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勝手に読書感想文。漫画も映画も含みます

タグ: 日本

  • 『教養主義の没落』と岩波文庫

    『教養主義の没落』(竹内洋 著)を読んだきっかけは、BSテレ東の「あの本、読みました?」という番組で、米津玄師さんがインタビューでこの本に触れたところ、20年以上前の本にも関わらず売上がすごく伸びた、みたいな取り上げ方をしていたから。米津さんインタビュー→ファンが反応→その反応にネットが反応→テレ東が反応→私が反応、という、又聞きの又聞きの周回遅れみたいな状況。

    実は私は、この没落した教養主義の片鱗をちょっとだけ感じた世代でした。私が約35年前に出た高校は旧制中学が前身とかで、古風なしきたりが残っていました。旧制中学というのは、小学6年のあとの5年間なので、中学と高校が混ざったようなものでしょうか。知らんけど。

    古風なしきたりというのは、「ファイアーストーム」と呼ばれていて、毎年、校庭の真ん中にでっかいキャンプファイヤーみたいなを焚いて、その周りで寮歌や逍遥歌を歌ったり、走り回ったりするというもので、この準備のために歌を覚えたり、走り回る陣形を練習したりと結構大変な一大イベントでした。

    寮に入っているわけでもないのに(私の出た高校に寮はありません)、「寮歌」ってなんだと思うでしょうが、私も当時そう思っていました。どうやら、そのイベントは旧制中学や旧制高校の流れを組むものだったみたいです。寮歌も旧制第一高等学校の寮歌(「嗚呼玉杯に花うけて」)などでした。

    あ、でも高校生活自体は普通でした。このイベントだけなんだか妙にレトロでバンカラで。このイベントに参加する(義務があり、権利がある)のって男子だけだったんですよね。今だったら、問題になりそうな。

    で、その後進学した大学も、いわゆる旧帝大ってやつで、決して裕福ではない家庭で育った私は学生寮に入りまして、そこにも旧制高校の片鱗が残っていました。入寮の最初のイベントで、寮歌の類を覚えさせられます。で、飲み会のあとのもりあがったところでみんなで合唱したりします。居酒屋でもやったりしてので、たぶん迷惑だったでしょう。

    で、この本を読んでいて懐かしかったのが

    寮やクラスコンパでは「アインス、ツヴァイ、ドライ」の掛声で旧制高校の寮歌が歌われた。

    ドイツ語で1,2,3なのですが、よくこれやってました。他にも、

    エッセン(食事)やゲル(お金)、メッチェン(若い女性)などの旧制高校生用語も使われていた。

    これらもドイツ語ですね。英語じゃなくて、ドイツ語ってあたりが旧制っぽいです。私の世代はこれらの言葉を使ったりはしませんでしたが、寮の食堂のホールに「エッセン」という名前がついていて、なんか旧制高校生用語のなごりなんだろうなと。

    旧帝大の学部別の統計データは興味深かったですね。出身や経済状況や読む本や趣味など。〇〇大学の学生はこんな感じとか、〇〇学部はこんな感じとか、そんなステレオタイプを話をネタにしたことがある人も多いと思いますが、それを本書では真面目に論じてました。

    帝大だけじゃなくて、私立の大学や、当時多数派だった高卒相当(今の高校とは微妙に違うみたいですが)などとの比較が出てくると、もう次はNHKの「100分で名著」でもやっていたピエール・ブルデューと絡めた考察ですね。こういう考察に興味を持つハビトゥスと、そうではないハビトゥスがあるよなー、というのが私の考察です。

    あと、取り上げれられている話題としては岩波文庫のエピソードが面白かったです。私の岩波文庫との出会いは高校生の頃。世界史の先生が「読むなら岩波文庫を読みなさい。角川文庫とかじゃなくて(笑)」みたいな、ことを言ったんですよね。たしかに角川文庫はエンタメ系が多くて、岩波文庫は古典や学術系が多いけど、なんか岩波なら何でも良い、間違いない、みたいな言いっぷりが、教養主義っぽい。

    かく言う私も、電車でスマホをいじるよりも、読書をするほうが、そしてそれは岩波文庫であるほうが、かっこいいと思うハビトゥス(使い方合ってる?)を持っています。

    そう、教養主義者は少数派にはなりましたが、没落はしていません。いつの日か復権を果たし、主流派になることを目指すための秘密結社も、すでに・・・。信じるか信じないかはあなた次第です。

