BookBookerBookest

勝手に読書感想文。漫画も映画も含みます

カテゴリー: 小説

  • 洋画家 東郷青児の心中未遂事件を小説にした宇野千代『色ざんげ』

    読んだのは、『色ざんげ』の岩波文庫版です。もう終わり? というタイミングで終わりました。というのも、巻末の解説や、広告(既刊書の目録)や、岩波文庫ではおなじみ「読書子に寄す」などを入れた書籍の全体では300ページくらいあるんですが、小説本編の終わりは252ページ目です。手に持った厚みの感じで、まだまだ続くと思っていたら、あ、もう終わりか、と。

    つまり、解説が豊富でした。まず、山田詠美さんの「色の妙味を重ねた男と女たちの物語」(約8ページ)という文章、そのあとに尾形明子さんによる「解説」(約26ページ)という二本立てです。もう、短篇1本くらいの分量がありますね。

    山田さんの文章の中に、最初に読んだときは登場人物の三人の女性に同情したが、いま読むと、むしろ男(主人公・語り手)に同情してしまう、という箇所があります。たしかに、小説って読み手次第で、悲劇的にも喜劇的にもなるし、ヒーローが悪役と紙一重だったり。作者と読み手の両輪で作品が完成するのかも。なに読んでも「つまらない」と言っている人は、本というより、その人自身が・・・。あとは言いますまい。

    『色ざんげ』は、語り手である洋画家の湯浅譲二に面識のない女性から手紙が毎日のように届くところから始まります。ちょっとミステリっぽい。この女性(小牧高尾)に会って、ちょっと微妙な関係になったところで、高尾は失踪します。高尾を探す過程で高尾の知り合いの女性(西条つゆ子)に好意を持ちます。つゆ子に近づこうとするも、つゆ子の厳格な家族たちにはばまれ、仲を引き裂かれます(つゆ子はアメリカに行かされる)。諦めていたところに、譲二の絵のファンだという若い女性(井上とも子)が現れ、ちょっと強引なとも子の両親により結婚する流れになります。でも、譲二は既婚者で関係は冷めきっているとはいえ、まつ代という妻がいるので、いわゆる重婚状態に。そんなタイミングで、アメリカからすでに帰っていたつゆ子と再会し、絶望しきっていたつゆ子の誘導で心中未遂事件を起こします。

    もうなんだか、いろんな出来事が渋滞しています。ちょっと詰め込み過ぎなんじゃない? もうちょっとリアリティのあるプロットにしたほうがいいんじゃないの? ・・・なんて思っちゃいます。もし、これが完全な創作(フィクション)ならば。

    ぜひ、尾形さんによる巻末の解説を読んでほしいところなのですが、この『色ざんげ』の主人公の湯浅譲二は、宇野千代の恋人だった(数年間同棲していた)洋画家の東郷青児がモデルになっているんですね。そうです、実話に基づいた小説なんです。

    体験した本人が書いたというわけじゃないけど、千代はけっこうがっつりと、事件の当事者である東郷を「取材」しています。

    ちょっと長いですが、尾形さんの「解説」より。

     二人の出会いについては、宇野千代が『或る一人の女の話』『私の文学的回想記』『自伝的恋愛論』『生きて行く私』などに詳しく書いている。
     『報知新聞』に連載中の「罌粟けしはなぜ紅い」にガス自殺の場面を書きたくて、取材を目的に大森の酒場「白夜」で会う。誘われてそのままタクシーで東郷の家に行き、一晩を過ごし、翌朝、布団を畳もうとして、そこにおびただしい血痕と血糊が固まったあとを見出す。部屋には若い女の肖像画や矢絣やがすりの着物、化粧道具があった。心中未遂事件を報じた新聞が山のように積み上げられていた。それらを見ても、怖いとも逃げ出そうとも思わず、そのまま居着いてしまった。

    そんなこんなで始まった東郷との生活の中で、彼の経験を詳細に聞いたようです。「君は僕から、この作品の筋書きを聞くために、僕と一緒にゐたのだね。この作品は、終りの一行まで、僕が話したことばかりだ」という東郷の言葉を、千代が回想して書き残しています。(「それは刃物が導いた――『色ざんげ』追記」 新潮 昭和五五年九月号)

    ちなみに、前述の引用部分に出てくる東郷の家にあった「化粧道具」をモチーフにした小説が短編集『幸福』(1972年)に収録されている『この白粉おしろい入れ』だったりします(過去記事)。以前、その家にいた女性の化粧道具をそのまま自分のもののように使うという描写が書かれていました。

    宇野千代を語るうえで、東郷青児との関係は外せないと思うのですが、さすがに朝ドラでこのドロドロなエピソードは出せないでしょう。かなりオブラートに包んだ形でストーリーに盛り込むのでしょうか。とはいえ、触れたとしてもかなり限定的になるでしょう。宇野千代とその作品、清濁あわせた様々な面を知りたいあなたは、ぜひとも、「連続テレビ小説」だけでなく、文字の小説のほうも読んでみてください。

  • 『ALL IS HONEY TO ALL』の「スティルツ」

    『文藝』2026年秋季号に掲載されていた、日比野コレコさんの『ALL IS HONEY TO ALL』を読みました。

    「青春小説」とか、「青春短篇」(『文藝』の目次では、こう形容してあった)とかって聞くと、日本のどこかで高校生か大学生くらいの登場人物たちが繰り広げるものをイメージしてしまいます。別に古墳時代の話でも、土星の衛星が舞台でもいいのでしょうが(前者は手塚治虫、後者はヴォネガット?)、やっぱり現代の日本のリアルな街が思い浮かんでしまいます。

    『ALL IS HONEY TO ALL』の設定は、日本ではあるようなのですが、なんだか場所や時代に現実感がありません。場面の提示方法で一番ストレートなのは、具体的な年代や都市名をあげてしまうことでしょうね。『成瀬は~』シリーズだったら(過去記事)、西武大津店が閉店という時点で、時代も場所もかっちり決まりますし。

    でも、具体的な年代をあげていないからと言って、場面設定がいつなのか分からないかというと、そうでもないです。書いていない小説のほうが多いですかね。でも、スマホが出てきたり、マックが出てきたり、コミュニケーションの取り方だったりで、なんとなく時代背景がわかったりします。葉野はの珠たま、もとい宇野千代の初期の小説では(過去記事)、連絡を取るのに手紙を使うシーンをよく見かけました。急ぎの時は電報です。電話が出てくることもありますが、設置場所が限られているのか、そんなに使われていない印象でした。

    『ALL IS HONEY TO ALL』の設定は近未来(でもかなり現代に近い)のような気がしました。現代ではない感じ。そうすると、この無機質な感じがどこから出てくるだろうか、なんてところが気になったりもします。書き出しに、「埋め立て地に人工的に建てられた町」と書かれています。まあ、埋め立て地なら現代にもありますよね。「町で会う若者は、ほとんどが同じ大学で」なんてのは学園都市っぽい。「窓がどれも青みがかっている」。これはちょっと近未来感が出ますね。新橋じゃなくて、汐留のほうみたいな。統一感は無機質で、雑多な感じはウェットな飲み屋街みたいな。

