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勝手に読書感想文。漫画も映画も含みます

タグ: 永井聡

  • 映画『爆弾』と、小説『爆弾』

    「読んでから見るか、見てから読むか」なんて、キャッチコピーで角川がブイブイ言わせていたのは、私が小学生の頃(1970~1980年代)でした。小学生だったので大人が見るような映画を映画館に見に行ったりはしなかったのですが、テレビCMがばんばん流れて、主題歌がヒットしたり、主題歌を歌っているのが主演俳優だったり(メディアミックス期の後半の薬師丸ひろ子とか原田知世とか)して、新作映画のことを知らないという人はいないという状況でした。映画をヒットさせ、原作の文庫を売り、主題歌もヒットさせ、新人をスターにしていく、という感じですね。

    そこまで露骨なのは最近は少ないですが、原作本と映画のシナジーを狙うというのは今もありますよね。書籍が映画化されると、文庫本のカバーが映画のシーンや俳優さんの写真になったりして。もともと原作のファンだった人には、ちょっと微妙だったりなんてことも。

    私の場合、『爆弾』は「見てから読」みました(映画を見たときの過去記事リンク)。映画と小説を比較してみて、かなり原作に忠実に映像化されている、という印象でした。

    「原作」といいつつ、全然違うものになっていることってありますよね。村上春樹が原作、濱口竜介が監督の映画『ドライブ・マイ・カー』って、短篇集『女のいない男たち』の中の「ドライブ・マイ・カー」と「シェエラザード」と「木野」のミックスになってましたよね。こんなパターンってあるんだと思いました。

    あと、黒澤明の映画『羅生門』。原作者が芥川龍之介なのは間違いないのですが、中身はほとんど「羅生門」ではなく、「藪の中」のほうですよね。最初と最後に羅生門もちょっと出てきますが。

    『爆弾』(呉勝浩 著)を読んでみて、順番は逆になりますが、『映画』(永井聡 監督)は、かなり原作に沿った形の脚本になっていたと思いました。

    とはいえ、微妙に違うところもありました。実は、小説の書き出しに登場する「細野ゆかり」は、映画には登場しません。名前を与えられているからには、それなりの役割なんだろうと思いきや、被害者の一人か? と思いきや、後半にも登場して、ストーリーにちょっとした味付けをしてくれます。でも、2時間強の映画に収めるためには、このあたりは削らざるを得ないのかもしれません。

    あと、新聞配達のバイクを追う刑事の顔ぶれ、ちょっと違いましたよね。映画を見てから時間が経っているので、ちょっと自信ないですが・・・。全体的に、原作のテイストを損なわずに映像化されていました。

    見る順番ですが、映画→小説の場合のメリットは、登場人物を把握しやすことですね。犯人のスズキ タゴサクはともかく、他は刑事がいっぱい出てきますからね。もちろん著者は、刑事の職位、性格、体格、年齢などで書き分けてくれているんですが、なにせこっちの「年齢」が50を超えてくると、もう、誰が誰だったやら。映画は俳優さんの見た目がバンと入ってくるので、なんとか記憶できます。

    デメリットは、もはやその登場人物が俳優さんと完全に重なってしまうところでしょうか。スズキは佐藤二朗になり、清宮は渡部篤郎になってしまいます。清宮に対するどんな形容詞が出てきても、それらは頭の中ですべて渡部篤郎を修飾する言葉となります。もし、清宮が天然パーマだと書かれていたら、それは天然パーマの渡部篤郎になっしまうのです(天然パーマは類家のほうですが)。でも、まあいいか。大した弊害はなさそうだし。

    小説のいいところは、映画より情報を詰め込めるところですね。登場人物の心情の描写の部分で特に感じました。『爆弾』はスズキとその犯罪の特異性とか、類家との対決とか、謎解きとか、そのあたりももちろん魅力なのですが、実は仲間とか敵とか赤の他人とか、区別とか差別とか偏見とか、そういう重いテーマが散りばめられているんですね。映画でも描かれてはいるんですが、約2時間に収めなきゃいけない制約もある。

    小説では比較的自然に登場人物の心情を描写できます(発言されていない言葉を文字で書いても問題ない、小説という表現形態が持つ特徴)。映画でも、心の声の独白みたいな形で表現できますが、やりすぎると『孤独のグルメ』みたいになっちゃう。複数人でこれをやると、アンジャッシュのコントみたいになっちゃう。

