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勝手に読書感想文。漫画も映画も含みます

カテゴリー: 小説

  • 大正時代のカフェと『巷の雑音』(宇野千代)

    今回は『巷の雑音』です。『脂粉の顔』(過去記事)、『墓をあばく』(過去記事)に続く、宇野千代のたぶん三作目です。

    「たぶん」と書いたのは、宇野千代 – Wikipedia を見ても、ちょっと判然としないからでして。

    「来歴」の項目を見てみると、

    1921年に『時事新報』の懸賞短編小説に『脂粉の顔』が一等当選し、作家デビュー。

    と、一作目は分かりやすいですね。

    「文章がこんなに金になるのか」と驚き、「なんて儲かるんだ、これは書かなきゃいけない!」と執筆活動に専念。『墓を暴く』を中央公論に送ったが、一向に返事がなく、上京したところ、すでに掲載されていたことを知り、その場で原稿料をもらう。

    と、流れがあり、『墓を発く』が二作目っぽいです。ちなみに、引用は本文ママなのですが、『墓を暴く』になっていますね。ウィキペディアー(有志)の方、修正お願いします。

    初期の作品については、「来歴」にはそれ以上の記載はありません。「年譜」の項目には、1921年に『脂粉の顔』が懸賞一等、1922年に『墓を発く』が中央公論に掲載、1923年に短編集『脂粉の顔』が上梓されたことが書かれています。でも、これからだけでは、短編集の収録作品は分からないですね。

    そして、今 私が読んでいるのは、『老女マノン・脂粉の顔 他四篇』 (岩波文庫 緑 222-2)なんですが、嬉しいことに各作品の最後に日付が入っていて、これは脱稿の日付だそうです。書き出してみると、

    『脂粉の顔』   1920年12月
    『墓を発く』   1921年11月22日
    『巷の雑音』   1922年7月5日
    『三千代の嫁入』 1925年1月13日
    『ランプ明るく』 1925年2月26日
    『老女マノン』  1928年5月30日

    となっています。初期の作品は順番に並んでいそうということで、「宇野千代のたぶん三作目」とさせていただきました。(前置き終わり)

    主人公のおきぬは、東京に出てきて、念願のミシンを手に入れ、これで稼ぐぞーと考えていたのですが、ふとしたことで足を怪我して、ミシンが踏めなくなり、ミシン屋にローンを支払えないと判断され、ミシンを取り上げられ、どうやって食べていこうと思っているところに、追い打ちで、田舎から学生の弟が姉を頼ってやってきて、にっちもさっちもいかなくなる、という流れです。

    そこで、カフェー(アクセントは後ろにおいてほしい)が出てきます。大正時代のカフェーは、スタバのような意識の高い場所ではなく、ちょっといかがわしさの漂うところでした。

    以下はお絹が働くことになったお店の描写です。

    カフェ、ローラは都下でも二流と下らない店であったから、夜、九時より遅くまでどあ、、を開いておく事を恥としていた。(それはただ、表看板であった。恥しくて掲げられない看板であった)

    今じゃあまり見ない「二流と下らない」みたいな使い方が難しいですが、つまりは、うちは一流の上品な店だから夜中の営業なんかしないよ、ということでしょうか。ただ、それは表向きの話で、「恥しくて掲げられない看板」のような裏の側面もあった、ということだと解釈しました。

    実情は、

    お蔭で、女給仕たちは比較的早く、家へ帰れるのであった。然し、彼女等には、それから後に、薄暗い世界があった。思い思いの方角へ出掛けて行った。

    お絹自身は、そんな夜の世界には染まらずに、つっぱってやっていこうとしますが、他の女給たちのいやがらせ、品のない客から受けるストレス、多忙な業務(給仕だけでなく、閉店時間帯の片づけや掃除も彼女たちの仕事でした)、睡眠不足などで、徐々に精神的に追い詰められていきます。

    短編集を『脂粉の顔』『墓を発く』『巷の雑音』と読んできましたが、全部重たいです。もたれています。次こそはデザートのような作品を、と期待しながら読み進めていくのでした。

  • 『幸せな家族 そしてその頃はやった唄』の単行本(偕成社)

    私の感想文ルール: 一つ、装丁について書いてもよい

    『幸せな家族』については、BSテレ東の『あの本、読みました?』で知りました。そして、その本、読みました。(実在する『その頃はやった唄』

    『あの本、読みました?』では、以下のように紹介されていて(番組サイトへのリンク)、

    ▼36年前に出版された『幸せな家族 そしてその頃はやった唄』も復刊後、再ブレイク! その意外な理由とは?

