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勝手に読書感想文。漫画も映画も含みます

タグ: 日本

  • 読んでて騙され疲れました(又吉直樹『生きとるわ』)

    数ヶ月待って、やっと又吉直樹さんの『生きとるわ』を借りられました。人気作・話題作は次の予約が入っているから貸出期間を延長できません。なので、2週間のうちに必ず読む必要があります。締め切りがあるというのは、積読しがちな人にはちょうどいいかもしれません。

    そういう人気作が届いたタイミングで、別の人気作も予約の順番が回ってきたりして、こっちを先に読むべきか、それともこっちが先か、と複数の締め切りに追われることになります。借金で首が回らない人というのははこんな感じなのでしょうか。そんなわけないですね。

    借金といえば『生きとるわ』です。主人公の岡田は、高校時代からの友人である横井に500万円貸していて、それを踏み倒されそうになっています。たまたま横井を見かけ、それがきっかけで再び横井との接触が始まるのですが、借金を返してもらうどころか、次々とやっかいな話に巻き込まれ、みたいなところは帯にも書いてあるし、アマゾンの商品説明にも書いてあるので、読んでみてください。

    長いです。だから長篇っていうんですね。芥川賞受賞作とかって、せいぜい中篇の長さなので、無理やり一冊にしたような文の量の単行本もあって、それはそれで、行き帰りの通勤で読み終われたりするも好きなのですが、『生きとるわ』は400ページ以上あります。

    長篇を読み始める前は、飽きないかなーとか心配しながら最初のページをめくるのですが、心配無用でした。隙間時間に読書するので、ちょいちょい中断するんですね(新宿で乗り換えるときとかね)。でも、早く続きを読みたいって思って、ちょっと手が空くと読み始めてました。没入していると、待ち時間が気にならない。なんならもうちょっと読みたいから、ホームで待っている間にも、「もう来たのかよ山手線」みたいな。(山手線はすぐ来るだろ)

    長くても飽きさせない仕掛けがちゃんと入っていますね。いつの間にか、作中作に滑らかに入っていて、え? いつから? って感覚は初めて味わいました。ここは確実に「中」だなって描写はあるんですが、その前の段落はどっちだろう、みたいな。読んだ人はわかるが、読んでない人にはわからない話ですみません。

    ウソつきの登場人物(横井)がいたりすると、ちょっとしたトリックも入れられますしね。あれ? さっきの話と違うけど、私の読み間違いかな?って思って読み返すと、やっぱり辻褄が合わないぞってなって、あ、そうか、横井 ウソつきやった、って。

    主人公 兼 語り手の岡田が、横井に振り回されるという展開はご想像通りですが、状況はそんなに単純じゃないんですよね。語り手がすべてを語っているわけではないので、あとからちょっとした事実が出てきたりする。そうすると、なんか加害者・被害者のバランスが危うくなったりして。

    うまいんですよね、読者にほどよくミスリードさせる感じが。岡田は公認会計士をしていて(なんだか職業だけで信用しちゃいません?)、序盤に横井を含む友人たちとやりとりをしているときも、比較的客観的に物事を見ているよう感じで描かれています。まあでも、これって語り手が、自分が考えるところを話しているだけなので、別の人に語らせてみれば、どうなのかっていう、本当のところは分からない。

    語り手が隠していた事実が明らかになる場面といえば、岡田が奥さんに隠していた借金の額といきさつを説明する場面が秀逸でした。9ページくらい続きます。なぜ500万も横井に貸してしまっているのか、横井の見え透いた嘘に岡田がどう騙されてきたのか、その経緯を説明するのですが、岡田の判断力がかなり怪しいことが露呈します。理路整然といろいろと熟考しているような感じがあるが、ここぞというところで判断を誤る。そうであってほしい、というほうに賭けてしまう性分なのか、特に横井が絡むと話がおかしくなる。途中から奥さんは「めっちゃ阿呆やん」しか言わなくなって、数えたらトータルで10回くらい言ってました。

    全体的には横井はどちらかというと被害者です。でも、複数人が絡む詐欺って被害者がいつの間にか加害者側に回っているってことよくあるじゃないですか。横井に騙されて、岡田を騙すのに加担していた女が、横井に裏切られたあとに、岡田に対して、自分も被害者だみたいなそぶりをして、、それに岡田が「おまえもや」と心の中でつっこむ。でも、そのつっこんでる岡田も言えるような立場じゃなくなっている、みたいな。

    あまりに何度も横井に騙されるので「いやいや、さすがに気づくでしょ」という気になることもありましたが、ニュースでよく見る詐欺の手口の内容や、複数の芸能人が巻き込まれた投資トラブルの話(損害を取り戻してやるという第二の人物が現れ、追加投資してしまったみたいな)を聞くと、意外に岡田のような人間も多いのかも。見え透いたウソを信じてしまう人や、すぐばれるようなウソをつく人の心理を学べるような気がします。あなたは大丈夫?

  • 『ペンギン・ハイウェイ』のアオヤマ君に理想の人物像を見る

    森見登美彦さんのことを知ったのは『太陽の塔』で、長男が中学生か高校生の頃に宿題の読書感想文を書くとかなんとか、そんな理由で買った本が家にあったのがきっかけです。読んだような記憶があります、そして、おい、これで感想文書けるのか? とちょっと心配になった記憶もあるのですが、なんと、内容は全く覚えていません。なんだか、疾走している場面で遠くに太陽の塔が見えている、みたいなそんなイメージが思い浮かぶのですが、私の妄想かもしれません。

    そして、次に意識したのが『成瀬は都を駆け抜ける』で森見氏の名前が出てきたときで、この『成瀬』の単行本は次男が買ったものでした。受動的な読書姿勢。

    そして『ペンギン・ハイウェイ』は妻が図書館で借りて、次男にすすめていたので、私も読むことにしました。読むことにしたのですが、貸し出しの期限が来てしまったので返却し、再度借りようと川崎市の図書館システムで検索してみると、たくさんヒットしまして、まず単行本と文庫本版、そして角川つばさ文庫版。これは児童・生徒向けのいわゆるヤングアダルト層向けのやつで、振り仮名がたくさん振ってあって、挿絵が入っているやつですね。そして、英語版、韓国・朝鮮語版。『ペンギン・ハイウェイ』はいろんな言語に翻訳されているんですね。検索してみるとなんとイタリア語版もあるみたいで。韓国・朝鮮語版があるあたり、川崎っぽいですね。「音楽のまち・かわさき」(公式)、「映像のまち・かわさき」(公式)、「焼肉のまち・かわさき」(非公式)。

