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勝手に読書感想文。漫画も映画も含みます

タグ: 俺の推し本

  • 「俺の推し本」の一覧を作成中

    BSよしもとの『第一芸人文芸部 俺の推し本』という番組を、毎週予約録画して見ています。「ブックバラエティ」と称しているトーク番組で、タイトル通り、おすすめの本の紹介がメインです。派手さはないですが、基本的にはトークだけで構成されているので、家事をしながら見る(聴く)にはちょうどいい感じです。

    ただ、「あの芸人さんが紹介していた本、何だったっけ」とか、「あの本を推していたの誰だったっけ?」とかいうときに、確認するのがちょっと面倒なんですよね。

    YouTubeのチャンネルにいけば、過去の動画がすべて(2026年8月時点で109本あります)見られます。とはいえ、出演者の名前や書名では検索できないので、やはり探しにくい。ということで、初回の放送動画から見直していって、出演者と書名の一覧表を作っています。徐々に増えていく予定です。

    「第一芸人文芸部 俺の推し本」で紹介された書籍の一覧

    ページ内をタレントさんの名前や本の名前で文字列検索して、放送回を特定できたら、そこに動画へのリンクがはってありますので、詳細は動画で確認という、使い方ができると思います。

  • 『移動そのもの』と『旅は育ての親』

    BSよしもとの『俺の推し本』で中野なかるてぃんさんが紹介していたのを見たのが、この『移動そのもの』(井戸川射子 著)を読んだきかっけです。紹介していた中野さんは、表題作の『移動そのもの』について、ストーリーはわけがわからないが、一行一行が面白く、詩のようだ、みたいなことを言っていました。その世界を確認すべく、読んでみたというわけです。

    9作入った短編集で、『移動そのもの』は変だけど比較的はっきりとしたストーリーがあるという点で、他の8作と比べても、読みやすいほうだと感じました。まずはこれを読んでみて(立ち読みは1分まで)、気に入ったら買うとかどうでしょうか。

    二人の男、年長のアリシマ、年下のトオシキが島の中を徒歩で移動しながら、他人の葬式をみつけては、遺族のふりをして遺産や遺品の分け前をもらい、それで生活している。ふとしたきっかけで、チンパンジーとシマウマと出会い、一緒に行動するようになる。

    みたいな序盤です。ほら穴で暮らしていたり、チンパンジーとシマウマが出てくるあたりから、なんとなくアフリカのようなイメージを持ちながら読んだのですが、「アリシマ」という名前がちょっと日本っぽい。それに、

    「これも見てごらん、新しいよ。貝の内側に小さな大仏を付着させて、それが真珠層で覆われているんだね。仏像真珠だ」

    みたいな、アリシマの台詞があります。アフリカで「大仏」とか「仏像」というのものねー。他にも、「そういえば神社で葬式っていうのは、あまり聞かないね」とか「七五三も神社だよね。」という台詞も出てきます。場所の設定自体に重要性がない、あるいは、あえてそこを曖昧にすることの効果を著者は狙ったのでしょうか。なので、アリシマとトオシキの風貌も、葬式のイメージも具体的にはわきません。いや、頭の中では強制的に具体化していても、読者ごとに全く違ったものになっていそうな気がします。

    ある葬式に参加して、アリシマが遺品(遺骨とそれを入れる容器)をそれとなく要求すると、遺族は詐欺であることを悟ったのか、シマウマと交換だとか、殴らせろとか、態度が急変します。アリシマは抵抗はせずに、さんざん殴られたあげく、錆びたコップに入った遺骨を手に入れます。