    あと、埋め立て地の、前はそこに何もなかった、という感じも効いてきそうです。新しく人工的に作られた町だとしても、多摩ニュータウンみたいな場所だと、なんだろう、合戦している狸がチラつく。自然とか歴史とかの匂いもしちゃうし。海の何もなかったところに作られた町は、ドライさ(海なのに)や、血の通わない感じを演出してくれます。後半ですが、「海が近くにあるはずだが、潮のにおいはしなかった。」なんて描写もあります。潮の匂いがすると漁師町みたいになっちゃう。都会の海って潮の匂いあんまりしないですよね。あれは、自然な砂浜や岩場がないとしない匂いなのでしょうか。

    しゅづき、震馬しんば、茱萸ぐみ、タク、六ろく。日本語っぽいけど、あまりいなさそうな登場人物の名前。でも、十数年も経てば、名前の流行は変わりますしね。なので近未来感が出るのかも。最近の小説に良子さんとか夕子さんとか出てきませんね。私の通っていた中学校にはクラスに夕子さんが3人いました。近過去の話です。

    そうだ、この小説で重要な役割を担っているのが「スティルツ」なんですよ。目次に「建築学科のしゅづきは、友だちの恋人で身長が3mの「六」と出会う。彼は金属製の竹馬のような装置を履き、まるで尖塔のようで――。」なんて書いてあって、この「金属製の竹馬のような装置」が「スティルツ」です。未来のすごい「ひみつ道具」が出てくるサイエンスフィクションか? と思っちゃうんですが、スティルツは別にハイテクグッズではありません。本編を読むと、ご存知ないかたも、「スティルツ」どんなものかが分かってきます。

    実は私、見たことあります、スティルツ。10年以上前ですが、川崎駅の近くのハロウィンパレードで長身のロボットみたいな仮装した人が歩いていて、その人の身長が2メートル以上あったんですね。歩き方とかバランス(足、長っ!)からいって、足に何かつけているんだろうな、よくあんなので歩けるなと思ったんですが、たぶんそれでした。検索してみると、単数形の「スティルト(stilt)」の方がヒットしますね。アマゾンでも楽天でも売っています。もうすぐハロウィンだから、これで歩くと人気者になれるかもしれません。でも、転んで血まみれにならないように気を付けてください。血まみれの仮装だと思われて、さらにうけるかもしれません。

    この小説を読んで思うのは、突飛な設定で(スティルツを常につけている男子学生)、登場人物たちは変な関係性(友達なのか恋人なのか)で、ありえないようなことが起きて(震馬の歯科施術!)、でも若者たちの友情と愛情とが混ざったような、いつの時代にも存在してきた普遍的な感情みたいなものは描けるんだなあと。万難を排して会いに行くのは、ただそれだけで愛だよなあ、なんて。

  • 帝劇を支える名もなき人たち『劇場という名の星座』

    ランチで「日替わり定食」的なものがあると、内容も見ずに注文するタイプです。自分で選択をしようとすると、いつも揚げ物になってしまうからです。

    前提知識なしで、読む本を選ぶのはなかなか楽しいです。今回は妻が図書館で借りた、小川洋子さんの『劇場という名の星座』という短篇集です。2026年の3月に出たばかりで、まだまだ予約殺到中です。数ヶ月待ちました。私ではなく妻がですが。

    次の予約が入っていると延長できません。妻が読み終わって、私が持ち出して通勤時に電車で読める状態になったのは、返却期限の3日前でした。読み終えられるか微妙でしたが、いったん返してしまい、もし読みたいと思い立っても、また数ヶ月待たされてしまうという恐怖心に駆られて、一気に読むことにしました。締め切りは大事です。

    様々なテーマのものが入っていて、その一つを表題作としているような短篇集もありますが、『劇場という名の星座』は劇場に特化した短篇集です。しかも、この劇場はあの「帝国劇場」です。

    残念ながら帝国劇場に関する知識はほぼゼロでした。たまたま前を通ったことがあるような気がします。今、グーグルマップで確認したら、やっぱりそうでした。千代田線の駅(たぶん日比谷)から、東京国際フォーラムに向かった時に前を通りました。これが帝国劇場かー、と思ったような気がしないでもないです。

    という程度なので、ミュージカルとか戯曲とかとは縁が薄く、帝国劇場という私にとっては未知の世界を舞台にした小説で繰り広げられるエピソードはなかなか新鮮でした。ちなみに、「舞台」が劇場とかかっているみたいですが、偶然です。

    好きだったのは『一枚の未来を手にする』という作品で、チケットを手に入れられなかったけど帝劇に来た少女、ビンゴゲームでたまたまチケットをもらった男性、チケットは入手し準備万端だったのにトラブルで開演時間に間に合いそうにない女性、の3人が主人公の話です。観覧席から見るステージ以外にもいろんなドラマがあるのです。

    やっぱり映画のチケットとは違うんですよね。価格もそうですが、入手の競争率とか、ファンの熱量とか、あとはその日の公演と全く同じものは二度と見られないという、演劇の一回性とか。だから、観客も演者もスタッフもちょっと違ったモードでこの場に臨んでいるんですね。そのようなモードでこそ生み出される様々なストーリーが短篇集に収められています。

    『サイレントシンガー』のリリカとも重なりますが、小川さんは他の人が見ていない(意識していない)ところで全力を尽くしているプロフェッショナルの描き方がすばらしいですね。

    『スプリングゲイト』では、「幕内係さん」が描かれています。様々な業務がある中で、この作品でクローズアップしているのは着到板ちゃくとうばん(出欠確認用の札)に役者さんの名前を書くという仕事です。この仕事ゆえ、表札の名前が気になり、人が名前を書くその所作が気になり、「サインなんて気楽なものだ、とでもいうかのような態度」で本にサインをする「作家の小説は二度と買わない」という考えにいたり、役者さん一人分の名前を書くごとに疲労困憊しながら仕事を進める幕内係さんが主人公です。他の人からは見えにくいこだわりが物語に深みを与えています。

    このような人たちを特別な存在としてではなく、名もなき存在として描いている(ほとんどの登場人物に名前はなく、「○○係さん」のように役割名で参照される)ところがグッときます。表舞台に立つ人、目立つ人、名前がクレジットされる人だけでなく、関わっているすべての人によって帝国劇場とそこでの公演が支えられているんだ、というメッセージが伝わってきます。タイトルの「星座」という比喩もしっくりきますね。1つ1つが有名な星というわけではないけれども、全体で「星座」が形づくられていて、その1つが欠けても違うものになってしまう。そのようにして劇場が成り立っているんだなあと。

    私は全然知らなかったのですが、帝国劇場は2025年の3月から休館していて、建て替え中なんですね。完成は2030年とのことで、待ちわびている人は多いんじゃないでしょうか。本作を読んで帝劇に思いを馳せたり、段ボール箱の工作で再現したり(『劇場は待っている』参照)しながら、辛抱強く待ちましょう。

  • 映画『爆弾』と、小説『爆弾』

    「読んでから見るか、見てから読むか」なんて、キャッチコピーで角川がブイブイ言わせていたのは、私が小学生の頃(1970~1980年代)でした。小学生だったので大人が見るような映画を映画館に見に行ったりはしなかったのですが、テレビCMがばんばん流れて、主題歌がヒットしたり、主題歌を歌っているのが主演俳優だったり(メディアミックス期の後半の薬師丸ひろ子とか原田知世とか)して、新作映画のことを知らないという人はいないという状況でした。映画をヒットさせ、原作の文庫を売り、主題歌もヒットさせ、新人をスターにしていく、という感じですね。

