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勝手に読書感想文。漫画も映画も含みます

カテゴリー: 小説

  • 『夜明けの縁をさ迷う人々』

    小川洋子さんの作品を読むのは、『サイレントシンガー』に続いて二作目です。この『夜明けの縁をさ迷う人々』には9つの短編が収められています。全体的に不思議な空気が流れています。リアリティとファンタジーの境目が溶け合っている感じです。この感覚を何と呼べばいいのか、ちょうどいい表現を私は知りません。

    村田喜代子さんによる巻末の解説に、

    名前を与えられない人間たち。あだ名や、職業、頭文字だけの人物が物語の「状況」を引っ張って行くのである。

    とあって、やっぱり名前をつけていないところは、小川洋子さんの一つの特色なんだなあと再確認。『サイレントシンガー』でもそうでした。

    そういえば、桃太郎に出てくるのは「おじいさん」と「おばあさん」で、よく考えてみると「桃太郎」ってのも名前じゃなくてニックネームでしょ、って気もする。竹取物語の「竹取の翁」って職業だし、おとぎ話には個人の固有名詞は必要ないのかもしれない。星新一は「エヌ氏」をよく使っていたし、カフカの『城』の主人公は「K」だったし。

    忘れないように、そして忘れてもすぐに思い出せるように、各作品の印象を書いておきます。


    『曲芸と野球』

    今思うと、一番普通なのかも。超常現象的なことは起きません。でも、「曲芸師」という存在自体がちょっと非日常的なものを醸し出しています。

    もしかしたら他の子たちには、あの曲芸師さんが見えていないんじゃないだろうか、と思うこともあった。

    というくらい、主人公の野球少年以外は曲芸師の存在に気を留めません。

    華やかな場所で注目を集めることもあるであろう曲芸師は、他の人から注目を集めなくなったとたん、消えてなくなる存在であるかのような、そんな危うさを秘めています。少年が曲芸師の「その後」の話を聞くのも、単に噂話を通じてにしかすぎません。

    カフカの『断食芸人』で、断食を続ける芸人のことを誰も気にしなくなっていき、その生死にさえ注意を払われなくなっていったことを思い出しました。別にどこが似ているとかではなく、ただ思い出しました。


    『教授宅の留守番』

    ミステリーっぽい終焉が待っていますが、きっとそこは「おまけ」で、私としては途中の、食べっぷりと、祝いの品の届きっぷりと、部屋が埋め尽くされていくさまが、なんだかイリュージョンでコメディで、ガルシア=マルケスの『百年の孤独』を思い出しました。全然短いし、全然似てないけど。


    『イービーのかなわぬ望み』

    イービーとはエレベーターボーイのE.B.です。訳あって、エレベーターでのお産で誕生するあたりまでは、ありそうな気もしないですが、エレベーターサイズに合うように成長が止まったり、エレベーターの中で生活しだしたりすると、ファンタジーが加速していきます。エレベーターが取り壊されるようなことになれば、きっとイービーは・・・。


    『お探しの物件』

    物件は人が設計し、作って、住んだもの。その住人と家とはかかわりが深いものです。かかわりが深すぎると、それは絆のようになり、呪いのようにもなり。不動産業者の人から家をすすめられているだけの話なのですが、そこに自分が住んだらどうなるだろうか、なんて勝手な想像をすると、それは素敵なもののようでもあり、ホラーのようでもあり。


    『涙売り』

    主人公は「涙売り」という現実離れした職業です。その涙を楽器にかけると、音色がよくなるという設定もさることながら、「一切の道具を使わず、自らの身体のみを使い、音を奏でる人々」である「人体楽団」に、この涙売りが出合うあたりから、悲しい恋の話なのか、ボケ倒しているシュールコントなのか分からなくなります。「関節カスタネット」って・・・


    『パラソルチョコレート』

    主人公の女の子が忘れ物をし、急遽家に帰ると、見ず知らずの老人がいて、

    「(略)お嬢ちゃんとワシは、本当は会ってはならぬ関係なのだよ」

    「(略)つまり、ワシは、お嬢ちゃんが存在していない場所の住人なのだ。お嬢ちゃんの裏側に生きておる者、とも言える」

    などと言います。幽霊のようでもありますが、生きる・死ぬというよりはあっちとこっちの世界の移住のようなイメージです。もう一つの世界があって、対になる存在がいる、みたいなモチーフは割とよくみかけますが、その設定にどう物語が絡められるのかが面白いところですね。小田扉『ぐるぐるゴロー』に収録されていた『見聞録』を思い出しました。別に似てないですが。

    なぜ、ベビーシッターさんはチェスをするのか、書斎に入るなというのか。何か知っているようでもあり、そうでもないような感じもして。


    『ラ・ヴェール嬢』

    お、固有の人名かと思いきや、アパート名からつけたあだ名です。主人公は出張専門の指圧師(足裏専門?)です。私は最初、この主人公が女性だと思い込んでいて、

    ある時ふと、もしかしたらラ・ヴェール嬢は同じ事をこの僕にも求めているんじゃないだろうか、という疑問を持った。

    というところで、え? 「僕」? 男なの? と思いました。

    ずっと一人称は「私」で、ここで初めて「僕」と一人称が2度ほど使われ、この後も「私」に戻ります。ミスリードまで狙ってないとしても、曖昧にしておく意図はあったのではないかと思います。でも、「僕」と言ったからといって男だとも限りませんが。はるかぜちゃんの例もあるし。(あのちゃんをあげないあたりに、ひとひねり)

    そして、だんだん官能小説になっていきます。でも、ラ・ヴェール嬢というよりはラ・ヴェール婆だったりします。歌舞伎の『勧進帳』を思い出しました。全然・・・


    『銀山の狩猟小屋』

    ある社長が狩猟小屋を売りに出しているという、ありそうな話から始まり、管理人のようでそうではない変な隣人が登場するあたりから、小川ワールドになっていきます。「サンバカツギ」は全然おいしそうじゃないです。


    『再試合』

    再び野球が登場。高校球児を応援する女子の推し活のような話が、どこからかおかしくなり、時間の迷宮をさまよい始めます。『うる星やつら2 ―ビューティフル・ドリーマー』を思い出しました。永遠が持つ恐怖を感じてください。


    こころの琴線に触れる物語を読むと、以前琴線を震わせた体験を想起します。話自体は似てなくても、人間が共通に感じ惹かれる要素の共通点を感じるのではないかと思います。存在しないはずのものへの執着とか、破滅を厭わない情熱とか、もう一つの何かへのあこがれとか、一瞬と永遠の共通点とか。なんか、そんなのがいっぱい入っている気がしました。