    私は、その復刊した文庫版を読んだんですね。文庫版はすっかり大人な感じの、電車で読んでも恥ずかしくないデザインの表紙になっていました。ターゲット層は今の若者ではなく、元ジュブナイルなんだと思います。その頃、読んで戦慄を受けた世代が、懐かしんで読むことを想定した装丁になっているんでしょう。

    元ジュブが現ジュブだった頃に、どんな感じの表紙で、裏表紙のあらすじやあおり、、、文には何が書かれていたのかが気になります。アマゾンでは単行本はヒットしません。これが絶版ってやつなんですね。

    でも、自治体の図書館で探したらありました。絶版本は図書館に限りますな。

    表紙はこんな感じ。

    厚みはこんな感じ。

    主人公(語り手)の省一と、物語で特に重要な役割を果たすお姉さんの一美でしょうか。お兄さんの行一ってことはないですよね。そういえば、みんな「一」がつきますね。お父さんの勇一郎からとったのでしょうか。まあ、みんな死んじゃうんですけど。

    表紙は特に子供向けという感じはしないですね。ただ、表紙の裏には

    本格派ほんかくは長編ちょうへんミステリー、ついに登場とうじょう

    と、ルビ付きで書かれているあたりが、ジュブチックです。

    あと、挿絵は文庫版と同じです。挿絵っていいですね。好きです。変に大人ぶらないで、挿絵ばんばん入れてほしいです。

    意外だったのは、楽譜も載ってた点でした。『百年の孤独』の家系図みたいに文庫化にあたって足したものだと思ってました。青少年たちはリコーダーで吹いたりしたのかもしれません。

    偕成社かいせいしゃは主に児童書を出版している会社で、『幸せな家族』も「K.ノベルズ」というシリーズの1つのようです。巻末にK.ノベルズの広告ページがあり、そのキャッチコピーがいかしてました。

    「マンガが一番おもしろい」と言っている吉田君に読ませたい

    誰でしょうか? 吉田といえば、茂か拓郎か照美か牛の吉田君などが思い浮かびますが、どれでもなさそうです。

  • 宇野千代の二作目『墓を発く』

    物騒なタイトルです。『墓をあばく』と読みます。

    主人公は「若い女教員の吉子」、前半は主に学校に関連する出来事がメインで、後半は吉子の家族や出自が(そして誰の墓なのかなどが)明らかになっていく展開です。

    幸せな人の充実した人生を描く爽やかな読後感の小説とか、憎めないような良い人ばかりが出てくる落語とかいろいろありますが、その真逆を行くような小説ですね。

    登場人物は、虐げられている人、そうでなければそれを虐げている側のこずるい、、、、人のどちらかという感じ。

    学校の入り口が騒がしいので吉子が行ってみると「唖の久太」が学校に来るのを止めようとしている父親がいます。久太は話すことができないが、授業の邪魔になるようなこともなく、本人も朝一番に登校するほどの学校好きです。でも、勉強はできなくて「三年間を通して同一学年にいた」という状況。

    吉子は、久太を止めようとしている父親の行動をいぶかって、

    如何どうして河井さんを学校へ寄越さないようになさるんですか?」

    と聞くと、父親は、

    「校長先生がそうお話しなされまいた。(略)今度の試験は大切な場合じゃから、久太が粗相な事でも為出しでかしよると大事になるで、試験が済むまでは学校へ出さんように、とくれぐれもおっしゃられまいた。(略)」

    「試験」というのは、新任の県知事が言い出した、学校を調査するための県下一斉の試験のことで、

    この種の挙行は、新任知事の或る野心、虚栄心、衒気げんきを満足させるに十分であった。が、彼にとっては単なる思付きであり、殆ど気紛れに近いものであったとしても、各小学校長にとっては致命傷を与えるものになるかも知れないのであった。

    というものです。「衒気」とは自分の学識を見せびらかす、てらうような気持ちのことです。だから「衒」という字を使うんですね。難しい言葉を使うなあ。

    トップの思い付きが現場に負担をかける。プレッシャーを感じた現場の長が末端へその負担を伝達していく。増幅させながら。よく見る構造です。

    校長は試験の結果を少しでも良くするために、本来のカリキュラムを変更して、授業内容は、

    読方と算術だけが数える事のできないくらい繰り返された。

    という状況です。テストの対象になりそうな、国語と算数ばっかりの授業を行ったというわけです。でも、そのヤマも外れるんですけどね・・・

    試験対策ばかりの授業で児童たちを疲弊させるだけでは飽き足らず、校長は自ら出向いて、成績の悪い久太に登校させないよう裏工作をしていた。このような人間が出世して校長になるような制度や組織。吉子だけでなく、読者もなんだか悶々としてしまいます。

    この手の理不尽が、他にもいろいろ出てきます。吉子の伯母は文房具店を営んでいるんですが、文房具の売れ行きは教師の一言でがらりと変わります。それに付け込んだ教師が、吉子の叔母に酒代をたかるという構造。

    貧しい児童の家の畑が軍隊の演習でめちゃくちゃにされます。国から補償金が支払われるのですが、それを地主が受け取り、農業を営んでいるその家族には一銭も入りません。搾取する地主、虐げられる小作人。

    前半はそんな社会構造の理不尽に対する吉子の憤りが描かれています。後半に入ると趣きが変わり、吉子の家族に焦点が移ります。不幸に見舞われる子供たち(吉子と異父姉弟)、そしてその元凶となった吉子の母親の行動がどういうものだったのかが、明らかになっていくという展開。

    この『墓を発く』にはちょっと面白いエピソードがあって、『脂粉の顔』のデビュー作に続く二作目にあたる作品なのですが、ウィキペディアによると、

    『墓を暴く』を中央公論に送ったが、一向に返事がなく、上京したところ、すでに掲載されていたことを知り、その場で原稿料をもらう。あまりの大金であったため、その足で実家に戻り、母親に原稿料の一部を渡す。

