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勝手に読書感想文。漫画も映画も含みます

タグ: スウィフト

  • ガリヴァー旅行記(巨人国)と偏見の構造

    小人国(リリパット国)に続いて、巨人国(ブロブディンナグ国)です。子供向けの絵本によっては小人国のみという構成のものもありますが、ガリヴァーは小人国から無事イギリスに帰国したあと、

    性分と運命に災いされて、絶えず動き回っていなければ気がすまない私は、帰国して十ヵ月でまたもや故国を飛び出し、1702年六月二十日にダウンズから出帆した。

    (引用は、平井正穂訳の岩波文庫版より)

    ガリヴァーのキャラ設定は、寅さんまたは裸の大将といった感じで、大変な目にあって帰ってきても、すぐにまた航海に出てしまうんですよね。

    航海の途中、水を補給しようと「大きな島だか大陸だか」にロング・ボートで上陸したところ、現れた巨人にびっくりして逃げていく仲間たちに置いてきぼりにされるというスタートです。ブロブディンナグの国民はちゃんとした文明を持っており、進撃の巨人みたいに食べられたりはしないので、ご安心を。

    リリパット国のときにいろいろなものの小ささで驚く話がたくさんあったのと同じような感じで、ブロブディンナグ国では大きさに驚くというエピソードが散りばめられてきます。ただ、単位がインチとかフィートのヤード・ポンド法なので、いまいちピンときません。注釈によると、著者による比率の換算はけっこういいかげんらしいので、あまり気にして読む必要はなさそうです。「それがぁ、すっごい、でかくてぇー」くらいの感覚で読みました。

    興味深かったのは、ブロブディンナグ国からの脱出後に、普通のスケールの人に会ったり、普通のサイズの街に戻った後の感覚のずれですね。

    そのずれはイギリス人との再会である救出の場面から始まっていました。なんやかやありまして、ガリヴァーは木でできた頑丈な箱に入った状態で海に漂うことになります。巨人にとっては持ち運べる箱、ガリヴァーにとっては居住できる一部屋ほどのサイズ感です。

    どうやら船に発見され(ガリヴァーには外がよく見えない)、外から声をかけられたときに、のこぎりで穴をあけて引っぱり出してやるという乗組員に向かって、ガリヴァーは、箱に輪がついているから、それに指でもひっかけて持ち上げてくれ、みたいなことを言います。ガリヴァーが悠々とすごせる大きさの箱が、簡単に持ち上げられるわけはないのですが、巨人の感覚になっているんですね。

    自分の家に戻ってきたときも、元のサイズに戻ったという感じではなく、何もかもが小さく見えるという感覚を味わいます。

    人が小さく見えるので、踏み殺さないようによけるのに苦労するとか(同じ大きさなのでそんな心配はないのだが・・・)。家に入るときも鴨居に頭をぶつけるような気がするとか。奥さんと再会して抱擁するときに、膝より下までしゃがみ込んでしまうとか。

    実は上記の反応って最初よくわからかったんですよね。後遺症には2パターンあって、1つはブロブディンナグにいたときと同じようにしてしまうというもの。大声で話す(ガリヴァーは小さいので大声を出さないと聞こえない)とか、上を見て話す(巨人の顔ははるか上方にあるので)とか。これは分かりやすいですよね。

    もう1つは、見えるものが小さく感じる→そのサイズにあった行動をとってしまう、という多段階の後遺症ですね。目で見えたサイズ感に対応する行動をとるのではなく、感覚のサイズ感に合わせて行動してしまうというもの。

    スウィフトらしく、これも何かの比喩になっているのかもしれません。平凡な出自なのに、何かのきっかけで上流社会の人たちと交わるようになる。その感覚にすっかり馴染んだ結果、自分もその仲間入りができたと錯覚し、平凡な人を見下すようになる。自分は何も変わっていないのに。・・・みたいな。考えすぎでしょうか。

  • ガリヴァー旅行記(リリパット国渡航記)と教義の対立

    ガリヴァー旅行記』(ジョナサン・スウィフト著)のごく一部、リリパット国渡航記だけの感想文です。

    子供の頃に読んだガリバー旅行記(昔は「ヴァー」なんてタイトルではなかった)といえば、小人国にたどりついた巨大なガリバーが地面に縛り付けられた挿絵が思い浮かびます。髪の毛が細い束にされて、それぞれが杭につながれた絵を見て、「さすが小人、仕事が細かい」と思った記憶があります。

