BookBookerBookest

勝手に読書感想文。漫画も映画も含みます

タグ: 日本

  • 村上春樹の短篇小説『夏帆』を読む

    『夏帆』は長篇でしょ? ニュースでもそう言ってたよ。3年ぶりの長篇だって。と、つっこまれるのを期待した記事タイトルでした。

    『夏帆』の単行本の発売日の数日前、自治体の図書館サイトで、先行予約とかやっていないかな、などと淡い期待を抱きながら「夏帆␣村上春樹」で検索してみました。アマゾンじゃあるまいし、発売日前に貸出予約なんてことはできなかったのですが、ヒットする書籍があるじゃないですか。文芸誌というやつでした。

    その『新潮』(2024年6月号)を借りてみると、果たして『夏帆』が掲載されていました。特集記事の冒頭にこう書かれています。

    2024年3月1日、早稲田大学・大隈記念講堂で、世界が注目するふたりの日本人作家による朗読イベントが行われました。題して、〈『村上春樹×川上未映子 春のみみずく朗読会』――みみずくは春に本を読む〉。(略)

    本特集では、この日のために村上・川上両氏が書き下ろした新作短篇小説と、作品の朗読を間近で聴いた詩人 マーサ・ナカムラ氏によるレポートを掲載し、(略)

    「新作短篇小説」とあります。『夏帆』は最初、短篇として書かれたものだったんですね。朗読会が開催されたのは2024年3月1日とのことですので、2年以上前になります。2年以上前から『夏帆─The Tale of KAHO─』の断片(?)は発表されていたんですね。

    でも、内容は同じなんでしょうか? タイトルに共通部分はあるけど、全然違う内容という可能性もあります。『夏帆─The Tale of KAHO─』の第一章の冒頭部分が特設サイトで「試し読み」として公開されているので、新潮2024年6月号の掲載されていた『夏帆』と比較してみました。

    同じでした! いや、違うといえば、違うところもある。大筋では一致しているのですが、微妙に変更されています。

    例えば、新潮に掲載された短篇の書き出しは、

    「これまでいろんな女性とデートのようなことをしたが」とその男は言った。「正直いって、君みたいな醜い相手は初めてだ」

    ですが、『夏帆─The Tale of KAHO─』の書き出しは、

    「これまでいろんな女性とデートのようなことをしてきたが」とその男は言った。「正直いって、君みたいな醜い相手は初めてだよ

    間違い探しのような違いですが、この2年の間に直したのでしょうか。こんな違いもありました。

    新潮版、

    夏帆は受話器の前で一瞬間を置いた。電話番号の交換? それから言った。「いいえ、していない」

    単行本、

    夏帆は受話器を握ったまま一瞬間を置いた。電話番号の交換? それから言った。「いいえ、していない」

    微妙な違いですが、作家さんのこだわりなんでしょう。

    ちなみに、試し読みのほうは、「試し」だけあって、中途半端なところで終わっています。本屋に向かいたくなるような、うずうずさせるようなところで切れてます。

    新潮の掲載は短篇という体裁なので、最後はちゃんと「(了)」で終わっています。でも、朗読会で読んだ分量ですので、それほどのページ数はありません。「試し読み」のほうを3ページ半だとすると(ページの正式な数え方が分からないので相対値でイメージしてください)、新潮に掲載されていた「短篇」のほうは追加であと7ページくらいでしょうか。広告が入っているので数えにくい。さすがに、試し読みでは物足りなかったと思いますが、「短篇」の約1/3程度が試し読みできるようになっています。

    書き出し冒頭の侮辱発言、夏帆のリアクション、男の意図は? ぐっと掴んできますね。ちょっとした社会風刺も含まれてて、ルッキズムの対象(≒被害者)自身が、それを助長しているんじゃないか、みたいな。

    夏帆は、性格なのか、容姿や生い立ちのせいなのか、完全にルッキズムの毒からはフリーな状態でした。なのに、男の一言でそれが揺らぎかけます。男から受けた毒から回復する物語としてみると、ゼロがマイナスになって、またゼロに戻ったみたいなことになりますが、この経験によって成長して本当のルッキズムフリーを手に入れた(つまりプラス)というようにも読めます。

    これを読んで思い出したエピソード。私は背がどちらかというと低いほうです。めちゃめちゃ低いというわけではないですが、まあ低いです。私がこのことに気づいたのは、なんと大学生になってからでした。学生友達の一人が冗談っぽく「チビのくせによく食べる」みたいなことを言ったんです。私は、(ん? チビ? え、そうだっけ?)という心境。それ以来、意識してまわりの人と見比べるようになり、確かにその友人の言う通りであることを確認しました。

    他人が二人並んでいれば背の違いは一目瞭然ですが、自分と他人の背を比べるのはけっこう難しいです。自分が他者と写っている写真を見たり、ショーウィンドウに映った姿を見れば比べられますが、そもそも気にしてもいないので、注意して見ることもありません。そう、私は18年間自分の背について何も考えずにいられたのです。夏帆みたいでしょ。

    掲載された短篇の範囲を読む限り、夏帆がいわゆる美人なのか、そうでないのかは判然としません。どちらでも成立します。醜いからこう言われたのか、美しいのにこう言われたのか、その部分はこの物語では重要ではないのかもしれません。

    映画など映像化してしまうと、どうしても俳優の美醜の要素が入ってきてしまいます(もちろんそれも主観にすぎないのですが)。小説は、不要な要素に触れないでおける稀有な表現媒体だなと再確認したのでした。

  • 川崎市立図書館での『夏帆 The Tale of KAHO』の競争率

    村上春樹氏の『夏帆 The Tale of KAHO』が今日(2026年7月3日)発売されました。3年ぶりの新作だそうで。図書館ユーザーならご存じかと思いますが、人気作家の新刊など、そう簡単には借りられません。気づいたころには予約が数百件とか、数千件とか。

    今回事前に察知した私は、図書館のサイトで数日前から検索してみていたのですが、ヒットしません。まあ、そうでしょうね。

    いつ登録され、貸出や予約が可能になるのかはよく分からないのですが、発売日の当日というのが一番ありそうです。

    本日(発売日7月3日)いつものように午前4時過ぎに起き、検索してみましたが、依然として所蔵なしです。

    午前10時頃、仕事の合間にふと思い出し、検索してみると、なんとヒットするじゃないですか。大急ぎで(誇張)予約してみましたが、数時間のうちにすでに42件も予約が入っていました。早いなー。データベースが更新されるのを待ち構えて予約を入れた方々でしょうか。