    そこまで露骨なのは最近は少ないですが、原作本と映画のシナジーを狙うというのは今もありますよね。書籍が映画化されると、文庫本のカバーが映画のシーンや俳優さんの写真になったりして。もともと原作のファンだった人には、ちょっと微妙だったりなんてことも。

    私の場合、『爆弾』は「見てから読」みました(映画を見たときの過去記事リンク)。映画と小説を比較してみて、かなり原作に忠実に映像化されている、という印象でした。

    「原作」といいつつ、全然違うものになっていることってありますよね。村上春樹が原作、濱口竜介が監督の映画『ドライブ・マイ・カー』って、短篇集『女のいない男たち』の中の「ドライブ・マイ・カー」と「シェエラザード」と「木野」のミックスになってましたよね。こんなパターンってあるんだと思いました。

    あと、黒澤明の映画『羅生門』。原作者が芥川龍之介なのは間違いないのですが、中身はほとんど「羅生門」ではなく、「藪の中」のほうですよね。最初と最後に羅生門もちょっと出てきますが。

    『爆弾』(呉勝浩 著)を読んでみて、順番は逆になりますが、『映画』(永井聡 監督)は、かなり原作に沿った形の脚本になっていたと思いました。

    とはいえ、微妙に違うところもありました。実は、小説の書き出しに登場する「細野ゆかり」は、映画には登場しません。名前を与えられているからには、それなりの役割なんだろうと思いきや、被害者の一人か? と思いきや、後半にも登場して、ストーリーにちょっとした味付けをしてくれます。でも、2時間強の映画に収めるためには、このあたりは削らざるを得ないのかもしれません。

    あと、新聞配達のバイクを追う刑事の顔ぶれ、ちょっと違いましたよね。映画を見てから時間が経っているので、ちょっと自信ないですが・・・。全体的に、原作のテイストを損なわずに映像化されていました。

    見る順番ですが、映画→小説の場合のメリットは、登場人物を把握しやすことですね。犯人のスズキ タゴサクはともかく、他は刑事がいっぱい出てきますからね。もちろん著者は、刑事の職位、性格、体格、年齢などで書き分けてくれているんですが、なにせこっちの「年齢」が50を超えてくると、もう、誰が誰だったやら。映画は俳優さんの見た目がバンと入ってくるので、なんとか記憶できます。

    デメリットは、もはやその登場人物が俳優さんと完全に重なってしまうところでしょうか。スズキは佐藤二朗になり、清宮は渡部篤郎になってしまいます。清宮に対するどんな形容詞が出てきても、それらは頭の中ですべて渡部篤郎を修飾する言葉となります。もし、清宮が天然パーマだと書かれていたら、それは天然パーマの渡部篤郎になっしまうのです(天然パーマは類家のほうですが)。でも、まあいいか。大した弊害はなさそうだし。

    小説のいいところは、映画より情報を詰め込めるところですね。登場人物の心情の描写の部分で特に感じました。『爆弾』はスズキとその犯罪の特異性とか、類家との対決とか、謎解きとか、そのあたりももちろん魅力なのですが、実は仲間とか敵とか赤の他人とか、区別とか差別とか偏見とか、そういう重いテーマが散りばめられているんですね。映画でも描かれてはいるんですが、約2時間に収めなきゃいけない制約もある。

    小説では比較的自然に登場人物の心情を描写できます(発言されていない言葉を文字で書いても問題ない、小説という表現形態が持つ特徴)。映画でも、心の声の独白みたいな形で表現できますが、やりすぎると『孤独のグルメ』みたいになっちゃう。複数人でこれをやると、アンジャッシュのコントみたいになっちゃう。

    小説を読んでいて再確認したのが、スズキに毒されそうになる登場人物の揺れ動く心情です。「爆発したって、べつによくないですか?」というスズキの言葉が、徐々にしみ込んできて、「べつにいいかも」と思いそうになってしまうくらい、麻痺したり、追い詰められたり。

    スズキを取り調べた刑事だけでなく、巡査の沙良も、同僚の矢吹が爆発に巻き込まれた際、「公園の被害者だと? そんなのはどうでもいい。ほっておけ。それより矢吹を助けてくれ」と考えた(口には出していない)ことが、結局自分も「他人はことはどうでもいい」と考えるスズキと違わないのではないかと苦悩するきっかけとなります。

    スズキに爆弾テロを許してしまったことだけでなく、心の中にスズキの思想が入り込む余地を与えてしまったところこそが、警察の敗北だったのではないか、という深淵な作品なのでした。

    映画は見たけど小説は読んでないという人は、ぜひ読んで。もう両方見た(読んだ)という人は、そのうち続編が・・・

    ん? もう出てる?(しかもけっこう前に) 検索してみて、今知りました・・・

  • 坂崎かおる『わに』に出てくるネパール語の意味

    芥川賞のノミネート作品が発表されると、さてどれが受賞するだろうか、なんて予想してみたくなってしまうことがあります。それがさらに進むと、さてどれがノミネートされるのだろうか、なんて考えも出てきます。半年の間に文芸雑誌などに掲載されたものから選ばれるようですが、見当もつきません。よく考えたら、文芸雑誌を定期購読しているわけでもないので、見当つくわけがありません。

    でも、事前に知っていた作品がノミネートされたりすると、嬉しい気持ちを味わえるんじゃないかと夢想しつつ、何でも答えてくれるあのもの知りに訊いてみました。落語に出てくるご隠居みたいな彼です。

    彼は言いました、「小砂川チトさんが有力です」。いつの間にか、AIはボケる能力も身に着けたようです。「もう、取っとるがな」とつっこむと、丁寧な口調で詫び、訂正してきました。申し訳ありません、受賞者のチェックを怠りました、と。そんなに謝らないでくれ、こっちがつらくなるよ、なんてドラマの台詞みたいなことを考えながら、彼の思考の根拠を尋ねてみると、過去にノミネートされたことがある作家さんが有力だと考えるのが妥当であると。たしかに、「二度あることは三度ある」なんて都都逸どどいつもありますし(注:これは落語のくすぐりから着想を得たボケです)、チトちゃんは三度目のノミネートで受賞しましたし、同じ回で候補になった鈴木涼美さんは三度候補になっているけど逃してしまいましたし。「仏の顔も三度まで」という言葉もあるので、ブチ切れる寸前かもしれません。

    とにかく、何度も候補になるというのはよくあることみたいなので、その観点で予想してもらうと「可能性が高そうなのは、坂崎かおるさんじゃ」とご隠居は言いました。ウィキペディアによると、『海岸通り』で第171回芥川龍之介賞候補、『へび』で第174回芥川龍之介賞候補、だそうです。

    ということで、最近の文芸雑誌に掲載された坂崎さんの作品をチェックしてみました。『文學界』2026年9月号に『わに』という作品が掲載されていました。なんだか、「へび」より強そうです。

    小学1年生の娘がいるオサムという名前のお父さんが語り手です。作中で起きるイベントとしては、娘をスイミングスクールに連れて行く、妻から女性の人権に関連する話を聞かされる、くらいでしょうか。この2つが奇妙にシンクロします。

