ノミネート5作を全部読み終えたので、さっそく選考に入ろうと思います。とはいえ、築地の料亭の招待状が、私には来ていませんので、勝手に予想する、ということになりましょうか。
競馬だと、上位いくつかの順位に対して、どのような条件で当てるかで、単勝、連勝複式、連勝単式とかありますよね。私はギャンブルはやらないので知らなかったのですが、最近は「連勝複式」とか「連勝単式」て呼び方ではないんですね。それぞれ「馬連」「馬単」というみたいです。ちなみに、落語「らくだ」に出てくるのは「馬さん」です。
芥川賞では順位が出るわけではないので、5作がノミネートされているなら、以下が場合の数(お、懐かしい)になりますね。
1作受賞:5通り {1}{2}{3}{4}{5}
2作受賞:10通り {1,2}{1,3}{1,4}{1,5}{2,3}{2,4}{2,5}{3,4}{3,5}{4,5}
該当なし:1通り
それぞれどれくらいのオッズになるのでしょうか。絶対やっている人いそうですね。違法ですよ。
ちなみに、私はノミネート作を全部読んだのは初めてです。また、この作品は受賞したけど、この作品は受賞を逃した、みたいに比較する観点で読んだこともありません。つまり、どういう作品が選ばれる傾向にあるかについて、なんら情報がありません。
こういう状況で予想することを何て言ったっけ。そうだ「当てずっぽう」だ。ずっぽうって何だ。
まあ、当たる気もしないし、外したときに、「ちゃんと読んだのか」とか、「お前の目は節穴か」とか、「たまには買って読め」とか、厳しいご意見が来そうなので、予想するのはやめておきます。
かわりに新しい賞を新設することにしました。「もうすぐ芥川で賞」です。ノミネート作品は芥川賞のノミネート作品に準じます。発表時期は芥川賞のノミネート作が発表されてから、受賞作が発表される前までの間です。
もし本物のほうの受賞を逃した場合は「もうすぐだったね」という意味合いになり、もし本物のほうを受賞してしまったら、つじつまがあわなくなるので、「もうすぐ芥川賞発表の時期だね」という意味に解釈することにします。(ことにします、ってなんだよ)
賞金や商品はありません。勝手にトロフィーとか送ったら不審物扱いされてしまいます。でも、何かあげたいです。作家がうれしいもの。それは何でしょうか? きっと、たくさんの人に読んでもらうことだと思います。なので、「受賞作の作家さんの作品を死ぬまで読む」にしました。そう、私が死ぬのが先か、お前が死ぬ(断筆する)のが先か、という勝負です。
審査は、今朝がたから閉鎖された密室(私の頭の中)で行われており、先ほど天使と悪魔の勝負がつきました。
では、第一回「もうすぐ芥川で賞」の発表です!
その前にCM。
(ここにアドセンスの広告でも入れたいところだが、一向に申請が通らない)
「歩きスマホは犯罪です ♪エ~シ~」
お待たせしました、発表です。
どん、小砂川チトさん『ゾンビ回収婦』です。
ご本人は、「それどころじゃない」ということで、ご欠席なので、あとは審査員の独り言をご覧ください。真面目に読まないように。
『ゾンビ回収婦』
ゾンビのサプライズのところで泣きそうになったので、これに決定。ゾンビって突然出てきて人をサプライズさせたりしますが、そうではないサプライズのほうです。話の流れからいって、それが現実でないことはわかりつつ読んでも、やっぱり感動的な妄想でした。それほどまでに、誰かに感謝、評価されたいという主人公の願いですね。
ゲームや仮想世界へ依存している状況が描かれていますが、主題はそこではなくて、現実世界であっても、仮想世界であっても、どの世界にいようとも逃れられない、人間の渇望なんだなあと思いました。
シャツに書かれた「(A)LASKA」を、ニックネームに使うあたりも加点ポイントです。澤部さんを思い出して、じわじわ来ました。
不眠というごく個人的な体調不良をテーマにしつつも、ブラック企業がウェルビーイングを売りにしているという皮肉な設定での風刺も効いています。これ、一見いい人に見えて、実は人の気持ちを全然理解できていない夫との重ね合わせになっているんですかね。ヒヨコなんか持って帰ってくんなよ。この夫のビミョーに嫌な(うかうかしていると、いい夫に見えてしまう)描き方が好きです。
定年後はすっかり思い出すこともなくなっていたソリティアおじさんこと黒野田さんのことを、その死をきっかけに深く考えるようになり、いろいろなことも思い出し、主人公の行動にも影響を与えるという展開が好きでした。派手な出来事や、どぎつい描写はないのに、胸を突かれるような感覚がありました。人生何が起きるかわからないし、なんでこうなっているかわからないし、他者が何を考えているかもよくわからないけど、それでもまあ、やっていくしかないじゃないという感覚は、意外と心地よい読後感でした。
『悪い血』
ずばりの「呼称」が出てきて、びっくりしました。でも、あれはああ表現するしかないですよね。登場人物の発言なので。これを言い換えたりすると、その人はそんな言葉は使いそうにない、という違和感につながります。カムイ伝で、失明したカムイをかばう村人が使った言葉が差別用語だということで、「相手は目が不自由でねえか」と言い換えられていた事例を思い出しました。江戸時代の人はそんな言葉は使わない。言い換えがいかに作品をダメにするかを考えると、やはりああするのが良かったのでしょう。
幸福を追い求めるのではなく、かといって、意図的に悪いようにしたいわけでもなく、何も選ばないという生き方を選択するという気持ちにはなんだか共感できます。選んだけれども叶わないくらいなら、選んだことを批判されるくらいなら、みたいな。私もよく、内容を確認せずに、日替わり定食を選択します。
『丹心』
比喩が多いわりに、客観的な描写が少なく、誰の行動なのか、誰の発言なのか読み取れないところがありました。何度読み返しても、判然としない(どうとも取れる)ような箇所が複数あり、著者の意図がこちらに伝わりきれていないのはないかというストレスを感じました。ただ、映像化するなら本作です。中国政府の全面的な協力が得られれば、壮大で見せ場の多い映画になりそうです。ただ、共産党が爛尾楼という中国の恥部を認めるわけもなく、そんなものは存在しないと习习は言うかもしれません。
では、また半年後に会いましょう。

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