    年を取ると、また桜の季節か、みたいな感じですぐに一年とか経つので、待つのはぜんぜん平気だったりするんですが、まだ若くて待ちきれないという人は、 村上春樹『夏帆─The Tale of KAHO─』特設サイト | 新潮社 で、「第一章 冒頭 試し読み」ができますよ。

    私も今日のところは「試し読み」を読んで寝ます。4時に起きなきゃいけないので。


    2026年7月5日追記
    第一章に相当する部分だけですが、2年以上前に文芸誌に掲載されており、それを読むことができました。
    村上春樹の短篇小説『夏帆』を読む


  • Audibleに加入した気分で『火花』を聴く

    Audibleは魅力的なサービスです。ぜひ利用したいところですが、経済的な余裕のない私は、図書館で借りたオーディオブック(CD)を聴くのでした。

    又吉直樹氏の『火花』を見つけました。『花火』ではないし、出版社は「ぶんじゅくじゅんじゅう」でもありません。たしか、何かの賞をとっていたはずです。名前から言って、直木賞にちがいない、などという冗談は100万回くらい発せられていそうだから、今回は言わない。いや、もう言ってしまっている。

    4枚組になっていて、それぞれ別資料扱いになっているため、いっぺんに借りることができません(この図書館では視聴覚資料は1回2点まで)。4枚組って、文庫本よりかさばるじゃないか、何の罰ゲームだよ、mp3かなんかに圧縮して1枚に入れてくれ、と思うようなモノグサな人のためにAudibleのようなサービスがあるんだろうと思うと、文句は言えない。いや、もう言ってしまっている。

    朗読しているのは堤真一さんでした。なのでAudible版と同じ音源だと思います。関西弁の台詞がほとんどなので、兵庫県出身の堤さんを起用したのはぴったりだと思います。よそもんが、関西弁つこてるのなんか、聞いてられへんもんなあ。ね? 聞いてられないでしょ。でも、金鳥のCMの長澤まさみさんの関西弁は好きです。ぞんぞんします。ぞんぞんは何弁でしょうか。ここではいい意味です。

    そして、新しい発見がありました。『火花』の朗読をスマホに入れて、最寄り駅まで歩いている間に聞いていると、Audibleに毎月1500円払っているような、そんな気分に浸れました。ちょっとつぶやけば、さらに気分は盛り上がります。「人はAudibleを聴くと、通勤時間がお笑いライブ会場になるらしい」とかなんとか。オーディブルの「ブル」とフレンチブルドックの「ブル」がかかっていることに気づいたときには、膝を打ったものです。しょーもなっ、と。

    『火花』はすでに1回読んでいました。芥川賞受賞で盛り上がって、その後、ほとぼりが冷めて、図書館でも借りやすくなった頃に。つまり、綾部さんがアメリカに行く、ちょっと前です。

    一度読んでも、内容はほとんど忘れていたので、もう一度楽しめました。この調子なら10年ごとに何度でも楽しめそうです。妻も読んだと言っていたので、ちょっと感想を聞いてみたのですが、豊胸のくだりは覚えていないとのこと。「じゃあ、逆に何だったら覚えているの?」と聞きたかったのですが、喧嘩になるといけないので、ぐっと飲み込みました。

    読み終わったあとで、 又吉直樹(またよし なおき)-芥川賞受賞作家|芥川賞のすべて・のようなもの を見直すと、また楽しめます。

    高樹のぶ子氏の評に

    優れたところは他の選者に譲る。私が最後まで×を付けたのは、破天荒で世界をひっくり返す言葉で支えられた神谷の魅力が、後半、言葉とは無縁の豊胸手術に堕し、それと共に本作の魅力も萎んだせいだ。

    とあって、そうそう、豊胸のところいるかなあ? と私も感じたのを思い出しました。でも、今思うと、神谷先輩の異常性(変態性)を際立たせるためには、これくらい意味の分からないエピソードを入れておくのもよかったのかもとも思いました。

    私が好きだったのは、神谷先輩が徳永(主人公)の髪形や服装をそっくり真似するエピソード。真似しないでくださいよ、というツッコミ待ちではありませんでした。神谷先輩にとっては笑いと直接関係のない髪形や服装は頑張るところではなく、単にかっこいいと思ったからそのまま真似していたという理由が、あとから明かされます。これを例えるのに、定食屋で人が食べているもの見て、おいしそうだから同じものを注文するくらいの感覚、という表現がされていました。「真似するな」とか、「オリジナリティがない」とかそんな風にはならないですよね。神谷先輩にとっては、服装とか髪形はそういうものだったという話。

    前述の芥川賞のサイトを見ていて、再発見があったのは、小川洋子氏の評での「天才気取りの詐欺師的理屈屋、神谷の存在」という表現です。私は、「世に受け入れられない天才的な漫才師」みたいな先入観を持って読んでいたので、あー、そうか、本当にしょうもない芸人に心酔してしまった主人公の話、と読めなくもないなあと思いました。

    ニュートラルな状態で一度読む、他の人の意見を見る、もう一回読む(聴く)というのは、なかなかおすすめの流れです。

  • 2026年上半期の芥川賞を予想・・・はせずに、賞を新設する

    ノミネート5作を全部読み終えたので(『ソリティアおじさんがいた頃』『アンチ・グッドモーニング』『丹心まごころ』『ゾンビ回収婦』『悪い血』)、さっそく選考に入ろうと思います。とはいえ、築地の料亭の招待状が、私には来ていませんので、勝手に予想する、ということになりましょうか。

    競馬だと、上位いくつかの順位に対して、どのような条件で当てるかで、単勝、連勝複式、連勝単式とかありますよね。私はギャンブルはやらないので知らなかったのですが、最近は「連勝複式」とか「連勝単式」て呼び方ではないんですね。それぞれ「馬連うまれん」「馬単うまたん」というみたいです。ちなみに、落語「らくだ」に出てくるのは「馬さん」です。