    単に詐欺に失敗したなら、そんな遺骨はその辺に捨てるのでしょうが、アリシマはその遺骨を大事そうに丁寧に別の容器に移し替えたりします。

    くだらないものの代償にシマウマを差し出したアリシマの行動に納得がいかないトオシキは別行動をはじめ、シマウマを連れた遺族のあとについていきます。

    後半は、アリシマとチンパンジーのやりとり、トオシキとシマウマのやりとりがメインですが、この二匹の動物が、おとぎ話やファンタジーによくあるような、言葉を理解するほど知的な存在なのか、それとも、ごく普通の動物なのかも判然としません。そして、トオシキ自身も、「シマウマはあのやり取りを分かっていたのだろうか」「もとから言葉など通じていなかったのだろうか」「言ったことが絶対に伝わったという瞬間も、今まではあったのに」など、疑問に思いながら話しかけていたりします。

    終盤のチンパンジーの意外な行動、新しい土地に居つくことを決めるトオシキ、なんだか不思議な余韻を残しつつ、話は終わります。

    んー、変なストーリですが、登場人物がいて、会話があって、イベントが起こって、という点では読みやすい気がします。

    二作目に収録されている『花瓶』などは、語り手の女性が(たぶん)精神科医に向かって話し続けている、その話だけで構成されています。医者のリアクションもないし。最後まで独白に近い形で展開します。

    短編集全体が実験的なスタイルの作品ばかりなんですね。万人受けすることを狙っていない感じがすばらしいです。きっと大ヒットはしなくて、でも熱狂的な一部の読者が感銘を受けている、みたいな。

    そして、ここまで「言葉で遊ぶ」か、と思ったのが、最後に収録されていた『旅は育ての親』です。

    こんな書き出しです。

    皆の靴や裸足が、地を掘り泥にまみれている。裸足などよく耐えられるものだと、犬持ちは思う、こちらも犬を抱く背負うの動作を繰り返すので、肩や胴は泥だらけだが。

    短編ので出だしは、頭をフル回転させて、状況を把握しにいきますよね、みなさん。「犬持ち」って何でしょうか? 「家持ち」とか「妻子持ち」なんて言い回しがあるので、一般的な意味で「犬を飼っている人」のことを、そう呼んでいるんでしょうか。

    例えば、「家賃なんか払ってられないよと、家持ちはよくそういうことを言う」くらいのニュアンス。でも、その直後、

    (略)犬持ちは着衣の時も靴下から履く、(略)

    この時点では、犬を飼っている人ってそうなの? みたいに思ってました。

    苔貼りは裸足の足で感触を楽しむ、(略)

    花飾りは、自身にへばりつく花びらを、良い角度でそこにあるかを手で撫で常に確認する。

    「苔貼り」は何かそういう行為、「花飾り」はアクセサリーだと思ってました。「花飾りは」と主語になるのは変ですが、これは「舟唄」の「肴はあぶった イカでいい」の、「肴は」みたいに、主語ではなく主題としての使い方ですね。「花飾りに関しては」くらいの。

    まあ、真剣にそんなことを考えながら読んでいたわけではないのですが、なんとなく読み流していたんです。でも、全部読み間違えていたことに、以下の一文で気づきます。

    (略)仮装行列は年に一回なので、(略)

    仮装している人物を指している呼称だったんですね。このあとも、一緒に行動している仮装仲間が登場します。

    「獣真似」「泥塗り」「翼背負い」。 ・・・どんな仮装だよ。この6人が仮装行列をしている姿が描かれていたんですね。タイトルによれば「旅」でもあるわけです。

    旅の過程でちょっとした出来事なども起こるのですが、登場人物たちの「仮装」のクセが強すぎて、出来事の内容が入ってきません。でも、ここでグッと心をつかまれました。

    (略)犬持ちは犬の相手をずっとしている、ずっとで重くないんですか、と問われれば、ちょうどいい重さですと答える、(略)

    あー、ずっと犬を「持って」いるのね。そういう仮装なのね。それは仮装なのか?