  • 40歳の宇野千代と71歳の宇野千代の私小説

    宇野千代のデビュー作を含む短編集を読んだ(過去記事へのリンク)ので、引き続き初期の作品を読もうと思い、宇野千代 – Wikipedia を見てみると、

    著作
    『幸福』(金星堂、1924年)
    『白い家と罪』(新潮社、1925年)
    『晩唱』(現代短篇小説選集』(文芸日本社、1925年)
     ・・・

    どうやら、『幸福』が次に古そうということで、図書館で借りてみると、なんとそれは1972年に出版された別の『幸福』だった(過去記事へのリンク)ということがありました。48年ずれてました。宇野千代のことをいじった小説『葱』の芥川龍之介(過去記事へのリンク)が亡くなったのが35歳だということを思うと、宇野千代のキャリアのなんと長いこと。

    1924年の『幸福』を探すべく、川崎市立図書館のサイトで検索してみたときに、それが収められた全集『宇野千代全集 第1巻(中央公論社)』が所蔵されていることがわかりました。時間がなかったのか、その時は予約せずに、後日予約して、届いた本を見てみると『現代日本文学全集 45 岡本かの子・林芙美子・宇野千代集(筑摩書房)』という別の本でした。再度検索しなおして予約したときに、違う本を選んでしまったようです。宇野千代の全集で古いやつ、というアバウトな覚え方で選択したのが災いしたようです。

    せっかく借りたので、返す前に1つくらい読んでおこうと思い(全集って読み終わる気がしないくらいギチギチに字が詰まっていたりしますよね)、単行本や文庫に入っていなさそうだった『未練』という短編作品を読んでみましたところ・・・、デジャブ?

    前述の1972年の『幸福』に収録されている『この白粉おしろい入れ』に出てくるシーンとそっくりな箇所がありました。

    該当箇所は、『未練』(1936年:宇野千代は40歳)の3章と4章(長さ的には「節」くらいだけど、最上位の階層だったので「章」と呼んでおきます)、「新吉」のモデルは画家の東郷青児、「加代子」のモデルは宇野千代です。

    それに対応するのは、『この白粉入れ』(1967年:宇野千代は71歳)の7章で、東郷青児は「あの人」として、宇野千代は「私」として登場します。

    使っている言葉や言い回しはかなり相違がありますが、ストーリーを構成する部品がほぼ同じです。

    加代子(私)は、新吉(あの人)の絵を売るために、一人で大阪のホテルに長期滞在しています。そこで絵を買ってくれる男性と恋愛関係になります。そこに、新吉(あの人)から、急に大阪に来るとの電報を受取り、あせります。

    「ゴゴ六ジ、ウメダツク、シンキチ、」 ―『未練』

    「ゴゴ四ジツク。ソチラデマテ」 ―『この白粉入れ』

    慌てて、大阪の男の痕跡を消したりして、新吉(あの人)と会うのですが、うまく嘘をつけず、いろいろと口走ってしまいます。

    「八号が五枚売れたわ。」そう言ってから、加代子はしまったと思った。「誰が買ったんだ?」 ―『未練』

    「昨日一ぺんに四枚売れたのよ。(略)」「何をする男だ。」 ―『この白粉入れ』

    新吉(あの人)は何か感づきつつも、二人は神戸の画廊を訪ねたあとに、食事に行きます。

    国道へ出た自動車の中で、新吉の顔は見えなかった。神戸の画商に預けてある画の売れ具合を訊きがてら、南京街で志那飯を喰おうというのだった。 ―『未練』

    しばらく経ってから唐突に、「神戸で飯を食おう、」と言って歩き出しました。神戸にもあの人の絵の預けてある画廊があったのです。私たちは車で神戸まで行きました。 ―『この白粉入れ』

    その後、新吉(あの人)は、加代子(私)に靴を買います。

    いま画商で受取ったばかりの新しい紙幣を加代子に渡して、靴を買わせた。 ―『未練』

    そして、画廊で金を受取ると、あの人は途中でショーウィンドウを見て、私のために新しい靴を買いました。 ―『この白粉入れ』

    新吉(あの人)は、加代子(私)の話に男の影を感じたせいか、機嫌が悪くなり、黙ったまま、長い距離を歩くことになり、

    「ねえ、」(略)「あたし、足が痛いのよ、」 ―「未練」

    「ねえ、お願い。あたし、もう歩けないわ。靴が痛いのよ」 ―『この白粉入れ』

    加代子(私)が滞在しているホテルにつくと、新吉(あの人)は不貞の証拠を見つけようと、フロントで帳簿をめくって、男の名前を見つけようとします。

    田邊加代子と書いた乱暴な男文字のところまで来ると、ぴたりと眼を据えて、しばらくじっと動かなかった。 ―『未練』

    私の筆跡ではなく、確かに男の手だと分かるその人の筆跡で、大きく、乱暴に書いてありました。(略)一分間くらい、あの人は帳簿を持ったままでいました。 ―『この白粉入れ』

    二人がぎくしゃくしているときに電報が届き、新吉(あの人)は急遽東京に戻ることになり、その前にビジネスの話をします。

    「あと、画は何枚ある?」(略)
    「十二号と四号の風景が三枚」とうとう新吉が口を利いたという歓びは、(略)「君は二三日残って、出来次第、電報で連絡をとってくれ。」 ―『未練』

    「おい、あと絵は何枚ある。」「六枚あるわ。」「明日にでも売れるね。売れたら電報為替にするんだ。」 ―『この白粉入れ』

    他人の小説だったら盗作だとか言われそうなくらい似てますが、本人の48年前の作品ですからね。編集者が慌てて、「先生、それ、もう書いてますよ!」と、ならないのは、私小説だからでしょうか。自分の体験をベースに脚色を加えて作品にしているということになると、1つの体験に別の味付けをして、異なるの作品を作り出すということもあるのでしょう。

    高齢の大御所になると、「あ、またこの話書いてる」ってことに編集者が気づくことが、ままあるけど、誰もつっこめないし、出版側も大して気にしてない、なんて話を聞いた記憶があります。でも、誰がどこでしていた話かも覚えていないくらいなので、話半分で。

    この二作については、『未練』が出来事からあまり時間が経っていない頃のスナップショット、『この白粉入れ』はもっと長期間にわたる回想という形ですから、全体の構成で言うと全然ちがう構成になっています。

    そういえば、『この白粉入れ』には、同じ短編集に収録されている『行く』という掌編のエピソード(千代と同居していた青児の子供と30年ぶりに再会する)も含まれていました。