    角川つばさ文庫版に惹かれましたが、電車で読むときにちょっと恥ずかしいので普通の文庫版にしました。

    主人公はアオヤマ君という小学4年生の少年です。小説に限らず物語には「理想的な人物」というのが登場することがありますよね。アオヤマ君は私の考える「理想的な人物」ですね。単に優秀だからというわけではなく、優秀な自分を実現するためにかなり自覚的に努力しているところがかっこいい。

    書き出しで、かましてきます。

    ぼくはたいへん頭が良く、しかも努力をおこたらずに勉強するのである。

    だから、将来はきっとえらい人間になるだろう。

    こんな感じだと、さぞ、うぬぼれているのかと思いきや、そんな印象はありません。なぜだろう? 他者から矛盾点を指摘されたりすると、素直に認めたり、謝ったりする謙虚さはありますね。そして、極めつけは、やっぱり怒らないところだったりします。

    ウチダ君というおとなしい男の子と一緒にいるときに、いじめっ子のスズキ君グループにひどい目にあわされます。ウチダ君はその場から逃げ出すのですが、アオヤマ君は動けないようにしばりつけられたうえに、探検地図を奪われ、ノート(アオヤマ君はいろんなことをノートにメモしている)も、スズキ君たちにおしっこをかけられダメにされてしまいます。

    その翌日に学校でウチダ君が話しかけてきます。

    (略)彼は「アオヤマ君怒ってる?」とヘンなことを言うので、ぼくはたいへんおどろいてしまった。「なんで?」

    「日曜日、ぼくはアオヤマ君を見捨てて逃げたから」

    「怒ってない。ぼくは五歳になったときから、決して怒らないのだ」

    (略)

    「あれはかしこい判断だった。あのときウチダ君がもどってきても、二人いっしょにつかまるだけだった。だから君がつかまらなかっただけましだったとぼくは考える」

    怒らないことにしているというポリシーもすごいけど、見捨てられたという感情的な側面ではなく、被害を最小限にするための行動をとるべきだったという合理的な考え方。

    そして、このあとに名言が出ますよ。なぜ怒らないのか不思議がるウチダ君はアオヤマ君に訊きます、

    「アオヤマ君はスズキ君にも怒らないんだね」

    「怒りそうになったら、おっぱいのことを考えるといいよ。そうすると心がたいへん平和になるんだ」

    小四にして、なんという処世術。

    この何が起きても怒らない、というスタンスには神々しさすら感じます。湧き上がる怒りに対してどう接するべきかについては、仏陀がダンマパダ(『ブッダの真理のことば・感興のことば』)の中でも説いています。

    第17章 怒り

    (略)

    222 走る車をおさえるようにむらむらと起る怒りをおさえる人――かれをわれは〈御者〉とよぶ。他の人はただ手綱たづなを手にしているだけである。(〈御者〉とよぶにはふさわしくない。)

    223 怒らないことによって怒りにうち勝て。善いことによって悪いことにうち勝て。わかち合うことによって物惜しみにうち勝て。真実によって虚言の人にうち勝て。

    アオヤマ君は〈御者〉とよぶにふさわしい人格をそなえていて、すでに悟りに近いところにいるのかもしれません。別の意味でむらむらしそうですが、そこはおいておきましょう。このアオヤマ君の怒らない、真実を語る(極力そうしようとする)というスタンスが人物を魅力的にみせ、このアオヤマ君とお姉さん、アオヤマ君とウチダ君やいじめっ子スズキ君たちとの会話を興味深いものにしています。

    いくつかの「研究」を主導しているのはアオヤマ君で、ウチダ君は自身の「研究」についてはあまり話そうとしないのですが、アオヤマ君を信頼するにいたって、ウチダ君は「主観的観念論+パラレルワールド」のような斬新な自説を披露します。

    「ぼくが死んだあとの世界のこと。ぼくが死んで、そのあともみんなは生きていて、でも生きているみんなについてぼくはもう考えることもできないってこと。それはどういうことなんだろうって考えていた。ずっと考えてきて、ぼくは気づいたんだ。もしかすると、ぼくらはだれも死なないんじゃないかなって。」

    (略)

    「(略)ほかの人が死ぬとき、ぼくはまだ生きていて、死ぬということを外から見ている。でもぼくが死ぬときはそうじゃない。ぼくが死んだあとの世界はもう世界じゃない。世界はそこで終わる」

    でも、他の人にとっての世界はまだ存在しているよね、と訊くアオヤマ君にたいして、一つの「線」ともう一つの「線」という表現をつかって説明するウチダ君。しばらく不思議な議論が続きますが、メインのストーリーは、このウチダ君の研究とは特に関係なく続いていきます。ん? もしかしたら、関係があるのか? 私が気づかなかっただけ? 続編で伏線が回収されるとか。

    それはさておき(話を滑らかにつなごうという努力を怠るところが私の欠点です)、アオヤマ君の科学的思考は、お父さんの影響を受けていて、こんな「三つの役立つ考え方」を教えてもらったりしています。

    □ 問題を分けて小さくする。
    □ 問題を見る角度を変える。
    □ 似ている問題を探す。

    なんだか、ジョージ・ポリア先生が『いかにして問題をとくか』(過去記事:『いかにして問題をとくか』と『エレガントな問題解決』)の中で書いていた方法との関連性も感じます。

    このあたり、

    ◇ 条件の各部を分離せよ、それをかき表わすことができるか。
    ◇ 前にそれをみたことがないか、又は同じ問題を少しちがった形でみたことがあるか。
    ◇ 似た問題を知っているか。役に立つ定理を知っているか。

    うん、共通点ありますね。ね?

