最初に読んだのはたしか『富士山』(平野啓一郎 著)だった。婚活をしている女性が、マッチングアプリで知り合った相手のことを、どれくらい理解していただろうか(別れたあとの回想)と自問するような短編。
『傲慢と善良』(辻村深月 著)も婚活についての話で、相手を値踏みせざるを得ない状況で、登場人物の嫌な面がちらちら見えてくる重たい話。
私が結婚した頃(20年以上前)は、マッチングアプリなどというものはなく(ガラケーはあったがスマホがなかった)、そのような目的のサイトは出会い系サイトと呼ばれ、ちょっといかがわしいイメージだった。結婚した知り合いがマッチングアプリで知り合ったなんて話を聞くと、オンラインで出会うためのシステムが、真面目な結婚を考える人も使うものに、いつの間にかなっていたというのが感慨深い。
どちらの小説も、意識的に「婚活」をしたことのない人(つまり私)が意識しなかった点に気付かさてくれる。相手のことをよく知らない段階で、この人が結婚する相手として適切かを判断・決断しなければならない。適切というのが微妙で、一生一緒にいて苦がないかみたいなものは自然と受け入れやすい観点だが、自分に釣り合うのか(これは通常、相手が低すぎないかを見ている)とか、ハズレを引いていないのか、この人で妥協できるのか、もっといい人がいるのではないか、みたいなことを考え出すと、急にいやらしい感じが出てくる。
大抵の場合、おぼろげなタイムリミットが存在していたりする。なので、今付き合っている相手が「じゃない」場合は、すぐに別れて次の審査対象に移る必要がある。たぶん20年前には存在しなかったタイプの苦悩なんじゃないか。
で、この状況が人を雇うときの「採用」に似ているなと。大企業が何十人も面接して、上位から何人か採るというのではなく、小さな企業や部門の面接官が、一人分のポストにふさわしい人材を探しているような場合。つまり、この人でいいなら採用、ダメならお断りする。でも、次にどんな人が応募して来るかはこの時点では分からない。今思えば、3人前の彼にしておけばよかったなんて状況もある。
大企業なら次々と優秀な(だと企業が判断する)人が応募してくるかもしれないが、マイナーな中小企業なら、この程度の人材でも確保しておかないと、次に応募してくる人はいないかもしれない。学生の人気ランキングに入るような企業なのか、就活するまで聞いたこともなかったけどちょっと受けてみたみたいな企業なのか。婚活では、自分が前者なのか後者なのかを意識することになる。
冒頭の二作と、『何者』(朝井リョウ 著)を並べてみたのは、婚活や就活(従来の就職活動ではなく最近のシューカツ的な)の類似性だったり、こういうものが文学のテーマになるんだなあという驚きだったり。
この『何者』ですが、語り手の二宮拓人はいろんなことによく気付くタイプで、それゆえ他者の嫌な面に目が行ってしまう。アピール過剰な人、自意識過剰な人、まだなして遂げていないことを語り自分を大きくみせようと必死の人。そんなことをしたところで他人にはバレているよ、なんでそんなことに気づかないのか、想像力のない人たちだ、みたいな感じ。
ほんと書き出し直後の、筋とはあまり関係のないところなんだけど、
イェーイ、と、またあのあたりから歓声が上がった。俺の周りにいる人たちはステージ上にいる誰の知り合いでもないのだろう、どういう態度を取っていいのか決めかねているようで、結局ちびちびとドリンクを飲んでいる。
学生バンドの卒業ライブをライブハウスでやっている場面で、ステージ近くで盛り上がってるのは主に関係者で、たまたま見に来たような人が居心地悪そうにしている場面。こういうときに無邪気に盛り上がって楽しめる人ってのもいるし、居心地悪いなと感じる人もいるし、うちわで盛り上がってしょーもな、と思う人もいるだろうけど、そうではなくて、居心地悪そうな人を観察している人、みたいな感じ。
細かいことを気にしすぎている側面はありつつも、小説の主人公が他者の詳細を観察して様々な描写や評価を加えることはよくあることなので、序盤の展開に特に違和感は感じず。でも、本当に想像力が欠けているのはどちらなのだろうか、みたいな疑問点が少しずつ見えてくるあたりが面白かった。
あなたの嫌なところに気付き、改善していくためにぴったりの作品。(「お前こそな」というツッコミ待ち)

コメントを残す