    短めの作品で扱ったエピソードを再利用して、別の長めの作品の部品にして、全体を再構成するというやり方は、宇野千代がよく使う方法なのかもしれません。

  • 日記は究極の信頼できない語り手 谷崎潤一郎『鍵』

    前回(死期を早めてあげるための介護とは?『スクラップ・アンド・ビルド』)からの続きです。簡単に書くと、BSテレ東の「あの本、読みました?」で、作家の羽田圭介さんが谷崎潤一郎を紹介していたので(実は読みやすい&短い!?谷崎潤一郎作品を羽田圭介が熱弁解説)、まずは羽田さんの『スクラップ・アンド・ビルド』を読み終わりまして、感想文も書きまして、今回やっと羽田さんがおすすめしていた谷崎潤一郎の『鍵』を読みました。

    番組中では「短くて読みやすい」作品として紹介されていました。168ページとのことでしたが、私の手元の番組と同じ新潮文庫版では、本文が書かれているのはP8~P173なので166ページ(引いたあとに1足すのを忘れずに)です。この2ページのズレは何でしょうか。タイトルページを入れると167ページになりますが、あと1ページ足りません。最終ページの裏側(白紙)を足せば168ページとなり数は合いますが、そんな数え方をするのでしょうか? と思って、検索してみると、出版業界? 印刷業界? 界隈ではそういう数え方をするようです。勉強になりました。どうでもいい話で10行近く使いました。

    168ページというと、私の中では「ちょっと長い短編」くらいの感じなのですが、ウィキペディアには

    『鍵』(かぎ)は、谷崎潤一郎の長編小説。

    と書かれていて、ジャンルも「長編小説」となっています。「ちょっと短い長編小説」ということでしょうか。「素敵な粗品」みたいなもんでしょうか。でも、普通の小説のように台詞の掛け合いによる改行がないので、字はぎっしり詰まっている感じがします。分量から言って、長編ということで。

    168ページなので短いというのはいいとして、「読みやすい」には物言いです。夫と妻の日記が交互に繰り返されるのですが、夫の日記は漢字カタカナまじりで書かれています。ツマリ、夫ノ日記ハ漢字カタカナマジリデ書カレテイマス。読みにくいです。でも、その読みにくくさが、最終的に快感に変わるのかもしれません。谷崎なので。

    本文は、夫と妻の日記のみです。ナレーションみたいな語り手とか、風景の描写とかそういうのはありません。交換日記というわけではなく、それぞれ別の日記です。家に置いているので、相手にこっそり読まれている可能性もありますが、それもはっきりしません。

    夫は50代、妻は40代、娘が一人という家族構成で、ここに娘の結婚相手にどうかと親は思っているけど、娘はあまり乗り気ではないという男「木村」が加わり、この4人が主な登場人物です。

    ストレートに書くと大人サイトだとグーグルに判断されたりして、ただでさえ低い検索順位が、さらに低くなりそうなので、なるべく遠回しに書きます。夫は夜になると最近ちょっと元気がなくて、でも妻は旺盛なので、なかなかサティスファイさせることができません。夫は嫉妬をするとエンジンがかかる(エンジンにはピストンがつきもの)タイプで、木村と妻が怪しいんじゃないか思うほど、パフォーマンスがあがってタスクを完遂できるという、ちょっと普通でないタイプなのです。

    で、そのことを日記に書きます。妻が盗み見をしているという想定で書きますが、本当に盗み見ているかは不明です。また、盗み見をしている想定で書いている、ということも日記に書いてます。

    妻は最近日記をつけはじめたのですが、これも途中から夫に盗み見られている可能性について、日記に言及するようになります。夫は自分が夫の日記を盗み見していると思っているようだが、そんなことはない、ということを日記の上で力説し、それが夫に盗み読まれることを想定しています。

    双方が盗み見ていれば、口ではいいにくいことをお互いの日記に書いて相手に知らせる交換日記のように機能しそうですが、相手が見ているかどうかは判然としないまま、物語が進んでいきます。

    夫が自分の性癖を日記に書く、盗み見た妻は、木村との関係をほのめかすことにより夫を嫉妬させ、嫉妬はブースター(発射だけにね)となり結果的に満足を得る。妻を満足させることは夫の希望であるので、妻は不倫のふり(あるいは本当に・・・)をすることで、主人の意に忠実な妻である、みたいな構図が成り立ちますが、各人の動機が本当にそうなのかははっきりしないのです。

    このような誰がどういうつもりで何をしているかが分からないような小説にするための仕掛けとして、日記という形式がとてもうまく機能しています。

    あるタイプの小説は、登場人物Aの心情も登場人物Bの心情も語るような神様のような視点の語り手がいたりしますよね。ここで語られる内容は通常は真実として扱われます。

    「夫は妻の日記を読むようなことはしなかった。」と台詞ではなく、地の文で出てきたら、そうだということになります。

    「『俺は君の日記を読むようなことはしないよ』」という台詞が出てきたのなら、それは嘘かもしれません。

    一人称の小説で、「私は妻の日記を読むようなことはしなかった。」という形で地の文で出てきたらどうでしょうか。これは真実だと考えるのが自然でしょう。誰かに聞かせているわけではない心情に嘘が入ると、話がややこしくなります。認識の違いとか、あやふやな記憶みたいな形でひっくり返すこともできますが、通常は本当のことしか語りません。

    で、日記はどうでしょうか。日記に嘘を書くという現象はありえないことではないです。そこに、相手の盗み見を想定すると、嘘を入れる動機も十分に存在することになります。つまり『鍵』に出てくる日記に書かれていることは、どこまで真実なのかが最後まで分からない、という構造になっています。

    中盤になってくると、日記に以前こう書いたが、実はそれは嘘で、本当はこうだった、みたいなのも出てきます。でも、それも日記に書かれているので、それが本当だという保証もありません。

    ただ、日記に書かれている内容が真実度を増すこともあります。盗み読まれる可能性がなくなれば、嘘を書く動機はなくなります。そして後半、そうなります。じゃあ、盗み読む人はもういないのか? いえ、最後まで日記を盗み読みしている人はいなくなりません。そう、それは・・・・・・おまえだっ!(もうすぐ稲川淳二の季節ですね)

    つまり、それは読者ということだったりします。

  • 死期を早めてあげるための介護とは?『スクラップ・アンド・ビルド』

    BSテレ東の「あの本、読みました?」で、作家の羽田圭介さんが谷崎潤一郎を紹介していまして(実は読みやすい&短い!?谷崎潤一郎作品を羽田圭介が熱弁解説)、なかなか面白そうなので読んでみようと思いました。