    小説だからできる表現ですよね。映像だったら、やっぱり犬を持っている絵を出さざるを得ない。文章だと、「犬持ち」がどんな感じかは触れずにおいて、その後何気なく姿・形を開陳する。

    そして、さらにボケは続きます。

    獣真似は多くの獣を真似ようと、跳ねたり走り出したりする、演技は仮装とはまた違うだろうと、泥塗りなどは思うが。着ている服が普段着なのは、毛皮など何色を選ぶかで、何の獣か決めてしまうようなものなので選べなかったのだ。

    獣真似は普段着でした。

    これは確信犯ですね。獣真似の名前や言動から、おおかた毛皮のコスチュームでも来てるだろうと想像させておいての、泳がせておいての、普段着。

    読者はどう想像するかなー、勘違いするかなー、分かるかなー、わけわかんねぇって怒るかなーって感じで、にやにやしながら書いているに違いない。

    カフカもやっていた悪ふざけだな。城に雇われているのに城にたどり着けないとか、逮捕されたのに自由に行動できるとか。

    ・・・ということで、普通の小説に飽きた人は読んでみてください。「本読み」の「駄文書き」がお届けしました。

  • よく考えない人が「嫌い」のターゲット『私の嫌いな10の人びと』

    『私の嫌いな10の人びと』を読んだきっかけは、『第一芸人文芸部 俺の推し本』というBSよしもとの番組で、ガクテンソクの奥田さんが紹介していたからです。

    いきなり脱線して『俺の推し本』の話をすると、レギュラーの2人(ファビアン、ピストジャム)に加え、1人か2人のゲストが登場して、本の紹介をするというシンプルなトーク番組です。私がこの番組が好きな理由は、いかにもお金がかかっていなさそうなところです。私は贅沢が嫌いで、自分で高いものを買うのが好きではないのはもちろんですが、(あまりないですが)人におごってもらうような機会でも、安い店のほうが嬉しいです。接待費で落とすからみたいな感じ、高級な飲食店に連れて行ってもらっても、ちっとも嬉しくないばかりか、こんな無駄遣いして・・・、という感情しか湧いてきません。

    そういえば以前、違う会社の数人で飲むことになったときに、どうやら会社の接待費でおごってくれそうな流れだったのですが、お店選びをまかされた私はサイゼリヤにしときました。たらふく飲み食いして、1人当たり3000円切ってました。大満足です。

    ゴールデン番組などで、お金がかかってそうな企画をやって、山ほどゲスト呼んで、でも2,3回しかしゃべる場面がなかったり、みたいな無駄な感じになるくらいなら、数人の出演者の持ち味だけで勝負する(そして、たまに外れ回もあったりする)ような番組のほうがいいですね。そんな私ですので、『俺の推し本』が好きです。「安くてそこそこの店」みたいな感じで。

    さて、『私の嫌いな10の人びと』です。番組中ではガクテンソク奥田さんが、自分はひねくれていると語りつつ、このひねくれた哲学の先生が書いた本を推していました。何回か読んでいるとも。

    この本であげられている10の人びとは「笑顔の絶えない人」「常に感謝の気持ちを忘れない人」「みんなの喜ぶ顔が見たい人」のように、一見、好ましいとされるような属性の人だったりします。読めば分かるのですが、それ自体を嫌っているというよりは、その裏にある感覚や常識や要求のようなものを嫌っています。「嫌いな10の人びと」を語るうえで、話はあっちこっちに飛びますが、根底にあるのは、よく考えもせずに何かを信じ込んで、それを周りに押し付けてくるような人々への批判です。よく考えない人を批判するあたりは哲学の先生っぽいですね。

    著者の中島義道氏は、この本が出版された当時は電通大の教授でした。知らない人のために補足しますと、電気通信大学というのは東京にある国立大学です。地方出身の私はよく知らなくて、仕事で会った人に「電通大で○○を研究している□□です」みたいな挨拶をされたときに、「ついにあの広告代理店が研究や教育にまで触手を・・・」と思ったものです。

    この本には中島先生の大学での行動や研究界隈での言動のエピソードも出てくるのですが、およそ国立大学の先生っぽくないあたりが興味深いです。「教授」といっても正社員のようなパーマネントの教授と、一時的な研究プロジェクトに対してアサインされている特任とか特命のような肩書の教授もいます。中島先生は前者です。教授会ではさぞ変人扱いされていたことでしょう。