    『ペンギン・ハイウェイ』は4つの章に分かれていて、4つ目の「episode 4 ペンギン・ハイウェイ」の章では一気にクライマックスが訪れます。ここ、ちょっと私はしんどかったです。想像力が鈍っているのかもしれません。ペンギンはまあ思い浮かぶとして、「〈海〉」とか「ジャバウォック」とか、そもそも自分の頭の中で整理しきれていないものが、変形したり、湧き出たり、消えたりすると自分の想像力がついていけず、知恵熱が出そうでした。

    こういうのは映像で見られたらいいですよねー。アニメ化とかしたらいいんじゃないですか?

    ・・・ あー、すでにアニメ映画化されてました。しかもNetflixで見られるじゃないですか。私は吝嗇りんしょくなので、そう簡単にサブスクにお金払ったりするタイプじゃないのですが、息子が勤めている会社の福利厚生(?)なのか、リビングのテレビでNetflixが見られる状態になっているので、たまに見ています。今『地面師たち』を見ているので、見終わったら、映画『ペンギン・ハイウェイ』を見てみようと思います。そろそろ、人が死なないやつを見たかったんですよねー。

  • 中高生向けの遺伝子編集技術の解説書『CRISPRってなんだろう?』

    ノーベル賞(2020年の化学賞)をとった「CRISPRクリスパーCasキャス9ナイン」というゲノム編集技術のことが知りたくて読んでみました。サブタイトルに「14歳からわかる遺伝子編集の倫理」とあるように、中高生くらいから読める構成になっています。そして、技術だけでなく「倫理」面を強調した書籍になっています。

    「第1章 遺伝学の世界に飛び込もう」で、まず遺伝子についての基本、「第2章 ゲノムを書きかえる」で、CRISPR-Cas9の技術が解説されます。第3章以降は、この技術を使ったら何ができるのか、そのすばらしい可能性の側面と、それだけでなく、リスクや倫理的な問題も提起されています。

    構成がうまいです。一冊まるまる学術や技術の話をされても集中力が持続しないかもしれませんが(14歳とか、私とか)、技術の内容→何ができるかの具体例→輝かしい可能性→リスク・問題点のように観点が変化する構成になっているので、飽きずに読み進められます。著者のヨローナ・リッジさんは、児童文学作家らしいです。なるほど。

    CRISPR-Cas9の技術が鎌状赤血球貧血症という遺伝病の治療に使えること、蚊がマラリアを仲介しないようにできること、虫害・冷害・腐敗などがおきにくい野菜を作れることなど、いくつかのトピックが各章に割り当てられてます。

    技術のすばらしさや可能性だけでなく、倫理面などについても書かれているのがこの本の特徴です。どこから先を治療すべき「病気」とみなすのか、「死に至る病」から、「ちょっと不便な状態」まで病気と個性の境界は、線を引くことが難しいグラデーションになっています。近視を防ぐために遺伝子編集をするか、みたいな問題。本人の治療ならまだしも、そのような形質を避けるための産み分けとか妊娠の継続判断とか。基準がないと危うい、でも簡単に基準を定められるようなものでもありません。そのような課題意識が沸き起こる構成になっています。

    各章の後半には、「止まれ(STOP)」、「徐行(YIELD)」、「すすめ(GO)」のマークが付与されていて、各論が併記されています。遺伝子操作だけでなく、肉食や動物実験の是非など考えだしたら、気になることはいっぱいあります。「絶対にこうだ」という結論にいたらないまま、もやもやしながら読み終える本なのでしょう、これは。青少年の諸君は大いに悩んでください。

  • 『新しい本棚を共有する。』と『イデオロウィンの行進』

    『すばる』2026年7月号の「SNSが好きで嫌いで」という特集で、小説が4本掲載されていました。まず、必ず読むことになっている(いきさつ:2026年上半期の芥川賞を予想・・・はせずに、賞を新設する)小砂川チトさんの『犬たちの頭痛』を読みまして、次に何だか気になった村田沙耶香さんの『喪失』を読みました。4つ載っている小説のうち2つだけ読んで、残りを読まないというのは、なんか変なので(変なので?)、残り2本もちゃんと読みました。律儀な性格なのです。

    3本目に読んだのは、鈴木結生ゆういさんの『新しい本棚を共有する。』です。「。」がついています。「モーニング娘。」と一緒ですね。書き出しはこうです。

    ここ数日、ぼくは《独学者》と一緒に暮らしていたようだ。

    小説の出だしは状況をつかむまでが大変です。「独学者」は括弧がついているので、まあいいでしょう。きっと、あとで何か説明があるのでしょう。問題は「墨」です。このあとの使われ方をいくつか見てみると、固有名詞かもしれないと思いました。つまり、墨さんという苗字ですね。中国系だとそういう名前があるのかもしれないし、印鑑があるかないかで対決するような珍名さんかもしれません。

    ただ、読み進めていると、もしかしてこれは一人称の人称代名詞、 つまり、「僕」の言い換えというか、当て字というか、そういうもののような気がしてきました。結局、最後まで確信が持てなかったのですが、十中八九「僕」という意味のような気がしています。もし、そうだとしたら、ちょっとイラっとしてしまいそうです。いけませんね、これがキレる老人というやつでしょうか。25歳が書いたものにいい歳をしたおっさんがキレてはいけません。

    しばらくすると、

    「結局、本棚っていうのは満杯にしないといけないものなのかもね」墨は、一瞬済補から目を外し、自分の前に並んだ、四列のカシマカスタムを眺めて嘆息した。

    「済補」? また、知らない言葉が出てきた。しかもルビも振っていないあたりをみると、一般的な言葉なんでしょう。Web検索してみました・・・。造語の当て字じゃねぇかっ! いかんいかん、キレそうになった。以下のサイトに、「済補」の意味するところが書いてありました。福岡県(⊃佐賀県)出身者なら誰もが知っているRKB毎日放送のサイトで、鈴木結生氏へのインタビュー記事です。

    「まずスマホっていう言葉がね、あまり小説では使いたくない感じがした。電子機器の固有名詞は小説と相性悪いと思う。ポケベル、ファクシミリとか、とたんに時代感が出る。(略)」

