(アイキャッチ画像は「香港は死んだ – 産経ニュース」より)
たまたま読んだ小説が面白かったりすると、なんだか得をした気にになります。村上春樹さんの『夏帆』が小出しに掲載されたときの文芸誌を図書館で借りて読んでました。読もうと思っていたもの(つまり『夏帆とシロアリの女王』過去記事リンク)だけを読んで返すのがいつものパターンです。しかし、通勤時に鞄に入れていた本が、その日は『新潮』2025年11月号だけでした。『夏帆』は行きの電車で読み終わってしまい、昼休みと帰りに読むものを物色していました。表紙に「第57回 新潮新人賞発表」と書かれており、2作が受賞していたのですが、短いほう(90枚)の有賀未来さんの『あなたが走ったことないような坂道』を読むことになったというわけでした。
崩した文体で一気に(あるいはだらだらと)語る文体は、満員電車で読むのにぴったりでした。足を組んでいる人や、1.1人分の場所をとる人、老眼のせいかこちらにでっかいスマホを突きつけてくる人などのことを意識から排除できました。+5分の余分な待ち時間と引き換えに手に入れた特等席で、私は読書に集中することができました。
受賞作品のお楽しみといえば選評です。「全部面白かった」で済まされないので、選評を依頼される作家さんはそれなりに大変でしょう。同業者への厳しい批評はブーメランになって帰ってきたりして。帰ってくるなら、まだいいけど、何一つ飛んでこないとか。(後の)この大人気作家をこき下ろしている、この作家って誰だっけ? とか言われちゃったりして。売れるのがすべてではないけれど。
でも、選ぶ理由を語るからには、選ばなかった理由も語らなきゃいけないんでしょうね。良いとこだけを言う審査というのはやっぱり成立しないんですかね。M-1グランプリでの審査員のアドバイスを素直に聞いていたら、特徴のない漫才師が増えてしまいそう、と心配。「そんなアドバイス、聞き流して!」といつも願っております。
さて、今回の選評のキーワードは「既視感」でした。(太字は私がつけたもの)
大澤信亮さんの選評より。
いわゆる崩れた若者文体だが既視感があった。
次は、小山田浩子さんの選評。
母国や母語への混乱や悲しみや怒りが表現されているのはわかるが、書きたいところ・思いついたところをそれっぽく書き散らしているような印象をどうしても受けてしまうし書かれている内容にも既視感があった。
最後は、又吉直樹さん。
母語喪失、セクシュアリティの問いという題材が持つ既視感は拭い切れないが、(略)
なんというか、「既視感を低評価の理由にする選評」に既視感を覚えました。最近はお笑い芸人のネタやフリートークでもよく出てきますね、「既視感」というワード。
「見たことのない景色」くらい、見たことのある言葉になってきました。こうなってくると、そろそろ「使うのがちょっと恥ずかしいワード」認定をするべきでしょう。だから私は「既視感」という言葉を今後は使わないことにします。これからはですね、こういうときは・・・、「デジャヴュ」と言うようにします。最後の「ヴュ」のところで、ちょっと頬を赤らめます。
実は、又吉さんの選評の、さっきの部分の後ろは、
・・・既視感は拭い切れないが、現代を描くなら避けては通れぬ必然。
と続いていて、特に悪くは書いていませんでした。しかも、全体的に肯定的なトーンでした。申し訳ございません、わたくし悪意のある「切り抜き」をやってしまいました。流刑にでもしてください。佐渡よりはオーストラリアのほうがいいです。
でもね、選評を書く側も苦労しているんだと思います。「もし、あまり良くなかったところをしいてあげるとすれば、いえいえ、それはあくまで私が思った、というだけですが、このあたりですかね」くらいの気持ちで書かれていることと思います。そうでない感じのやつもよく見かけますが。
こんな、厳しいことを言わなければいけない立場の人からの言葉を聞くときにぴったりなのが、ブルーハーツの『人にやさしく』のフレーズです。
期待はずれの 言葉を言う時に
心の中では ガンバレって言っている
聞こえてほしい あなたにも
厳しめの選評を書かれた作家さんたちの「ガンバレ」が、新人作家さんたちに届いていることを願っております。JASRACが何か言ってこないことも願っております。