    この本を読んで、中島先生の考え方のすべてに納得したり共感したりする人は少数でしょう。私は半々くらいでしたね。「そうそう」と思ったところだと、ヨーロッパと日本のスポーツ中継での表現の違い。ヨーロッパは淡々と事実だけを実況するのに、日本では選手の心情にまで踏み込んでくること。ハプニングでの棄権などがあれば、「悔しいでしょう」「無念でしょう」みたいなことまで実況に混ぜ込んでくる。家族とか人生ドラマを絡めてくるとか。あと、勝つ見込みが薄くても、決してそういう表現はせず、応援ムードを醸成する感じとか。あるある。

    以下は私の感覚なのですが、人生ドラマ・応援ムードの前提でインタビュアーが質問を発しているときとかないですか。「今日の活躍を天国のお父様が見守ってらっしゃったと思います。そのお父様に真っ先に優勝の報告をしたいんじゃないでしょうか?」みたいな。もはや質問でもないという。

    「どうでしたか?」みたいにオープンに聞いて、そのあとに選手から「報告したい」っていう発言が出れば、それをさらに聞けばいいけど、報告したい前提で質問を繰り出す。

    前述の例ほど極端じゃないですが、「この喜びを誰に報告したいですか?」というのはよく見かけますよね。「報告したい」ことが前提になっています。「たぶんテレビ見てると思うんで、大丈夫です」みたいには答えにくい。

    「みんなの喜ぶ顔が見られたらそれでいい」(中略)彼らは自分の望みがとても謙虚なものと思っている、という根本的錯覚に陥っており(中略)その願望は、結局は自分のまわりの環境を自分に好ましいように整えたいからであって、エゴイズムなのです。

    なるほど。でもなー、こういうこという人がそんなに悪い人だとは思えない。「なぜこのような活動を?」みたいな質問されて、まあ定型的な返し文句のような気もします。「けっこう、儲かるんですよ」とか、「優勝して優越感に浸りたい」とは答えにくい。「みんなを勇気づけられたら」なんてもの、もう社交辞令かも。

    「自分の仕事に『誇り』をもっている人」での、同業者への目も厳しい。

    (略)自分に近いところから見ると、哲学(研究)者として誇りをもっている人とは、同じ部屋の空気を吸っているだけで不愉快です。私の美意識では、こんなことをして金をもらってもいいのだろうかという根本的疑問に日夜さいなまれていいはずですが、そういう仲間はことのほか少ない。

    著者の中島先生は尊大そうに見えてなかなか謙虚なのです。

    大学の先生って「偉い」ってことになっていて、そしていかにもそんな感じでふるまっている人もいるけど、私立大学にだってそれなりの税金が充てられているし、国公立大学ならなおさらです。学費だって、もとはといえば、ほとんど研究とは縁のない一般の企業で働く親御さんが払っているものです。最近の「させてもらっている」言葉は嫌いですが、大学教授に関しては「研究させてもらっている」というほうが適切なのではないかと思います。「しょーもないことほじくって、どや顔で披露して、何が研究だ」と我々には、取捨選択する権利と義務があるのです。

    中島先生は割り切っていて、「哲学がそんなに好きなら、『家で』やればいい」と言い放ち、本を書くなり、講演をするなりでお金を稼いで、大学には執着も依存もしない感じが潔いです。

    意外だったのは、「年賀状をやめるのも大変でした」というエピソード。実は私も年賀状をやめてから5年以上経つのですが、実に簡単でした。出すのを一切やめただけです。そうすると徐々に来る数も減ってきて、最近では紳士服の会社くらいからしか来ません。それはDMっていうんでしょうけど。

    中島先生は、あらかじめ来そうな人に葉書で「年賀状は全廃しました」と知らせて、来てしまったものには自分の信念を伝える葉書を出し、みたいなことをしたらしいです、でも、来るものはなかなかなくならず、そのたびに思想を伝えるようにしていて、いまだに全廃は実現していないとのこと。変なところで律儀ですね。