      

    ・・・信じないでください。

  • 『桐島、部活やめるってよ』と『桐島、部活やめてるよ』

    この本(『桐島、部活やめるってよ』(朝井リョウ著))を読もうと思ったきっかけは、『あの本、読みました?』というBSテレ東の番組に著者の朝井さんが出ていて、なんかとてもサービス精神が旺盛な人で、この人の書く本なら面白そうと思ったから。

    サービス精神という言葉が合っているのかどうかは分からないが、新聞書評の回では、対象の書籍が選ばれるプロセスや、自身が書評を書く際のこだわりなどを話していて、「本好きに贈る本好きのための番組」(番組の冒頭にこんなフレーズが出てくる)の視聴者が聞きたいであろうツボを押さえていて、きっと事前に話すネタをきっちり準備してしていたんだろうなーと。あと、番組後にこれも話しておけばよかったというのを思い出して、番組のスタッフに連絡をいれる点とか、自身の特集の回には詳細な年表を作ってきたり(番組側はそこまで要求はしていないのに)。伝えたい、という気持ちがひしひしと伝わってくる作家さんなのだ。

    朝井さんの作品で最初に読んだのは『何者』(過去記事:『何者』と『富士山』と『傲慢と善良』)で、こちらを読んだときにも感じたのが、朝井さんは、普段意識しないような自分の(あるいは多くの人の)イヤなところをついてくる。

    あからさまにイヤなやつのイヤなところではなく。自分で気づいているような、ある意味分かりやすい自分のイヤなところ(大抵の人にはあるでしょ?)でもなく。

    学校ではいけてる(死語?)ほうの登場人物である菊池宏樹が、これまたいけてる自分の彼女の沙奈の様子を見ながら、何かもやもやしているものをつかもうとしているシーン。

    (略)ダサいかダサくないかでとりあえず人をふるいにかけて、ランク付けして、目立ったモン勝ちで、そういうふうにしか考えられないんだろうな。

     だけどお前だってそうだろうが、と、夕陽に長く伸びる自分の影を見て思った。

    自分のことを棚にあげることはよくあることで、自分のことを棚にあげるのはよくないって指摘したりするのもありふれたことで、でも、そのことを直接言うんじゃなくて、ストーリーで語られると、グッとくる。ヒヤリとしてハッとする。事故を起こす前に悔い改めたい。

    あと、多くの人がご存知かと思うが、いつ思い出してもジワるので、これはリンクしておきたい。

    「桐島すでに部活やめてた」、3万2000人がリツイート | ねとらぼ

  • 『デートピア』と『#拡散希望』

    『DTOPIA デートピア』(安堂ホセ 著)を読もうと思ったのは、芥川賞受賞作をかたっぱしから読んでみようと思ったから。じゃあ、第1回から読んでみようと思い、確認してみると『蒼氓』(石川達三 著)だそうだ。まず、タイトルが読めない(「そうぼう」と読むらしいが、読めても意味が分からない)。受賞年は1935年。戦前? もはや古典。芥川賞初心者(3, 4冊読んだ記憶がある)には厳しそう、ということで、新しい方から読んでいくことにした。でも、図書館で借りるとなると、こういう新しい受賞作は予約がいっぱい入っていたりして・・・と思ったら、予約者はおらず、すぐに借りられる状況だった。私が利用している自治体の図書館では、このデートピアは各分館で1冊ずつ所蔵されているし、掲載された雑誌の文藝春秋も所蔵されている。行列は長くても回転が速いラーメン屋みたいな感じ。

    のようなきっかけで読み始めたので事前知識はゼロ。これは理想的な状況なんじゃないか。ただこの図書館では外した帯が、表紙の裏に貼り付けてあり、

    ひとりの女を巡り、世界各国10人の男たちが繰り広げる恋愛サバイバル―人種も、性も、国境も。すべての “当たり前” が崩れ落ちる、新時代の傑作


    などと書かれてある。おぉ、エンタメ作品みたいな煽り文。

    南のリゾート島で行われる、いわゆる恋愛リアリティショーみたいなシチュエーション。この手の番組(昔はテレビだったけど、今は動画配信?)見たことないなー。そんな番組があるというのは断片的に知っているけど。あ、でも今思えばフジテレビでやってた『あいのり』は、それだったのか。確か学生の頃だったから、ちょこっと見ていた気がする。「ロマンスさん」というワードには記憶があるが、どんな人だったか覚えていない。