    というのを避けたかったようです。ただ、スマホは固有名詞ではなく一般名詞では? という気もしますが、意図したところはなんとなく分かりました。芥川賞をとった『ゲーテはすべてを言った』の中で使っていたようですが、今回の短篇の範囲の印象だと、邪魔にしかなっていないような・・・。時代感を出したくないなら、「携帯」とか「手元の端末」くらいにしておけば、ガラケーともスマホともとれるし、今後出てくる何らかの次世代ハードウェアともとれるので汎用的ではないでしょうか。「すまほ」という音を使った時点で、スマートフォンであることが固定されてしまうので、むしろ「時代感」が出てしまうような気がします。

    ちなみに「カシマカスタム」については文芸雑誌を読むような人なら当然知っているような単語なのかもしれません。

    「墨」と「済補」にはちょっとモヤモヤしましたが、ストーリーについてはアガサ・クリスティの『ABC殺人事件』に着想を得たらしい、非常に面白い読書マニアックミステリーファンタジーでした。

    次々と引用される名作の数々、もし読んだことがあれば、楽しさ倍増ですが、私が読んだことがあったのは、「I」のIsaka, Kotaroの『アヒルと鴨のコインロッカー』だけでした。やっぱり年間1000冊は読まないと駄目ですね。

    実はこの年間1000冊についても、本作『新しい本棚を共有する。』の中で言及があり、ちょっと面白いです。

    昨年、墨が文学賞を貰った際に、あるTV番組の取材で口走った「年間千冊読む新人作家」ということが喧伝され、会う人会う人からそのことについて尋ねられる、という不愉快な事態を招くこととなった。その度に墨としては、あれは終日図書館にこもって小説を書いていた一年間に限っての話であり、今となっては日に一冊読むのがせいぜいだ、と答えてきたのだけれど、どれだけ弁明したところで、世の中の人々の目につくのは「年間千冊読む新人作家」という部分であり、(略)

    メディアの人がそういうキャッチーなフレーズに飛びつく様子が目に浮かびます。なので、その真相をこのように作品に入れ込んでしまうのはいい考えかもしれません。ただ、「年間三冊読むマスコミ関係者」が、この作品を目にする確率はかなり低いかもしれません。次にこんな質問をされたときは、1兆個のギャグを持つ男 FUJIWARA原西さんを見習って、「今までに1兆冊読みました」とか言ってみて、本気にするかどうか試してみるのも手です。「千冊」には二度と触れられなくなるかもしれません。

    さて、最後に読んだのが奥田亜希子さんの『イデオロウィンの行進』です。実は奥田さんのことは存じあげておりませんでした。年間千冊読んでないもので(しつこい?)。小説に順番につけるのは、なんか違う気がしつつも、今回の特集「SNSが好きで嫌いで」の小説の中で、墨が(しつこい?)一番好きだったのは、この『イデオロウィンの行進』でした。

    主人公の男性、りょうのあまり主張をせず流される感じとか、その彼女の人を振り回す感じとか、そのへんによくいそうな普通の人の範囲のキャラクターなのに、SNSを絡めることで、そのズレがなんか許容できないような大きさになっていくという。ペット向け料理の先生 兼 活動家の松木さんも、そこまで異常な人というわけではないのに、動物愛がちょっと過剰なだけで、なんだか道をそれていってしまっている感じとか。

    後半の展開も意外だけどありえそうと感じさせる範囲のものだったので、人の行動なんて結構なりゆきで構成されているのかもと思っちゃったりして、それはつまりどう転ぶか分からないという恐怖であり、反面、突然ひらけちゃうものだったりという希望さえも感じさせるものでした。世の中の大それたこと(良いことも悪いことも)をやっている人も、実はこんな程度のきっかけだったのかもと思うと、やっぱりちょっと怖い感じもするあたりが、ゾクゾクとして楽しい小説でした。

  • インターネットのない世界でのヲチ『喪失』(村田沙耶香 著)

    (アイキャッチ画像:By Itasan – Own work, CC BY-SA 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=98530554

    文芸誌はほやほやの最新作が読めるのがいいですね。『すばる』2026年7月号に載っていた『喪失』は、現在(2026年8月)の時点で読める村田沙耶香さんのたぶん最新作です。

    実は私は『コンビニ人間』しか読んだことがありません。でも、BSテレ東の「あの本、読みました?」に出演されていたのは見たので、オイコス(砂糖不使用の高たんぱくヨーグルト)に山ほど砂糖をかけて食べていて、朝井リョウさんに怒られたというエピソードは知っています。こういう話を聞くと、コンビニ人間の主人公の茹でただけの野菜を味をつけずに食べる話も、実話に基づいているのではないかと、ちょっと怖くなります。

    『喪失』の冒頭です。

    ある休日の午後、フォロワーと一緒に訪れ、ゲームに登場する森をイメージしたという巨大なロコモコを食べていたコラボカフェ以外の人類が全部滅亡してしまってから、だいたい20年が経ちました。

    頭に入ってきません。情報が多すぎる? いや違う。後半のインパクトに比べて、前半の情報の重要度が低すぎます。「フォロワー」とか「コラボカフェ」とか、どうでもいい情報が邪魔をします。

    でも、この小説って「SNSが好きで嫌いで」という特集の一つとして書かれたものなので、インターネットのサービスがきっかけで集まった人たちが災難に巻き込まれる(いや、逃れたのか)というのは、重要な要素の一つになります。自分たち以外の人類が滅亡しているので、インターネットやらSNSは使えなくなっている、という前提です。

    なるべくネタバレは避けたいのですが、ここのシーンについてだけは書きたい。20年経って、98歳になったおばあちゃんが、何かやりたいことはないか?と聞かれたときの台詞。

    「ツイの鍵垢にログインしてヲチ。ヲチスレのログ保存して必要あれば魚拓投下」

    残念ながら、私は意味が分かりませんでした。「ツイ」はツイッターだろう、「魚拓」はウェブページを保存して残しておくサービスだろう、とは思うのですが、「ヲチ」が何か分からないため、おばあちゃんが何をしたいのか全然イメージがわきませんでした。(結局、検索して調べた)

    インターネットが使えなくなって20年が経ち、他の比較的若い人たちはネット用語など使わなくなったタイミングでの、おばあちゃんのスラングばりばりの発言。これがツボでした。コントのシチュエーションにも使えそうです。

    おばあちゃんが使うスラングですから、ちょっと古いものだったりするのでしょうか。今は「ツイ」は何になっているんでしょうか。ほとんどの人がパソコンやスマホを使うようになって久しいので、今どきのおばあちゃんにとってヲチが好きということは珍しくないのかもしれません。(さっそく使ってみる)

    SNSとはどんなものなのか、人々にどんな影響を与えているのか。それはSNSのない世界を考えると、浮き彫りになるのかもしれません。そして、「ヲチ」という行為はインターネットやSNSがあるがゆえに生まれたもののように、普通は思います。しかし、インターネットができる前から、そしてインターネットがなくなってしまった20年後の世界であっても、「あの世界」は存在しているんじゃないか、という感覚を主人公は持ちます。それがどういう意味なのかは、『すばる』2026年7月号をご覧ください。(中の人?)