    無視すればいいのに、とも思いますが、立場の違いでしょうね。私の場合、こちらが出さなければ向こうも出さないわけです。力関係ですよね。私に媚びたい人はいないわけです。

    大学の先生ともなると、社会的な上下関係もあるでしょうし、媚びたい人もいれば、向こうから来なくてもこちらは出すべきだと思い込んでいる人もいるでしょう。その年賀状が中島先生を苦しめているとも知らずに。

    これが正しいんだ、こうするべきだと言われれば反発したくもなりますが、中島先生は自分が一般的な人間ではないことを自覚しつつ、それでも自分はこう考えているということを伝えたくてしょうがなくて、でも、他の人が考えを改めたり、行動を変えたりするところまでは執着しないという感じなので、読んでいても変な圧力は感じません。

    読んで、そうは思えないならそう思わなくてもいいし、読むのはいつだってやめられるし、「かなり特殊な例」を見せられているだけだし、と思えば。でも、世の中の「かなり一般的な例」も疑ってかかる必要があることを、この本は教えてくれていたりもするわけです。

  • お金のかからない人生の楽しみ方『深夜高速バスに100回ぐらい乗ってわかったこと』

    BSよしもとの「第一芸人文芸部 俺の推し本。」という番組で銀シャリの橋本さんが推していた『深夜高速バスに100回ぐらい乗ってわかったこと』を読みました。

    番組中で橋本さんが「読むYouTube」みたいな例えをしていました。「○○してみた」のような企画っぽい内容が多い点を言っていたのだと思います。それもそのはず、著者のスズキナオさんはデイリーポータルZなどで記事を書いているライターさんじゃないですか。本書にもデイリーポータルZが初出の記事もたくさん収録されていました。

    読む前にはもっと派手な企画を想像していました。もっと「いいね」を! もっと注目を! もっと再生回数を! みたいな感じで、最後はYouTuberが警察に捕まったりする話も聞くので。

    スズキナオ氏さんの企画はその逆を行く感じです。私が好きだった企画は「誰も知らないマイ史跡めぐり」です。友人であるハナイさんの地元の街に行き、ハナイさんの「マイ史跡」を紹介してもらうというもの。そりゃ「誰も知らない」わけです。

    ここでよく食べたてなーというラーメン屋に行ったり、そこがすでに移転して閉まっていたり、宮沢りえが表紙の雑誌を立ち読みしていたら近くに宮沢りえ本人が立っていたという経験をしたコンビニに行ったり。(このエピソードについてかなりインパクトのある、ほぼピークに相当するものかと思います)

    あとは、子供の頃に遊んだ公園とか、中高生のときに散髪していた理髪店とか、「夜、ボーッとしてた歩道橋」とか、「好きな子に電話したことがある電話ボックス」とか。

    有名人のゆかりの地をめぐることがツアーとして成立するなら、自分にとっては関係の深い友人のゆかりの地を本人に案内してもらうことは、とても価値のあることじゃないかと。そして、そんな変な企画につきあってくれる友人がいることはとてもすばらしいことじゃないかと。

    ラーメン屋や居酒屋などの飲食店をめぐる記事も結構多いですが、よくあるグルメレポートとは違います。どこ違うんだろうと考えてみたところ、スズキさんは人にフォーカスを当てているんだなあと思いました。出てきた料理も紹介するけれど、それだけじゃなく、お店をやっている人の人生も紹介するんですよね。なぜこの店を始めたのかとか、どうしてこんなメニューなのかとか、阪神淡路の震災のときはどうだったとか(関西のお店が多いので)、ご主人と結婚したきかっけとか、けっこう個人的なことまで。

    「おいしい○○」を食べに行くということだけが、お店に行く目的じゃないんだと思うんですよね。人に会うのが目的だから、動物園で飲んでもいいし、舞浜に行ってディズニーランドに入らなくてもいいし、終電を逃したつもりで朝まで歩くだけもいいんだ。そう考えると、なんだか納得しました。

