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勝手に読書感想文。漫画も映画も含みます

タグ: 小川洋子

  • 帝劇を支える名もなき人たち『劇場という名の星座』

    ランチで「日替わり定食」的なものがあると、内容も見ずに注文するタイプです。自分で選択をしようとすると、いつも揚げ物になってしまうからです。

    前提知識なしで、読む本を選ぶのはなかなか楽しいです。今回は妻が図書館で借りた、小川洋子さんの『劇場という名の星座』という短篇集です。2026年の3月に出たばかりで、まだまだ予約殺到中です。数ヶ月待ちました。私ではなく妻がですが。

    次の予約が入っていると延長できません。妻が読み終わって、私が持ち出して通勤時に電車で読める状態になったのは、返却期限の3日前でした。読み終えられるか微妙でしたが、いったん返してしまい、もし読みたいと思い立っても、また数ヶ月待たされてしまうという恐怖心に駆られて、一気に読むことにしました。締め切りは大事です。

    様々なテーマのものが入っていて、その一つを表題作としているような短篇集もありますが、『劇場という名の星座』は劇場に特化した短篇集です。しかも、この劇場はあの「帝国劇場」です。

    残念ながら帝国劇場に関する知識はほぼゼロでした。たまたま前を通ったことがあるような気がします。今、グーグルマップで確認したら、やっぱりそうでした。千代田線の駅(たぶん日比谷)から、東京国際フォーラムに向かった時に前を通りました。これが帝国劇場かー、と思ったような気がしないでもないです。

    という程度なので、ミュージカルとか戯曲とかとは縁が薄く、帝国劇場という私にとっては未知の世界を舞台にした小説で繰り広げられるエピソードはなかなか新鮮でした。ちなみに、「舞台」が劇場とかかっているみたいですが、偶然です。

    好きだったのは『一枚の未来を手にする』という作品で、チケットを手に入れられなかったけど帝劇に来た少女、ビンゴゲームでたまたまチケットをもらった男性、チケットは入手し準備万端だったのにトラブルで開演時間に間に合いそうにない女性、の3人が主人公の話です。観覧席から見るステージ以外にもいろんなドラマがあるのです。

    やっぱり映画のチケットとは違うんですよね。価格もそうですが、入手の競争率とか、ファンの熱量とか、あとはその日の公演と全く同じものは二度と見られないという、演劇の一回性とか。だから、観客も演者もスタッフもちょっと違ったモードでこの場に臨んでいるんですね。そのようなモードでこそ生み出される様々なストーリーが短篇集に収められています。

    『サイレントシンガー』のリリカとも重なりますが、小川さんは他の人が見ていない(意識していない)ところで全力を尽くしているプロフェッショナルの描き方がすばらしいですね。

    『スプリングゲイト』では、「幕内係さん」が描かれています。様々な業務がある中で、この作品でクローズアップしているのは着到板ちゃくとうばん(出欠確認用の札)に役者さんの名前を書くという仕事です。この仕事ゆえ、表札の名前が気になり、人が名前を書くその所作が気になり、「サインなんて気楽なものだ、とでもいうかのような態度」で本にサインをする「作家の小説は二度と買わない」という考えにいたり、役者さん一人分の名前を書くごとに疲労困憊しながら仕事を進める幕内係さんが主人公です。他の人からは見えにくいこだわりが物語に深みを与えています。

    このような人たちを特別な存在としてではなく、名もなき存在として描いている(ほとんどの登場人物に名前はなく、「○○係さん」のように役割名で参照される)ところがグッときます。表舞台に立つ人、目立つ人、名前がクレジットされる人だけでなく、関わっているすべての人によって帝国劇場とそこでの公演が支えられているんだ、というメッセージが伝わってきます。タイトルの「星座」という比喩もしっくりきますね。1つ1つが有名な星というわけではないけれども、全体で「星座」が形づくられていて、その1つが欠けても違うものになってしまう。そのようにして劇場が成り立っているんだなあと。

    私は全然知らなかったのですが、帝国劇場は2025年の3月から休館していて、建て替え中なんですね。完成は2030年とのことで、待ちわびている人は多いんじゃないでしょうか。本作を読んで帝劇に思いを馳せたり、段ボール箱の工作で再現したり(『劇場は待っている』参照)しながら、辛抱強く待ちましょう。

  • 『夜明けの縁をさ迷う人々』

    小川洋子さんの作品を読むのは、『サイレントシンガー』に続いて二作目です。この『夜明けの縁をさ迷う人々』には9つの短編が収められています。全体的に不思議な空気が流れています。リアリティとファンタジーの境目が溶け合っている感じです。この感覚を何と呼べばいいのか、ちょうどいい表現を私は知りません。

    村田喜代子さんによる巻末の解説に、

    名前を与えられない人間たち。あだ名や、職業、頭文字だけの人物が物語の「状況」を引っ張って行くのである。

    とあって、やっぱり名前をつけていないところは、小川洋子さんの一つの特色なんだなあと再確認。『サイレントシンガー』でもそうでした。

    そういえば、桃太郎に出てくるのは「おじいさん」と「おばあさん」で、よく考えてみると「桃太郎」ってのも名前じゃなくてニックネームでしょ、って気もする。竹取物語の「竹取の翁」って職業だし、おとぎ話には個人の固有名詞は必要ないのかもしれない。星新一は「エヌ氏」をよく使っていたし、カフカの『城』の主人公は「K」だったし。