    掲載するという連絡もせず、本人が出版社に来た時に原稿料(しかも大金)を渡したという、本当だとしたらかなり杜撰な作家・原稿料マネジメントという印象です。

    岩波文庫『老女マノン・脂粉の顔』の巻末の「《解説》宇野千代の生と文学」に該当するエピソードが書かれていましたが、微妙にニュアンスが違います。

    引用箇所に登場する「樗陰」とは、中央公論の編集長を務めていた滝田たきた樗陰ちょいんです。

    千代はその投稿の採否を知りたくて、1922(大正11)年春に上京、樗陰の手から刷り上がったばかりの『中央公論』五月号と多額の原稿料を受け取った。

    ウィキペディアの内容を読んだとき、すでに出版されていたかのように(勝手に)思い浮かべたのですが、掲載することが決まり、印刷が終わって(つまり掲載された)、これから販売というタイミングだったのでしょうか。だとしたら、ありえないエピソードでもなさそうです。とはいえ、掲載が決定したら印刷前に連絡してもよさそうなもんですが。

    とにかく、エピソードとしては面白げなので、朝ドラのストーリーに盛り込まれることに一票です。

    千代が『脂粉の顔』でデビュー後、執筆活動に専念、書き上げた二作目を出版社に送るも、反応がなくやきもき。しびれを切らして上京、出版社で掲載を知り、大金の原稿料も手にする。しかも、そこで出会うのが、その後『中央公論』に立て続けに千代の作品を掲載する編集長の滝田樗陰であるところなんか、ドラマとして映えそうところです。

    連続テレビ小説『ブラッサム』が始まるのいつでしたっけ? 半年後かー。見逃さないようにしなきゃ。

  • ガリヴァー旅行記(巨人国)と偏見の構造

    小人国(リリパット国)に続いて、巨人国(ブロブディンナグ国)です。子供向けの絵本によっては小人国のみという構成のものもありますが、ガリヴァーは小人国から無事イギリスに帰国したあと、

    性分と運命に災いされて、絶えず動き回っていなければ気がすまない私は、帰国して十ヵ月でまたもや故国を飛び出し、1702年六月二十日にダウンズから出帆した。

    (引用は、平井正穂訳の岩波文庫版より)

    ガリヴァーのキャラ設定は、寅さんまたは裸の大将といった感じで、大変な目にあって帰ってきても、すぐにまた航海に出てしまうんですよね。

    航海の途中、水を補給しようと「大きな島だか大陸だか」にロング・ボートで上陸したところ、現れた巨人にびっくりして逃げていく仲間たちに置いてきぼりにされるというスタートです。ブロブディンナグの国民はちゃんとした文明を持っており、進撃の巨人みたいに食べられたりはしないので、ご安心を。

    リリパット国のときにいろいろなものの小ささで驚く話がたくさんあったのと同じような感じで、ブロブディンナグ国では大きさに驚くというエピソードが散りばめられてきます。ただ、単位がインチとかフィートのヤード・ポンド法なので、いまいちピンときません。注釈によると、著者による比率の換算はけっこういいかげんらしいので、あまり気にして読む必要はなさそうです。「それがぁ、すっごい、でかくてぇー」くらいの感覚で読みました。

    興味深かったのは、ブロブディンナグ国からの脱出後に、普通のスケールの人に会ったり、普通のサイズの街に戻った後の感覚のずれですね。

    そのずれはイギリス人との再会である救出の場面から始まっていました。なんやかやありまして、ガリヴァーは木でできた頑丈な箱に入った状態で海に漂うことになります。巨人にとっては持ち運べる箱、ガリヴァーにとっては居住できる一部屋ほどのサイズ感です。

    どうやら船に発見され(ガリヴァーには外がよく見えない)、外から声をかけられたときに、のこぎりで穴をあけて引っぱり出してやるという乗組員に向かって、ガリヴァーは、箱に輪がついているから、それに指でもひっかけて持ち上げてくれ、みたいなことを言います。ガリヴァーが悠々とすごせる大きさの箱が、簡単に持ち上げられるわけはないのですが、巨人の感覚になっているんですね。

    自分の家に戻ってきたときも、元のサイズに戻ったという感じではなく、何もかもが小さく見えるという感覚を味わいます。

    人が小さく見えるので、踏み殺さないようによけるのに苦労するとか(同じ大きさなのでそんな心配はないのだが・・・)。家に入るときも鴨居に頭をぶつけるような気がするとか。奥さんと再会して抱擁するときに、膝より下までしゃがみ込んでしまうとか。

    実は上記の反応って最初よくわからかったんですよね。後遺症には2パターンあって、1つはブロブディンナグにいたときと同じようにしてしまうというもの。大声で話す(ガリヴァーは小さいので大声を出さないと聞こえない)とか、上を見て話す(巨人の顔ははるか上方にあるので)とか。これは分かりやすいですよね。

    もう1つは、見えるものが小さく感じる→そのサイズにあった行動をとってしまう、という多段階の後遺症ですね。目で見えたサイズ感に対応する行動をとるのではなく、感覚のサイズ感に合わせて行動してしまうというもの。

