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勝手に読書感想文。漫画も映画も含みます

タグ: J・D・サリンジャー

  • 『フラニーとゾーイー』に出てくる『巡礼の道』は、『無名の順礼者』というタイトルで出版されている

    私がこの『無名の順礼者』という本を読むことになったきっかけは、J.D. サリンジャーの『フラニーとゾーイー』にこの本が登場したからです。

    短篇『フラニー』の中で、フラニーが読んでいた『巡礼の道』というタイトルの本が、この『無名の順礼者』です。タイトルが異なりますが、同一のものを指しています。『無名の順礼者』の表紙には英語版の書名である『THE WAY OF A PILGRIM and THE PILGRIM CONTINUES HIS WAY』というタイトルも併記されています。”pilgrim”とは巡礼者のことです。『(ひとりの)巡礼(者)の道(旅) そして 巡礼は旅を続ける』くらいの意味でしょうか。

    日本語で「巡礼」というと「巡礼する行為」を指すこともありますし、「巡礼する人」を指すこともあります。後者の使い方は前者ほど一般的ではない気がしますが、「一人の巡礼がいた」とか「巡礼さん」とか、そんな使い方もします。行為としての巡礼を表すのには “pilgrimage” という単語があるので、『フラニー』に出てきたタイトルは『巡礼(者)の道』と解釈するのが自然でしょう。

    また、日本語には「巡礼」「順礼」の2つの表記があるので、ややこしいですね。とにかく、両者が同一のものであることは、書籍の内容でも確認できました。

    『フラニー』中では、こんな感じで登場しています。ボーイフレンドのレーンから、さっき読んでいた本は何? みたいに聞かれ、フラニーは答えます。(引用は新潮文庫の野崎孝 訳からです)

    「題は『巡礼の道』っていうのよ」(略)「図書館から借り出したんだけど、今学期出ている『宗教概説』っていうの、それを教えている先生が名前を挙げた本なの」

    「誰が書いたんだい」

    「知らない」(略)「ロシアのお百姓さんみたい」(略)「全然名前が出てないのよ。最後まで名前は分からないんだな。作者はね、自分が百姓だということと、歳が三十三だということと、片方の腕が麻痺してるということしか言わないの。それから奥さんがなくなったということ。みんな1800年代のことなんですって」

    説明は続きます。

    「(略)初めはね、そのお百姓さん――というのが、その巡礼なのよ――これが、聖書の中に、絶えず祈れとあるのはどういうことなのか、その意味をつきとめたいと思うの。ね、分かるでしょ。休む間もなく祈るんだわ。テサロニケ書かどこかにあるでしょ。そこで、その人はね、絶えず祈るにはどうすればいいのか、それを教えてくれる人を探してロシア全土の旅に上るの(略)」

    このあと、巡礼者は街で出会った子供に連れられて、彼らの家に行くというシーンがあります。そこで、フラニーが「これまでに読んだ本の中の誰よりも好きだわ」と形容する夫婦にもてなされます。

    では、今度は『無名の順礼者』のほうからの引用です。

    聖堂に入り、しばらくお祈りをしてからふたたび歩き始めますと、わたしのうしろから「順礼さん、順礼さん、ちょっと待ってちょうだい」という声が聞こえました。こうわたしに呼びかけたのは、さきほど教会のそばで遊んでいた、男と女の二人の子どもです。(略)「わたしのお母さんは順礼さんが大好きだから、お母さんの所へよって」

    これと同じシーンが『フラニー』にも出てきます。「順礼さんが大好き」というのも変な表現ですが、この家の「奥さま」は巡礼者に親切にしたり、巡礼者の話を聞いたりするの好きみたいな感じです。

    お昼の時間になり、その家の食卓に着くのですが、奥さん以外にも食卓に同席している女性たちがいます。その女性たちはお皿を運んだりといった給仕をしながらも、一緒の食卓で食事もしているという状況です。巡礼者はちょっと不思議に思い(通常は「主人」なのか「召使い」なのかが明確なはずなので)、