    この同じ特集の中に、小砂川チトさんの小説も掲載されています。

    犬×AIロボット犬×ミステリー?『犬たちの頭痛』

  • 犬×AIロボット犬×ミステリー?『犬たちの頭痛』

    『すばる』2026年7月号に載っていた、小砂川チトさんの『犬たちの頭痛』を読みました。現時点(2026年8月)では、小砂川さんの最新作だと思います。

    「SNSが好きで嫌いで」と題された特集に、村田沙耶香さんの『喪失』、鈴木結生ゆういさんの『新しい本棚を共有する。』、奥田亜希子さんの『イデオロウィンの更新』、そして、小砂川チトさんの『犬たちの頭痛』の4本の小説が掲載されていました。

    文芸誌は初心者なので、あまりよくわかっていないのですが、こういうのって作家さんに「お題」を出して書いてもらうんですよね。いずれ単行本になったりするのでしょうか。作家さんごとの単行本ならいくつか集めて1冊分くらいたまったら短編集になるとかなんですかね。この4作でお題ありきのアンソロジーみたいな形でもよさそうです。いずれにせよ、文芸誌のコスパは高いです。

    で、『犬たちの頭痛』ですが、小砂川さん得意のモチーフで、例によってちょっと変わったものとのインタラクションが描かれています。今回は、犬とAI犬(?)です。あと、今回は、え? ミステリー? みたいな展開も。

    あ、そうだ、すでに読んだ人と「これ、どういうこと?」と共有いたしたく、つまり読んだ人向けにいろいろ書きたくて、ネタバレしまくりますので、まだ読んでいない人は・・・

    2026年7月号 | バックナンバー | 集英社の月刊文芸誌「すばる」

    でね、マクが意図的に何かをしようとした、というのはありえないと思ったんですが、故意ではないにせよ、道案内を間違ったのか、ってあたりが明確になるのかなあ、なんて思って読んでいたら、けっこう急に終わっちゃったでしょ、何かをほのめかす感じで。

    太字になっていた、夫婦の言動とか、オチャッピイ(ネーミング!)の受信内容とかがヒントになっていると思うんですが、答え合わせまではしてくれていないので、ちょっともやもやっとしてまして。

    最後に消防署員が来て、あれ?何しに?と思ったら、指に土。そしてオチャッピイにも土。ということは犯人?

    夫が「お前らふたり」って言ってたから、奥さんと誰かの仲を疑っていて、果たして、本当にそうで、その「お前らふたり」が共謀して夫をドンッと。

    あらためて、時系列で整理すると、奥さんが消防署員と共謀して夫を山におびき出す。どこかいい感じのところ(消防署員は詳しいかもね)で突き落とす、でもそこじゃないところで事故があったと奥さんは証言して、捜索の目を逸らさせる。その作り話の被害者がマク。SNSでも有名だって書いてあったし。消防署員はオチャッピイを送り込んで、マク経由で情報を集める。死体は見つかりにくいところにあるものの、そのままにしておくと、いつ見つかるか分からないので、頃合いを見計らって、署員とオチャッピイでどこかに埋める、もしくは運び出す。そもそも、オチャッピイは消防署員が持ってきたものだから、グル(っていうかロボット犬だけど)という可能性は高い。

    なぜ、最後に山小屋を訪ねて来たのか? おじいさんを狙う理由もなさそうだし。もしや、マクがいろいろと知ってしまったから、マクの命を狙っているとか。そういえば、トイレを借りたいとか言っていたな。トイレで死体を処分するとか。まさか、本当にう❍こ?

    正直よく分かりません。読んだ人で、違う解釈をした人は教えてください。

    ミステリーっぽいところばかり書いちゃいましたが、浸食してくるテクノロジーみたいな要素もありましたね。AIロボット犬のせいで、マクやおじいさん(高野)はお役御免になりそうだし。SNSは悪意だけでなく善意もまき散らしてきて、およそ縁のなかった老人まで翻弄してしまうし。メディアが他者に語らせるようになるというのは面白い着想ですよね。何を言ったかではなく、誰が言ったかを気にするのが、人間ですから。

    (この記事はAIによって生成されました)

    ・・・うそよ。


    同じ特集として載っていた、村田沙耶香さんの作品も読みました。

    インターネットのない世界でのヲチ『喪失』(村田沙耶香 著)

  • 妊娠と文学『妊娠カレンダー』

    小川洋子さんの『妊娠カレンダー』読みました。妊娠した姉のつわりがひどく、そのとばっちりをうける妹が語り手。何を作ってもケチをつけてくる姉は、ほとんど何も食べられない状態でしたが、たまたま妹が作ったグレープフルーツのジャムにはまり、パンなどにつけるでもなく、カレーライスのようにスプーンで食べ続けます。妹はせっせとグレープフルーツのジャムを作る、姉はすぐに食べてしまう、妹は作る、姉は食べるというが毎日続きます。妹はスーパーで買うときに確認します。

    「これ、アメリカ産のグレープフルーツですか?」

    純文学系の作品でよく見かけるのですが、はたから見ると何も起きていないように見える、でも何か大変なことが起きているかもしれない。でも、結局何も起きてないんじゃないか、とかね。

    ネタバレですよ。要注意。

    作品の最後のところ。

    わたしは、破壊された姉の赤ん坊に会うために、新生児室に向かって歩き出した。

    多少多めに、発がん性のある物質を摂取したからといって、すぐに何か影響が出るとは考えにくい。普通に考えると、この程度で問題が発生する確率はごくごく低いでしょう。つまり、はたから見れば、あるいは、結果的には、妹は姉の好きな食べ物をせっせと作ってあげた、というだけの話です。