    スウィフトらしく、これも何かの比喩になっているのかもしれません。平凡な出自なのに、何かのきっかけで上流社会の人たちと交わるようになる。その感覚にすっかり馴染んだ結果、自分もその仲間入りができたと錯覚し、平凡な人を見下すようになる。自分は何も変わっていないのに。・・・みたいな。考えすぎでしょうか。

  • 宇野千代のデビュー作『脂粉の顔』と当時のモラル

    数日前(2026年3月30日)に新しい朝ドラの『風、薫る』が始まりました。『明治のナイチンゲール 大関和物語』(田中ひかる著)を原案としているそうで、その本を読んでみようかとも思いましたが、もう始まってしまったこのタイミングではちょっと遅い。先取り先取りでやっていきたいということで、『風、薫る』の次である2026年度後期『ブラッサム』のモデルである作家 宇野千代の作品を読むことにしました。ドラマが始まる頃には、こんな感想文を書いたこともすっかり忘れているかもしれません。

    読んだのは宇野千代のデビュー作『脂粉の顔』(1920年)です。いきなりタイトルに知らない単語が入っています。脱脂粉、、乳の略かもと思ったあなた、全然ちがいます。どうやら、化粧、おしろいのことみたいです。

    主人公のおすみは「カフェの給仕女」であると最初の行に書いてあります。ここで、喫茶店のようなカフェを想像して読み進めてしまうと、イメージが食い違ってきてしまいます。当時の「カフェ」については、ウィキペディアを読むと雰囲気が分かると思います。

    カフェー (風俗営業) – Wikipedia

    カフェーは、日本で20世紀前半に流行した飲食店・風俗営業の一業態。古くは特殊喫茶、社交喫茶という言い方もあった。

    女給という職業は単なるホールスタッフではなく、「接客業」であったということです。ただ、Wikipediaによれば、この接客サービスが露骨になっていったのはもう少し後の時期らしいです。ただ、カフェは喫茶店ではなく、お酒を飲む夜のお店であることは押さえておきたいところ。(そしてこんな喫茶があるから、そうではない普通の喫茶を「純喫茶」と言うんだ、という豆知識までつきます)

    なので、「瑞西スイス人のフバーから」、「突然流暢な日本語で」

    「一体貴女あなたは、一ヶ月に何程なにほどかかります?」

    なんて不躾ぶしつけな言葉が飛んできても、それほど不自然な流れではないことになります。

    これって、例えば大学を出たばかりの今の若者が読んでも分かるんですかね。つまり、一通り学校教育は受けてきていれば、この台詞を見て、この外国人の男性が何を尋ねようとしているのかピンとくるものなのでしょうかね? 学校で教わることはなさそうだとしても、今までに見たドラマとか映画とかで想像つくもんですかね。

    まあ、つまりこの台詞は、

    生活費がどれくらいかを聞いています。

    ・・・なんてことではなく、毎月の給金はいくら払えばいいですか? ということですね。さて、何に対する対価でしょうか? まあ、普通は妾になることへの報酬ですよね。昔は「女を囲う」なんて言葉がありました。常識の変化って怖いですね。

    金銭的に余裕のある男が、正妻がいるにも関わらず、別宅や離れを用意して、金銭を払うことを条件に、そこに別の女性を住まわせるということが、普通に許されていた時代があったんですね。

    近所の人から「あのエロじじい」とは言われるでしょうが、違法でもないし、世間から糾弾されるわけでもないという。そういう時代背景があっての、ハウ マッチ アー ユーであると。

    でも、ちょっと違うのはフバーはお澄を妾にしようというのではなかったところですね。ここがこの短編小説のポイントになるのだと思います。フバーの意図が、正直よく分からないのです。

    お澄はあまり深く考えなかったのか、

    (略)とにかく、まとまった金の六十円は有難い事に違いなかった。(略)さりとてこのままフバーの妾にせられるのでもなさそうだし、何しろ歴然はっきりした条件のない曖昧な境遇に置かれるというだけで遊んで暮らせるのは実にい、と思った。

    くらいの感じで、フバーからの呼び出しに応じます。それは速達で届いた手紙で伝えられた「午後から目黒の大競馬を見物しよう」というものでした。

    なんで目黒に競馬場なんかあるんだ?というかたはWikipediaを見てください。1907年から1933年の間は目黒に競馬場があり、その後、府中の東京競馬場に移転したそうです。

    (ちなみに7ページほどの短い作品で、このあと、どんどんネタバレしていくので、読むつもりのある人は、こんなブログ記事など読む前に、まず作品をお読みください)

    お澄は、フバーと競馬を見に行き、ちょっと嫌な目に合います。まあ、このへんが純文学作品という感じで、すごく劇的なことが起こるわけではないんですよね。大したことではないよう、でも、なんかいやーな気分になるような、考えようによっては、ものすごいトラウマにもなるような、そんな体験なんですよね。

    待ち合わせ場所に行ってみると、フバー以外に「見知らぬ娘」がいるんです。お澄はこの「美しい連れ」に対して、服装や容姿の点で引け目を感じてしまいます。しかもこの3人での行動は終始、その娘のペースで進み、フバーがどういうつもりでお澄を呼んだのかもはっきりしないだけでなく、フバーは途中からお澄を避けるような態度さえ取り始めます。