    そういえば、羽田さんの本を読んだことがありません。又吉さんの『火花』と同じタイミングだったせいか、メディアも大きめに取り上げていた印象があり、羽田さんの顔ははっきり、くっきりと思い浮かびます。顔立ちのせいのような気もします。たしか、作品(書籍)がプリントされたTシャツを着てテレビに出てたりもしましたよね。本の装丁はある意味アートなので、Tシャツのプリントにするというのは、それほど不自然ではない気もします。でも、「芥川賞受賞」と書かれた帯まで一緒にプリントされていたりします。そして、ウェブで画像検索してみると、羽田氏がカメラ目線でキリっと決めたTシャツ姿の写真がいっぱいでてきます。Tシャツで自身の書籍をアピールしていたのは『スクラップ・アンド・ビルド』だけじゃないんですね。

    羽田さんの本を読んでいないのに、羽田さんの勧める谷崎の本を読むのは、順番がおかしい気がしたので、先に羽田さんの芥川賞受賞作である『スクラップ・アンド・ビルド』を読んでみました。えぇ、あのTシャツの本です。

    通勤の朝の電車で読み始めて、昼ご飯(冷凍お弁当)を食べながら読み、帰りの電車でも読み、数ページ残っていたので、寝る前に読んで、読み終わり、もやもやしながら寝ました。さっき、起きました。

    主人公の健斗は母親と祖父と同居しています。父は死別。前職を退職していて今は求職中で、家にいる時間は長く、祖父の介護を手伝っています。介護といっても、祖父は努力すれば大抵のことは自分でできる程度の要介護度です。娘(健斗の母)から、かなり邪険な扱いを受けています。

    「お母さん、お皿、お願いします」

    食べ終えた皿を祖父が差しだすと、母は舌打ちした。

    「自分で台所まで運ぶって約束でしょ。ったく甘えんじゃないよ、楽ばっかしてると寝たきりになるよ」

    さらに、

    「お母さん、薬ばもう飲んだほうがよかね?」

    薬の入った袋を掲げながら祖父が母に訊ねた。

    「勝手にしなよ、そんなの本当は飲まなくてもいい薬なんだから」

    「すみません。健斗、水くれる?」

    「健斗に甘えるな! 自分でくみに行け!」

    そして、

    「じいちゃんは邪魔やけん部屋に戻っちょこうかね」

    「いちいち宣言しなくていいんだよ糞ジジイが・・・」

    杖をつき暗い廊下へ行く祖父をにらみながら母が言う。

    こうやって、母親の言動を(意図的に)切り抜いてみると、虐待か? という感じもしかねないですが、読んでいると不思議と祖父に対する共感や同情は湧いてきません。まあ、引用しなかった部分に書かれている、祖父の言葉とか生活態度を踏まえると、無理もないという気になってきます。

    祖父は、不眠や寒さ、鈍る思考、体の痛みなどを理由に、早く死にたいということをしきりに口にします。この言葉を真剣にとらえた健斗は祖父の死期を早めてあげるべく、行動を開始します。

    ただ、その手段が興味深いのです。介護職の友人から、

    「人間、骨折して身体を動かさなくなると、身体も頭もあっという間にダメになる。(略)過剰な足し算の介護で動きを奪ってぜんぶいっぺんに弱らせることだ。使わない機能は衰えるから」

    という話を聞き、実行に移します。

    何をやるかというと、かなり熱心に「介護」します。必要なものはさっと用意してあげて、祖父が動かなくもいいようにする。薬や洋服も仕訳けてあげて、頭を使わなくてもよくする、など。はたからみると、ただ単に、優しく介護している人に見えます。こういう点をふまえると、母親のスタンスは被介護者の自立を促す愛情のあるもののようにも見えます。

    苦労すれば歩けるであろう被介護者でも、転ばれたらやっかいなので車いすにのせ、食事も運んでやり、なるべく体を使わせないような介護のやり方を、健斗は嫌悪します。やっていることは同じでも、祖父のために死期を早めるという動機なのか、業務上の効率を追い求める動機なのか、という違いを重要視します。逆に、母親の介護のやり方とはまったく対立しますが、祖父のためを思ってという点では一致しており、むしろ理解を示すという、妙な共感の関係が生じます。

    もし、直木賞受賞作であれば、このあと、えげつない感じで健斗が目的を達成したり、まさかという出来事がきっかけでどんでん返しが起こったり、なんて展開もあるかもしれませんが、そんな流れにはなりません。異常な感じがするのは健斗の思考の中だけで、表面的に起きている事象は、ごく普通の日常のようにストーリーは流れていきます。

    古い建築物を壊して新しいものを作りなおす「スクラップアンドビルド」という言葉が、どうしてこの本のタイトルに使われているのかは読んでのお楽しみ。筋トレしたくなるかも。

  • 向田邦子『思い出トランプ』のイヤ~な気持ちになるところを考察する

    BSよしもと の「第一芸人文芸部 俺の推し本。」という番組(2026年5月8日放送)で、エレガント人生の山井さんが、向田邦子の『思い出トランプ』という本を紹介されてました。(Xのポストへのリンク

    この本って、けっこう昔に出版されてて、私が小学校の低学年くらい時に出たものなんですよね。おまえの歳なんか知らん、という声が聞こえてきそうですが、1980年とかです。なので、40年以上前の本ですね。

    『思い出トランプ』が紹介されていた回の「俺の推し本」の録画を、放送日の翌日に見ました。10年以上前にこの本についてのブログ記事(向田邦子「かわうそ」に出てくる絵画「獺祭図」を求めて)を書いたんですが、まさに同じ日にコメントをもらったたりしたので、何か運命的なものを感じて、図書館で借りて再読してみることにしました。

    いろいろ分かったことがありました。一つは、読んでいなかったということです。どういうことかというと、読んだのではなく、朗読を聞いたのでした。まだAudibleなどは存在しない頃で、朗読が録音されたCDを図書館から借りて聴いたのでした。『かわうそ』『だらだら坂』『大根の月』『花の名前』を聴きました。なので、初めて読む作品も、他にたくさん入っていたんですね。

    あと、直木賞を獲っていたことも知りませんでした。ウィキペディアによると、

    1980年短編連作『花の名前』『かわうそ』『犬小屋』(後に作品集『思い出トランプ』に収録)で直木賞を受賞した。

    直木賞は単行本に対して与えられるものだと思ってましたが、こういうパターンもあるんですね。文芸誌に載った複数の作品に対して授賞した、その後、単行本になった、ということですよね。違う場合は『ダウト』!と言ってください。

