BookBookerBookest

勝手に読書感想文。漫画も映画も含みます

タグ: 大正

  • 宇野千代の二作目『墓を発く』

    物騒なタイトルです。『墓をあばく』と読みます。

    主人公は「若い女教員の吉子」、前半は主に学校に関連する出来事がメインで、後半は吉子の家族や出自が(そして誰の墓なのかなどが)明らかになっていく展開です。

    幸せな人の充実した人生を描く爽やかな読後感の小説とか、憎めないような良い人ばかりが出てくる落語とかいろいろありますが、その真逆を行くような小説ですね。

    登場人物は、虐げられている人、そうでなければそれを虐げている側のこずるい、、、、人のどちらかという感じ。

    学校の入り口が騒がしいので吉子が行ってみると「唖の久太」が学校に来るのを止めようとしている父親がいます。久太は話すことができないが、授業の邪魔になるようなこともなく、本人も朝一番に登校するほどの学校好きです。でも、勉強はできなくて「三年間を通して同一学年にいた」という状況。

    吉子は、久太を止めようとしている父親の行動をいぶかって、

    如何どうして河井さんを学校へ寄越さないようになさるんですか?」

    と聞くと、父親は、

    「校長先生がそうお話しなされまいた。(略)今度の試験は大切な場合じゃから、久太が粗相な事でも為出しでかしよると大事になるで、試験が済むまでは学校へ出さんように、とくれぐれもおっしゃられまいた。(略)」

    「試験」というのは、新任の県知事が言い出した、学校を調査するための県下一斉の試験のことで、

    この種の挙行は、新任知事の或る野心、虚栄心、衒気げんきを満足させるに十分であった。が、彼にとっては単なる思付きであり、殆ど気紛れに近いものであったとしても、各小学校長にとっては致命傷を与えるものになるかも知れないのであった。

    というものです。「衒気」とは自分の学識を見せびらかす、てらうような気持ちのことです。だから「衒」という字を使うんですね。難しい言葉を使うなあ。

    トップの思い付きが現場に負担をかける。プレッシャーを感じた現場の長が末端へその負担を伝達していく。増幅させながら。よく見る構造です。

    校長は試験の結果を少しでも良くするために、本来のカリキュラムを変更して、授業内容は、

    読方と算術だけが数える事のできないくらい繰り返された。

    という状況です。テストの対象になりそうな、国語と算数ばっかりの授業を行ったというわけです。でも、そのヤマも外れるんですけどね・・・

    試験対策ばかりの授業で児童たちを疲弊させるだけでは飽き足らず、校長は自ら出向いて、成績の悪い久太に登校させないよう裏工作をしていた。このような人間が出世して校長になるような制度や組織。吉子だけでなく、読者もなんだか悶々としてしまいます。

    この手の理不尽が、他にもいろいろ出てきます。吉子の伯母は文房具店を営んでいるんですが、文房具の売れ行きは教師の一言でがらりと変わります。それに付け込んだ教師が、吉子の叔母に酒代をたかるという構造。

    貧しい児童の家の畑が軍隊の演習でめちゃくちゃにされます。国から補償金が支払われるのですが、それを地主が受け取り、農業を営んでいるその家族には一銭も入りません。搾取する地主、虐げられる小作人。

    前半はそんな社会構造の理不尽に対する吉子の憤りが描かれています。後半に入ると趣きが変わり、吉子の家族に焦点が移ります。不幸に見舞われる子供たち(吉子と異父姉弟)、そしてその元凶となった吉子の母親の行動がどういうものだったのかが、明らかになっていくという展開。

    この『墓を発く』にはちょっと面白いエピソードがあって、『脂粉の顔』のデビュー作に続く二作目にあたる作品なのですが、ウィキペディアによると、

    『墓を暴く』を中央公論に送ったが、一向に返事がなく、上京したところ、すでに掲載されていたことを知り、その場で原稿料をもらう。あまりの大金であったため、その足で実家に戻り、母親に原稿料の一部を渡す。