    翌日、お澄はフバーに電話をかけ、お礼などを伝えるも、気乗りのしない反応をされ、その日の夕方、さっそくフバーから絶交状が届く。

    1日競馬見物に付き合っただけで六十円(大卒の初任給くらいだそうで)を手に入れたものの、

    あるむしゃくしゃしたかすが胸の中へたまって何時いつまでも取れなかった。

    という終わり方をします。

    お澄や前述の娘の年齢については書かれておらず、容姿についてもそれほど詳しくは触れられていません。その娘についてはほとんど情報がありません。でも、お澄よりワンランク上 感があるんですよね。金銭的にも裕福だったり、高い教育を受けていたり、ちやほやと扱われることに慣れているような、そんな感じ。「娘」と表現しているあたりを見ても、年齢もお澄より若いのでしょう。

    お澄はカフェではそれなりの人気があり(書いてないけどそんな気がする)、フバーにも見初められ(たと思い)、六十円という好条件を提示され、いったんは気分が高揚したはずです。競馬場では、その娘からも、フバーからも軽んじられ、いてもいなくても一緒のような態度を取られる。一気に奈落に落とされるような感じでしょうか。しかも、そもそも男性が金銭で女性を自由にするという理不尽な社会情勢もあれば、六十円という微妙な金額の金が、より侮辱された感を醸しだすような気もします。そんな、はした金でいいように扱われる自分、みたいな。

    20代前半の宇野千代が、この『脂粉の顔』を書きあげ、時事新報(日刊の新聞)の懸賞短編小説に一等で当選し、彼女は作家としてデビューする、というスタートになるわけです。

    そして、これが、朝の連続テレビ小説『ブラッサム』の第一話のあらすじです。まあ、嘘なんですが。


    2026年4月12日追記
    新人作家の登竜門と言われていた『中央公論』に掲載されることなった二作目です。その後、立て続けに六作が中央公論に掲載されることになります。
    宇野千代の二作目『墓を発く』

  • 自転車、下北沢、猫町の詩人

    詩はどうも苦手で、ちゃんと読んだことがありません。「詩を読まざる者、おお、なんと悲しい男!」みたいなノリが、ちょっと受け付けなくて・・・。なので、萩原朔太郎のことも、『コージ苑』(相原コージ著)に出てくる変な詩人、自転車が大好きな人(『自転車日記』)、というイメージしかありませんでした。

    でも、『やりすぎ都市伝説 2026春 2時間半SP』(2026年3月22日放送)で、萩原朔太郎の『猫町』という作品が取り上げられていて、ちょっと興味が沸いたのでの、書庫から引っ張り出して(=稲城市立図書館で借りて)きました。

    ちなみに、番組での取り上げ方については、以下に内容がまとめられています。TVerへの誘導が目的のページなんでしょうか。けっこう詳しいです。詳しすぎて、番組を見なくてもよくなってしまうかもしれません。

    「下北沢タイムスリップ事件」続報!パラレルワールドに迷い込んだ可能性も!?:やりすぎ都市伝説 | テレ東・BSテレ東の読んで見て感じるメディア テレ東プラス

    簡単に言うと、「ふだんの散歩区域を歩いてい」て(下北沢あたりらしい)、「ふと知らない横丁を通り抜けた」ら、「道に迷って」しまって、「樹木の多い郊外の屋敷町を、幾度かぐるぐる廻ったあとで、ふと賑やかな往来へ出」ます。その町がきれいなのに感動して、

    かつて私は、こんな情趣の深い町を見たことがなかった。一体こんな町が、東京の何所どこにあったのだろう。

    みたいに思います。でも、その後、

    気が付いて見れば、それは私のよく知ってる、近所のつまらない、ありふれた郊外の町なのである。

    番組では、このあたりを引用して、朔太郎がパラレルワールドに迷い込んだのかも、みたいな話をしていました。

    ただ、借りた文庫本で読んでみると、種明かしがありました。

    そしてこの魔法のような不思議の変化は、単に私が道に迷って、方位を錯覚したことにだけ原因している。いつもは町の南はずれにあるポストが、反対の入り口である北に見えた。いつもは左側にある街路の町家が、逆に右側の方へ移ってしまった。そしてただこの変化が、すべての町を珍しく新しい物に見せたのだった。

    あれ? 今こっちの方角向いていたんだ、みたいな状態のときに、いつもは見ない方向から、知っている場所を見ると、あれ初めて来たところかな? みたいなことありますよね。あー、この道、ここに出るんだー、とか。

    私は駅前にコンビニが2軒あると思っていたら、入り口が2つある、1つのコンビニだったということがあります。おっと、それは違う話でした。

    話を戻します。なのでこの時点では、何かすごい不思議なことが起きたみたいな大袈裟な話というよりは、散歩あるあるみたいな感じです。ただ、このあと「北越地方のKという温泉に滞留していた」ときに、もっとすごい展開になるんですけどね。