    芥川賞では順位が出るわけではないので、5作がノミネートされているなら、以下が場合の数(お、懐かしい)になりますね。

    1作受賞:5通り {1}{2}{3}{4}{5}
    2作受賞:10通り {1,2}{1,3}{1,4}{1,5}{2,3}{2,4}{2,5}{3,4}{3,5}{4,5}
    該当なし:1通り

    それぞれどれくらいのオッズになるのでしょうか。絶対やっている人いそうですね。違法ですよ。

    ちなみに、私はノミネート作を全部読んだのは初めてです。また、この作品は受賞したけど、この作品は受賞を逃した、みたいに比較する観点で読んだこともありません。つまり、どういう作品が選ばれる傾向にあるかについて、なんら情報がありません。

    こういう状況で予想することを何て言ったっけ。そうだ「当てずっぽう」だ。ずっぽうって何だ。

    まあ、当たる気もしないし、外したときに、「ちゃんと読んだのか」とか、「お前の目は節穴か」とか、「たまには買って読め」とか、厳しいご意見が来そうなので、予想するのはやめておきます。

    かわりに新しい賞を新設することにしました。「もうすぐ芥川で賞」です。ノミネート作品は芥川賞のノミネート作品に準じます。発表時期は芥川賞のノミネート作が発表されてから、受賞作が発表される前までの間です。

    もし本物のほうの受賞を逃した場合は「もうすぐだったね」という意味合いになり、もし本物のほうを受賞してしまったら、つじつまがあわなくなるので、「もうすぐ芥川賞発表の時期だね」という意味に解釈することにします。(ことにします、ってなんだよ)

    賞金や商品はありません。勝手にトロフィーとか送ったら不審物扱いされてしまいます。でも、何かあげたいです。作家がうれしいもの。それは何でしょうか? きっと、たくさんの人に読んでもらうことだと思います。なので、「受賞作の作家さんの作品を死ぬまで読む」にしました。そう、私が死ぬのが先か、お前が死ぬ(断筆する)のが先か、という勝負です。

    審査は、今朝がたから閉鎖された密室(私の頭の中)で行われており、先ほど天使と悪魔の勝負がつきました。

    では、第一回「もうすぐ芥川で賞」の発表です!

    その前にCM。

    (ここにアドセンスの広告でも入れたいところだが、一向に申請が通らない)

    「歩きスマホは犯罪です ♪エ~シ~」

    お待たせしました、発表です。

    どん、小砂川チトさん『ゾンビ回収婦』です。

    ご本人は、「それどころじゃない」ということで、ご欠席なので、あとは審査員の独り言をご覧ください。真面目に読まないように。


    ゾンビ回収婦

    ゾンビのサプライズのところで泣きそうになったので、これに決定。ゾンビって突然出てきて人をサプライズさせたりしますが、そうではないサプライズのほうです。話の流れからいって、それが現実でないことはわかりつつ読んでも、やっぱり感動的な妄想でした。それほどまでに、誰かに感謝、評価されたいという主人公の願いですね。

    ゲームや仮想世界へ依存している状況が描かれていますが、主題はそこではなくて、現実世界であっても、仮想世界であっても、どの世界にいようとも逃れられない、人間の渇望なんだなあと思いました。

    シャツに書かれた「(A)LASKA」を、ニックネームに使うあたりも加点ポイントです。澤部さんを思い出して、じわじわ来ました。


    アンチ・グッドモーニング

    不眠というごく個人的な体調不良をテーマにしつつも、ブラック企業がウェルビーイングを売りにしているという皮肉な設定での風刺も効いています。これ、一見いい人に見えて、実は人の気持ちを全然理解できていない夫との重ね合わせになっているんですかね。ヒヨコなんか持って帰ってくんなよ。この夫のビミョーに嫌な(うかうかしていると、いい夫に見えてしまう)描き方が好きです。


    ソリティアおじさんがいた頃

    定年後はすっかり思い出すこともなくなっていたソリティアおじさんこと黒野田さんのことを、その死をきっかけに深く考えるようになり、いろいろなことも思い出し、主人公の行動にも影響を与えるという展開が好きでした。派手な出来事や、どぎつい描写はないのに、胸を突かれるような感覚がありました。人生何が起きるかわからないし、なんでこうなっているかわからないし、他者が何を考えているかもよくわからないけど、それでもまあ、やっていくしかないじゃないという感覚は、意外と心地よい読後感でした。


    悪い血

    ずばりの「呼称」が出てきて、びっくりしました。でも、あれはああ表現するしかないですよね。登場人物の発言なので。これを言い換えたりすると、その人はそんな言葉は使いそうにない、という違和感につながります。カムイ伝で、失明したカムイをかばう村人が使った言葉が差別用語だということで、「相手は目が不自由でねえか」と言い換えられていた事例を思い出しました。江戸時代の人はそんな言葉は使わない。言い換えがいかに作品をダメにするかを考えると、やはりああするのが良かったのでしょう。

    幸福を追い求めるのではなく、かといって、意図的に悪いようにしたいわけでもなく、何も選ばないという生き方を選択するという気持ちにはなんだか共感できます。選んだけれども叶わないくらいなら、選んだことを批判されるくらいなら、みたいな。私もよく、内容を確認せずに、日替わり定食を選択します。


    丹心まごころ

    比喩が多いわりに、客観的な描写が少なく、誰の行動なのか、誰の発言なのか読み取れないところがありました。何度読み返しても、判然としない(どうとも取れる)ような箇所が複数あり、著者の意図がこちらに伝わりきれていないのはないかというストレスを感じました。ただ、映像化するなら本作です。中国政府の全面的な協力が得られれば、壮大で見せ場の多い映画になりそうです。ただ、共産党が爛尾楼làn wěi lóuという中国の恥部を認めるわけもなく、そんなものは存在しないと习习xí xíは言うかもしれません。


    では、また半年後に会いましょう。

  • 『悪い血』と私小説

    2026年上半期の芥川賞ノミネート作、鈴木涼美すずみさんの『悪い血』を読みました。5作品ノミネートされていたうちの、5つ目に読みました。順番は図書館の貸し出し状況次第です。