    番組中で山井さんは、「イヤ~な気持ちになる短編がすごく多くて」と表現されてました。そのように意識はしてなかったのですが、たしかに微妙にイヤ~になのが多い気がします。

    すごい悪人が出てくるとか、殺されるとか、そんな大げさではない、イヤ~な人、イヤ~な状況、イヤ~な出来事、イヤ~な結末。

    以降、ネタバレ含みます。読んだ人と、イヤ~な気持ちを共有したい。

    『かわうそ』に出てくる妻 厚子は、てきとうなウソを言って、セールスを追い払ったりします。

    歌うような口振りで追い払い、奥にいた宅次を振り返って、目だけで笑ってみせた。面白い女と一緒になった、一生退屈しないだろうと宅次は思ったが、その通りだった。

    と、夫に言わしめるような、ある意味 魅力的な奥さんです。 夫に恨みがあるわけでもないし、出し抜いてやろうと思っているふしもなさげです。でも、ナチュラルに嘘をつき、そこは嘘ついちゃダメでしょって場面でも嘘をつき、夫を苦しめていくんですよね。

    最後は体が丈夫な方が勝ちます。健康は大事だということを思いしらされます。宅次は「一生退屈」することはありませんでした。退屈する前に、「写真機のシャッターがおりるように、庭が急に闇になった。」

    『大根の月』は、妻 英子が事故で6歳の息子の指を包丁で切ってしまう話。この状況が嫌なのはしょうがないとしても、その後の、夫や同居している姑の言動がさらにイヤ~な感じを演出します。

    姑の台詞、

    「子供がはしゃいでいるときや愚図っているときは、あたしは絶対に包丁使ったり天ぷら揚げたりはしなかったわね。だから見てごらんなさいよ。出来合いのおかずばっかりだとか、すぐ店屋もの取るとか悪口いわれたって、こうやって、三十いくつまで傷ひとつ、火傷ひとつなく大きく出来たのよ」

    子供が怪我しなかったなんてのは結果論なのに、この事故をきっかけに鬼の首を取ったように、嫁を責めます。

    姑は働いていたこともあり、子供に手作りのものをあまり食べさせなかったというコンプレックスがひそんでいるのがやっかいです。事故の前は控えめに言っていたのが、事故が起きるや、それ見たことかとマウントを取りに来る。イヤ~。

    英子はその後、パートで働き始めて、歓迎会 兼 忘年会で遅く帰って来る日があります。姑は家の鍵を閉め、ベルを押しても呼んでも出てこずに、英子を締め出します。追い出すのではなく、気づかないふりして、締め出します。あら、気づかなったのよ、なんて言いそうです。イヤ~。

    地味にイヤなのが夫の秀一で、姑に英子が責められていてもフォローもしません。締め出し事件のあと、英子は離婚を前提に別居を始めます。数か月後に秀一と会うことになったときに、「戻ってくれ。たのむ」と言われ、迷います。秀一は謝ってもいないし、反省しているような感じでもありません。そもそも、自分にどんな悪い点があったか気づいてもいないかもしれません。家に帰れば、姑がいます。何も問題は解決していないのに、息子と暮らしたいがために家に帰ることになるのでしょうか。決めかねたまま、物語は終わります。イヤ~。

    次は、『花の名前』。結婚前は、「(花の名前などを)ぼくに教えてください」と、かわいげがある夫だったのが、25年も経つと、関係のあった女の名前を妻に言われても、「それがどうした」という感じでふてぶてしく振る舞う。みたいなのが大きな流れなのですが、私としては、口喧嘩で負けそうになったり、何かを教えてもらったりなど、妻に借りがある状態に耐えられないのか、必ずその夜に布団の中で返そうとしてくる夫。しかも、それを手帖てちょう符牒ふちょうで付けている、というあたりがじわりときます。これはちょっと地味なので、ややイヤ~、ということで。

    『だらだら坂』については、以前読んだとき(いや聴いたとき)とちょっと違う印象を持ちました。中小企業の社長の庄治には、大柄で太めの若い愛人 トミ子がいます。いかにも田舎から出てきたという感じの素朴で控えめなところが気に入っていました。ですが、だんだんと、プチ整形をしたり、化粧をするようになったり、手首が細くなったり、自信がついてきて口数が多くなったり。庄治が魅力だと考えていた部分がどんどんなくなって、離れていくような寂しさ、みたいな印象でした。

    ただ、読み直してみると、前半部がかなり不適切でした。トミ子と知り合ったきっかけは、庄司の会社の事務員の面接を受けに来た、というものでした。トミ子が面接の部屋を出ていくと、面接官たちは、「でか過ぎるよ」、「ありゃ鈍いな。足首見りゃ判るよ」など見た目に関する評価を加えたあと、受け答えも鈍重、学校の成績も良くないし、コネもない、ということであっさり落とします。

    なのに、庄治は名前と連絡先をそっとメモします。細かい経緯は省かれていますが、その後、マンションで囲う愛人という関係になっています。就職できずに困っている娘を、弱みにつけこんで愛人にしたとしか思えません。だいたい、就職面接で得た個人情報を利用しているあたり、完全にアウトです。

    と考えると、この『だらだら坂』に関しては、トミ子が成長して、庄治が作った鳥籠から逃げていく、時代錯誤の社長のおっさんの思惑通りにいかないぞという、むしろイヤ~ではない話なのかもしれません。

  • 向田邦子『かわうそ』に登場する『獺祭図』は架空の絵画

    向田邦子の『思い出トランプ』という短編集に収録されている『かわうそ』という小説に、こんな一節があります。

     学生時代に見た一枚の絵が不意に浮かんで来た。

     あれは梅原だったか劉生だったか。白く濁ったビニール袋をかぶった脳味噌では思い出せないが、構図は覚えている。
     かなり大きい油絵で、画面いっぱいに旧式の牛乳瓶、花、茶碗、ミルクポット、食べかけの果物、パンの切れっぱし、首をしめられてぐったりした鳥が、卓上せましとならんでいた。
     題は「獺祭図だっさいず」である。

    こんなのを読むと、この『獺祭図』がどのようなものであるのか見たくなります。本文中にある「梅原」とは洋画家の梅原龍三郎(1888年 – 1986年)、「劉生」とはこれも洋画家の岸田劉生りゅうせい(1891年 – 1929年)と思われますが、両氏に『獺祭図』なる作品はありません。

    ウェブで検索すると、『獺祭図』という作品を書いた洋画家・版画家として小絲こいと源太郎(1887年 – 1978年)の名前が出てきます。以下は、10年以上前に『現代日本の美術〈7〉岡田三郎助・小糸源太郎 (1975年)』という本を図書館で借りた時に撮った写真です。