    で、このようなリアルとフィクションの狭間のようなコンテンツをテーマにした作品で思い出したのが、『#拡散希望』(短編集『#真相をお話しします』(結城真一郎 著)に収録)。たしか、YouTube(のようなもの)での「移住してみた」みたいなシチュエーションだったような。(借りて読んだので、手元になく、うろ覚え)

    この『#拡散希望』はミステリーエンタメ作品なので、伏線があって、回収あって、オチがあって、みたいな感じで安心して読めた。

    で、この感じで「デートピア」を読むと、けっこうとまどう。恋愛リアリティショーの状況で何か起きるのかと思ったら、途中から出演者(日本代表?)の中学生時代の友人に焦点が移る。ここがメインというくらい手厚い。その後、またこの南の島に話が戻ってきたから、何かどんでん返しがあるぞあるぞと思うが、ない。

    そうか、芥川賞受賞作ってそんな感じだった。エンタメ作品のように分かりやすい大団円を期待してはいけない。何かが起きなかったと書いたが、分かりやすいオチがなかっただけで、何かは起きている。いろんなことがほのめかされている。それを感じ取れるかどうかが、この手の作品を楽しめるかどうかなのかも。

    で、本にはたいてい著者のプロフィールが載っているが、安堂ホセ氏の属性については「1994年、東京生まれ」ということしか書かれていない。あとは、作品名や受賞歴など。男か女かも分からない(ホセだから男か)。ペンネームだろうか、ハーフか外国人だろうか。よく見かける学歴なども書かれていない。どんな属性なのかが気になってしまう。

    ・・・そんな人に向けた作品なんじゃないかと思った。

  • 『何者』と『富士山』と『傲慢と善良』

    最初に読んだのはたしか『富士山』(平野啓一郎 著)だった。婚活をしている女性が、マッチングアプリで知り合った相手のことを、どれくらい理解していただろうか(別れたあとの回想)と自問するような短編。

    『傲慢と善良』(辻村深月 著)も婚活についての話で、相手を値踏みせざるを得ない状況で、登場人物の嫌な面がちらちら見えてくる重たい話。

    私が結婚した頃(20年以上前)は、マッチングアプリなどというものはなく(ガラケーはあったがスマホがなかった)、そのような目的のサイトは出会い系サイトと呼ばれ、ちょっといかがわしいイメージだった。結婚した知り合いがマッチングアプリで知り合ったなんて話を聞くと、オンラインで出会うためのシステムが、真面目な結婚を考える人使うものに、いつの間にかなっていたというのが感慨深い。

    どちらの小説も、意識的に「婚活」をしたことのない人(つまり私)が意識しなかった点に気付かさせてくれる。相手のことをよく知らない段階で、この人が結婚する相手として適切かを判断・決断しなければならない。適切というのが微妙で、一生一緒にいて苦がないかみたいなものは自然と受け入れやすい観点だが、自分に釣り合うのか(これは通常、相手が低すぎないかを見ている)とか、ハズレを引いていないのか、この人で妥協できるのか、もっといい人がいるのではないか、みたいなことを考え出すと、急にいやらしい感じが出てくる。

    大抵の場合、おぼろげなタイムリミットが存在していたりする。なので、今付き合っている相手が「じゃない」場合は、すぐに別れて次の審査対象に移る必要がある。たぶん20年前には存在しなかったタイプの苦悩なんじゃないか。

    で、この状況が人を雇うときの「採用」に似ているなあと。大企業が何十人も面接して、上位から何人か採るというのではなく、小さな企業や部門の面接官が、一人分のポストにふさわしい人材を探しているような場合。つまり、この人でいいなら採用、ダメならお断りする。でも、次にどんな人が応募して来るかはこの時点では分からない。今思えば、3人前の彼にしておけばよかったなんて状況もある。

    大企業なら次々と優秀な(だと企業が判断する)人が応募してくるかもしれないが、マイナーな中小企業なら、この程度の人材でも確保しておかないと、次に応募してくる人はいないかもしれない。学生の人気ランキングに入るような企業なのか、就活するまで聞いたこともなかったけどちょっと受けてみたみたいな企業なのか。婚活では、自分が前者なのか後者なのかを意識することになる。