    ヒントは「ある動物が出てきます」。きゃー、言っちゃった。

    っていうか、皆さん忘れちゃダメですよ、これ小説ですから。朔太郎が体験した話というわけではないですからね。明治・大正あたりの一人称小説って、著者が普通に作家として登場したり、実際に作家本人に起きたイベントをネタにしていたり、知人の作家が出てきたりして、フィクションなんだか、ノンフィクションなんだか分からないことありますが、『猫町』は朔太郎が書いた数少ない小説とされています。

    ネタバレですが、このあと北越地方のKでは、ある動物の「大集団がうようよと歩いているのだ」的なシーンが出てきます。きっと、幻想的あるいは怪奇的な感じを演出していると思うのですが、私の脳内では『ねこねこ日本史』とか『にゃんこ大戦争』が浮かび上がってきて、文学を鑑賞する邪魔をします。

    えーと、何の話でしたっけ。あ、そうだ、これ言っとかなきゃ。

    信じるか信じないかはあなた次第です(ビシッ)

  • 実在する『その頃はやった唄』

    読んだのは『幸せな家族 – そしてその頃はやった唄』(鈴木悦夫 著)です。読んでみて、「何だこれは?」と思うわけです。児童文学のカテゴリに入れられているようですが、いわゆる児童文学っぽさがないんですよね。児童文学といっても幅があると思いますが、ティーンエイジャーくらいが想定読者なのでしょうか。裏表紙の言葉を借りれば「ジュヴナイル・ミステリ」、図書館や書店などの分類でいうと「YA」(ヤングアダルト)という分類になると思います。

    はたから見ると幸せそうに見える家族が次々に死んでいき、小学6年生の次男のみが残ります。これはネタバレでもなんでもなく、プロローグの一番最初にこう書かれています。

    とうとうぼくはひとりになった。

    この一年のあいだに、ぼくの家族はぽつりぽつりと死んで、最後に、ぼくひとりがのこった。

    これが、青少年向け?という始まり方です。(終わり方はもっとすごいけど)

    私自身はいい歳ですが、最近いくつかYA向けの小説を読みました。読んだのは『杉森くんを殺すには』(長谷川まりる 著)、『THE MANZAI』(あさのあつこ著)、『カラフル』(森絵都 著)など。

    ある程度平易に書かれているという点もありますが、これらには子供や若者へのメッセージ性がありました。「いろいろあるけど、がんばれよ」みたいな(←雑な大人のまとめかた)。青春のきらきらした感じ、ちょっとしたことに悩みすぎる感じ、若い時に読めば共感できるし、年を取ってから読めばノスタルジックにも楽しめる。あと、はやまるなよ、ってのも大事なメッセージだったり。差別とか偏見がテーマとして盛り込まれていることもありますね。

    で、『幸せな家族』ですよ。「ジュヴナイル」って、ちょっと青春とか初々しさを感じる単語なんですけど、そんなのないですよ。みんな死ぬし。道徳的なもんでもない。

    普通に大人が読んでも楽しめるミステリ(サイコホラー?)だと思います。難しすぎる言葉や、凝りすぎたトリックはないので、子供でも読めるといえば読めるけど、「子供でも読める」「子供でも楽しめる」ようにお話を作りましたっていうのとは、なんか違う。

    もしかしたら、「子供だからこそ楽しめる」「子供にしか楽しめない」という要素もあるのではないかと。小6の主人公の思考はストレートで単純で視野が狭いです。大人から見れば、「子供だなあ」だけど、子供や若者からすれば、それがリアルであると。そう考えると、YA作品は大人向け作品の簡易版などではなく、まさにその層にしか分からない感覚に突き刺さることを目標にしたものなのだろうかと思います。

    じゃあ、大人がそれを楽しめないかというと、また違った面白さが出てくる。何考えているか分からない子供の怖さや不気味さでしょうか。何に価値を置き、何を好み・嫌い、何を恐れるのか、その基準が大人とずれている。楳図かずおの『漂流教室』なんかも、そこでぐっとつかまれるでしょ。子供から見た大人の描かれ方。常識でものを捉えようとしたり、卑怯なことを考えたり、現実に耐えられなくて発狂したり。

    『幸せな家族』に話を戻しますと、本編以外の部分もけっこう興味深く読めました。

    「その頃はやった唄」は実在するというのは驚きでした。小説のための架空の歌ではありません。あとがきに、詩人の山本太郎氏の詩集『覇王紀』に収められていること、これに俳優の西村正平氏の発案で、作曲家の越部信義氏が曲をつけた、ということが書かれていました。文庫版には楽譜も載っています。

    あと、『幸せな家族』は『鬼ヶ島通信』という同人誌に六年間にわたって連載されていたものである、とか。

    著者の鈴木悦夫氏は、「祭りの日」という作品で第二回日本児童文学者協会新人賞を受賞したが、この作品が収録された単行本『もうちょっとで大人』が出版されたのは、受賞から17年も経ったあとだった、とか。「売れない」と出版社に判断されてしまったのでしょうか。事情は分かりませんが。

    鈴木悦夫氏の人となりや、作品に関するエピソードは、文庫版に収録されている、著者による「あとがき」、「鈴木悦夫が遺したものとは?――追悼・鈴木悦夫」(野上暁)、「解説」(松井和翠)をご参照ください。けっこう尖ったかただったみたいで・・・