    『悪い血』は主人公の女性が病院で検査のための採血をされているシーンから始まります。何か問題があったというわけではなく、妊婦さんが全員受ける検査の一つのようです。幸せいっぱい、な感じは全くなく、ちょっとけだるいトーンです。

    描写が判然としません。一人で病院に行っているのかと思ったら、突然、右手を握る「彼の握力」が出てきます。が、それ以上は触れず、移動や風景や記憶の描写が続きます。そして、しばらくして、「彼の左手の指に繋がれたままだったので」なんて出てくるけど、また風景や心情の描写、その後やっと、会話が出てきて、ああ、ずっと二人だったんかい、となる。

    作文だったら添削したいところです。「そこに誰がいるかちゃんと説明してから話を続けないと分かりにくいでしょ」と。読み進めると、この分かりにくさが意図的なものであることがだんだんわかってきます。主人公の女性は大げさに言うと、ちょっとした心神耗弱状態なのでしょう。思考が渋滞しているせいで、目の前の男性(赤ちゃんの父親)のことが眼中にない感じです。病院の帰りに外食するシーンでは会話が交わされ、一見したところ正常な状態になったように思えるのですが、夜中になって、ある考えに取りつかれて病院に向かいます。その考えがタイトルにもなっている「悪い血」というわけです。

    どこにいるのか、何が起きているかがつかみにくいです。風景の描写がいつのまに回想になっていたりします。その、混乱した文章の展開が、自分はなぜここにいるんだ、なんでこんなことをしているんだ、という感じを読者に印象づけます。なので、よく分からなくなっても読み進めましょう。

    えぐいシーンがけっこう出てきます。「面白かったから、読んでみたら?」と子供には勧めにくいです。体感的にはR18指定です。小説にそういうのってないのでしょうか。ビニールで包んだりとか。

    夜のお店でのサービスの描写、行為の描写、あげくは、テレビやラジオでは言ってはいけないとされている、「そのままの呼称」とか。攻めてます。こんな攻めた小説が芥川賞をとったりするのでしょうか。審査員は攻めるのでしょうか。Audibleで朗読されたりするのでしょうか。朗読する声優さんや俳優さんの事務所からNGが出そうです。「ピー」を入れるわけにもいきません。

    この夜の描写のリアリティはどこからくるのかと思ったら、鈴木涼美さんの経歴を見て納得しました。本人の体験とは限らないでしょうけど、そういう界隈に近づいことがあるかどうか、常連なのか一見いちげんさん(取材という手もあるし)なのかは、聞いた話や想像した話であったとしても、その臨場感に差を生み出すものなのでしょう。

    芥川賞の候補作は重たい作品が多いですが、この作品に感じたのはルポルタージュのような重たさでした。本当にそんな風に考えて、どんどんおかしな方向に行ってしまう人がいるような、実在するんじゃないかと思ってしまうようなそんな感じ。私は男なので主人公側の視点は持ちにくいのですが、女性であるがゆえに、何もかもを手に入れられるかもしれない錯覚と、何もかもを失ってしまうかもしれない錯覚が同居する感覚、その感覚を生み出すのに、必ず絡んでくるのが男であるという実情はひしひしと感じます。

    この『悪い血』はいわゆる私小説ではないのですが(現代で私小説を書いている作家はいるのだろうか?)、作家の生い立ちや体験が随所に現れている気がします。小学生のときに海外生活を送っていること、中高生のときにコギャル(死後?)だったこと、形態は微妙に違えど夜の仕事についていたこと、最近出産を経験していることなど。理系と文系で異なりますが、お父さんが学者肌だったあたりも。

    もちろん相違点も多いです。鈴木さんのお父さんは存命ですし、主人公は高校中退ですが、鈴木さんは修士課程を修了しています。海外滞在していたのはアメリカではなくイギリスだし。あと、赤ちゃんはすくすくと元気に育っています。(お子さんとの微笑ましいエピソードを書いた鈴木さんのエッセイが、同じ『文學界』2026年6月号に掲載されていて、『悪い血』とのコントラストが面白い)

    小説というフィクションでありながら、作者の体験や思想も色濃く反映されてくるあたり、円城塔さんが言っていた「私小説じゃない小説はありえるのか」という問いを思い出します。

    又吉さんの『火花』も、『東京百景』と見比べるとよくわかるけど、笑いに対するこだわりみたいなのが散りばめられている感じだったし。先輩との会話でボケることが普通になってくると、ボケないことが、逆にボケになる、みたいなこじらせ気味のシーンがありました。

    今回ノミネートの『丹心(まごころ)』の中国経済ハードボイルド感には、仁科れんさんの「東京都生まれ、香港、上海、ロンドン育ち」という経験が明らかに反映されているでしょうし、きっと、『ゾンビ回収婦』の小砂川こさがわチトさんは、尿意をがまんしながら、VRゲームにはまった経験があるにちがいない。「すわバグかと思われるほどの長い長い放尿」というのはなかなかのフレーズです。

    私小説といえば、最近読んだ中では、宇野千代の作品が衝撃的でした。30年を経て書かれた別の作品に、ほとんど同じプロット(40歳の宇野千代と71歳の宇野千代の私小説)。これは実体験をほぼそのままベースにしているということなのでしょう。でなければ、ものすごいマンネリです。

    『悪い血』に話を戻しますと、私が好きだったのは、回想に出てくるお父さんの台詞。お父さんの死後の出来事である、主人公の知り合いの死に言及している時点で、主人公の妄想である可能性が高いです。でも、自分を勇気づけた他者の言葉みたいなものが、実は自分が作り出したものである(他者発であるけれども曲解しているとか)、なんてことはけっこうあるんではないかと、そしてそれでもいいんではないか、という気もしたのです。


    2026年7月14日追記
    続報です。
    2026年上半期の芥川賞を予想・・・はせずに、賞を新設する

  • VRゲーム、AI、働くこと『ゾンビ回収婦』

    2026年上半期の芥川賞ノミネート作、小砂川こさがわチトさんの『ゾンビ回収婦』を読みました。ノミネート作の中でも異色です。ゾンビが出てくる文学って、よくあるのでしょうか? ラノベとかなら分かりますが、本作は全然ライトではありません。