    冒頭の二作と、『何者』(朝井リョウ 著)を並べてみたのは、婚活や就活(従来の就職活動ではなく最近のシューカツ的な)の類似性だったり、こういうものが文学のテーマになるんだなあという驚きだったり。

    この『何者』ですが、語り手の二宮拓人はいろんなことによく気付くタイプで、それゆえ他者の嫌な面に目が行ってしまう。アピール過剰な人、自意識過剰な人、まだなして遂げていないことを語り自分を大きくみせようと必死の人。そんなことをしたところで他人にはバレているよ、なんでそんなことに気づかないのか、想像力のない人たちだ、みたいな感じ。

    ほんと書き出し直後の、筋とはあまり関係のないところなんだけど、

    イェーイ、と、またあのあたりから歓声が上がった。俺の周りにいる人たちはステージ上にいる誰の知り合いでもないのだろう、どういう態度を取っていいのか決めかねているようで、結局ちびちびとドリンクを飲んでいる。

    学生バンドの卒業ライブをライブハウスでやっている場面で、ステージ近くで盛り上がってるのは主に関係者で、たまたま見に来たような人が居心地悪そうにしている場面。こういうときに無邪気に盛り上がって楽しめる人ってのもいるし、居心地悪いなと感じる人もいるし、うちわで盛り上がってしょーもな、と思う人もいるだろうけど、そうではなくて、居心地悪そうな人を観察している人、みたいな感じ。

    細かいことを気にしすぎている側面はありつつも、小説の主人公が他者の詳細を観察して様々な描写や評価を加えることはよくあることなので、序盤の展開に特に違和感は感じず。でも、本当に想像力が欠けているのはどちらなのだろうか、みたいな疑問点が少しずつ見えてくるあたりが面白かった。

    あなた自身の嫌なところに気付き、改善していくためにぴったりの作品。(「お前こそな」という声が聞こえる)

  • 『とっておき名短篇』と『世界音痴』

    『とっておき名短篇』(北村薫、宮部みゆき 編)という文庫本を妻が図書館から借りてきた。タイトルからいって、短編小説のアンソロジーなのだろうと思った。が、最初に取り上げられている作品『愛の暴走族』の著者は穂村弘さん。「今まででいちばんこわかったこと」についての知人との会話がメインで、家で飼っている「金魚のエサが増えてた」話、「部屋のなかにシャボン玉が浮いてた」話についての会話などが出てくる。家族と同居しているならあり得る話かもしれないが、もちろんそうではない状況。

    この流れで、次のことが語られる。

    別れた恋人の家に、彼女から貰ったラブレターをそれらが入った引き出しごと、、、、、、返しにきた男の話を聞いたことがある。

    妻とこの本について会話したとき、妻はこの『愛の暴走族』を小説だと思っていた。その発想はなかったわー。穂村さんは短歌を詠む歌人で、エッセイなども書く人、というのが私の認識。そして、私はこのときたまたま『世界音痴』(穂村弘 著)というエッセイ集を図書館で借りていて、そこにこのエピソードの詳細版が載っている。

    電話で別れを告げた相手が夜中に突然やってきたという話を、知り合いの女の子から聞いた。玄関のチャイムが鳴ったので、出てみると、目を真っ赤に充血させた元恋人が抽出(ひきだし)を持って立っていたのだと云う。「これ」と云って渡された抽出のなかには、彼女がいままでに出した手紙がぎっしり入っていた。

    なので、『とっておき名短篇・・』に収められているとはいえ、『愛の暴走族』はエッセイであり、実話に基づいているはずである。と私は信じている。

    が、本当にそうだろうか? そう言い切れるだろうか。エッセイにフィクションを混ぜてもいいのではないか。いや、よく見ると『世界音痴』には、これはエッセイ集であるだとか、実話であるだとかは書いていない。「すべらない話」とは違うのである(いや、あれも・・・)。

    たしかに、『世界音痴』の後半に収録されている作品には、明らかに実話ではないエピソードや妄想の会話のようのようなものもたくさん出てくる。

    これは小説である、エッセイである、詩である、ノンフィクションである、みたいな前提をおいた上で、作品を読むという姿勢は、そもそも本質とはズレた行為なのだろうか。なんだかよく分からなくなってきた。(完)

     

     

     

    ・・・ ちなみに、上記は小説である。なぜなら、私は未婚で妻などいないし、そもそも小学生だ。

     

     

     

    ・・・というのはウソです。