    わたくしごとで申し訳ないですが、うちも子供にスイミングを習わせていました。私自身は水泳を習ったこともないし、子供に習わせようとも思わない(思いもつかない)ような感じで、全部妻が段取りしていました。で、たまに送迎を担当したときの場違い感、落ち着かない感じ。そんな積極性のないお父さんの心情が伝わってくるような作中の描写で、ここで夫婦と子供と習い事コミュニティのリアルみたいなものを感じて、すっと物語に入っていけました。

    お母さん同士は顔見知りで、挨拶したりしているけど、自分は知り合いもいないし、水泳を習わせることにも興味がないし(こういうことを言うと機嫌が悪くなるので言ってはいけない)、ただただ退屈な時間。盗撮うんぬんでスマホが使えないとか、水の生き物のワッペンを水泳帽につけるとか、コロナのときに導入された水泳時に使うマスク(!)とか、ディテールに妙なリアリティがあります。坂崎さんは、子供をスイミングに通わせた経験者に違いないと確信しました。

    そんな現代日本でのあるあるな感じのエピソードに、「国際的な女性向けのNGOでのボランティアを長年続けて」いる妻との会話(の記憶)が絡み合ってきます。

    具体的にはネパールでの女性の人権に関わることで、月経時の女性は穢けがれていると扱われ、隔離されるような風習について、奥さんがオサム(旦那さん)に語り、そのときの記憶がスイミングスクールで待っている間のオサムの頭の中で展開していきます。

    私、実はこの風習についてはちょっと知っていました。というのも『パッドマン 5億人の女性を救った男』という映画を見たことがあったんですね。インドの映画で、低価格の生理用ナプキンを開発した男性が主人公という話で、男性が開発に尽力するという点が意外でもあり、ちょっぴりコメディっぽい部分もあったりする映画でした。でも、けっこう根深い問題もあって、不便と不条理を強いられ、人権まで制限されるような女性たちの、その状況を改善しようと活動する主人公の男性を、まわりは支援するどころか、差別、排斥するような行動まで取るんですね。インドとネパールはヒンズー教徒が多いので、そのあたりの地域にはそのような風習が残っているのでしょう。

    さて、スイミングスクールの待合室(プールが見える)での光景と、奥さんの語ったネパールの少女がワニに襲われかける話、これが交互に展開します。オサムは他の生徒のお父さんに話しかけられている最中も、奥さんの話の回想(と、それから想起される妄想)がカットインしてきたり、話しかけられて我に返ったり、心ここにあらずな感じです。

    そして、意図は理解しきれていないのですが、小説中に実験的な表現がありました。ネパールの少女の名前をネパール語(デーヴァナーガリー文字というものらしい by ChatGPT)のまま表記して、読み方の補足もありません。

    こんな風に出てきます。読み方が分からないので、出てくるたびに違和感を感じながら読み進めました。読み終わったあとに調べるると、(smṛti/スムリティ)のような発音のようです。でも、これに関しては、女性の名前だろうなと思いながら読めばいいので、そこまで気になりませんでした。

    でも、けっこう重要だと思われる場面で、奥さんがオサムに向けたつぶやきに、以下のようにネパール語が混ざっているものがありました。

    「だから、あなたたちは ―― のままなのよ」

    ―― の部分は以下の文字です。

    どう読めばいいのでしょうか。けっこう重要な台詞のような気がしますが、意味が分からないまま読み進めて大丈夫でしょうか。でも、読める読者の方が少ないでしょうから、むしろ意味が分からないまま読むことを想定した小説なのでしょう。

    とりあえず、読み終わったあとに調べてみたところ、(gohī/ゴヒ)のような発音で、「ワニ」という意味のようです。なるほど、勘のいい人なら推測できたのかもしれません。私はどんな汚い言葉なのかと思ってドキドキしていました。

    ネパール語の単語の意味が分かっても、全体的によく分からないところも多い不思議な小説でした。オサムの精神状態とか。奥さんの態度がやっぱりきつかったのでしょうか。いろいろひっかかりながらも、一気に読み終わりました。一気に・・・、ん? 数えてみると、文芸誌のレイアウトで11ページくらいしかありません。明確な基準が公表されているわけではありませんが、どうも過去の候補作を見ると、これくらいの文章の量では芥川賞の候補としては短すぎるようです。ということで、他に候補の候補がなさそうか、ご隠居に訊いてみます。

  • 50代のおじさんの『私たちはたしかに光ってたんだ』の読み方

    Xでピストジャムさんが推しているのを見て、読んでみました『私たちはたしかに光ってたんだ』(金子玲介 著)。

    苦手なんです。

    何が? というと、登場人物がいっぺんに初登場する場面です。序盤にバンドメンバーの顔合わせのシーンがあります。そこで「さなぎいぬ」というバンド名が決まります。顔合わせなのでいきなり4人が登場し、そして会話します(そりゃするだろう)。そして、よりによって、全員女子で、全員同世代です。女子高校の軽音楽部なのでしょうがないのですが。

    これが、小学生の男の子、女子高生、ハゲのおじさん、おばあちゃんの四人組だったら、キャラを混同せずに会話を楽しめるのですが、キャラがまだ明確にイメージできていない段階での、女子高生の4人の会話を追うのはつらいです。3人目の名前を聞くと、1人目の名前を忘れるのが50代です。

    いっぺんに出てくるのがよくないのなら、桃太郎みたいに1人ずつバンドメンバーを増やしていけばいいのでしょうか。でも、そんなRPGみたいなバンドも変です。ちなみに、『桃太郎電鉄』は、『桃太郎伝説』というRPGからのスピンオフであるということを知っておくと、何かの役に立つかもしれません。でも、たぶん立ちません。

    おっと脱線はこれくらいにしておきましょう。電鉄で脱線なんて縁起でもないので。

    でも、この『わたひか』には、こんな便利なページがあります。単行本では8ページです。現時点では単行本しか出てませんが、文庫化を見越して、「単行本では」とことわってみました。

    メンバー

     柏葵(かしわ あおい)(ボーカル)

     三浦朝顔(みうら あさがお)(ギター・コーラス)

     広瀬緋由(ひろせ ひゆ)(ドラムス)

     小柴夢乃(こしば ゆめの)(ベース)

    旧メンバー

     室瑞葉(むろ みずは)(ベース)

    いいですね。さっき混乱しかけたのは、主人公の瑞葉と、ボーカル、ギター、ドラムの3人が、顔合わせをするシーンでしたので、このページを見ながら、なんとかキャラを叩き込んでいきましょう。

    このページは、26歳の瑞葉のシーンの流れで本文に登場します。『百年の孤独』の文庫版の家系図みたいな「付録」ではありません。「アウレリャノ(17名)」ってのは、笑かしにきてますよね。ガルシア=マルケスも新潮社も。

