ち、本を書くなり、講演をするなりでお金を稼いで、大学には執着も依存もしない感じが潔いです。
意外だったのは、「年賀状をやめるのも大変でした」というエピソード。実は私も年賀状をやめてから5年以上経つのですが、実に簡単でした。出すのを一切やめただけです。そうすると徐々に来る数も減ってきて、最近では紳士服の会社くらいからしか来ません。それはDMっていうんでしょうけど。
中島先生は、あらかじめ来そうな人に葉書で「年賀状は全廃しました」と知らせて、来てしまったものには自分の信念を伝える葉書を出し、みたいなことをしたらしいです、でも、来るものはなかなかなくならず、そのたびに思想を伝えるようにしていて、いまだに全廃は実現していないとのこと。変なところで律儀ですね。
無視すればいいのに、とも思いますが、立場の違いでしょうね。私の場合、こちらが出さなければ向こうも出さないわけです。力関係ですよね。私に媚びたい人はいないわけです。
大学の先生ともなると、社会的な上下関係もあるでしょうし、媚びたい人もいれば、向こうから来なくてもこちらは出すべきだと思い込んでいる人もいるでしょう。その年賀状が中島先生を苦しめているとも知らずに。
これが正しいんだ、こうするべきだと言われれば反発したくもなりますが、中島先生は自分が一般的な人間ではないことを自覚しつつ、それでも自分はこう考えているということを伝えたくてしょうがなくて、でも、他の人が考えを改めたり、行動を変えたりするところまでは執着しないという感じなので、読んでいても変な圧力は感じません。
読んで、そうは思えないならそう思わなくてもいいし、読むのはいつだってやめられるし、「かなり特殊な例」を見せられているだけだし、と思えば。でも、世の中の「かなり一般的な例」も疑ってかかる必要があることを、この本は教えてくれていたりもするわけです。