    忘れないように、そして忘れてもすぐに思い出せるように、各作品の印象を書いておきます。


    『曲芸と野球』

    今思うと、一番普通なのかも。超常現象的なことは起きません。でも、「曲芸師」という存在自体がちょっと非日常的なものを醸し出しています。

    もしかしたら他の子たちには、あの曲芸師さんが見えていないんじゃないだろうか、と思うこともあった。

    というくらい、主人公の野球少年以外は曲芸師の存在に気を留めません。

    華やかな場所で注目を集めることもあるであろう曲芸師は、他の人から注目を集めなくなったとたん、消えてなくなる存在であるかのような、そんな危うさを秘めています。少年が曲芸師の「その後」の話を聞くのも、単に噂話を通じてにしかすぎません。

    カフカの『断食芸人』で、断食を続ける芸人のことを誰も気にしなくなっていき、その生死にさえ注意を払われなくなっていったことを思い出しました。別にどこが似ているとかではなく、ただ思い出しました。


    『教授宅の留守番』

    ミステリーっぽい終焉が待っていますが、きっとそこは「おまけ」で、私としては途中の、食べっぷりと、祝いの品の届きっぷりと、部屋が埋め尽くされていくさまが、なんだかイリュージョンでコメディで、ガルシア=マルケスの『百年の孤独』を思い出しました。全然短いし、全然似てないけど。


    『イービーのかなわぬ望み』

    イービーとはエレベーターボーイのE.B.です。訳あって、エレベーターでのお産で誕生するあたりまでは、ありそうな気もしないですが、エレベーターサイズに合うように成長が止まったり、エレベーターの中で生活しだしたりすると、ファンタジーが加速していきます。エレベーターが取り壊されるようなことになれば、きっとイービーは・・・。

    2026年6月20日追記
    イービーの安住の地のように語られていたあのエレベーター塔(=ロットヴァイル試験塔)が他の小説でも出てきました。結構有名なんでしょうか。『アンチ・グッドモーニング』と「あのエレベーター」


    『お探しの物件』

    物件は人が設計し、作って、住んだもの。その住人と家とはかかわりが深いものです。かかわりが深すぎると、それは絆のようになり、呪いのようにもなり。不動産業者の人から家をすすめられているだけの話なのですが、そこに自分が住んだらどうなるだろうか、なんて勝手な想像をすると、それは素敵なもののようでもあり、ホラーのようでもあり。


    『涙売り』

    主人公は「涙売り」という現実離れした職業です。その涙を楽器にかけると、音色がよくなるという設定もさることながら、「一切の道具を使わず、自らの身体のみを使い、音を奏でる人々」である「人体楽団」に、この涙売りが出合うあたりから、悲しい恋の話なのか、ボケ倒しているシュールコントなのか分からなくなります。「関節カスタネット」って・・・


    『パラソルチョコレート』

    主人公の女の子が忘れ物をし、急遽家に帰ると、見ず知らずの老人がいて、

    「(略)お嬢ちゃんとワシは、本当は会ってはならぬ関係なのだよ」

    「(略)つまり、ワシは、お嬢ちゃんが存在していない場所の住人なのだ。お嬢ちゃんの裏側に生きておる者、とも言える」

    などと言います。幽霊のようでもありますが、生きる・死ぬというよりはあっちとこっちの世界の移住のようなイメージです。もう一つの世界があって、対になる存在がいる、みたいなモチーフは割とよくみかけますが、その設定にどう物語が絡められるのかが面白いところですね。小田扉『ぐるぐるゴロー』に収録されていた『見聞録』を思い出しました。別に似てないですが。

    なぜ、ベビーシッターさんはチェスをするのか、書斎に入るなというのか。何か知っているようでもあり、そうでもないような感じもして。


    『ラ・ヴェール嬢』

    お、固有の人名かと思いきや、アパート名からつけたあだ名です。主人公は出張専門の指圧師(足裏専門?)です。私は最初、この主人公が女性だと思い込んでいて、

    ある時ふと、もしかしたらラ・ヴェール嬢は同じ事をこの僕にも求めているんじゃないだろうか、という疑問を持った。

    というところで、え? 「僕」? 男なの? と思いました。

    ずっと一人称は「私」で、ここで初めて「僕」と一人称が2度ほど使われ、この後も「私」に戻ります。ミスリードまで狙ってないとしても、曖昧にしておく意図はあったのではないかと思います。でも、「僕」と言ったからといって男だとも限りませんが。はるかぜちゃんの例もあるし。(あのちゃんをあげないあたりに、ひとひねり)

    そして、だんだん官能小説になっていきます。でも、ラ・ヴェール嬢というよりはラ・ヴェール婆だったりします。歌舞伎の『勧進帳』を思い出しました。全然・・・


    『銀山の狩猟小屋』

    ある社長が狩猟小屋を売りに出しているという、ありそうな話から始まり、管理人のようでそうではない変な隣人が登場するあたりから、小川ワールドになっていきます。「サンバカツギ」は全然おいしそうじゃないです。