    主人公は30代の女性。AIに職を奪われ失業したのを期に、VRゲームに没頭します。タイトルからわかるように、ゾンビと戦うVRゲームです。そしてこれもタイトルからわかるように、彼女の仕事はゾンビを倒すことではなく、その屍(もともと屍?)を回収することです。

    ゾンビゲームといえば、プレイステーション(初代)のバイオハザードあたりで、私の知識は止まっています。最近のVRゲームがどんなことになっているのかも、いまいちイメージが湧きません。ネットで仮想世界に接続して、その場でプレイヤー同士が相互作用するような遊び方みたいですが、きっと面白いんだろうなと思いつつ、この手のゲームも遊んだことがありません。仮想世界といえば、「Second Life」が最後の記憶です。

    『ゾンビ回収婦』が掲載されたのは『群像』という文芸誌の2026年5月号です。『群像』の読者の年齢層ってどれくらいなのでしょうか。VRゲームの描写に50代、60代あたりの読者はついていけているのでしょうか。まあ、でもそれはあまり関係ないのかもしれません。現実と虚構の判別が曖昧になる現象は、昭和のやくざ映画の劇場出口でも、よく観察される光景でした。

    VRゲームの中が主な舞台である以上、ほとんどのイベントは仮想世界での出来事になります。とはいえ、ファンタジー小説でもSF小説でもありません。主人公の言動は、彼女の現実世界での経験に深く根差しています。育った環境、仕事で受けてきた待遇、AIに職を奪われたことによる失業、よくわからない理由で家を出て行った夫など。なので、イベントが仮想世界で起きていようが、主人公の行動や思考は現実世界と強くリンクしたものになっています。むしろ、現実世界では気づかなかったことを、仮想世界で再確認していくようなプロセスが描かれています。

    「働くこと」に対する意識がテーマになっています。主人公は仮想世界で非常に熱心に働きます。そんなバカな、という気もしますが、この仮想世界では倒されたゾンビは放置され、誰かが「回収」しないと床が見えなくなるほど蓄積していきます。血が飛び散った窓も拭かなきゃいけないし、床もモップがけしないといけません。主人公が仕事をしないと、この仮想世界は回っていかないことになってます。

    そんな大変な仕事をしている以上、ホテルの支配人に評価されたい、誰かに感謝されたい、仕事を認めてもらいたいという感情が主人公に起こります。しかし、それがかなえられることはありません。

    このあたり、現実世界のエッセンシャルワーカーと重ね合わせているんでしょうね。ほんのちょっとエッセンシャルワークが滞っただけでどうなってしまうのか、私たちはコロナのときに目撃したはずです。にもかかわらず、何か問題が起きるまで、気にも留められない仕事というものが世の中には存在して、そのような仕事の一つをゾンビの回収で比喩したのでしょう。

    もう一つ、指導する/される側、評価する/される側、期待する/される側など、立場の異なる両者の思いのすれ違いも描かれています。主人公は、親、部活の顧問、会社の上司などから、期待をかけられ、それに応えようとし、でもうまくいかず、失望させる、ダメ出しされる、という経験がトラウマのようになっています。自分が苦しめられたこれらの重圧を、無意識のうちに、自分が他者にかけようとしていたことに気づき愕然とします。他者とは誰でしょうか? それは、タイトルからわかるように・・・

    ゾンビ、ゲーム、仮想世界という、一見突飛な設定を使いつつも、実は人間の根源的な渇望について描きだそうとしたのが、この小説、『ゾンビ回収婦』なのでした。


    2026年7月14日追記
    続報です。
    2026年上半期の芥川賞を予想・・・はせずに、賞を新設する

  • 『丹心/まごころ』を読み解くための中国語

    2026年上半期の芥川賞ノミネート作品の中で、仁科斂さんの『丹心』はハードルが高いものとなっております。まず、タイトルが読めません。掲載されていた新潮の2026年4月には『丹心まごころ』のように振り仮名が振ってあります。「丹心」という言葉は国語辞典には載ってはいますが、読み方は「たんしん」であって、「まごころ」という読み方はありませんでした。いわゆる当て読みということでしょう。

    つまり、九城伸明が『ピエロンリー』で、「地球ほし」と読ませたり、「山手通りいつもの帰り道」と読ませたりしていたのと同じですね。

    国語辞典によると、「丹心」の意味は「まごころ」で、福沢諭吉の『学問のすすめ』での、「唯和して真率なる丹心あるのみ」という用例が載っていたので、日本語としても使われていたのでしょうが、現代の日本で目にすることは少ないように思います。小説のバックグラウンドを考えると、ここでは中国語としての「丹心」をイメージするのがいいのかもしれません。

    作中で、Q先生(冒頭に登場するQさんという女性の父親)が、

    歴史也没有、一点的丹心也没有(歴史もない、一点の丹心まごころもない)

    と嘆くシーンがあります。発音はピンイン(中国語の発音記号みたいなもの)だと dānxīn です。ちなみに、私は中国語のまともな教育を受けたわけではなく、Eテレを見たり、デュオリンゴでかじったりした程度なので、ご了承ください。リンゴだけに

    あと、単行本では『丹心/まごころ』というタイトルになっていました。九城っぽい、と言われるのを嫌ったのかもしれません。でもスラッシュだと、なんだか『丹心』と『まごころ』の二作品が入っているように見えなくもありません。タイトルは難しいです。

    次に「仁科斂」が読めません。中国の話なので、仁 科斂(じん かれん)という中国人かも、などと深読みしてしまいそうですが、「にしな れん」でした。以前、YouTubeで平井堅さんのMVに、同志有志が中国語字幕をつけている、おそらく違法アップロードと思われる動画があったのですが、字幕での名前が「平 井堅」となっていました。そこで切ってはいけません。「ドンキ・ホーテ」ではなく「ドン・キホーテ」なのです。

    なかなか本題に入らないのは、読んでもよく分からなかったからです。なので、些末なところにクローズアップしていこうと思います。

    この小説における重要ワードは「爛尾楼」です。解説付きで登場します。

    広大な中国の全土に、数限りなく建っているこうした建物はインターネット上で爛尾楼ランウェイロゥと呼ばれた。工事の尻尾が爛った楼、という意味だ。

    爛尾楼は重要ワードで何度も出てくるので意味が分からなくなることはないのですが、読み方を忘れてしまいます。日本語的に「らんびろう」と呼んでもいい気もしますが、ここは中国気分(?)を盛り上げるために、中国語の発音で読みたいところ。ピンインは làn wěi lóu です。