    そうだ、思い出した。テレビCMのディレクターや撮影班が事件後もけっこう長く、この家庭に残ることになるんです。殺人なんかおきてCMが撮れなくなったんだったら、普通はすぐにいなくなりますよね。この家族を心配してとかなんとか、という理由は分かりますが、いかにもお話を作るための設定だなーとか思っていたけど、私はこのあたりが一番ゾッとしました。


    2026年4月16日追記
    オリジナル版(単行本)の表紙が見たくて、図書館で借りてきました。
    『幸せな家族 そしてその頃はやった唄』の単行本(偕成社)

  • ガリヴァー旅行記(リリパット国渡航記)と教義の対立

    ガリヴァー旅行記』(ジョナサン・スウィフト著)のごく一部、リリパット国渡航記だけの感想文です。

    子供の頃に読んだガリバー旅行記(昔は「ヴァー」なんてタイトルではなかった)といえば、小人国にたどりついた巨大なガリバーが地面に縛り付けられた挿絵が思い浮かびます。髪の毛が細い束にされて、それぞれが杭につながれた絵を見て、「さすが小人、仕事が細かい」と思った記憶があります。

    子供向けのガリバーの本といえば、小人国(リリパット国)だけか、小人国と巨人国(ブロブディンナグ国)という構成だったように記憶しています。滞在した国の人間がすごく小さかったり、すごく大きかったりして、そこから生まれるエピソードというのは子供にもキャッチーですよね。「悲報! 宮殿放尿消火事件」とかね。(注:原作とは異なります)

    ガリバー旅行記の原作が子供向けのものではなく、むしろ大人でも理解が難しい風刺に満ちたものであることは、有名ですよね。どこかで聞いたことがあるでしょう? えっ、ない? じゃあ、「クルマ買い取り No.1」というのは? それはある、と。はい、今回はその話ではありません。

    リリパット国はブレフスキュ国(それぞれイギリスとフランスに対応)と戦争状態なのですが、戦争の原因の一つに「教義」があります。

    この皇帝も、ブレフスキュ帝国の全土を併呑して属領にし、総督を派して統治する、卵を大きな方の端で割るといって亡命した連中を抹殺する、全人民が卵を小さな方の端で割ることを強制する、――こうすることによって自分は全世界の唯一の帝王として安泰を誇る、ということ以外には何も眼中にはないらしかったのだ。

    なんで卵の話が? と思われるかもしれませんが、卵をどちらの側から割るのかというのが、2つの小人国の間での「教義」の対立なんですね。カトリックとプロテスタントの教義争いを、あえてこのようなどうでもいい卵の話と対比しています。

    大きな方の端で割る人をビッグエンディアン、小さな方の端で割る人をリトルエンディアンというのですが、これがコンピューターで複数バイトを扱うときの並びの規則(ハードウェアのアーキテクチャによって異なる。どちらが良いというタイプのものでもない)の語源になっていたりもします。

    ガリバー旅行記はいろいろなものの元ネタになっていますよね。人間のような野蛮な動物のヤフーも、あのYahoo!の由来(の一つ)みたいです。ラピュタも出てくるしね。

    芥川龍之介の『河童』のモチーフになっている話も有名ですよね。この話だと『フウイヌム国渡航記』のほうが語られることが多いと思いますが、『リリパット国渡航記』のほうにも、その片鱗があります。

    そんなわけで、子供が自分を生んでくれた父親や育ててくれた母親に対して、何も恩義を感じなければならぬいわれはない。人生はただでさえ悲しいことで一杯なのだ、生まれてくることなどそれ自体何も有難いことではないし、(略)

    なので、子供の教育に関して国がしっかり管理する、みたいなリリパット国の制度の話につながります。

    芥川の『河童』だと(青空文庫より)

    その代りに人間から見れば、実際又河童のお産位、可笑しいものはありません。現に僕は暫くたつてから、バツグの細君のお産をする所をバツグの小屋へ見物に行きました。
    (略)
    けれどもお産をするとなると、父親は電話でもかけるやうに母親の生殖器に口をつけ、「お前はこの世界へ生れて来るかどうか、よく考へた上で返事をしろ。」と大きな声で尋ねるのです。

    で、中から子供が答えます。

    「僕は生れたくはありません。第一僕のお父さんの遺伝は精神病だけでも大へんです。その上僕は河童的存在を悪いと信じてゐますから。」

    親の都合で生まれてくること、生まれたところで人生は困難だらけ、のように悲観的な捉え方をするあたりに共通点があります。

    第一篇のリリパット国渡航記、第二篇のブロブディンナグ国渡航記に関していうと、こんなに小さい、こんなに大きいみたいな話が(ちょっと飽きるくらい)いろいろでてきて、そこばかり目が行きがちですが、実は、ちょっとした制度、政治の仕組、国民の信条などにスウィフトの考え方が表れているような気がします。そういう観点で読んでみると、子供の頃に読んだのとは違う発見があるのではないかと思います。

    ちなみに、リリパット国の政治の世界では、出世するために、綱渡り(比喩ではなく)をしたり、王様が動かす棒を飛び越えたり、くぐり抜けたりする登用試験があるのですが、これは何を比喩しているんでしょうねえ。