    羽田圭介さんの『スクラップ・アンド・ビルド』に出てくる、祖父を甲斐甲斐しく介護する孫を思い出します。

    死期を早めてあげるための介護とは?『スクラップ・アンド・ビルド』

    一見、何でもやってあげるやさしい孫なのですが、その目的は、頭も体も使わせないようにして、心身の機能を弱め、死期を早めてあげることだったりします。

    あと、思ったのは妊娠は文学になるんだなーということ。姉は難産になることを恐れているのですが、それ以上に・・・

    「でももっと怖いのは、自分の赤ん坊に会わなきゃならないってこと」
    (略)
    「ここで一人勝手にどんどん膨らんでいる生物が、自分の赤ん坊だってことが、どうしてもうまく理解できないの。抽象的で漠然としてて、だけど絶対的で逃げられない。(略)」

    そういえば、2026年上半期の芥川賞ノミネート作、鈴木涼美すずみさんの『悪い血』も妊娠が重要なモチーフでした。

    『悪い血』と私小説

    今までさんざん無茶な生き方をしていた自分が、結婚して子供産んで幸せになるなんてことは絶対にない、許されない。検査で子供に何か出るに違いないし、もしそうでなくても、どこかでしっぺ返しがくるはずだという考えに取りつかれた女性の行動が描かれていました。

    最近読んだ、井戸川射子さんの短篇集『移動そのもの』に収録されている『花瓶』の設定も、妊娠したお姉さんとその妹(語り手)が登場人物というものでした。

    『移動そのもの』と『旅は育ての親』

    姉妹そろって精神科医にかかっているようで、その医者への妹の独白が続くだけなので、どこまで客観性があるのかは分かりませんが、結婚・妊娠がきっかけとなって、ちょっとしたごたごたが発生しているような感じ。

    『妊娠カレンダー』に話を戻すと、文庫版のあとがきが興味深かったです。どんな話かというと、小川洋子さんが台所の床下収納を開けてみると、猫が死んでいたという話。

    そんな話をさらっとあとがきに書くなよー、と読み進めたら、実は腐った玉ねぎで、ぶよぶよになった玉ねぎが猫の頭蓋骨に見えたという落ち。でも、この先が面白くて、『妊娠カレンダー』は自分の経験を書いた作品か?と質問されることがよくあるらしく、そのたびに、「私の妊娠体験なんて、スーパーで買ってきた新鮮な玉ねぎそのもので、何の書かれるべき要素も含んでいない」と。玉ねぎが床下収納で腐ったり、それが猫の死骸になるところに小説があるのだと。

    日常のちょっとしたことに着想をえながらも、そのままじゃ小説になるようなものじゃない。新鮮な玉ねぎを買ってきたあとに、それを腐らせたり、猫の頭蓋骨にするのが作家の仕事なのだなあと。ちょっと想像できないので、これからも消費者として楽しませていただきたいと思っています。

  • 同級生との関係が長く続く秘訣?『いまさら』(古川真人著)

    平野啓一郎さんの『決定的瞬間 The Decisive Moment』を読むべく借りた『新潮』2026年5月号でしたが、例によって他の作品もつまみ食いしてみました。定期購読しているわけではないので、長篇はちょっと避けてしまいます。そこで、文芸誌にはたいてい3,4作は載っている短篇・中編を読みます。

    今回いくつか読んだ中で、グッとはまったのが古川真人さんの『いまさら』でした。登場人物の「四十近い」男性の三人は、中学生の頃からの知り合いで、半年に一度都内の居酒屋で集まるような関係です。

    その一人、養母田やぶたが直前になって会合に出ないと言い出すところから話は始まります。この会合の開催を主導したり、お店を選んだりと積極的なキャラが柿本。二人の関係を、一歩引いた感じで眺めているのが、メインの語り手の笹塚です。

    養母田と柿本は小学校からの知り合い、そこに中学校のときに笹塚が加わったという流れ。なので、笹塚は小学生時代の二人をあまり知らなくて、今回のごたごたで双方の言い分を聞いていく中で、二人の『いまさら』な過去を知っていくという展開です。

    小学校時代の話で二人で盛り上がっているときに感じる、残り一人の「蚊帳の外」感とか。場合によっては上下関係にも近いような、いじり・いじられの関係性、その関係性も時間が経つにつれて変化するもの、しないものがあったり。デリカシーのない小学生の「いじり」と「いじめ」の境界線って微妙で、それに起因する確執のようなものがあったりとか。まず、この誰もが経験したであろう、あるあるでつかまれます。

    私の経験ですが、活発な人気者が何かのきっかけで皆から疎まれるようになるとか、見かけたなあ。ちょっとしたことでバランスがおかしくなって、失脚するんですよね。小学校のときのガキ大将キャラが、中学校で別の小学校から来たガチのヤンキーみたいなのに出会って、急におとなしくなっちゃうとか。

    で、話を戻すと、三人の気軽な「言い分」レベルかと思いきや、けっこうドロドロとしたというか、簡単に消化しきれないような過去の出来事とか、それらをうやむやにしたままの微妙な関係性だとかが出てきて、ちょっとドキドキします。ものすごい、いやーな感じの読後感だったらどうしよう、みたいな。

    でも、安心してください。なんだかんだで、そんなに悪いことにはなりません。強気キャラの柿本、いじられキャラの養母田、それを一歩引いて見ている笹塚。笹塚は面倒なことには目をつぶり、自分をさらけださないという自身の消極性を自覚していて、そのことを否定的に捉えています。しかし、実はこの特性が二人からいろいろ聞きだして(自分は語らず、相手にしゃべらせて)、蝙蝠こうもりのように仲介して、でそ、れがなんか触媒のように働いて、結局関係は続いていく、みたいな。長く続く関係って、笹塚のような無意識の触媒が働いてるのかも。

    『いまさら』という言葉は、「いまさら、そんな話かよ」とか、「いまさら、どうしようもない」みたいな後ろ向きのニュアンスで使うことが多いですが、「いまさらだけど反省する」とか「いまさらだけど、きちんとしておく」とか、そういう積極的な意味合いも込めることができるのだなあと、いまさらながら感じました。