    小絲源太郎の『獺祭図』
    小絲源太郎 『獺祭図』 1931年 カンヴァス 油彩 161.7 × 130.0 cm

    「かなり大きい油絵」という点、『獺祭図』というタイトル、卓上に様々なものが並べられている静物画であるという点は一致するのですが、「食べかけの果物」「パンの切れっぱし」「首をしめられてぐったりした鳥」など、一致しないものも多いです。「花」「茶碗」「瓶」らしきものはありますけどね。

    以前このことを書いたブログ記事に、「川端龍子りゅうしの絵のことではないか?」というコメントをもらいましたので、ちょっと調べてみましたが、このような作品でした。

    川端龍子 『獺祭』 1949年

    こちらは、カワウソの習性の「獺祭」を擬人化して描いたもので、小説中の静物画とは関係なさそうです。

    他に検索にヒットするものとしては、久保博孝氏が『獺祭図 -「別離」』、『獺祭図 -「Anne」』、『獺祭図 -「FLORENCE」(RED CROSS)』など「獺祭図」という言葉のつく作品を描かれておりますが、こちらは時代的にまだ新しい作品で、小説中の絵画とは関係なさそうです。

    ここからは推測なのですが、向田邦子が記述したような『獺祭図』という絵画は存在せず、小説を構成するための架空の作品であるように思います。「白く濁ったビニール袋をかぶった脳味噌」というのは、脳卒中の後遺症が残る登場人物の宅次の思考を比喩しています。なので、不確かな記憶がごちゃまぜになっていても不自然ではありません。

    カワウソの習性である「獺祭」(食物としての必要以上に獲物の魚を獲り、並べたりする)と、妻の厚子の性格や行動を重ねて、奥行きを出すための材料としての絵画です。「首をしめられてぐったりした鳥」は必要な要素だったんです。

     宅次は、牛乳瓶のうしろで死んでいる鳥が見えて来た。鳥は目をあいて死んでいたが、あの子は目をつぶっていた。
     星江は、三つで死んだ宅次のひとり娘だった。

    と、この絵を引き合いに出しています。狩猟の獲物の鳥を静物画に取り入れるのはよくやられることなので、静物画のモチーフとして違和感はありません。

    厚子の性格や挙動、カワウソの獺祭という習性、『獺祭図』という絵画、そこに描かれた死んだ鳥、という一連の要素をつないでストーリーを展開させるためのパーツとして、向田邦子はこの架空の絵画を創造した、というのが私の見立てです。

  • 『怪談』(小泉八雲)の子供向け版

    ポプラポケット文庫の『怪談』(著 小泉八雲、訳 山本和夫)を読みました。たぶん朝ドラの『ばけばけ』を見てたからでしょう、妻が図書館から借りてきました。

    子供向けの本は振り仮名がしっかり振ってあるのがいいですね。初出の漢字にはほぼすべて振ってあるし、読みが難しいものは、二度目以降にも振ってありました。いい年した大人なので大抵の漢字は読めますが、この手の話だと、地名とか昔の人名とか出てきて、そういうのは読みが特殊だったりするので、振り仮名があると安心して読めます。

    何度かあったんですよね。大人向けの小説読んでて、読み終わるまで主要人物の名前を読み間違えてることに気づかないとか。心の中でずっと違う読み方で呼んでたみたいな。

    この本、タイトルが『怪談』だったんで、オリジナルの『怪談』を子供向けに翻訳したものかと思ったら、オリジナルとは収録作品が違うんですよね。18編収録されていて、そのうち『怪談』からの収録は、前半の10編だけです。オリジナルの『怪談』は20編あるので、抜粋ですね。

    それ以外については、「約束をはたした話」(=「守られた約束」)、「果心居士の話」、「梅津忠兵衛の話」、「乙吉のだるま」は『日本雑記』から、「茶わんの中」は『骨董』から、「草ヒバリ」は『日本の面影』から、「鳥取のふとん物語」は『知られぬ日本の面影』から、のように複数の著書からのよりぬきとなっています。

    なので、『怪談』の収録作品を全部読みたいという場合には向かないですが、小泉八雲の代表作を読みたいという場合にはちょうどいいのではないかと思います。

    「怪談」と聞くと、学校の怪談とか、稲川淳二とか、本気で怖い系を想像してしまいますが、収録されているのは、怖い話というよりはちょっと奇妙な昔話といった感じです(村上豊さんの挿絵も昔話っぽいテイストだし)。気の毒だったり、可哀そうだったり、不思議だったりはしますが、夜トイレに行けなくなるような怖さではないので、ご安心を。

    「乙吉のだるま」は物語ではなく、焼津に滞在したときの体験談みたいな感じです。滞在のために二階の部屋を貸してくれたのが魚屋の乙吉で、食事も彼に用意してもらっていたみたいです。

    店に目が1つのダルマが飾ってあるのを見て、なぜ1つなのか、そのわけを尋ねるエピソードがあったり、村を去るときに、つけ、、にしていた食事の勘定をきくと驚くほどやすかったりみたいなことが伏線になっていて、去り際にダルマを見ると目が2つになっていたというオチがあったりします。起承転結を盛り込んだエッセイみたいで、なかなか面白く読めました。

  • 宇野千代の短編集『幸福』(1972年)が重たすぎる

    こちらの過去記事を書いたときは、短編集の1作目(表題作の『幸福』)だけを読んだ状態で、最近やっと全部読み終わったので、追加の記事です。

    書籍の情報はアマゾンあたりで見れば、表紙画像や収録作など、けっこうなものが参照できると思っていたのですが、絶版の本は例外ですね。

    この1972年の『幸福』については、アマゾンの商品ページはあるものの、情報が少なくて収録作も分かりません。でも、表紙画像があるのはうれしいところ。わざわざ「1972年」と書いたのは、ウィキペディアが正しければ、同じ『幸福』というタイトルの短編集が1924年に金星堂という出版社から出ているからです。こちらはさすがに古すぎて、検索しても収録作の情報も出てきません。

    なので、1972年のものについては、収録作などを書き留めておこうと思いました。

    巻末の初出一覧です。

    収録作品発表誌一覧

    幸福      新潮  昭和45年4月号
    (第十回女流文学賞受賞作品)