    自然にメンバー一覧のページを入れてあるのがいいですね。これって、記憶力が衰え始めている中高年向けのサービスなんじゃないかと思っています。

    コンサルをやっている知人が、箇条書きより表の方がいいって言っていたので、ちょっと情報(顔合わせの自己紹介より)を追加して表にしてみました。

    パート啓栄女子への入学音楽経験好きな音楽プレゼント
    柏かしわ 葵あおいボーカル高等部から子役でミュージカルなどBUMP OF CHICKEN、RADWIMPS、ASIAN KUNG-FU GENERATION手ぬぐい
    三浦みうら 朝顔あさがおギター・コーラス高等部からヴァイオリン、エレクトーン、ギター(二か月)ショパン、ビートルズ、民謡流動食
    広瀬ひろせ 緋由ひゆドラムス中等部からなしORANGE RANGE、スキマスイッチ、ジャズアイス
    小柴こしば 夢乃ゆめのベース(途中参加メンバー)啓栄大学からベースおたく――
    室むろ 瑞葉みずはベース(旧メンバー)高等部からなしRIP SLYME、ポルノグラフィティ、チャットモンチープリクラ

    「プレゼント」が何を意味しているのかは読んでからのお楽しみ。これでだいぶキャラが明確になったのではないでしょうか。瑞葉は主人公で語り手だし、朝顔は天才肌でリーダーで話し方に特徴があるので、この二人は大丈夫でしょう。あとは、葵と緋由を見分け(読み分け)られればOKです。夢乃が出てくるのは後半だし、後輩だし、ちょっと冷めた感じでキャラも立っているから混同することもないでしょう。

    さて、この「わたひか」、序盤はちょっとピンときませんでした。というのも、若い女子どうしの会話のノリというのがなかなか入ってきません。私は歳をとりすぎたのかもしれません。あと、音楽用語を知りません。「オクターブ」も「奏法」もなんとなくわかりますが、「オクターブ奏法」がわからんとです。あと、会計用語(なのかもわからないが)とかも。

    でも、ぐっとつかまれた場面。瑞葉が緋由に「ちゃんとやってくんない?」と言うのをきっかけに、バンドにかける思いの差から、ゴタゴタしてしまう場面です。人間関係の軋轢は小説の醍醐味ですね。

    何かにかける思いの強さの差とか、力の入れ方の不均衡が、関係がギクシャクする端緒になるっていうのは、人生のあるあるなのではないかと思います。

    楽しくやれればいい部活、全国大会を目指す部活、死ぬ気で働くもんだと思っている高度成長期のサラリーマン、「食えればいいんで、昇進とか、そういうのいいです」みたいな若手。

    うろ覚えの記憶で申し訳ないですが、『火花』でもそんなシーンがありました。相方が用事があるからネタの練習休むみたいなことを言ったときに、お笑いをやりに東京に来ている自分たちにとって、稽古以上に優先させるものがあるのだろうか、みたいな疑問をもつ主人公。いつの間にか、ゴールがずれていく二人。

    上を目指す方が常に正しいのか、というのは難しいテーマです。上を目指す朝顔、朝顔の影響で上を目指すことに朝顔以上に執心して、自らも努力をし、メンバーに努力することを要求する瑞葉。

    でも、芸能の世界には努力ではどうにもならない壁があり・・・

    レコード会社の徳田なる人物の発言、

    「瑞葉ちゃんのベースさ、」

    (略)

    「上手いは上手いんだけど、あんまおもしろくないんだよね」

    (略)

    「技術はあるのにセンスがないっていうか、」

    そして徳田は、朝顔が作ったフレーズと瑞葉が作ったフレーズの出来の差に気づいたことを伝えたあとに、

    やっぱさなぎいぬ、朝顔ちゃんだけだね

    などと言い放ちます。ビジネス的に考えれば、必要なのは朝顔一人で他のメンバーは不要かもしれません。不要どころか邪魔かもしれなくて、なんなら切り離して、よそで見つけてきた他のメンバーとあわせて、最適構成にしてしまうのが近道なのかもしれません。メンバーを部品のように扱う悪い大人です。でも、それがビジネスなのでしょう。

    誰よりも(もしかしたら朝顔よりも強く)バンドの成功を望む瑞葉が、バンドの成功に必要なパーツは自分ではない、という確信にいたる。切ないです。これからは、ウィキペディアに載っているいろんなバンドの「旧メンバー」の欄を見るたびに、その裏にあるストーリーのことを思って、泣いてしまうかもしれません。

  • 読んでて騙され疲れました(又吉直樹『生きとるわ』)

    数ヶ月待って、やっと又吉直樹さんの『生きとるわ』を借りられました。人気作・話題作は次の予約が入っているから貸出期間を延長できません。なので、2週間のうちに必ず読む必要があります。締め切りがあるというのは、積読しがちな人にはちょうどいいかもしれません。

    そういう人気作が届いたタイミングで、別の人気作も予約の順番が回ってきたりして、こっちを先に読むべきか、それともこっちが先か、と複数の締め切りに追われることになります。借金で首が回らない人というのははこんな感じなのでしょうか。そんなわけないですね。

    借金といえば『生きとるわ』です。主人公の岡田は、高校時代からの友人である横井に500万円貸していて、それを踏み倒されそうになっています。たまたま横井を見かけ、それがきっかけで再び横井との接触が始まるのですが、借金を返してもらうどころか、次々とやっかいな話に巻き込まれ、みたいなところは帯にも書いてあるし、アマゾンの商品説明にも書いてあるので、読んでみてください。

    長いです。だから長篇っていうんですね。芥川賞受賞作とかって、せいぜい中篇の長さなので、無理やり一冊にしたような文の量の単行本もあって、それはそれで、行き帰りの通勤で読み終われたりするも好きなのですが、『生きとるわ』は400ページ以上あります。

    長篇を読み始める前は、飽きないかなーとか心配しながら最初のページをめくるのですが、心配無用でした。隙間時間に読書するので、ちょいちょい中断するんですね(新宿で乗り換えるときとかね)。でも、早く続きを読みたいって思って、ちょっと手が空くと読み始めてました。没入していると、待ち時間が気にならない。なんならもうちょっと読みたいから、ホームで待っている間にも、「もう来たのかよ山手線」みたいな。(山手線はすぐ来るだろ)

    長くても飽きさせない仕掛けがちゃんと入っていますね。いつの間にか、作中作に滑らかに入っていて、え? いつから? って感覚は初めて味わいました。ここは確実に「中」だなって描写はあるんですが、その前の段落はどっちだろう、みたいな。読んだ人はわかるが、読んでない人にはわからない話ですみません。

    ウソつきの登場人物(横井)がいたりすると、ちょっとしたトリックも入れられますしね。あれ? さっきの話と違うけど、私の読み間違いかな?って思って読み返すと、やっぱり辻褄が合わないぞってなって、あ、そうか、横井 ウソつきやった、って。

    主人公 兼 語り手の岡田が、横井に振り回されるという展開はご想像通りですが、状況はそんなに単純じゃないんですよね。語り手がすべてを語っているわけではないので、あとからちょっとした事実が出てきたりする。そうすると、なんか加害者・被害者のバランスが危うくなったりして。

    うまいんですよね、読者にほどよくミスリードさせる感じが。岡田は公認会計士をしていて(なんだか職業だけで信用しちゃいません?)、序盤に横井を含む友人たちとやりとりをしているときも、比較的客観的に物事を見ているよう感じで描かれています。まあでも、これって語り手が、自分が考えるところを話しているだけなので、別の人に語らせてみれば、どうなのかっていう、本当のところは分からない。

