前回(死期を早めてあげるための介護とは?『スクラップ・アンド・ビルド』)からの続きです。簡単に書くと、BSテレ東の「あの本、読みました?」で、作家の羽田圭介さんが谷崎潤一郎を紹介していたので(実は読みやすい&短い!?谷崎潤一郎作品を羽田圭介が熱弁解説)、まずは羽田さんの『スクラップ・アンド・ビルド』を読み終わりまして、感想文も書きまして、今回やっと羽田さんがおすすめしていた谷崎潤一郎の『鍵』を読みました。
番組中では「短くて読みやすい」作品として紹介されていました。168ページとのことでしたが、私の手元の番組と同じ新潮文庫版では、本文が書かれているのはP8~P173なので166ページ(引いたあとに1足すのを忘れずに)です。この2ページのズレは何でしょうか。タイトルページを入れると167ページになりますが、あと1ページ足りません。最終ページの裏側(白紙)を足せば168ページとなり数は合いますが、そんな数え方をするのでしょうか? と思って、検索してみると、出版業界? 印刷業界? 界隈ではそういう数え方をするようです。勉強になりました。どうでもいい話で10行近く使いました。
168ページというと、私の中では「ちょっと長い短編」くらいの感じなのですが、ウィキペディアには
『鍵』(かぎ)は、谷崎潤一郎の長編小説。
と書かれていて、ジャンルも「長編小説」となっています。「ちょっと短い長編小説」ということでしょうか。「素敵な粗品」みたいなもんでしょうか。でも、普通の小説のように台詞の掛け合いによる改行がないので、字はぎっしり詰まっている感じがします。分量から言って、長編ということで。
168ページなので短いというのはいいとして、「読みやすい」には物言いです。夫と妻の日記が交互に繰り返されるのですが、夫の日記は漢字カタカナまじりで書かれています。ツマリ、夫ノ日記ハ漢字カタカナマジリデ書カレテイマス。読みにくいです。でも、その読みにくくさが、最終的に快感に変わるのかもしれません。谷崎なので。
本文は、夫と妻の日記のみです。ナレーションみたいな語り手とか、風景の描写とかそういうのはありません。交換日記というわけではなく、それぞれ別の日記です。家に置いているので、相手にこっそり読まれている可能性もありますが、それもはっきりしません。
夫は50代、妻は40代、娘が一人という家族構成で、ここに娘の結婚相手にどうかと親は思っているけど、娘はあまり乗り気ではないという男「木村」が加わり、この4人が主な登場人物です。
ストレートに書くと大人サイトだとグーグルに判断されたりして、ただでさえ低い検索順位が、さらに低くなりそうなので、なるべく遠回しに書きます。夫は夜になると最近ちょっと元気がなくて、でも妻は旺盛なので、なかなかサティスファイさせることができません。夫は嫉妬をするとエンジンがかかる(エンジンにはピストンがつきもの)タイプで、木村と妻が怪しいんじゃないか思うほど、パフォーマンスがあがってタスクを完遂できるという、ちょっと普通でないタイプなのです。
で、そのことを日記に書きます。妻が盗み見をしているという想定で書きますが、本当に盗み見ているかは不明です。また、盗み見をしている想定で書いている、ということも日記に書いてます。
妻は最近日記をつけはじめたのですが、これも途中から夫に盗み見られている可能性について、日記に言及するようになります。夫は自分が夫の日記を盗み見していると思っているようだが、そんなことはない、ということを日記の上で力説し、それが夫に盗み読まれることを想定しています。
双方が盗み見ていれば、口ではいいにくいことをお互いの日記に書いて相手に知らせる交換日記のように機能しそうですが、相手が見ているかどうかは判然としないまま、物語が進んでいきます。
夫が自分の性癖を日記に書く、盗み見た妻は、木村との関係をほのめかすことにより夫を嫉妬させ、嫉妬はブースター(発射だけにね)となり結果的に満足を得る。妻を満足させることは夫の希望であるので、妻は不倫のふり(あるいは本当に・・・)をすることで、主人の意に忠実な妻である、みたいな構図が成り立ちますが、各人の動機が本当にそうなのかははっきりしないのです。
このような誰がどういうつもりで何をしているかが分からないような小説にするための仕掛けとして、日記という形式がとてもうまく機能しています。
あるタイプの小説は、登場人物Aの心情も登場人物Bの心情も語るような神様のような視点の語り手がいたりしますよね。ここで語られる内容は通常は真実として扱われます。
「夫は妻の日記を読むようなことはしなかった。」と台詞ではなく、地の文で出てきたら、そうだということになります。
「『俺は君の日記を読むようなことはしないよ』」という台詞が出てきたのなら、それは嘘かもしれません。
一人称の小説で、「私は妻の日記を読むようなことはしなかった。」という形で地の文で出てきたらどうでしょうか。これは真実だと考えるのが自然でしょう。誰かに聞かせているわけではない心情に嘘が入ると、話がややこしくなります。認識の違いとか、あやふやな記憶みたいな形でひっくり返すこともできますが、通常は本当のことしか語りません。
で、日記はどうでしょうか。日記に嘘を書くという現象はありえないことではないです。そこに、相手の盗み見を想定すると、嘘を入れる動機も十分に存在することになります。つまり『鍵』に出てくる日記に書かれていることは、どこまで真実なのかが最後まで分からない、という構造になっています。
中盤になってくると、日記に以前こう書いたが、実はそれは嘘で、本当はこうだった、みたいなのも出てきます。でも、それも日記に書かれているので、それが本当だという保証もありません。
ただ、日記に書かれている内容が真実度を増すこともあります。盗み読まれる可能性がなくなれば、嘘を書く動機はなくなります。そして後半、そうなります。じゃあ、盗み読む人はもういないのか? いえ、最後まで日記を盗み読みしている人はいなくなりません。そう、それは・・・・・・おまえだっ!(もうすぐ稲川淳二の季節ですね)
つまり、それは読者ということだったりします。