  • 向田邦子『思い出トランプ』のイヤ~な気持ちになるところを考察する

    BSよしもと の「第一芸人文芸部 俺の推し本。」という番組(2026年5月8日放送)で、エレガント人生の山井さんが、向田邦子の『思い出トランプ』という本を紹介されてました。(Xのポストへのリンク

    この本って、けっこう昔に出版されてて、私が小学校の低学年くらい時に出たものなんですよね。おまえの歳なんか知らん、という声が聞こえてきそうですが、1980年とかです。なので、40年以上前の本ですね。

    『思い出トランプ』が紹介されていた回の「俺の推し本」の録画を、放送日の翌日に見ました。10年以上前にこの本についてのブログ記事(向田邦子「かわうそ」に出てくる絵画「獺祭図」を求めて)を書いたんですが、まさに同じ日にコメントをもらったたりしたので、何か運命的なものを感じて、図書館で借りて再読してみることにしました。

    いろいろ分かったことがありました。一つは、読んでいなかったということです。どういうことかというと、読んだのではなく、朗読を聞いたのでした。まだAudibleなどは存在しない頃で、朗読が録音されたCDを図書館から借りて聴いたのでした。『かわうそ』『だらだら坂』『大根の月』『花の名前』を聴きました。なので、初めて読む作品も、他にたくさん入っていたんですね。

    あと、直木賞を獲っていたことも知りませんでした。ウィキペディアによると、

    1980年短編連作『花の名前』『かわうそ』『犬小屋』(後に作品集『思い出トランプ』に収録)で直木賞を受賞した。

    直木賞は単行本に対して与えられるものだと思ってましたが、こういうパターンもあるんですね。文芸誌に載った複数の作品に対して授賞した、その後、単行本になった、ということですよね。違う場合は『ダウト』!と言ってください。

    番組中で山井さんは、「イヤ~な気持ちになる短編がすごく多くて」と表現されてました。そのように意識はしてなかったのですが、たしかに微妙にイヤ~になのが多い気がします。

    すごい悪人が出てくるとか、殺されるとか、そんな大げさではない、イヤ~な人、イヤ~な状況、イヤ~な出来事、イヤ~な結末。

    以降、ネタバレ含みます。読んだ人と、イヤ~な気持ちを共有したい。

    『かわうそ』に出てくる妻 厚子は、てきとうなウソを言って、セールスを追い払ったりします。

    歌うような口振りで追い払い、奥にいた宅次を振り返って、目だけで笑ってみせた。面白い女と一緒になった、一生退屈しないだろうと宅次は思ったが、その通りだった。

    と、夫に言わしめるような、ある意味 魅力的な奥さんです。 夫に恨みがあるわけでもないし、出し抜いてやろうと思っているふしもなさげです。でも、ナチュラルに嘘をつき、そこは嘘ついちゃダメでしょって場面でも嘘をつき、夫を苦しめていくんですよね。

    最後は体が丈夫な方が勝ちます。健康は大事だということを思いしらされます。宅次は「一生退屈」することはありませんでした。退屈する前に、「写真機のシャッターがおりるように、庭が急に闇になった。」

    『大根の月』は、妻 英子が事故で6歳の息子の指を包丁で切ってしまう話。この状況が嫌なのはしょうがないとしても、その後の、夫や同居している姑の言動がさらにイヤ~な感じを演出します。

    姑の台詞、

    「子供がはしゃいでいるときや愚図っているときは、あたしは絶対に包丁使ったり天ぷら揚げたりはしなかったわね。だから見てごらんなさいよ。出来合いのおかずばっかりだとか、すぐ店屋もの取るとか悪口いわれたって、こうやって、三十いくつまで傷ひとつ、火傷ひとつなく大きく出来たのよ」

    子供が怪我しなかったなんてのは結果論なのに、この事故をきっかけに鬼の首を取ったように、嫁を責めます。

    姑は働いていたこともあり、子供に手作りのものをあまり食べさせなかったというコンプレックスがひそんでいるのがやっかいです。事故の前は控えめに言っていたのが、事故が起きるや、それ見たことかとマウントを取りに来る。イヤ~。