    中国の不動産業界の破綻はニュースでちょっと聞いた程度で、あまり知りませんでした。こちらの記事あたりで(いつ完成するかわからない「爛尾楼」 | 現代ビジネス | 講談社)、イメージをつかんでおくと、楽しめるかもしれません。

    あと、これも何度も出てきます、「房子」。「ふさこ」ではありません。振り仮名は「ファンズ」となっていました。ピンインは fáng zi です。 家とか部屋とかを表す単語なのですが、本文に解説があります。

    房子とは、およそ日本語の住居にあたる語だ。大きさではなくじっさいに住んでいるかどうかが基準なので、物置から、上は紫禁城まで、房子と呼ぶことができる。

    こんな感じで、中国語が登場する際には、小説中で解説をしてくれているものも多いのですが、なんでしょう、最後まで記憶が続かないんですよね、短編なのに。房子はDuolingoでも頻出で、知っていたので、これについては特に問題ありませんでした。

    次に出てくるのは「青帮」。作中は「帮」でしたが、ウィキペディアには「青」という漢字で表記されていました。

    駐車場ビルに向かいながら、ミスQは、立退き要員として香港から青帮チンパンのメンバーを三人呼んできている、とさも自信ありげに言う。

    ピンインは qīng bāng です。ピンインのqiは「クィ」ではなく、息を強く吐き出す「チィ」みたいな感じです。清朝から存在する犯罪組織らしいです。立ち退きに応じない住民を脅すためにチンピラみたいなのを三人雇ってきたみたいですが、この三人は ど素人で全然怖くありません。指示をだすレン君(鹿野川教授の助手みたいな(たぶん)シンガポール人)のほうが、よっぽどヤクザみたいなときがあります。

    鹿野川で思い出した。物語は鹿野川教授とレン君の視点が交互に切り替わりながら進むのですが、頭の中でずっと「かのがわ」と呼んでました。が、実は小説の書き出しは、

    そのメールを受けとったとき都内某総合大学建築学科教授、鹿野川ししのかわわたるがいだたい印象は、Ningbo、それってどこだ、というものだった。

    というものだった。愛媛にあるのが鹿野川かのがわだからなあ、てっきり。鹿威ししおどしの鹿ししなんですね。難しい。

    さて、次の中国語は、

    改めてミスQは「こいつらに住人の立退きをやらせます。それならば、われわれは没有メィヨゥ関係グヮンシィでいられるので」と、三人にも分かるよう、中国語にきりかえて、告げた。

    「だいじょうぶ」「気にしないで」って意味で、「没関係」と言うのは初歩の中国語で必ず習うフレーズですが、ここでは文字通り「関係がない」という言い回しなのでしょう。ピンインは méi yǒu guān xì 。

    まだまだ、さりげなく出てきます、中国語。

    Q先生は「アイ、あなたは臭くないの⁉」と、すっとんきょうな裏声を出した。

    哎さんに呼びかけた、なんて思いませんでした? そんなヤツぁいないよ、と言われそうですが、100人に1人くらいはいるんじゃないかと思います。哎呀アイヤー!のアイで、驚きを表す言葉なんですね。ピンインは āi yā 。

    なんの説明もなしに、台詞に散りばめてきます。

    Q先生は舌打ちにまぎれて「臭死チョウスー」と何度も言い、「あれは誰なんですか?」と訊いてきた。

    ピンインは chòu sǐ です。「臭死」とは「死ぬほど臭い」という意味です。「くさっ!」ですね。他にも、「熱死」(あつっ)、「煩死」(うざっ)など、中国人はよく死にます。

    こんなのもあります。

    ここは福建省のど田舎じゃない、南京と上海と杭州のちょうど真ん中の城市なんだ」

    字面から、城下町とか城塞都市を想像しそうになってしまいますが、中国語で「城市」といえば「都市」くらいの意味です。ピンインは chéng shì 。「城市」「城」などというフレーズがちょいちょい出てきますが、単に「都市」「街」くらいの意味で、お城はたぶんないはずです。

    厠所ツェスォに行ってくる」と言って店の外でスマホを確認し、(略)

    これは字で分かりますね。かわや、トイレですね。ピンインは cè suǒ 。

    収穫後らしい農地がしばらく続き、ちょっとした街道沿いに、商店や家や、いくつかの〈公司〉が並ぶ。

    中国からの輸入品に書いてあったりするので、「会社」であることは知っている人は多いと思うのですが、もはやこのへんは常識扱いなのでしょうか。このレベルの語を知らないと、この小説を読むのは厳しいです。発音は「ゴンス」「コンス」に近くて、ピンインは gōng sī です。

    「ところであの祠の神は誰なの」(略)

    「知らない。でもジァのですよ。全部人を騙すやつだ」

    「仮」の漢字は日本語だと「かりの」の意味ですが、対応する中国語の漢字は「ジァ」で意味は「うそである」「本物でない」という意味になります。ピンインは jiǎ です。

    他にも、「丈夫有責」という看板が出てきて、鹿野川教授がミスQに意味をたずねるのですが、「後で説明しますから」と言われる(そして、それっきりになる)、というシーンがあります。

    「丈夫」は「夫」のことなので、「夫に責任がある」という意味になります。何の責任かというと、一人っ子政策の計画出産に関して、ということじゃないかと思います、たぶん。

    著者の仁科斂さんの経歴をWikipediaで見ると、「東京都生まれ、香港、上海、ロンドン育ち」だそうです。そのせいで、やぶからスティックに中国語が混ざってしまうのかもしれません。


    2026年7月14日追記
    続報です。
    2026年上半期の芥川賞を予想・・・はせずに、賞を新設する

  • 『アンチ・グッドモーニング』と「あのエレベーター」

    アイキャッチ画像:Krzysztof Golik投稿者自身による著作物, CC 表示-継承 4.0, リンクによる

    芥川賞(2026年上半期)の発表前にノミネート作品を全部読んで、どれが受賞するか(心の中で)予想するという一人企画をやっています。知らんがな、という声が聞こえてきそうですが。