    語り手が隠していた事実が明らかになる場面といえば、岡田が奥さんに隠していた借金の額といきさつを説明する場面が秀逸でした。9ページくらい続きます。なぜ500万も横井に貸してしまっているのか、横井の見え透いた嘘に岡田がどう騙されてきたのか、その経緯を説明するのですが、岡田の判断力がかなり怪しいことが露呈します。理路整然といろいろと熟考しているような感じがあるが、ここぞというところで判断を誤る。そうであってほしい、というほうに賭けてしまう性分なのか、特に横井が絡むと話がおかしくなる。途中から奥さんは「めっちゃ阿呆やん」しか言わなくなって、数えたらトータルで10回くらい言ってました。

    全体的には横井はどちらかというと被害者です。でも、複数人が絡む詐欺って被害者がいつの間にか加害者側に回っているってことよくあるじゃないですか。横井に騙されて、岡田を騙すのに加担していた女が、横井に裏切られたあとに、岡田に対して、自分も被害者だみたいなそぶりをして、、それに岡田が「おまえもや」と心の中でつっこむ。でも、そのつっこんでる岡田も言えるような立場じゃなくなっている、みたいな。

    あまりに何度も横井に騙されるので「いやいや、さすがに気づくでしょ」という気になることもありましたが、ニュースでよく見る詐欺の手口の内容や、複数の芸能人が巻き込まれた投資トラブルの話(損害を取り戻してやるという第二の人物が現れ、追加投資してしまったみたいな)を聞くと、意外に岡田のような人間も多いのかも。見え透いたウソを信じてしまう人や、すぐばれるようなウソをつく人の心理を学べるような気がします。あなたは大丈夫?

  • 『ペンギン・ハイウェイ』のアオヤマ君に理想の人物像を見る

    森見登美彦さんのことを知ったのは『太陽の塔』で、長男が中学生か高校生の頃に宿題の読書感想文を書くとかなんとか、そんな理由で買った本が家にあったのがきっかけです。読んだような記憶があります、そして、おい、これで感想文書けるのか? とちょっと心配になった記憶もあるのですが、なんと、内容は全く覚えていません。なんだか、疾走している場面で遠くに太陽の塔が見えている、みたいなそんなイメージが思い浮かぶのですが、私の妄想かもしれません。

    そして、次に意識したのが『成瀬は都を駆け抜ける』で森見氏の名前が出てきたときで、この『成瀬』の単行本は次男が買ったものでした。受動的な読書姿勢。

    そして『ペンギン・ハイウェイ』は妻が図書館で借りて、次男にすすめていたので、私も読むことにしました。読むことにしたのですが、貸し出しの期限が来てしまったので返却し、再度借りようと川崎市の図書館システムで検索してみると、たくさんヒットしまして、まず単行本と文庫本版、そして角川つばさ文庫版。これは児童・生徒向けのいわゆるヤングアダルト層向けのやつで、振り仮名がたくさん振ってあって、挿絵が入っているやつですね。そして、英語版、韓国・朝鮮語版。『ペンギン・ハイウェイ』はいろんな言語に翻訳されているんですね。検索してみるとなんとイタリア語版もあるみたいで。韓国・朝鮮語版があるあたり、川崎っぽいですね。「音楽のまち・かわさき」(公式)、「映像のまち・かわさき」(公式)、「焼肉のまち・かわさき」(非公式)。

    角川つばさ文庫版に惹かれましたが、電車で読むときにちょっと恥ずかしいので普通の文庫版にしました。

    主人公はアオヤマ君という小学4年生の少年です。小説に限らず物語には「理想的な人物」というのが登場することがありますよね。アオヤマ君は私の考える「理想的な人物」ですね。単に優秀だからというわけではなく、優秀な自分を実現するためにかなり自覚的に努力しているところがかっこいい。

    書き出しで、かましてきます。

    ぼくはたいへん頭が良く、しかも努力をおこたらずに勉強するのである。

    だから、将来はきっとえらい人間になるだろう。

    こんな感じだと、さぞ、うぬぼれているのかと思いきや、そんな印象はありません。なぜだろう? 他者から矛盾点を指摘されたりすると、素直に認めたり、謝ったりする謙虚さはありますね。そして、極めつけは、やっぱり怒らないところだったりします。

    ウチダ君というおとなしい男の子と一緒にいるときに、いじめっ子のスズキ君グループにひどい目にあわされます。ウチダ君はその場から逃げ出すのですが、アオヤマ君は動けないようにしばりつけられたうえに、探検地図を奪われ、ノート(アオヤマ君はいろんなことをノートにメモしている)も、スズキ君たちにおしっこをかけられダメにされてしまいます。

    その翌日に学校でウチダ君が話しかけてきます。

    (略)彼は「アオヤマ君怒ってる?」とヘンなことを言うので、ぼくはたいへんおどろいてしまった。「なんで?」

    「日曜日、ぼくはアオヤマ君を見捨てて逃げたから」

    「怒ってない。ぼくは五歳になったときから、決して怒らないのだ」

    (略)

    「あれはかしこい判断だった。あのときウチダ君がもどってきても、二人いっしょにつかまるだけだった。だから君がつかまらなかっただけましだったとぼくは考える」

    怒らないことにしているというポリシーもすごいけど、見捨てられたという感情的な側面ではなく、被害を最小限にするための行動をとるべきだったという合理的な考え方。

    そして、このあとに名言が出ますよ。なぜ怒らないのか不思議がるウチダ君はアオヤマ君に訊きます、

    「アオヤマ君はスズキ君にも怒らないんだね」

    「怒りそうになったら、おっぱいのことを考えるといいよ。そうすると心がたいへん平和になるんだ」

    小四にして、なんという処世術。

    この何が起きても怒らない、というスタンスには神々しさすら感じます。湧き上がる怒りに対してどう接するべきかについては、仏陀がダンマパダ(『ブッダの真理のことば・感興のことば』)の中でも説いています。

    第17章 怒り

    (略)

    222 走る車をおさえるようにむらむらと起る怒りをおさえる人――かれをわれは〈御者〉とよぶ。他の人はただ手綱たづなを手にしているだけである。(〈御者〉とよぶにはふさわしくない。)

    223 怒らないことによって怒りにうち勝て。善いことによって悪いことにうち勝て。わかち合うことによって物惜しみにうち勝て。真実によって虚言の人にうち勝て。

    アオヤマ君は〈御者〉とよぶにふさわしい人格をそなえていて、すでに悟りに近いところにいるのかもしれません。別の意味でむらむらしそうですが、そこはおいておきましょう。このアオヤマ君の怒らない、真実を語る(極力そうしようとする)というスタンスが人物を魅力的にみせ、このアオヤマ君とお姉さん、アオヤマ君とウチダ君やいじめっ子スズキ君たちとの会話を興味深いものにしています。

    いくつかの「研究」を主導しているのはアオヤマ君で、ウチダ君は自身の「研究」についてはあまり話そうとしないのですが、アオヤマ君を信頼するにいたって、ウチダ君は「主観的観念論+パラレルワールド」のような斬新な自説を披露します。

    「ぼくが死んだあとの世界のこと。ぼくが死んで、そのあともみんなは生きていて、でも生きているみんなについてぼくはもう考えることもできないってこと。それはどういうことなんだろうって考えていた。ずっと考えてきて、ぼくは気づいたんだ。もしかすると、ぼくらはだれも死なないんじゃないかなって。」