    水の音     新潮  昭和44年8月号

    貞潔      海   昭和44年11月号

    この白粉入れ  新潮  昭和42年1月号

    野火      海   昭和46年2月号

    行く      群像  昭和36年5月号

    いま見るとき  文学界 昭和47年10月号

    では、それぞれメモ。

    『幸福』
     語り手は「一枝」。年齢は「七十をとうに越している」。夫の名前は出てこない。作中では「良人おっと」と記載されている(振り仮名なし)が、若い人はこういう名前かと思ってしまいそう。夫は戦争に行き、帰ってくる。一枝は十一軒目の家に住んでいる。

    『水の音』
     ごく短い作品。「今年の暮で、私は七十二歳になる」。野兎の「ピヨン吉」を飼う話。

    『貞潔』
     妻は「信子」、夫は「哲二」。哲二は画家(モデルはたぶん東郷青児)。絵を売るための苦悩。信子は破産した不倫相手のために、家からあり金全部(小切手)を持ち出す。

    『この白粉入れ』
     他の作品につけられてたふりがなによると、白粉おしろいと読むと思われる。語り手の愛人は「あの人」。新しく建てた家に、語り手は、あの人とその正妻と同居している。正妻の子が「一馬」。あの人は、かつて心中しようとして失敗した別の女性と、その後、結婚する。二人の子が「あけみ」、歌手の卵。語り手の出版記念の会で、あけみに歌ってもらう。
     嘘みたいな「設定」だと思ったのですが、かなり実話がベースになっているようです。(参考:[山口県岩国市]NPO宇野千代生家 宇野千代の人生と文学 二番目に好きだった男
     あの人は東郷青児、妻は盈子、二人の子は たまみ、がモデルになっているらしいです。

    『野火』
     「ハッパ」(発破のこと)の事故で両足を失った人の話を聞き、かつて恋愛関係(ちょっと微妙だが)にあった男も同様の事故に合い、手紙が何度か来たことを思い出す。

    『行く』
     短い作品。『この白粉入れ』に出ていた一馬と同じ設定の「正夫」が訪ねてくる話。『この白粉入れ』にも同様のエピソードがある。『行く』のほうが古いので、この掌編のエピソードをふくらまして『この白粉入れ』に盛り込んだのでしょうか。

    次が最後。

    『いま見るとき』
     妻は「信子」、夫は「(佐伯)啓吉」(モデルはやっぱり東郷青児)、夫の愛人「八重」。信子は二人の関係を知っているが、見逃しているような微妙な状況。すごいシーンあります。信子と啓吉の会話。

    「待って、ここへ八重を連れて来て、」「八重を、八重を連れて来て、どうするんだ。」「あたしの見てる前で八重を抱いて、」「何だって、」「八重を抱いて。啓吉さん、あなた、いつでも、あたしの知らない間に八重にしてたことを、いま私の見てる前でして、」何を言っているのか信子にも分らなかった。

    よし、このシーン、朝ドラ『ブラッサム』でやりましょう。

    この後を引用すると、グーグルにアダルトサイト認定されてしまいそうなので、やめときます。

    そしてこの作品、すごくいやな終わり方をします。

    「アメリカ兵の車だから、賠償金はとれないわよ。ヘーイ、レッツゴー、」八重はその出来事を路上に残したまま、つれと一緒に行ってしまった。

    この直前に起きた出来事の重大さと、八重の「レッツゴー」という軽い言葉のギャップが、いやーな後味を残します。

    宇野千代の初期の作品(過去記事)は、自身をモデルにしたけっこう重たいものが多かったので、その時期を朝ドラのエピソードにするのは厳しそうだなと思ってました。

    その後、作風が変わってすっかり明るい作品になったりするのかと思ったら、70代頃に出した短編集もなかなかハードな私小説でした。朝ドラが昼ドラのようになってしまわないか心配です。

  • フウイヌム国渡航記とガリヴァーのその後

    いよいよ、ガリヴァー旅行記 最後の第四篇『フウイヌム国渡航記』です。理知的な馬であるフウイヌムと野蛮な人間であるヤフーの国です。フウイヌムが支配していて、ヤフーは家畜です。しかも、下品で粗野でずるいダメダメな家畜扱いです。

    ところで、ヤフーといえば、ヤホーですよね。お察しの通り、語源の一つらしいです。

    Yahoo – Wikipedia

    また、ファイロとヤンは自分たちのことを「ならずもの」だと考えているので、「粗野な人」という意味がある「Yahoo」(『ガリヴァー旅行記』に登場する野獣の名前が由来)という言葉を選んだと主張している。

    そういえば、放送大学のラジオで「ヨーロッパ文学の読み方―近代篇(’19)」というのをやっていて、その第三回がガリヴァー旅行記でした。

    第3回 イギリス(2)

    スウィフト『ガリヴァー旅行記』を読む。

    【キーワード】
    風刺文学、空想旅行記、異文化接触

    執筆担当講師名:大橋 洋一(東京大学名誉教授)
    放送担当講師名:大橋 洋一(東京大学名誉教授)

    この講義の中で、この回の担当講師である大橋先生が以下のような話を紹介していました。

    ガリヴァー旅行記の翻訳者でもあった中野好夫は、その訳書のあとがきで「ほとんど我々の顔に腐った臓腑を投げつけられる思いのするのは、第三篇ことに第四篇である」と述べ、「訳者としての希望を率直に言うならば、たとえ第一篇、第二篇は読まなくとも、後半の第三篇、第四篇だけはぜひ読んでもらいたいのである」と述べています。

    中野好夫氏といえば、「吾輩」訳ですね。講義の中での朗読も、一人称が「吾輩」だったので、中野氏の訳を使っていたのでしょう。なんだか、10万63歳の彼を思い浮かべてしまいます。

    私の印象では、4つの篇の中で一番、ガリヴァーがどうかしちゃうのが、このフウイヌム国渡航記という感じでしたね。

    他の国に行ったときも、自分たちの世界(ヨーロッパや英国)について、批判的になったり、あるいは弁護的になったり、というのがありました。フウイヌム国でも最初はそんなトーンだったのですが、だんだんとあっち側のスタンスになっていきまして、帰る気なんかなくなって、すっかり住み着くつもりだったのですが、そうはいかなくなります。

    以下は、章の最初に記されている、その章の概要からの引用です。

    著者、主人より、この国から退去するよう警告を受ける。著者、悲しみのあまり失神するが、結局退去を承諾する。

    主人というのは馬です。この主人との対話を通じて、だんだん人間嫌いになっていて、ヨーロッパの人間たちも目の前にいる野蛮なヤフーと変わらない、自分はヤフーだ、他の人間もヤフーだ、そんなところには帰りたくない、という考えを持ち始めます。そんな中、主人からこんな話を聞かされます。