  • 『移動そのもの』と『旅は育ての親』

    BSよしもとの『俺の推し本』で中野なかるてぃんさんが紹介していたのを見たのが、この『移動そのもの』(井戸川射子 著)を読んだきかっけです。紹介していた中野さんは、表題作の『移動そのもの』について、ストーリーはわけがわからないが、一行一行が面白く、詩のようだ、みたいなことを言っていました。その世界を確認すべく、読んでみたというわけです。

    9作入った短編集で、『移動そのもの』は変だけど比較的はっきりとしたストーリーがあるという点で、他の8作と比べても、読みやすいほうだと感じました。まずはこれを読んでみて(立ち読みは1分まで)、気に入ったら買うとかどうでしょうか。

    二人の男、年長のアリシマ、年下のトオシキが島の中を徒歩で移動しながら、他人の葬式をみつけては、遺族のふりをして遺産や遺品の分け前をもらい、それで生活している。ふとしたきっかけで、チンパンジーとシマウマと出会い、一緒に行動するようになる。

    みたいな序盤です。ほら穴で暮らしていたり、チンパンジーとシマウマが出てくるあたりから、なんとなくアフリカのようなイメージを持ちながら読んだのですが、「アリシマ」という名前がちょっと日本っぽい。それに、

    「これも見てごらん、新しいよ。貝の内側に小さな大仏を付着させて、それが真珠層で覆われているんだね。仏像真珠だ」

    みたいな、アリシマの台詞があります。アフリカで「大仏」とか「仏像」というのものねー。他にも、「そういえば神社で葬式っていうのは、あまり聞かないね」とか「七五三も神社だよね。」という台詞も出てきます。場所の設定自体に重要性がない、あるいは、あえてそこを曖昧にすることの効果を著者は狙ったのでしょうか。なので、アリシマとトオシキの風貌も、葬式のイメージも具体的にはわきません。いや、頭の中では強制的に具体化していても、読者ごとに全く違ったものになっていそうな気がします。

    ある葬式に参加して、アリシマが遺品(遺骨とそれを入れる容器)をそれとなく要求すると、遺族は詐欺であることを悟ったのか、シマウマと交換だとか、殴らせろとか、態度が急変します。アリシマは抵抗はせずに、さんざん殴られたあげく、錆びたコップに入った遺骨を手に入れます。

    単に詐欺に失敗したなら、そんな遺骨はその辺に捨てるのでしょうが、アリシマはその遺骨を大事そうに丁寧に別の容器に移し替えたりします。

    くだらないものの代償にシマウマを差し出したアリシマの行動に納得がいかないトオシキは別行動をはじめ、シマウマを連れた遺族のあとについていきます。

    後半は、アリシマとチンパンジーのやりとり、トオシキとシマウマのやりとりがメインですが、この二匹の動物が、おとぎ話やファンタジーによくあるような、言葉を理解するほど知的な存在なのか、それとも、ごく普通の動物なのかも判然としません。そして、トオシキ自身も、「シマウマはあのやり取りを分かっていたのだろうか」「もとから言葉など通じていなかったのだろうか」「言ったことが絶対に伝わったという瞬間も、今まではあったのに」など、疑問に思いながら話しかけていたりします。

    終盤のチンパンジーの意外な行動、新しい土地に居つくことを決めるトオシキ、なんだか不思議な余韻を残しつつ、話は終わります。

    んー、変なストーリですが、登場人物がいて、会話があって、イベントが起こって、という点では読みやすい気がします。

    二作目に収録されている『花瓶』などは、語り手の女性が(たぶん)精神科医に向かって話し続けている、その話だけで構成されています。医者のリアクションもないし。最後まで独白に近い形で展開します。

    短編集全体が実験的なスタイルの作品ばかりなんですね。万人受けすることを狙っていない感じがすばらしいです。きっと大ヒットはしなくて、でも熱狂的な一部の読者が感銘を受けている、みたいな。

    そして、ここまで「言葉で遊ぶ」か、と思ったのが、最後に収録されていた『旅は育ての親』です。

    こんな書き出しです。

    皆の靴や裸足が、地を掘り泥にまみれている。裸足などよく耐えられるものだと、犬持ちは思う、こちらも犬を抱く背負うの動作を繰り返すので、肩や胴は泥だらけだが。

    短編ので出だしは、頭をフル回転させて、状況を把握しにいきますよね、みなさん。「犬持ち」って何でしょうか? 「家持ち」とか「妻子持ち」なんて言い回しがあるので、一般的な意味で「犬を飼っている人」のことを、そう呼んでいるんでしょうか。

    例えば、「家賃なんか払ってられないよと、家持ちはよくそういうことを言う」くらいのニュアンス。でも、その直後、

    (略)犬持ちは着衣の時も靴下から履く、(略)

    この時点では、犬を飼っている人ってそうなの? みたいに思ってました。

    苔貼りは裸足の足で感触を楽しむ、(略)

    花飾りは、自身にへばりつく花びらを、良い角度でそこにあるかを手で撫で常に確認する。

    「苔貼り」は何かそういう行為、「花飾り」はアクセサリーだと思ってました。「花飾りは」と主語になるのは変ですが、これは「舟唄」の「肴はあぶった イカでいい」の、「肴は」みたいに、主語ではなく主題としての使い方ですね。「花飾りに関しては」くらいの。

    まあ、真剣にそんなことを考えながら読んでいたわけではないのですが、なんとなく読み流していたんです。でも、全部読み間違えていたことに、以下の一文で気づきます。

    (略)仮装行列は年に一回なので、(略)

    仮装している人物を指している呼称だったんですね。このあとも、一緒に行動している仮装仲間が登場します。

    「獣真似」「泥塗り」「翼背負い」。 ・・・どんな仮装だよ。この6人が仮装行列をしている姿が描かれていたんですね。タイトルによれば「旅」でもあるわけです。

    旅の過程でちょっとした出来事なども起こるのですが、登場人物たちの「仮装」のクセが強すぎて、出来事の内容が入ってきません。でも、ここでグッと心をつかまれました。

    (略)犬持ちは犬の相手をずっとしている、ずっとで重くないんですか、と問われれば、ちょうどいい重さですと答える、(略)

    あー、ずっと犬を「持って」いるのね。そういう仮装なのね。それは仮装なのか?