    (略)

    「(略)ほかの人が死ぬとき、ぼくはまだ生きていて、死ぬということを外から見ている。でもぼくが死ぬときはそうじゃない。ぼくが死んだあとの世界はもう世界じゃない。世界はそこで終わる」

    でも、他の人にとっての世界はまだ存在しているよね、と訊くアオヤマ君にたいして、一つの「線」ともう一つの「線」という表現をつかって説明するウチダ君。しばらく不思議な議論が続きますが、メインのストーリーは、このウチダ君の研究とは特に関係なく続いていきます。ん? もしかしたら、関係があるのか? 私が気づかなかっただけ? 続編で伏線が回収されるとか。

    それはさておき(話を滑らかにつなごうという努力を怠るところが私の欠点です)、アオヤマ君の科学的思考は、お父さんの影響を受けていて、こんな「三つの役立つ考え方」を教えてもらったりしています。

    □ 問題を分けて小さくする。
    □ 問題を見る角度を変える。
    □ 似ている問題を探す。

    なんだか、ジョージ・ポリア先生が『いかにして問題をとくか』(過去記事:『いかにして問題をとくか』と『エレガントな問題解決』)の中で書いていた方法との関連性も感じます。

    このあたり、

    ◇ 条件の各部を分離せよ、それをかき表わすことができるか。
    ◇ 前にそれをみたことがないか、又は同じ問題を少しちがった形でみたことがあるか。
    ◇ 似た問題を知っているか。役に立つ定理を知っているか。

    うん、共通点ありますね。ね?

    『ペンギン・ハイウェイ』は4つの章に分かれていて、4つ目の「episode 4 ペンギン・ハイウェイ」の章では一気にクライマックスが訪れます。ここ、ちょっと私はしんどかったです。想像力が鈍っているのかもしれません。ペンギンはまあ思い浮かぶとして、「〈海〉」とか「ジャバウォック」とか、そもそも自分の頭の中で整理しきれていないものが、変形したり、湧き出たり、消えたりすると自分の想像力がついていけず、知恵熱が出そうでした。

    こういうのは映像で見られたらいいですよねー。アニメ化とかしたらいいんじゃないですか?

    ・・・ あー、すでにアニメ映画化されてました。しかもNetflixで見られるじゃないですか。私は吝嗇りんしょくなので、そう簡単にサブスクにお金払ったりするタイプじゃないのですが、息子が勤めている会社の福利厚生(?)なのか、リビングのテレビでNetflixが見られる状態になっているので、たまに見ています。今『地面師たち』を見ているので、見終わったら、映画『ペンギン・ハイウェイ』を見てみようと思います。そろそろ、人が死なないやつを見たかったんですよねー。

  • 宇野千代の初期の方の短篇『幸福』を読む

    宇野千代の初期の作品といえば、岩波文庫になっている『老女マノン・脂粉の顔』を入手すれば、新聞の懸賞で一等を獲ったデビュー作である『脂粉の顔』が読めます。

    上記で『脂粉の顔』は読んだので、じゃあその後くらいの時期に書かれた初期の代表作を読みたいなあと思い、ウィキペディアを見てみると、どうやら『幸福』という短篇集が出ているようです。じゃあ、それを読もうというつもりで借りたのが、なんと違う短篇集『幸福』であったというのがこちらの話でした。(過去記事:宇野千代の二つの『幸福』)

    よくわからないと思いますので、整理しますと、

    初期の『幸福』後期の『幸福』
    初出の年1924年1970年
    初出の雑誌『我観』
    大正13年2月号
    『新潮』
    昭和45年4月号
    単行本の出版1924年 金星堂1972年 文藝春秋
    全集への収録1929年 改造社『新選宇野千代集』、
    1977年 中央公論社『宇野千代全集』
    備考第十回女流文学賞受賞

    この2つの短編『幸福』は全く異なるものです。私が先に読んだ後期の『幸福』の方は、70歳過ぎの女性が語り手で、執筆当時の宇野千代さんの年齢と一致しています。11軒の家を建てた話とか、離婚している点など、実際の宇野さんのエピソードとの符合がみられます。

    そして、今回やっと読んだのが初期の『幸福』のほうです(1977年 中央公論社『宇野千代全集』に収録)。すでに結婚している女性「仮名子」が主人公で、その仮名子が里帰りをする話です。年齢は明確に書かれていないのですが、「彼女が未だやっと十七であった頃の情人」というのが登場して、「この男と別れてから十年と言う長い歳月が過ぎ去って居た事を気附いたのであった」という場面があることから、27歳くらいであろうと推測されます。初出の1924年時点の宇野千代さんの年齢を計算すると、26、27歳なので、これまた一致しますね。設定からいって、いわゆる私小説ではなさそうですが、宇野さんは自身と同性別・同年代の人物を語り手にすることが多いみたいですね。

    仮名子は気性が激しいことを想像させる女性です。言動というよりは心情の描写にあらわれています。会社の重役と結婚し、都会で裕福に暮らす彼女は、村の人たちからみれば「成功者」のような立場です。

    夫を連れずに一人で帰京し、かつての恋人「田沢」が仕事帰りに通るであろう土手で、会って何の目的があるというわけでもないが、日がな一日待ち続ける、みたいな話で、これだけ聞くと、ちょっと淡い恋の話に思えなくもないですが、もっとドロドロ感があります。

    田沢は手紙でそっけなく仮名子を振ったあと、勤め先の上司の娘と出世目的と思われるような結婚をしています。自分はそんなに軽い存在だったのか、というのを今でも問いただしたいという気持ちが仮名子にはあります。

    そういう未練のようなものと裏腹に、しょせん田舎の公務員(専売局の官員)でうだつのあがらない生活をしているであろう田沢をあざ笑いたい、後悔させたいとい気持ちが見え隠れします。そのような心情に加え、容姿に関するコンプレックス(ここでは「劣等感」ではない)も絡んできます。

    田沢の年上の妻が、彼女の耳の後に先の赤くなった、今にも化膿しそうなそれで居て決して小さくなる事のない、たん瘤を持って居ると言う話しは、仮名子を危く噴き出させるところであった。

    「たん瘤こぶ」とは腫瘤や脂肪腫の類でしょうか。今だったら、病院でとってもらったりできるのでしょうが、おそらく当時は無理で、美醜の印象に大きな影響を与えていたでしょう。自分を振った男の妻のことを、なんだその程度か、みたいに考えたい気持ちは分かりますが、疾患による症状を「危く噴き出させるところ」などと表現するあたり、こじらせた未練のすさまじさがするどく描かれています。

    他にも、田沢は美男子である、一方、仮名子の夫は「一面に薄痘痕のある赭黒い、柱時計のような顔」であるなど、複雑な感情を想起させる設定が揃っています。

    もし会ったとして、何を言うのか、そもそも何でこんなことをしているのかなど逡巡しながら、土手で待つ仮名子でしたが、

    仮名子は、最後に唯った一人の洋服を着た男が(この小さい村では小学校の先生か専売局の官員以外に洋服を着るものはなかったが、)幾らか猫背の儘に長い影を曳き乍らとぼとぼと帰って来るのを――然し、彼は決してあの男ではなかった。――見送るまで、彼女は彼女が其処で何を如何しようとして居るのかさえ忘れて、ぼんやりと立って居た。