    2026年4月9日追記
    小人国の次は巨人国(ブロブディンナグ国)に向かいます。
    ガリヴァー旅行記(巨人国)と偏見の構造

  • 森絵都『カラフル』

    森絵都さんの『カラフル』読みました。森さんは児童文学の賞をたくさん受賞されているかたで、この『カラフル』もカテゴリ的には児童文学みたいです。

    「みたいです」と書いたのは、もう境目が分からないというか、文庫本版で読んだのですが、装丁も児童向けという感じはないし、挿絵があるわけでもないし、ルビが若干多めかなという程度。

    内容がほんわかしているかというと、そうでもない。母親の不倫、中学3年の同級生の女子の援助交際。主人公の「魂」が間借りする肉体は中3の男子の小林真君なのですが、彼は三日前に服薬自殺をはかり危篤状態。まもなく死んで魂が抜けたところに、主人公が入り込むという設定。

    最後の設定はちょっとファンタジーっぽいですが、それなりに重い要素が詰まっています。児童書でもこんなテーマを扱うんですね。でも、語り口は軽めな感じです。不倫や援交の生々しさはありません。

    あと、イヤミスみたいなことにはならないので、安心して読めます。読後の青少年を路頭に迷わせないという点は、児童文学の守るべき一線なのかもしれません。

    他人の言動の一側面を見て、その人の考え方や生き方を理解したような気になってはいけない、という著者のメッセージだと解釈しました。それは自分がどういう人間であるかについても同様です。ましてや、早とちりなどせぬよう、ということです。

    さすがに『ズッコケ三人組』を(おっさんが)電車で読むのは恥ずかしいですが、『カラフル』の文庫本なら堂々と読めますので、漢字や難しい言い回しが多い本に疲れたら、たまには児童文学もいかがでしょうか。

  • 塩田武士著『踊りつかれて』の感想文

    社会性のある小説とエンタメ小説が両立するんだなあという印象です。『踊りつかれて』(塩田武士 著)の内容を全く知らない状態で、この記事を読むことになる人は皆無だろうと思い、amazonの商品紹介に書いてあるような内容は省略します。これ読むだけで、ぐっと引き付けられます。

    「宣戦布告」によって個人情報を晒された「被害者(兼加害者)」、彼らの個人情報を晒した「被告人(兼被害者)」がどうなっていくのか、何が正しいことなのか、ということは、まず最初に興味が湧くところで、私がこの本を読みたいと思ったのも、そこがきっかけです。予約待ちが長かったために(『踊りつかれて』の前に『罪の声』)、期待はかなり高まっておりました。

    平穏な暮らしをしていた「一般人」が、過去の軽はずみな言動によって、加害者から被害者に立場が逆転する。自分が安全圏からやらかしていたことの重大さを思い知らされ、そして新たな生贄である彼らを攻撃する、さらなる加害者の登場。

    ネットによる情報の発信、受信、便乗がどんな結果をもたらすか。SNSを使い始める前の教科書にしてもいいくらい。読んでて重たい気分になるのは、小説の中の出来事が全くの空想から生まれたものではなく、現実で起きてもおかしくないこと、すでに起きていることなのではないか、そのような現状に対する著者のメッセージがひしひしと伝わってくるからです。

    巻末に列挙されている参考文献を見れば、この小説がノンフィクションをベースにしたフィクションであることが分かるでしょう。

    小説内では違う名前になっていますが、「ザ・ベストテン」「夜のヒットスタジオ」世代の人にとっては、そうそう、こんな感じだったとか、そんな裏側があったのか、などとちょっと違った楽しみ方もできます。もちろん、フィクションとノンフィクションの境目は意識しなきゃいけませんが。

    あと、『FOCUS』『FRIDAY』『FLASH』など写真週刊誌の全盛期の時代感覚とか。今の常識では信じられないようなことがまかり通っていました。当時のことを知らない人は 写真週刊誌 – Wikipedia を読んでみてください。自殺したタレントの遺体の写真を載せた出版社もありました。感覚がおかしくなっていたんでしょうか。さすがに、それはナシだろうって世の中の流れもあったけど、出版社が過当競争で舞い上がってしまうほど、写真週刊誌は売れていたし、当初は読者も「一般人」の権利だと考え、それを楽しんでいたんですよね。

    ネットが出てきて人が邪悪になったんじゃなくて、昔からだったんですよ。大っぴらにならなかっただけで。ネットによって、いろんな面が見えやすくなった。あと、簡単に引き金を引けるようになってしまった。こんなにも簡単に人を罵ることができるようになるとは。でも、そのような現状を憂う「正しい人」のような顔もできなくなってしまいます。この本を読めば。

    小説中で、被告人は告訴人(捏造情報をばらまいていた人)を強く断罪するわけではなく、何があったのかを感情を抑えて丁寧に伝えようとします。インターネットを介した情報被害について、どのような手段があるか問われたときのやりとりですが、自戒の意味を込めて、そこを引用して終わります。

    情報の正確性、表現が過剰でないかなどを意識してブレーキを踏んでほしいという内容を伝えたあとに、こう語ります。

    「既に炎上している事柄に便乗しそうになったときにも、ブレーキは必要です。『憂晴うさばらしに人を利用していないか』『追い込まれる実在の人間を想像できているか』と自問してほしい」