    小説だからできる表現ですよね。映像だったら、やっぱり犬を持っている絵を出さざるを得ない。文章だと、「犬持ち」がどんな感じかは触れずにおいて、その後何気なく姿・形を開陳する。

    そして、さらにボケは続きます。

    獣真似は多くの獣を真似ようと、跳ねたり走り出したりする、演技は仮装とはまた違うだろうと、泥塗りなどは思うが。着ている服が普段着なのは、毛皮など何色を選ぶかで、何の獣か決めてしまうようなものなので選べなかったのだ。

    獣真似は普段着でした。

    これは確信犯ですね。獣真似の名前や言動から、おおかた毛皮のコスチュームでも来てるだろうと想像させておいての、泳がせておいての、普段着。

    読者はどう想像するかなー、勘違いするかなー、分かるかなー、わけわかんねぇって怒るかなーって感じで、にやにやしながら書いているに違いない。

    カフカもやっていた悪ふざけだな。城に雇われているのに城にたどり着けないとか、逮捕されたのに自由に行動できるとか。

    ・・・ということで、普通の小説に飽きた人は読んでみてください。「本読み」の「駄文書き」がお届けしました。

  • 『決定的瞬間 The Decisive Moment』なんか読まなければよかった

    本はぼちぼち読んでいたのですが、それらは文庫本か単行本で、文芸雑誌というものは、つい最近まで(=50年間以上)読んだことのない状態でした。が、最近、文芸雑誌の魅力に気づきつつあります。

    きっかけは、芥川賞のノミネート作をいち早く読みたいという理由でした。ノミネートされた段階では、単行本化されていないこともありますし、単行本化されていても図書館では予約がたくさん入っていて順番待ち(自分に順番が回ってくる頃には次の芥川賞が発表されている、みたいな人数)になることも多いです。

    でも、文芸誌は図書館利用者の中でもあまりメジャーな存在ではないのでしょうか、(利用者のマークが)けっこう手薄です。単行本に予約が殺到している中、その作品が掲載された文芸誌は待ち人数ゼロ、みたいなときもあります。検索システムのせいかもしれません。「簡単検索」みたいなテキストボックスに作品名を入れても、掲載された雑誌はヒットしないシステムが多いように思います。私が利用している2つの自治体の図書館システムでは、雑誌の内容については雑誌専用の欄に入力して検索しないとうまく見つけられません。

    村上春樹さんの『夏帆─The Tale of KAHO─』がもうすぐ出るぞーってときに、あれ? もしかしたら過去に雑誌に掲載されていたりする? って思って、検索してみたら1章から4章まで全部雑誌で読めるじゃんということに気がつきました。単行本化にあたって加筆や修正はあるでしょうけど。

    ということで、ここまでが前置きでした。イントロさえも短く短くというこの時代に、本題に入らないまま、だらだらと書き続けてしまいました。B’zの「LOVE PHANTOM」なみですね。「LOVE PHANTOM」は、なんというか、こう、期待を盛り上げていく感じがありますが、私の前置きはどうだったでしょうか。いらいらが募ったでしょうか。というか、きっと読むのをやめたのではないかと思います。つまり、これを読んでいるのはあなた一人です。あれ? でもあなたの後ろにもう一人・・・

    つまり、何が言いたいかというと、平野啓一郎さんの新作がちょっと前の『新潮』(2026年5月号)に載っていて、それを読みました、ということでした。タイトルは『決定的瞬間 The Decisive Moment』です。さっそく知らない単語が出てきました “Decisive”。

    意味はですね。”If a fact, action, or event is decisive, it makes it certain that there will be a particular result.”(Collins COBUILD Advanced Learner’s Dictionary)だそうです。

    中高生のときに、英英辞典をすすめてきたりする英語の先生とかいませんでした? 知らない単語の説明が、知らない単語でなされているとか無間地獄じゃないか、思っていました。でも不思議なもんですね、50代になるとなんとなくわかるものです。この調子なら80代になる頃にはもっとすらすらと読めることになっているでしょう。

    でも、この “decisive” の意味やそのニュアンスについては作中に出てきますので、あまり気にしなくてもOKです。

    「すらすら読める」と言えば、この『決定的瞬間 The Decisive Moment』はすらすら読めました。断片的な記録、会話、資料のようなちょっと変わったスタイルになっていて、過剰な風景描写や心情描写がないところが私の好みでした。物語のパーツを集めていく感じでしょうか。芥川龍之介の『藪の中』みたいな。

    内容に少し入りますと、主人公の学芸員(香澄)が故人の写真家の展示のためにアトリエで作品を整理していて、ちょっとまずいものを見つけてしまう。うやむやにすれば、展覧会は開催できるだろうけど、それを上司に相談したという判断によって、開催が難しくなっていく。

    正しい判断を毅然と行うことで、困難を無事に克服。・・・とならないのが文学なんですかね。(特に昨今の)コンプライアンス的には、香澄の行動は正解に近い感じがするけど、見つけたものについて、人に話したことによって、まわりに与える影響があまりにも大きすぎる。写真家にも、写真家の遺族にも、香澄にも。

    見つけたものに対しての対応という自分の判断もそうだし、もしこれを見つけていなかったら、気づいていなかったら、無事に展覧会が開催できていたら、というパラレルワールドが頭をよぎる。このあたり、平野氏の『息吹』とも共通するテーマかもしれません。ただ、香澄の思い浮かべるifの世界は手放しで喜べるようなものでもなかったりします。

    「知らなければよかった」なんてシチュエーションは月並みです。しかし、知ったことによって、「知らなかった世界」にも「知ってしまった世界」にも違和感や抵抗感や嫌悪感を感じるようになってしまったら・・・。いったい、どうだったらよかったのか・・・

    ああ、こんな小説読まなければよかった。(というのは最上級の賛辞です)


    同じ号の『新潮』に載っていた、『いまさら』もなかなか面白かったです。

    同級生との関係が長く続く秘訣?『いまさら』(古川真人著)