    それによると、最近開かれた大会議の席上、ヤフー問題が取り上げられ、いろんな代表者が、要するに野蛮な動物にすぎないのにまるでフウイヌム同様に一匹のヤフー(つまり私のことだ)を家人として養っているのは怪しからん、といって主人を非難したというのである。

    追放されたガリヴァーは丸木船でフウイヌムの国を去りますが、イギリスに帰る気はなく、無人島で一生を過ごそうとしているところをポルトガル船に発見され、なかば無理やりヨーロッパに連れ戻されることになります。

    親切な船長にも失礼な態度をとり、家族と再会したときも、

    だが、家の者たちを見た時、私の心中に忽ち憎悪と嫌悪と軽侮の念だけがこみ上げきたことを、ここに率直に告白しておかなければならない。
    (略)
    のみならず、自分がヤフー族の一匹の雌と交わってそいつに数匹の子を生ませたことを考え、私はただもう堪え難い恥辱と当惑と恐怖に襲われどおしであった。

    後半の部分は、奥さんと子供のことを言っているんですね。ひどい言いようです。そして、お金ができると、2頭の馬を厩舎で飼い、

    私の可愛い馬たちは、こちらの言うことがかなり分かるので、毎日少なくとも四時間は、話し合うことにしている。

    人間を嫌悪することになった理由はそれなりにあり、思考のプロセスなども書かれているので、気持ちも分からなくもないのですが、イギリスで普通に暮らして待っていた家族からしてみたら、帰ってきたら人間を極度に嫌悪するようになっていて、毎日を馬に話しかけて過ごすようになって、もう完全に狂人です。

    各国への渡航のラストをかざり、ガリヴァーの精神状態にとどめをさすのは、やっぱりこのフウイヌム国がふさわしかったのでしょう。巻末の解説によると、執筆されたのは1720年から1725年頃。発表と同時に大きな好評を博したが、その後、スウィフトはいろんな論文や詩を書いて、やがて狂人となって死んでいった、とのこと。

  • 芥川龍之介『葱』と宇野千代と今東光

    2026年後期のNHKの朝ドラ『ブラッサム』のモデルは作家の宇野千代です。もちろんフィクションですが、きっと宇野千代のエピソードがいろいろと盛り込まれることでしょう。そして、このエピソードは絶対に入ってくるのではないかというのが、「デート中のネギ購入事件」です。ウィークエンダー風に再現VTRを作ったりすると盛り上がりそうです。「小説によりますと・・・」

    小説ではあるんですが、宇野千代に関するエピソードを人から聞いて、それを作品に仕上げたというものみたいです。この『葱』は青空文庫で読めます(芥川龍之介 『葱』)。

    「お君さん」のモデルが宇野千代、「田中君」のモデルが今東光こんとうこう(作家)だそうで。

    まずは、待ち合わせのシーン。

    「御待たせして?」

    お君さんは田中君の顔を見上げると、息のはずんでいるような声を出した。

    「なあに。」

    田中君は大様おおような返事をしながら、何とも判然しない微笑を含んだ眼で、じっとお君さんの顔を眺めた。それから急に身ぶるいを一つして、
    「歩こう、少し。」

    どうやら、サーカスを見に行く予定だったみたいですが、食事に変更です。

    「お君さんには御気の毒だけれどもね、芝浦のサアカスは、もう昨夜ゆうべでおしまいなんだそうだ。だから今夜は僕の知っている家へ行って、一しょに御飯でも食べようじゃないか。」

    「そう、私どっちでもいわ。」

    お君さんは田中君の手が、そっと自分の手を捕えたのを感じながら、希望と恐怖とにふるえている、かすかな声でこう云った。

    なんか、いい雰囲気です。その後、路幅の狭い町を歩いていると、一軒の八百屋があります。

    お君さんは思わずその八百屋の前へ足を止めた。それから呆気にとられている田中君を一人後に残して、あざやかな瓦斯の光を浴びた青物の中へ足を入れた。しかもついにはその華奢な指を伸べて、一束四銭の札が立っている葱の山を指すと、「さすらい」の歌でもうたうような声で、
    「あれを二束下さいな。」と云った。

    やっぱり「葱」というのが効いていますね。ズッキーニでもルッコラでもなく、ネギというのがポイントです。八百屋で何か買おうとする時点で興ざめな感じはありますが、ネギというのがさらにそれを盛り上げます。バッグにさっと入る形状でもないし、独特の匂いもあるし、生活感野菜の王様です。

    小説はこのあと、あきれたような様子の田中君と、お得な買い物ができて嬉しそうなお君さんの対比で幕を閉じるのであります。

    どうやら実話がもとになっているであろう、このエピソードを芥川に書かれた宇野千代は、『老女マノン』の中で、登場人物の「小母おばさん」が若い頃、ある作家に自分についての小説を書かれたという設定で、逆にネタにするという、さらなるおまけエピソードにつながります。(過去記事

    私は、芥川龍之介というと、『杜子春』や『蜘蛛の糸』のようなおとぎ話系のやつではないもので、作家としての自分を登場するものだと『或阿呆の一生』のイメージが強くて、暗い、重いものを想像してしまいます。でも、この『葱』は軽く書いたような演出がなされてて、印象が違いました。

    冒頭も、

    おれは締切日を明日みょうにちに控えた今夜、一気呵成かせいにこの小説を書こうと思う。いや、書こうと思うのではない。書かなければならなくなってしまったのである。では何を書くかと云うと、――それは次の本文を読んで頂くよりほかに仕方はない。

    みたいな始まりかたです。他にも、気障きざなキャラの田中君のような人を見たければ、音楽会や展覧会に行けばいい、そんな奴は2,3人は必ずいる、みたいな流れで、

    だからこの上明瞭な田中君の肖像が欲しければ、そう云う場所へ行って見るがい。おれが書くのはもう真平御免まっぴらごめんだ。

    と、物語の中に作者が登場してきます。最後の方では、

    まあこのままでペンをこう。左様さようなら。お君さん。では今夜もあの晩のように、ここからいそいそ出て行って、勇ましく――批評家に退治されて来給え。

    のように、登場人物に語りかけたりします。これが小説? なんだかエッセイっぽい書き方のような気もするので、この話がそのまま実話なんじゃないかという気もしてきますが、やっぱり小説なんですよね

    ちなみに、宇野千代の『老女マノン』のほうでは、そのようなことはあったが、その男性とは恋愛関係にはなかったし、登場している女性は自分とは全然似ていない(一方、登場する男性は実在する人と似ている)みたいなことが書いてありました。まあ、こちらも小説(フィクション)なんですが。