    英子はその後、パートで働き始めて、歓迎会 兼 忘年会で遅く帰って来る日があります。姑は家の鍵を閉め、ベルを押しても呼んでも出てこずに、英子を締め出します。追い出すのではなく、気づかないふりして、締め出します。あら、気づかなったのよ、なんて言いそうです。イヤ~。

    地味にイヤなのが夫の秀一で、姑に英子が責められていてもフォローもしません。締め出し事件のあと、英子は離婚を前提に別居を始めます。数か月後に秀一と会うことになったときに、「戻ってくれ。たのむ」と言われ、迷います。秀一は謝ってもいないし、反省しているような感じでもありません。そもそも、自分にどんな悪い点があったか気づいてもいないかもしれません。家に帰れば、姑がいます。何も問題は解決していないのに、息子と暮らしたいがために家に帰ることになるのでしょうか。決めかねたまま、物語は終わります。イヤ~。

    次は、『花の名前』。結婚前は、「(花の名前などを)ぼくに教えてください」と、かわいげがある夫だったのが、25年も経つと、関係のあった女の名前を妻に言われても、「それがどうした」という感じでふてぶてしく振る舞う。みたいなのが大きな流れなのですが、私としては、口喧嘩で負けそうになったり、何かを教えてもらったりなど、妻に借りがある状態に耐えられないのか、必ずその夜に布団の中で返そうとしてくる夫。しかも、それを手帖てちょう符牒ふちょうで付けている、というあたりがじわりときます。これはちょっと地味なので、ややイヤ~、ということで。

    『だらだら坂』については、以前読んだとき(いや聴いたとき)とちょっと違う印象を持ちました。中小企業の社長の庄治には、大柄で太めの若い愛人 トミ子がいます。いかにも田舎から出てきたという感じの素朴で控えめなところが気に入っていました。ですが、だんだんと、プチ整形をしたり、化粧をするようになったり、手首が細くなったり、自信がついてきて口数が多くなったり。庄治が魅力だと考えていた部分がどんどんなくなって、離れていくような寂しさ、みたいな印象でした。

    ただ、読み直してみると、前半部がかなり不適切でした。トミ子と知り合ったきっかけは、庄司の会社の事務員の面接を受けに来た、というものでした。トミ子が面接の部屋を出ていくと、面接官たちは、「でか過ぎるよ」、「ありゃ鈍いな。足首見りゃ判るよ」など見た目に関する評価を加えたあと、受け答えも鈍重、学校の成績も良くないし、コネもない、ということであっさり落とします。

    なのに、庄治は名前と連絡先をそっとメモします。細かい経緯は省かれていますが、その後、マンションで囲う愛人という関係になっています。就職できずに困っている娘を、弱みにつけこんで愛人にしたとしか思えません。だいたい、就職面接で得た個人情報を利用しているあたり、完全にアウトです。

    と考えると、この『だらだら坂』に関しては、トミ子が成長して、庄治が作った鳥籠から逃げていく、時代錯誤の社長のおっさんの思惑通りにいかないぞという、むしろイヤ~ではない話なのかもしれません。

  • 『成瀬は都を駆け抜ける』と琵琶湖疏水

    (注意:若干のネタバレがあります)

    「あの本、読みました?」と「第一芸人文芸部 俺の推し本」を録画して見ている私が、成瀬シリーズに気づかないわけもなく、その存在は知っておりました。書店でも平積みになっていたし。

    でも、ラノベっぽいタイトルと表紙で、「まあ、いいか」と思っていました。

    読むきっかけは、中学生の子供の担任の先生が学級だよりみたいなもので、おすすめの本の一つとしてあげていたこと。子供が読みたいと言って(妻が誘導した感もあるが)、買うことになりました。

    身近な誰かが読んでいる本は極力読むようにしています。思えば、赤川次郎を読んでいたのは姉で、火の鳥(これは漫画だけど)を貸してくれたのは久石君(小・中学の同級生)で、筒井康隆をすすめてくれたのは松崎君(小・中・高の同級生)でした。なので、子供から借りて読みました。