    子供向けのガリバーの本といえば、小人国(リリパット国)だけか、小人国と巨人国(ブロブディンナグ国)という構成だったように記憶しています。滞在した国の人間がすごく小さかったり、すごく大きかったりして、そこから生まれるエピソードというのは子供にもキャッチーですよね。「悲報! 宮殿放尿消火事件」とかね。(注:原作とは異なります)

    ガリバー旅行記の原作が子供向けのものではなく、むしろ大人でも理解が難しい風刺に満ちたものであることは、有名ですよね。どこかで聞いたことがあるでしょう? えっ、ない? じゃあ、「クルマ買い取り No.1」というのは? それはある、と。はい、今回はその話ではありません。

    リリパット国はブレフスキュ国(それぞれイギリスとフランスに対応)と戦争状態なのですが、戦争の原因の一つに「教義」があります。

    この皇帝も、ブレフスキュ帝国の全土を併呑して属領にし、総督を派して統治する、卵を大きな方の端で割るといって亡命した連中を抹殺する、全人民が卵を小さな方の端で割ることを強制する、――こうすることによって自分は全世界の唯一の帝王として安泰を誇る、ということ以外には何も眼中にはないらしかったのだ。

    なんで卵の話が? と思われるかもしれませんが、卵をどちらの側から割るのかというのが、2つの小人国の間での「教義」の対立なんですね。カトリックとプロテスタントの教義争いを、あえてこのようなどうでもいい卵の話と対比しています。

    大きな方の端で割る人をビッグエンディアン、小さな方の端で割る人をリトルエンディアンというのですが、これがコンピューターで複数バイトを扱うときの並びの規則(ハードウェアのアーキテクチャによって異なる。どちらが良いというタイプのものでもない)の語源になっていたりもします。

    ガリバー旅行記はいろいろなものの元ネタになっていますよね。人間のような野蛮な動物のヤフーも、あのYahoo!の由来(の一つ)みたいです。ラピュタも出てくるしね。

    芥川龍之介の『河童』のモチーフになっている話も有名ですよね。この話だと『フウイヌム国渡航記』のほうが語られることが多いと思いますが、『リリパット国渡航記』のほうにも、その片鱗があります。

    そんなわけで、子供が自分を生んでくれた父親や育ててくれた母親に対して、何も恩義を感じなければならぬいわれはない。人生はただでさえ悲しいことで一杯なのだ、生まれてくることなどそれ自体何も有難いことではないし、(略)

    なので、子供の教育に関して国がしっかり管理する、みたいなリリパット国の制度の話につながります。

    芥川の『河童』だと(青空文庫より)

    その代りに人間から見れば、実際又河童のお産位、可笑しいものはありません。現に僕は暫くたつてから、バツグの細君のお産をする所をバツグの小屋へ見物に行きました。
    (略)
    けれどもお産をするとなると、父親は電話でもかけるやうに母親の生殖器に口をつけ、「お前はこの世界へ生れて来るかどうか、よく考へた上で返事をしろ。」と大きな声で尋ねるのです。

    で、中から子供が答えます。

    「僕は生れたくはありません。第一僕のお父さんの遺伝は精神病だけでも大へんです。その上僕は河童的存在を悪いと信じてゐますから。」

    親の都合で生まれてくること、生まれたところで人生は困難だらけ、のように悲観的な捉え方をするあたりに共通点があります。

    第一篇のリリパット国渡航記、第二篇のブロブディンナグ国渡航記に関していうと、こんなに小さい、こんなに大きいみたいな話が(ちょっと飽きるくらい)いろいろでてきて、そこばかり目が行きがちですが、実は、ちょっとした制度、政治の仕組、国民の信条などにスウィフトの考え方が表れているような気がします。そういう観点で読んでみると、子供の頃に読んだのとは違う発見があるのではないかと思います。

    ちなみに、リリパット国の政治の世界では、出世するために、綱渡り(比喩ではなく)をしたり、王様が動かす棒を飛び越えたり、くぐり抜けたりする登用試験があるのですが、これは何を比喩しているんでしょうねえ。


    2026年4月9日追記
    小人国の次は巨人国(ブロブディンナグ国)に向かいます。
    ガリヴァー旅行記(巨人国)と偏見の構造