    わたしは奥さまに、「失礼ですがこのご婦人がたはご親類のかたですか」と尋ねてみました。すると奥さまは、「そうです。みんなわたしの姉や妹です」と言って一人々々をゆびさしながら説明してくれました、「この人は家のコックさん、あの人は御者の奥さん、それからそちらがわたしの小間使いの人です」

    私は最初、肉親である姉や妹がコックや小間使いをしているのかと勘違いしてしまいましたが、この「奥さま」の発言については、フラニーの説明を聞くと、腑に落ちます。再び『フラニー』からの引用。

    「みんな召使なんだけど、いつも自分たち夫婦といっしょに坐って食事をする、それはみんながキリストにおいて姉妹きょうだいだからだって」

    「みんなわたしの姉や妹です」という奥さんの発言は比喩なんですね。フラニーはこのシーンが気に入っているようで、

    「わたしはね、その巡礼が、そこにいるご婦人がたは誰かって尋ねるとこ、そこがとてもいいと思ったの」

    と言います。

    このあたりのフラニーとレーンの会話は食事中に行われています。レーンはあきらかに興味がない様子で、関係のない、かみ合わない発言を繰り返します。あげくに自分が書いたという論文を「あれをどうこうする気持は全然ないつもり」と言いながらも、「活字にするとか、なんとかね」みたいな持って回った言い回しで、スノッブ臭をぷんぷんさせてきます。

    具体的に理由までは表現されていませんが、元農夫の素朴な順礼、彼に親切にする善良な人々の話と、自分のまわりのエゴ丸出しの人間たちを引き比べて耐えきれなくなったのか、フラニーはそのまま気を失い、その後、すっかりふさぎ込んでしまいます。ここまでが連作短篇の一作目の『フラニー』。

    二作目の『ゾーイー』では、兄のゾーイーがふさぎ込んだフラニーの誤解(?)を解くために、長い長い会話を通じての説得を試みます。もちろん『フラニーとゾーイー』だけで作品として楽しめるのですが、『巡礼の道』こと『無名の順礼者』を読むことで、なぜフラニーがそれほどまでにこの本に耽溺するようになったのか、を実感することができるんじゃないかと思います。

    ちなみにこの『無名の順礼者』、現在では入手するのが非常に困難です。巻末にこんな説明があります。

    本書は1967年に刊行されたドイツ語原本による旧訳本第一の物語より第四部までと、第五部以下の第七部及び付録とを英語訳原本から訳出し完結本として刊行された。題名は「無名の順礼者」が踏襲された。

    尚、本物語の中にしばし登場する「修徳の実践」は現在未完であるが、近年中に刊行される予定である。

    ちょっと表現が分かりづらいですが、エンデルレ書店から1967年に出版されたものは、第一の物語~第四の物語が収録されていて、同じくエンデルレ書店から1995年に出版されたものはさらに第五~第七の物語が追加されているということらしいです。

    『修徳の実践』は順礼が聖書とともに持ち歩いている書物で、彼はこの本の解釈を隠修士に教えてもらったり、時には出会った人に読んで聞かせてあげたりしています。

    3書ともすでに絶版になっていて、アマゾンでは古書が1万円~2万円のような値段で売られています。また、出版元のエンデルレ書店はすでに廃業しているので、この出版社から復刊される可能性は期待できないということですよね。とりあえず復刊ドットコムのリクエストに投票しておきました。投票が多いと復刊されることがあるようです。本書については、今の票数を見ると、なかなか厳しそうですが。

    『無名の巡礼者 あるロシア人巡礼者の手記(ローテル訳)』 レビュー一覧 | 復刊ドットコム

    私が今回借りて読んだものは、1995年出版のほうで、川崎市の図書館にリクエストしたところ所蔵がなく、提携している横浜市立図書館から取り寄せてもらったものになります。他の自治体からの貸出は延長もできないし、取り寄せに時間もかかるので、やはり手元に置いておくか、自分が住んでいる自治体の図書館に所蔵されるのが理想です。