    私、ピンときました。これは伏線だなと。

    それはさておき、田沢に会えなかった仮名子は、数日続けていた土手通いをやめます。そして、近くに住んでいる伯母を訪ねるために、乗り合い馬車に乗っているときに、なんと田沢と遭遇することになります。このあといったいどうなるのかが知りたいかたは、(たぶん入手は難しいので)図書館で借りて読んでみてください。


    2026年9月24日追記
    記念すべき宇野千代の一作目についての記事です。拙ブログの「もうすぐ朝ドラ『ブラッサム』記念、宇野千代特集」へのリンクもこちらにあります。

    宇野千代のデビュー作『脂粉の顔』と当時のモラル


  • 電子書籍で借りたい『蹴りたい背中』

    本を読むなら圧倒的に紙書籍派なのですが、ときどき電子書籍が欲しくなるときがあります。たしか登場人物の誰かがこんなことを言っていたんだけど・・・とか、こんな設定があったはずだけど・・・とか、あとは名前の読みの確認(特殊な読みなら初出の箇所にルビがあったりするので)とか。

    結局は両方欲しいんですよね。読むのは紙媒体、検索は電子媒体。両方あると便利なのだろうか、というのを試すべく、両方を同時に借りて、その利便性を確かめてみることにしました。

    電子媒体のほうが所蔵が少ないので、まずはこちらから探します。かわさき電子図書館には、綿矢りささんの『蹴りたい背中』がありました。まだ読んでなかったので、ちょうどいい。でも、予約が入っていて、待ちです。数週間後に順番が回ってきたので、そのタイミングに合わせて、紙書籍も借ります。こちらは所蔵数も多いのですぐに借りられます。図書館で紙書籍を受け取って、さて並列読みをしようと思っときに、ミスっていたことに気づきました。電子図書館の書籍は予約の順番が回ってきても自動的に貸し出しにはならず、一定期間内に貸し出し処理をしないと予約がキャンセルされてしまうんです。最近暑いせいでしょうか、やっと回ってきた予約の順番を、「そうめんのように」流してしまいました。

    つまり、今回は普通に紙の本を読むことになりました。冒頭に長々と書いた割には、その目的は一切達成できないまま、この感想文は始まります。

    斎藤美奈子さんが書いた巻末の「解説」によると、『蹴りたい背中』は127万部、芥川賞発表号の『文藝春秋』は118万部売れたそうです。もう、みんな読んでます。現時点で読んでいない人は、きっと一生読むことはない人なので除外して、つまり全員読んだということにしておきます。

    私、実は綿矢さんの作品は読んだことがありませんでした。でも、日テレ系(制作は読売テレビ)の「遠くへ行きたい」で沖縄を旅している綿矢さんは見ました。デビューしたのは高校生のときだったそうで、まー、すっかり大きくなって。YouTubeに番組がアップ(公式)されていますね。

    「遠くへ行きたい」って、なんか絶望的な発言のようにも見えますよね。もういやだ、限界だ、どこでもいい、遠くへ・・・行きたい、みたいな。でも、そんな番組じゃないので安心してください。

    「蹴りたい背中」というタイトルを聞いたとき、それは何か比喩的なものだと思いました。その人に対する願望とかイメージが膨らみ、それをどう表現するかが難しく、なんとか比喩的に表現したのが「蹴りたい」なのではないかと。

    ・・・まさか、本当に「蹴りたい」んだとは思いませんでした。そして、本当に蹴ります。笑ってしまいました。人が何かを蹴るのを読んで笑ってしまったのは、メロスが犬を蹴飛ばしたとき以来です。

    いいシーンでした。蹴りたくなって、気づいたら蹴っちゃってて。蹴られたほうも「え?」みたいな。「え? え? 何、今の?」みたいな。蹴ったのは主人公の女子高生の長谷川 初実、(後ろを向いているときに突然)蹴られるのが男子高生の蜷川 智。

    ハツこと初実はうまくごまかします。

    「ごめん、強く・・・叩きすぎた。軽く肩を叩こうとしたんだけど。もう帰るって、言いたくて。」ドアをノックするような手の動きを加えながら、嘘がすらすら口から出てきた。

    「ほぼパンチくらいの威力だったよ、今の。」

    惜しい! 「キック」でした。

    全体的に、総じて、強いて、言うなら、青春小説であり、恋愛小説ということになると思います。でも、あの背中がむずがゆくなるようなベタな恋愛ものではありません。背中はかゆくならずに、蹴られて痛くなります。なぜ背中を蹴りたくなるのかは、簡単には表現できません。ハツは、怒られている「にな川」(漢字が思い浮かばないので、頭の中でハツはこう呼んでいる)に対して、

    (略)がらんどうの目をして放心している。そして私にはそんな彼が、たまらないのだった。もっと叱られればいい、もっとみじめになればいい。」

    なんだか谷崎潤一郎みたいなのを思い浮かべるかもしれませんが、それとも違います。もっと淡い感じがするし、決して確信犯でもないあたり、初々しさがあります。

    にな川の人物の描き方もいいです。どう見てもイケメンではありません。分かりやすく言うとオタクっぽいという言い方になるんですが、それだとちょっとニュアンスが違います。好きなものを無邪気に好きだといえる小学生のような感じ。カムフラージュする必要があると思っていない頃の。

    ハツが、にな川のコレクションの中から、こんなものを発見します。

    無理があった。オリチャン(注:にな川が好きな女性タレント)の顔写真に、オリチャンの本当の身体とは似ても似つかないだろう、まだ成長しきっていない少女の裸が、指紋のついたセロテープでつぎはぎしてある。

    やべぇやつです。警察に押収されかねないブツです。

    ハツはこれをこっそり持ち帰ってしまいます。ハツが押収しました。

    そして、それを返す場面がきます。さすがにこんなものを見られては(そして盗まれては)、にな川は狼狽・激怒するのではという展開を想像していましたが、

    にな川は顔を近づけ写真を凝視し、次の瞬間、ぱっと顔を輝かせた。

    「失くしたと思ってたのに。ちっちゃいけど、なんかそそるとこがあって気に入ってんだ、これ。」

    想像をはるかに超えてきました。

    そうか青春の一歩手前なんですね。高校生でこれだと、周囲からは気味悪がられそうですが、にな川はまだ子供なんだと思えば納得がいきます。好きなものには正直、それ以外には無頓着。

    オリチャンを凝視するにな川を、凝視するハツも、そんなことをすればはた、、から見るとどう映るかまで気が回らなかったり、コントロールできなかったり。現にハツの友人の絹代は二人が恋愛関係だと思い込みます。普通そうでしょ、家に行ったり、一緒にライブに行ったり、ステージは見ずに、ステージを見ているにな川ばかり見つめるハツを見れば。

    でも、二人は青春の一歩手前で、世の中の常識的な関係性を落としどころにする、なんて感覚を持ち合わせていない。なるほど、これは青春前夜小説なのであると思った次第です。

    ちなみに、電子書籍を借りられなかったので、紙のページをめくって該当箇所を探すのが大変でした。やっぱり付箋紙は必需品です。