    掲載するという連絡もせず、本人が出版社に来た時に原稿料(しかも大金)を渡したという、本当だとしたらかなり杜撰な作家・原稿料マネジメントという印象です。

    岩波文庫『老女マノン・脂粉の顔』の巻末の「《解説》宇野千代の生と文学」に該当するエピソードが書かれていましたが、微妙にニュアンスが違います。

    引用箇所に登場する「樗陰」とは、中央公論の編集長を務めていた滝田たきた樗陰ちょいんです。

    千代はその投稿の採否を知りたくて、1922(大正11)年春に上京、樗陰の手から刷り上がったばかりの『中央公論』五月号と多額の原稿料を受け取った。

    ウィキペディアの内容を読んだとき、すでに出版されていたかのように(勝手に)思い浮かべたのですが、掲載することが決まり、印刷が終わって(つまり掲載された)、これから販売というタイミングだったのでしょうか。だとしたら、ありえないエピソードでもなさそうです。とはいえ、掲載が決定したら印刷前に連絡してもよさそうなもんですが。

    とにかく、エピソードとしては面白げなので、朝ドラのストーリーに盛り込まれることに一票です。

    千代が『脂粉の顔』でデビュー後、執筆活動に専念、書き上げた二作目を出版社に送るも、反応がなくやきもき。しびれを切らして上京、出版社で掲載を知り、大金の原稿料も手にする。しかも、そこで出会うのが、その後『中央公論』に立て続けに千代の作品を掲載する編集長の滝田樗陰であるところなんか、ドラマとして映えそうところです。

    連続テレビ小説『ブラッサム』が始まるのいつでしたっけ? 半年後かー。見逃さないようにしなきゃ。

  • 宇野千代のデビュー作『脂粉の顔』と当時のモラル

    数日前(2026年3月30日)に新しい朝ドラの『風、薫る』が始まりました。『明治のナイチンゲール 大関和物語』(田中ひかる著)を原案としているそうで、その本を読んでみようかとも思いましたが、もう始まってしまったこのタイミングではちょっと遅い。先取り先取りでやっていきたいということで、『風、薫る』の次である2026年度後期『ブラッサム』のモデルである作家 宇野千代の作品を読むことにしました。ドラマが始まる頃には、こんな感想文を書いたこともすっかり忘れているかもしれません。

    読んだのは宇野千代のデビュー作『脂粉の顔』(1920年)です。いきなりタイトルに知らない単語が入っています。脱脂粉、、乳の略かもと思ったあなた、全然ちがいます。どうやら、化粧、おしろいのことみたいです。

    主人公のおすみは「カフェの給仕女」であると最初の行に書いてあります。ここで、喫茶店のようなカフェを想像して読み進めてしまうと、イメージが食い違ってきてしまいます。当時の「カフェ」については、ウィキペディアを読むと雰囲気が分かると思います。

    カフェー (風俗営業) – Wikipedia

    カフェーは、日本で20世紀前半に流行した飲食店・風俗営業の一業態。古くは特殊喫茶、社交喫茶という言い方もあった。

    女給という職業は単なるホールスタッフではなく、「接客業」であったということです。ただ、Wikipediaによれば、この接客サービスが露骨になっていったのはもう少し後の時期らしいです。ただ、カフェは喫茶店ではなく、お酒を飲む夜のお店であることは押さえておきたいところ。(そしてこんな喫茶があるから、そうではない普通の喫茶を「純喫茶」と言うんだ、という豆知識までつきます)

    なので、「瑞西スイス人のフバーから」、「突然流暢な日本語で」

    「一体貴女あなたは、一ヶ月に何程なにほどかかります?」

    なんて不躾ぶしつけな言葉が飛んできても、それほど不自然な流れではないことになります。

    これって、例えば大学を出たばかりの今の若者が読んでも分かるんですかね。つまり、一通り学校教育は受けてきていれば、この台詞を見て、この外国人の男性が何を尋ねようとしているのかピンとくるものなのでしょうかね? 学校で教わることはなさそうだとしても、今までに見たドラマとか映画とかで想像つくもんですかね。

    まあ、つまりこの台詞は、

    生活費がどれくらいかを聞いています。

    ・・・なんてことではなく、毎月の給金はいくら払えばいいですか? ということですね。さて、何に対する対価でしょうか? まあ、普通は妾になることへの報酬ですよね。昔は「女を囲う」なんて言葉がありました。常識の変化って怖いですね。