    第一の物語から第四の物語までが一区切りで、その後は後日談とか対談(鼎談)のような感じなので、主要な部分という意味では第四の物語まででいいと思います。薄めの文庫本くらいの量になると思うので、1000円切るような文庫本にして、『フラニーとゾーイー』(もしくは『フラニーとズーイ』)の横に並べれば、ちょっとは売れると思うんですけどねえ。そんなに甘くはないですかね。

  • 『シーモア-序章-』はサリンジャーではなく、バディ・グラースの作品?

    いやー、つらい読書体験でした。サリンジャーの中編が2つ入っている文庫本で、前半の『大工よ、屋根の梁を高く上げよ』を読んだときもなかなか厳しいものがありましたが、後半の『シーモア-序章』はそれ以上でした。

    『大工~』のほうはまだストーリーがあったのですが、『シーモア-序章-』のほうは、バディ(次男。シーモアのすぐ下の弟)の独白みたいな感じ。独白、じゃないな。えーと、バディは作家で、シーモアについての『シーモア-序章-』という作品を書いた。それが、この本に載っているわけです。つまり、『シーモア-序章-』はサリンジャーの作品ではなく、バディの作品という形になっています。メタフィクションってやつでしょうか。

    その作品は小説ではなくて、ノンフィクションというか、エッセイというか、途中まで書いて、しばらくして続きを書いて、というのをそのまま載せてある感じ。

    かなり後半ですが、こう表現されていました。

    わたしと同じ年齢で同程度の収入があり、自分の死んだ兄弟のことを魅力的な半ば日記形式で書く非常に多くの人間は、わざわざ読者に日付を知らせたり現在自分のいる、、場所を教えるようなことはしない。

    作者(バディ? サリンジャー?)が書いているんだから「日記形式」ということでよさそうです。

    この作品の中では、他のサリンジャーの短編もバディが書いたという設定になっています。

    しかし、これまでにわたしは直接シーモアについて語っていると考えられた二つの短編小説を書き、出版したと言ってもいいし、また言っておかねばなるまい。この二つの作品のうち、新しいほうは1955年に出版されたが、1942年の兄の結婚式をきわめて総括的に物語ったものである。

    出版年は実際とは違うみたいですが、「この二つの作品のうち、新しいほう」というのは『大工よ~』のことでしょう。そして、「他方、それ以前の、1940年代の末に書いたもっと短い小説」として言及しているのが、『ナイン・ストーリーズ』に入っている『バナナフィッシュにうってつけの日』です。

    (略)彼自身が直接姿を現すばかりでなく、歩いたり、話したり、海にもぐったり、最後の一節では頭にピストルを打ちこんでいる。

    とあるので、読んだ人には明らかですよね。

    設定は大体わかっていただけたと思います。冒頭、いきなりカフカとキェルケゴールの引用から入り(数ページ後に説明がある)、シーモアの話をしそうでなかなかしない。何を言いたいのかがわからない、非常に長いセンテンスが続きます。係り受けの関係を読み解くだけでしんどいです。

    後半になると、具体的にシーモアの話が出てくるので、なんとか興味が持続するようになりますが、全般的にほとんどの人には楽しめない作品になっています、たぶん。私もそちら側でした。

    でも、アマゾンのレビューの点数だと、現時点で平均で4.4点です。高いほうですよね。楽しめる人もそれなりに多いようで。

    あなたはどちら派なのか、確かめてみたらいいかも。サリンジャーの全作品を読むのはけっこう簡単です。作品数が少ないので。でも、理解するとなると・・・、ねえ?