    小説を読んでいて再確認したのが、スズキに毒されそうになる登場人物の揺れ動く心情です。「爆発したって、べつによくないですか?」というスズキの言葉が、徐々にしみ込んできて、「べつにいいかも」と思いそうになってしまうくらい、麻痺したり、追い詰められたり。

    スズキを取り調べた刑事だけでなく、巡査の沙良も、同僚の矢吹が爆発に巻き込まれた際、「公園の被害者だと? そんなのはどうでもいい。ほっておけ。それより矢吹を助けてくれ」と考えた(口には出していない)ことが、結局自分も「他人はことはどうでもいい」と考えるスズキと違わないのではないかと苦悩するきっかけとなります。

    スズキに爆弾テロを許してしまったことだけでなく、心の中にスズキの思想が入り込む余地を与えてしまったところこそが、警察の敗北だったのではないか、という深淵な作品なのでした。

    映画は見たけど小説は読んでないという人は、ぜひ読んで。もう両方見た(読んだ)という人は、そのうち続編が・・・

    ん? もう出てる?(しかもけっこう前に) 検索してみて、今知りました・・・

  • 無自覚な差別意識を突いてくる、映画『爆弾』

    会話が面白い映画が好きです。映画『爆弾』は、謎解き的なミステリーの面白さもさることながら、取調室で繰り広げられる会話戦が大きな見どころになっています。映画の結構な割合が、容疑者のスズキ タゴサク(佐藤二朗)と取り調べの刑事たち、等々力(染谷将太)、清宮(渡部篤郎)、類家るいけ(山田裕貴)との会話で占められています。

    スズキは酒屋の自販機を壊すという行為で意図的に捕まり、その軽犯罪の取り調べの最中に爆破予告じみたことをします。その通りに爆破事件が起き、警察は重要参考人として取り調べを本格化しますが、おちょくった態度で次の爆破の時間や場所をクイズのようにほのめかすスズキに翻弄される、みたいな流れです。

    最初は警察署の刑事である等々力が取り調べをします。その後、警視庁から偉そうな感じで清宮が派遣されてきて、所轄の刑事から仕事を横取りします(『踊る大捜査線』でよく描かれているアレ)。でも清宮はまんまとスズキの術中にはまり、交代を余儀なくされます。そして、トリの取調官は清宮の部下の類家です。

    清宮は登場人物の中でも格段に頭がよく、でも普段は変に目をつけられないように、その能力を隠しているようなタイプです。スズキはその点も見抜き、巧みにそこを突いて、失言や誤判断を引き出そうします。心理戦の応酬なのですが、こちらが押せば、向こうも押し返す。今どっちが主導権を握っているのかというのが目まぐるしく変化して、どうなるんだー? と思っていると、現場でまた何かが起きる、みたいな。どう言ったらいいんでしょうか。言葉を吟味して、なんとか表現してみますと・・・、うん、「ちょー、やばい」って感じです。

    中日ドラゴンズの選手の名前を使ったカマのかけ方が良かったです。こういうのって二重で仕掛るというやり方があるんですね。さっそく職場で使ってみようと思います。

    スズキが単なる異常者として描かれているわけではないのが怖いところ。自分に共感しているところがあるんじゃないの、という挑発の仕方。このスズキを演じきっているのが佐藤二朗です。十円はげ、黄色く着色した歯、がさがさで汚れた指。汚いおじさん感(注:あくまで役の話です)がすばらしいです。終盤のシーンで、泣きそうな顔を見せたかと思うと、表情を崩し、そのあとに勝利を確信したような笑いをあげる、あの感じを出せる俳優が他にいるでしょうか。

    取り調べをする3人の刑事たちの中での主役は類家ですが、類家に交代する前の清宮がスズキの策略にはまってしまう仕掛けのところもよかったです。ちょっと「トロッコ問題」っぽいやつ。「あなた、普段は命の重さは平等だとか言ってるけど、実は無意識のうちに差をつけませんか?」的な。無意識というのがポイントです。犯人から与えられヒントのうち、何を重視して、何を軽視するかに、それが現れてしまうという追い込み方。

    いくらきれいごとを並べたところで、命に差をつけているんじゃないの? しかも、自覚もせずに。という、スズキが投げかける問いの答えは簡単には見つからないのかもしれません。そう、最後の爆弾みたいにね。(うまいこと言うたった)


    2026年10月4日追記
    小説の方も読みました。刑事たちの心の葛藤がより重厚に描かれています。
    映画『爆弾』と、小説『爆弾』