    八木詠美さんの『アンチ・グッドモーニング』は3つ目に読んだ作品でした。読む順番は図書館の貸出・返却状況に左右されます。だって、もう掲載されていた文芸誌のバックナンバーが売っていないんですもの。

    読み始めたときは、中国の廃墟マンションを美術館に設計しなおす『丹心/まごころ』や、空行なしで最後まで主人公の心情と発言が混在した文体が続く『ソリティアおじさんがいた頃』(過去記事)と比べると、普通の作品なのかなと思いました。

    普通というのも変ですが、文体にクセがあるわけでもなく、現代の日本が舞台で、リモートワークをする会社員が主人公ということで、すっと入っていけそうだなあと。でも、読み終わってみると、一番ぶっ飛んでいました。この「ぶっ飛ぶ」という言葉は死語のような気がしますが、死語を蘇生していこうという一人企画をやっておりまして、積極的に使っていきたいと思います。なんちゃって。

    記事につけたタイトルをまず消化しておきましょう。「あのプール」と言えば、「あぁ、あれね」という男性諸氏は多いと思いますが、全年齢対象のレーティングを標榜する当方といたしましては、これ以上プールの方は掘り下げないことにします。

    では、「あのエレベーター」とは、どのエレベーターでしょうか。

    「ドイツの黒い森地方地方には不思議な建物があるんですよ。カーニバルで有名な中世の町、ロットヴァイルにです。250メートルほどある高層ビルなんですが、窓がほとんどなくて誰も住んでいないしテナントのお店も入っていない。さて、何のためのビルだと思いますか?」

    どういう流れでこんな話が出てくるかは、読んでのお楽しみで、その答えは、

    「エレベーターの試験用のタワーで、中には12本のシャフトがあるんです。そこを試験用のエレベーターがひたすら上がったり下がったりしているんですよ。想像できます?」

    あー、知ってるー! 知ってると嬉しくなりますね。知ってるといっても、ちょっと前に読んだ小川洋子さんの『夜明けの縁をさ迷う人々』(過去記事)に収録されている『イービーの叶わぬ望み』に出てきたから知っているという、知りたてのほやほやなのでした。

    文字通り生まれながらのエレベーターボーイ(Elevator Boy)のイービーが、エレベーターを追われる(どういう状況か、想像を膨らましてみよう)ことになったときに、安住の地のように語られるのが、このエレベーター塔なのでした。なんだかガンダーラみたいに。

    ドイツの深い森に高層ビルがあり、人をのせていないエレベーターが来る日も来る日も上下し続けるというイメージは、文学の要素として魅力的ですね。

    尾崎放哉ほうさいの「咳をしても一人」が思い浮かびました。「最上階についても無人」みたいな。どうやら私には文学のセンスがないようです。

    尾崎つながりだと、尾崎豊っぽく「押されたボタンを無視したとき 自由になれた気がした 15の階」なんてどうでしょう。「エレベーターが叫んでる。大人たちが作ったシャフトを上下するのは、もうまっぴらなんだ!」とか。後者は尾崎というより、井上マーでした。

    最近、何書いてたんだっけ?ってことがよくあります。寝不足かもしれません。

    主人公の野上のがみさんはSコーポレーションという健康食品メーカーで働く女性です。このSコーポ―レーションがコンサル会社に買収された頃から徐々にブラックになっていきます。この会社「『健幸』宣言」なんてものを出していて、働きやすい職場をもつウェルビーイングを重視する会社として対外的には知られているという、なんとも皮肉な状況。ONとOFFが切り替えられないリモートワークのせいか、野上さんはある日突然、不眠になります。もがき苦しむ描写が痛々しいです。

    きっと、こんな会社あるよなあ。みたいな風刺的な側面も感じます。資料を作るときは「余白」を残すという職場の先輩のアドバイスが秀逸でした。指摘して直すところがないと上司は何か見つけだそうとして、些末なところをいじって資料がおかしくなると。

    (略)ここの部分は迷っているから相談にのってほしいって言って何かアドバイスさせれば、向こうも安心するでしょう? 仕方ないのよ、自分の手を動かさずにお金を稼ごうとする人ほど不安になりやすいの。(略)だからわたしたちは彼らの存在意義を作って、適当に安心させてあげればいいのよ。

    「アドバイスさせ」るとか、「自分の手を動かさずにお金を稼」ぐとか、「安心させてあげればいい」とか、なかなか毒が効いています。八木さんって会社員経験者?

    なんてあたりのことを書くと、隠れブラック企業を風刺する社会派小説かと思ってしまうかもしれませんが、それでは終わりません。途中からだんだん変になっていきます。どの辺からだったかなー、e-ラーニングの動画の講師「出冬覚いでふゆ さとる」が出てくるあたりからだったと思います。そう、へび苺メガネの。不眠が原因の幻覚なのか、実は眠れていて夢なのか、現実なのか(ファンタジー小説かもしれないしね)、よく分からない感じになってきます。

    いろんな要素が次々に出てきて飽きさせません。純文学とエンタメは両立するんだなと思いました。私は読書をしているとすぐに眠くなるので、小分けにして読むことが多いのですが、『アンチ・グッドモーニング』は就寝予定時間(午後九時)を過ぎていることも忘れて、一気に読んでしまいました。そして、そのあとすぐ寝ました。ぐっすり眠れました。うらやましいですか。

    いまちょっと検索してみたら、もうすぐ(2026年6月29日)単行本が出るんですね。楽しみなことは、「もういくつ寝ると・・・」なんて数えたりしますが・・・、寝られるといいですね。


    2026年7月14日追記
    続報です。
    2026年上半期の芥川賞を予想・・・はせずに、賞を新設する

  • 『ソリティアおじさんがいた頃』の独特の文体

    第175回(2026年上半期)の芥川賞にノミネートされた作品が載っているということで、『文學界』2026年5月号を図書館で借りてきました。村司侑むらしゆうさんの『ソリティアおじさんがいた頃』という作品です。