  • 大工よ、屋根の梁を高く上げよ。アレスさながらに、丈高き男の子(おのこ)にまさりて高き花婿きたる。

    私がサリンジャーの作品を読んだきっかけは、爆笑問題の太田さんがテレビ番組で薦めていたから。どうやら「爆笑問題のススメ」(wikipediaへのリンク)という番組だったようですが、私がサリンジャーを初めて読んだ時期が15,6年前だということを考えると、さらに前に放送されたものがYouTubeかなんかにアップされていて、それを見たのかも。

    太田さんは、サリンジャーの『フラニーとゾーイー』と、カート・ヴォネガット・ジュニアの『タイタンの妖女』を紹介していました。紹介している番組をどうしても見たい人は、ウェブで検索すれば出てくるのではないでしょうか。私はまだ読んでいないのですが、『爆笑問題の「文学のススメ」』という本も出ているので、そこでふれているんじゃないかと思います。絶版になっているみたいですが、図書館で借りるか、中古で買えば読めるでしょう。

    番組の中では、サリンジャーの『ナイン・ストーリーズ』という短編集にも触れていました。なぜかというと、この中に入っている『バナナフィッシュにうってつけの日』が、グラース家のストーリー(連作短篇のような形になっています)の発端になっているからです。

    出版の順序では、『バナナフィッシュ~』 → 『フラニー~』 → 今回読んだ『大工よ、屋根の梁を高く上げよ』ですが、ストーリーの時系列では、『大工~』(長兄シーモアはまだ生きている) → 『バナナフィッシュ~』(シーモアの自殺) → 『フラニー~』(兄を失った妹の葛藤)という流れになります。

    『大工~』は家に文庫本があったので、以前読んだはずなのですが全く内容を覚えておらず、もっと言うと、読んだかどうかも自信がなかったです。が、読んでみると、やっぱり読んでました。

    語り手は、シーモアのすぐ下の次男バディで、シーモアの結婚式のために、軍隊(本業は作家だから、たぶん兵役)の休暇をとって、病み上がり(治りきっていない)の体をおして、はるばるやってくるのだけれど、気まぐれとも思えるシーモアの行動により結婚式はドタキャンになり、花嫁側の親戚とたまたま同席してしまい、シーモアのことを悪く言う気の強そうな女性になんだかんだと言われる、みたいな話です。

    冒頭で、赤ん坊の頃のフラニーにシーモアが読み聞かせた中国の古典が引用されています。また、タイトルになっているフレーズは、ブーブー(長女、バディの妹)がバスルームの鏡に石鹸で書いた伝言の一部で、その内容はというと、

    「大工よ、屋根の梁を高く上げよ。アレスさながらに、丈高きの子にまさりて高き花婿きたる。先のパラダイス放送株式会社専属作家アーヴィング・サッフォより、愛をこめて。汝の麗しきミュリエルと何卒、何卒、何卒おしあわせに。これは命令である。予はこのブロックに住むなんぴとよりも上位にある者なり」

    古典のパロディのようだけど、元ネタが分かりません。あのサッフォーかなと思ったけど、ウィキペディアのサッポーのページを見ても、アーヴィングというファーストネームではありません。「アーヴィング␣サッフォ」で検索してもそれらしいページはでてきません。

    シーモアの奥さんになるミュリエルの名前が出てくるので、ブーブーからシーモアへの祝辞であろうということ分かるのですが、それ以外は不明です。シーモアは背が高いのでしょうか?

    小説のタイトルとして、この部分を選んだくらいだから、何か深い意味が込められているのかもしれません。

    ・・・このような感じですので、サリンジャーの作品の中であまり知名度が高くない(気がする)のもうなづけけます。

    グラース一家の物語を読みたい人は、『ナイン・ストリーズ』(普通に短篇集として楽しめます)から入って、そこ出てくる断片に触れて、『フラニーとゾーイ―』でより深く知って(村上春樹のズーイのほうでもいいけど)、それでシーモアに興味がわいたなら、『大工よ、屋根の梁を高く上げよ』に進むほうがよさそうです。

    サリンジャーの作品には、一度読んだだけでは理解できないようなものも多い気がします。でも、何度読んでも新たな発見があるような、そんな作家なんだろうなと思います。