    金銭的に余裕のある男が、正妻がいるにも関わらず、別宅や離れを用意して、金銭を払うことを条件に、そこに別の女性を住まわせるということが、普通に許されていた時代があったんですね。

    近所の人から「あのエロじじい」とは言われるでしょうが、違法でもないし、世間から糾弾されるわけでもないという。そういう時代背景があっての、ハウ マッチ アー ユーであると。

    でも、ちょっと違うのはフバーはお澄を妾にしようというのではなかったところですね。ここがこの短編小説のポイントになるのだと思います。フバーの意図が、正直よく分からないのです。

    お澄はあまり深く考えなかったのか、

    (略)とにかく、まとまった金の六十円は有難い事に違いなかった。(略)さりとてこのままフバーの妾にせられるのでもなさそうだし、何しろ歴然はっきりした条件のない曖昧な境遇に置かれるというだけで遊んで暮らせるのは実にい、と思った。

    くらいの感じで、フバーからの呼び出しに応じます。それは速達で届いた手紙で伝えられた「午後から目黒の大競馬を見物しよう」というものでした。

    なんで目黒に競馬場なんかあるんだ?というかたはWikipediaを見てください。1907年から1933年の間は目黒に競馬場があり、その後、府中の東京競馬場に移転したそうです。

    (ちなみに7ページほどの短い作品で、このあと、どんどんネタバレしていくので、読むつもりのある人は、こんなブログ記事など読む前に、まず作品をお読みください)

    お澄は、フバーと競馬を見に行き、ちょっと嫌な目に合います。まあ、このへんが純文学作品という感じで、すごく劇的なことが起こるわけではないんですよね。大したことではないよう、でも、なんかいやーな気分になるような、考えようによっては、ものすごいトラウマにもなるような、そんな体験なんですよね。

    待ち合わせ場所に行ってみると、フバー以外に「見知らぬ娘」がいるんです。お澄はこの「美しい連れ」に対して、服装や容姿の点で引け目を感じてしまいます。しかもこの3人での行動は終始、その娘のペースで進み、フバーがどういうつもりでお澄を呼んだのかもはっきりしないだけでなく、フバーは途中からお澄を避けるような態度さえ取り始めます。

    翌日、お澄はフバーに電話をかけ、お礼などを伝えるも、気乗りのしない反応をされ、その日の夕方、さっそくフバーから絶交状が届く。

    1日競馬見物に付き合っただけで六十円(大卒の初任給くらいだそうで)を手に入れたものの、

    あるむしゃくしゃしたかすが胸の中へたまって何時いつまでも取れなかった。

    という終わり方をします。

    お澄や前述の娘の年齢については書かれておらず、容姿についてもそれほど詳しくは触れられていません。その娘についてはほとんど情報がありません。でも、お澄よりワンランク上 感があるんですよね。金銭的にも裕福だったり、高い教育を受けていたり、ちやほやと扱われることに慣れているような、そんな感じ。「娘」と表現しているあたりを見ても、年齢もお澄より若いのでしょう。

    お澄はカフェではそれなりの人気があり(書いてないけどそんな気がする)、フバーにも見初められ(たと思い)、六十円という好条件を提示され、いったんは気分が高揚したはずです。競馬場では、その娘からも、フバーからも軽んじられ、いてもいなくても一緒のような態度を取られる。一気に奈落に落とされるような感じでしょうか。しかも、そもそも男性が金銭で女性を自由にするという理不尽な社会情勢もあれば、六十円という微妙な金額の金が、より侮辱された感を醸しだすような気もします。そんな、はした金でいいように扱われる自分、みたいな。

    20代前半の宇野千代が、この『脂粉の顔』を書きあげ、時事新報(日刊の新聞)の懸賞短編小説に一等で当選し、彼女は作家としてデビューする、というスタートになるわけです。

    そして、これが、朝の連続テレビ小説『ブラッサム』の第一話のあらすじです。まあ、嘘なんですが。


    2026年4月12日追記
    新人作家の登竜門と言われていた『中央公論』に掲載されることなった二作目です。その後、立て続けに六作が中央公論に掲載されることになります。
    宇野千代の二作目『墓を発く』