    話を戻して、一作目の『成瀬は天下を取りにいく』を買ったときはまだ文庫本が出てなかったので、単行本を買いました。その直後に文庫が出たので、しまった、とも思ったけれど、二作目の『成瀬は信じた道を行く』も、今回読んだ三作目の『成瀬は都を駆け抜ける』も、文庫化を待たずにすぐに読めたので、結果オーライです。シリーズものって、単行本か文庫かで揃えたかったので。

    全編を通じての主人公は成瀬あかりですが、各章(各話)にはそのエピソードでのメインキャラクターがいて、そこに成瀬が絶妙に絡んできます。成瀬は、端的に話すから言葉数は多くはないし、感情を表情に出さないタイプなので、成瀬に関する情報量は少なめなのだけど、重要な役割を演じます。

    滋賀県民が琵琶湖の水を止めたがる、というお約束の冗談に対して、

    「それはきっと京都や大阪側が作った説だ。わたしたち滋賀県民は琵琶湖がみんなのものだと学んでいるからそんなことは言わない」

    と真面目に返す。この段階では何気ない世間話なんだけど、最後のエピソードで、この信念を伝える場面が再び訪れます。琵琶湖疏水そすい(琵琶湖から京都へつながる、人工的に作られた水路)で、島崎みゆき(成瀬の幼馴染)が「びわ湖大津観光大使」の活動をしていると、ちょっとめんどくさい人が現れる。

    「琵琶湖疏水は京都のものやねんけど、だれに許可とってやったはんの」
    (略)
    「明治時代、滋賀県は琵琶湖疏水の工事に反対してん。それを今さら仲良うしようなんて恥ずかしないん?」

    というおじいさんに対して、ひるみそうになる島崎ですが、そこに成瀬が現れて、毅然と考えを伝える。理屈で論破する、というのとは違うんです。シンプルな考えをストレートに伝える。琵琶湖はみんなのもの、同じ琵琶湖の水を使っている者同士、仲良くしたほうがいい、ということを、いつものあの口調で伝える。

    そのあまりの直球ぶりに、おじいさんは苦し紛れに、

    「あ、あんたこそ偽物ちゃうの? 観光大使がそんな言葉遣いしたらあかんやろ」

    と言うんですが、その発言に対しては、

    「いいんだ」

    と断言したあとに、

    「よかったら貴殿もびわ湖疏水船に乗って大津まで来てくれ。琵琶湖はいつでもすべての者を歓迎してくれる」

    小さい人間を完全に包み込んでしまう、この度量。信じているもんがあるから揺るがない。時折 炸裂する成瀬語録は間違いなくこの作品の魅力です。

    実は今回 成瀬以外でも、なかなかいいこと言う! と思った登場人物がいました。二作目に登場し、成瀬と二人で観光大使を務めている篠原かれん。

    成瀬の代打で観光大使の活動を手伝うことになった島崎ですが・・・

    「わたし、任命されてないけど大丈夫なんですか?」

    弱気になって尋ねると、篠原さんは笑顔のまま首をかしげる。
    (略)
    「でもね、一年間成瀬を見てて思った。観光大使って、やりたい人がやりたいときにやればいいんだって」
    (略)
    「ほら、成瀬って、イベントがないときでも勝手に衣装を着て大津市のPRしちゃうでしょう? そこに資格なんて要らない。だから今日は島崎さんがやったらいいの」

    そうか、そうだよなー。誰がやるべきとか、資格とか、郷土愛はそういうもんじゃない。

    そして、著者の宮島未奈さんも、やりたい人として、やりたいときに、小説を通して、観光大使をやっているんだなあということに気づきました。

    私は滋賀県には興味はなかったし、大津市のことは知らなかったのですが(地理で習ったはずなんですが・・・)、琵琶湖の歴史についていろいろ知ることができましたし、びわ湖疏水船にも乗りたくなりました。いろんな形の観光大使があるんです。