    『再試合』

    再び野球が登場。高校球児を応援する女子の推し活のような話が、どこからかおかしくなり、時間の迷宮をさまよい始めます。『うる星やつら2 ―ビューティフル・ドリーマー』を思い出しました。永遠が持つ恐怖を感じてください。


    こころの琴線に触れる物語を読むと、以前琴線を震わせた体験を想起します。話自体は似てなくても、人間が共通に感じ惹かれる要素の共通点を感じるのではないかと思います。存在しないはずのものへの執着とか、破滅を厭わない情熱とか、もう一つの何かへのあこがれとか、一瞬と永遠の共通点とか。なんか、そんなのがいっぱい入っている気がしました。

  • 登場人物を固有名詞で呼ばない『サイレントシンガー』

    全くの前提知識なしで読みました。小川 洋子さんの『サイレントシンガー』。普通、本を読むときって、「読みたい!」と思ってから入手するものなので、前提知識なしで読むことはほとんどないと思います。私の場合、妻が図書館で借りた本を、何のフィルターも加えずに読むことによって、これを実現しています。そうです、私は内容を確認せずに「日替わり定食」注文できるタイプです。

    ドヴォルザークの「家路」がけっこう重要なポイント(別にミステリーじゃないけど)になっています。読み始めてすぐ「家路」と聞いて、ドヴォルザーク交響曲第9番の第二楽章のあれが出てこなくて、知らない曲なのかもと思っていました。話が進んで、どこかで(役所の人が依頼するところだったか)、「ドヴォルザーク」という名前が出てきて、あれかー、と。

    というのも、自分が知っている歌詞と違ったんですよね。私の中で、ドヴォル9-2と言えば、♪遠き山に日は落ちて♪ なんですよね。

    遠き山に日は落ちて 歌詞 – 歌ネット

    歌詞がウェブで確認できるって便利ですね。「明星」とか「平凡」の歌本って今もあるんでしょうか。

    作品中では違う歌詞があてられていたので、ピンとこなかったのですが、あの歌詞は別の作詞家によるものなのでしょうか? 小川洋子さんのオリジナルでしょうか?

    「調べれば?」という声が天から聞こえたので、調べてみますと、私が知っていた「遠き山に 日は落ちて・・・」は堀内敬三氏が作詞したもので(前記のリンク)、『サイレントシンガー』に出てきた「響きわたる 鐘の音に・・・」は野上彰氏が作詞したものでした。Wikipediaに書いてありました。

    歌詞は↓こちらにありました。

    家路 Goin’ Home 歌詞の意味 和訳 原曲 ドヴォルザーク

    前者は学校で習った記憶があるので知っていたのですが、後者を含め多数の日本語の歌詞がつけられていること(Wikipedia参照)は知りませんでした。(調査&感想 おわり)

    『サイレントシンガー』のタイトルの通り、主人公のリリカは歌うことを生活の糧の一部としています。歌うのに「サイレント」とはどういうことでしょうか? 声を出さないわけではないですよ。それは読んでのお楽しみ。

    これを読んで、誰にも意識されない歌声に思いをはせるようになりました。そもそも「聴く」ことが主目的にはなりえないシチュエーションだったり、歌は聞いていても、誰が歌っているかには注意が払われない用途だとか。

    着ぐるみの中の人を連想しましたね。ディズニーランドではしゃいでいるひとは、キャラクターの中の人のことは、もちろん考えないですよね。考えないのが正しい楽しみ方です。だから、リリカの歌が、リリカのことを全く意識しない人たちに消費されていくのも、それは正しい利用のされ方であると。じゃあ一体、リリカは誰に向けて歌おうとしているのか、というあたりは読みどころです。

    読んでいて気づいたのが、出てくる人名が極端に少ないということです。人が出てこないという意味ではなく、固有名詞として出てこないというところです。

    「リリカ」以外では、出てこなかった気がします。「おばあさん」「老介護人」「毛刈り担当さん」。アカシアの野辺の人たちについては名前を知らないという可能性もあります。いや、名前に意味はないということかもしれません。

    でも、そこそこ親しくなる、しかも野辺の人ではない「料金係さん」の名前が出てこないあたりを考えると、かなり意図的なのだと思います。この、すべての人を役割で呼ぶという、現実味のない表現が、この小説のふわっとした雰囲気を醸し出しているのかもしれません。

    あ、でも、固有名詞が出てくるキャラクターもいました。忘れてました。

    ためらっているリリカにはお構いなしに、先生は続けた。

    「歌うアシカ。名前はジョーよ」

    それは水族館のアシカショーで、歌を披露する仕事だった

    アシカは歌えないので、ジョーは歌っている仕草だけを芸として披露し、リリカが歌をあてるという仕事です。

    そして、今気づきました。これってもしかして、「あしたのジョー」とかかっているのでしょうか。どうでもいいことですが、なんだか無性に誰かに言いたいです。でも、もしそうだとしても、私は沈黙を守ろうと思います。