    文芸誌を買ったことがない私は、この『文學界』なる雑誌がどのようなものなのかも、あまり分かっておりません。文藝春秋社から出ている純文学寄りの文芸誌だそうです。ややこしいのは『文藝春秋』という総合誌もあって、芥川賞を受賞した作品が、後日この『文藝春秋』に掲載されます。こちらは再掲ということですね。

    『文學界』(文藝春秋社) 、『新潮』(新潮社)、 『群像』(講談社)、 『文藝』(河出書房) 、『すばる』(集英社)あたりに掲載された小説からノミネートがされることが多いようです。

    この『ソリティアおじさんがいた頃』はすでに文學界新人賞を受賞してるんです。で、さらに芥川賞にもノミネートされたということですね。

    主人公の古井瀬ふるいせ瑠奈は30代の女性です。この瑠奈の一人称の小説なのですが、文体が独特です。瑠奈の心情と台詞がごっちゃになっていて、他の人の台詞は普通に括弧書きになっていて、構成要素はそれだけです。・・・という説明じゃ分かりませんよね。

    例をあげますと、

    「ちょっとええか、古井瀬」と、珍しく小さな平見部長の声。(略)
    「きょうの、黒野田さんのお通夜な、自分、行くか?」
    え、いえ、わたしは、大勢押しかけるなって言ったはったんで、遠慮しよかと。
    「そか。ええよ」
    用はそれだけかと思ったが、すぐには出ていかない。なんやろ、と思う。
    「川上くんは、どうやろか」
    海史? と思いながら答えを探す。え、いや、どうでしょ?
    「すまんけどな、スマホ使ってええさかい、ちょっと訊いてくれへんか(略)」

    見ての通り瑠奈の台詞が括弧に入っていないんですね。本当だったら、「え、いえ、わたしは、大勢押しかけるなって言ったはったんで、遠慮しよかと」と「え、いや、どうでしょ?」のところは括弧で括るのが普通です。でも、小説全体を通じて、この瑠奈の台詞は括弧に入れないという方針が貫かれています。つまり、瑠奈が考えていることと実際に口に出した事は表記上は区別されていません。文脈からほとんどは判断できますが、境目が曖昧な箇所もあります。

    目の前で起きたこと、考えたこと、話した事、その結果帰ってきた反応、などをつらつらと流れるように書いている文体のリズムを壊さないように、このような表記法にしたのでしょうか。初めて見ました。

    話したことを括弧で括ると、メリハリがつきすぎて、他の地の部分の、ある意味だらだらと起きたこと・考えたことを描写するテイストと合わないかもしれません。大体こんなこと言ったら、こんな反応があって、そしたらこんな気がしたので、またこんな感じのことを伝えた、くらいの「言い方までは限定しない表記」は新しい発明なのかもしれません。

    ストーリーのことをいろいろ書いても、この小説の特徴は伝わらないような気がして、今回は文体のことばかり書いてみました。思考は逡巡して、いろいろ考えるが大した根拠はなく、たった今考えたことを反省したり、思いが伝わっているのか不安だったり、相手の真意がよくわからなかったり、言おうと思ったが言わなかったり、なんでこんなことになったのか不思議だったり、ちょっとしたきっかけで決断したり、行動したり、でも、確信はなかったりするけど、後悔もなくて、結局人生は続いていく、みたいな話です。読めば分かるさ。


    2026年7月14日追記
    続報です。
    2026年上半期の芥川賞を予想・・・はせずに、賞を新設する

  • お金のかからない人生の楽しみ方『深夜高速バスに100回ぐらい乗ってわかったこと』

    BSよしもとの「第一芸人文芸部 俺の推し本。」という番組で銀シャリの橋本さんが推していた『深夜高速バスに100回ぐらい乗ってわかったこと』を読みました。

    番組中で橋本さんが「読むYouTube」みたいな例えをしていました。「○○してみた」のような企画っぽい内容が多い点を言っていたのだと思います。それもそのはず、著者のスズキナオさんはデイリーポータルZなどで記事を書いているライターさんじゃないですか。本書にもデイリーポータルZが初出の記事もたくさん収録されていました。

    読む前にはもっと派手な企画を想像していました。もっと「いいね」を! もっと注目を! もっと再生回数を! みたいな感じで、最後はYouTuberが警察に捕まったりする話も聞くので。

    スズキナオ氏さんの企画はその逆を行く感じです。私が好きだった企画は「誰も知らないマイ史跡めぐり」です。友人であるハナイさんの地元の街に行き、ハナイさんの「マイ史跡」を紹介してもらうというもの。そりゃ「誰も知らない」わけです。

    ここでよく食べたてなーというラーメン屋に行ったり、そこがすでに移転して閉まっていたり、宮沢りえが表紙の雑誌を立ち読みしていたら近くに宮沢りえ本人が立っていたという経験をしたコンビニに行ったり。(このエピソードについてかなりインパクトのある、ほぼピークに相当するものかと思います)

    あとは、子供の頃に遊んだ公園とか、中高生のときに散髪していた理髪店とか、「夜、ボーッとしてた歩道橋」とか、「好きな子に電話したことがある電話ボックス」とか。

    有名人のゆかりの地をめぐることがツアーとして成立するなら、自分にとっては関係の深い友人のゆかりの地を本人に案内してもらうことは、とても価値のあることじゃないかと。そして、そんな変な企画につきあってくれる友人がいることはとてもすばらしいことじゃないかと。

    ラーメン屋や居酒屋などの飲食店をめぐる記事も結構多いですが、よくあるグルメレポートとは違います。どこ違うんだろうと考えてみたところ、スズキさんは人にフォーカスを当てているんだなあと思いました。出てきた料理も紹介するけれど、それだけじゃなく、お店をやっている人の人生も紹介するんですよね。なぜこの店を始めたのかとか、どうしてこんなメニューなのかとか、阪神淡路の震災のときはどうだったとか(関西のお店が多いので)、ご主人と結婚したきかっけとか、けっこう個人的なことまで。

    「おいしい○○」を食べに行くということだけが、お店に行く目的じゃないんだと思うんですよね。人に会うのが目的だから、動物園で飲んでもいいし、舞浜に行ってディズニーランドに入らなくてもいいし、終電を逃したつもりで朝まで歩くだけもいいんだ。そう考えると、なんだか納得しました。