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勝手に読書感想文。漫画も映画も含みます

タグ: 芥川賞

  • 電子書籍で借りたい『蹴りたい背中』

    本を読むなら圧倒的に紙書籍派なのですが、ときどき電子書籍が欲しくなるときがあります。たしか登場人物の誰かがこんなことを言っていたんだけど・・・とか、こんな設定があったはずだけど・・・とか、あとは名前の読みの確認(特殊な読みなら初出の箇所にルビがあったりするので)とか。

    結局は両方欲しいんですよね。読むのは紙媒体、検索は電子媒体。両方あると便利なのだろうか、というのを試すべく、両方を同時に借りて、その利便性を確かめてみることにしました。

    電子媒体のほうが所蔵が少ないので、まずはこちらから探します。かわさき電子図書館には、綿矢りささんの『蹴りたい背中』がありました。まだ読んでなかったので、ちょうどいい。でも、予約が入っていて、待ちです。数週間後に順番が回ってきたので、そのタイミングに合わせて、紙書籍も借ります。こちらは所蔵数も多いのですぐに借りられます。図書館で紙書籍を受け取って、さて並列読みをしようと思っときに、ミスっていたことに気づきました。電子図書館の書籍は予約の順番が回ってきても自動的に貸し出しにはならず、一定期間内に貸し出し処理をしないと予約がキャンセルされてしまうんです。最近暑いせいでしょうか、やっと回ってきた予約の順番を、「そうめんのように」流してしまいました。

    つまり、今回は普通に紙の本を読むことになりました。冒頭に長々と書いた割には、その目的は一切達成できないまま、この感想文は始まります。

    斎藤美奈子さんが書いた巻末の「解説」によると、『蹴りたい背中』は127万部、芥川賞発表号の『文藝春秋』は118万部売れたそうです。もう、みんな読んでます。現時点で読んでいない人は、きっと一生読むことはない人なので除外して、つまり全員読んだということにしておきます。

    私、実は綿矢さんの作品は読んだことがありませんでした。でも、日テレ系(制作は読売テレビ)の「遠くへ行きたい」で沖縄を旅している綿矢さんは見ました。デビューしたのは高校生のときだったそうで、まー、すっかり大きくなって。YouTubeに番組がアップ(公式)されていますね。

    「遠くへ行きたい」って、なんか絶望的な発言のようにも見えますよね。もういやだ、限界だ、どこでもいい、遠くへ・・・行きたい、みたいな。でも、そんな番組じゃないので安心してください。

    「蹴りたい背中」というタイトルを聞いたとき、それは何か比喩的なものだと思いました。その人に対する願望とかイメージが膨らみ、それをどう表現するかが難しく、なんとか比喩的に表現したのが「蹴りたい」なのではないかと。

    ・・・まさか、本当に「蹴りたい」んだとは思いませんでした。そして、本当に蹴ります。笑ってしまいました。人が何かを蹴るのを読んで笑ってしまったのは、メロスが犬を蹴飛ばしたとき以来です。

    いいシーンでした。蹴りたくなって、気づいたら蹴っちゃってて。蹴られたほうも「え?」みたいな。「え? え? 何、今の?」みたいな。蹴ったのは主人公の女子高生の長谷川 初実、(後ろを向いているときに突然)蹴られるのが男子高生の蜷川 智。

    ハツこと初実はうまくごまかします。

    「ごめん、強く・・・叩きすぎた。軽く肩を叩こうとしたんだけど。もう帰るって、言いたくて。」ドアをノックするような手の動きを加えながら、嘘がすらすら口から出てきた。

    「ほぼパンチくらいの威力だったよ、今の。」

    惜しい! 「キック」でした。

    全体的に、総じて、強いて、言うなら、青春小説であり、恋愛小説ということになると思います。でも、あの背中がむずがゆくなるようなベタな恋愛ものではありません。背中はかゆくならずに、蹴られて痛くなります。なぜ背中を蹴りたくなるのかは、簡単には表現できません。ハツは、怒られている「にな川」(漢字が思い浮かばないので、頭の中でハツはこう呼んでいる)に対して、

    (略)がらんどうの目をして放心している。そして私にはそんな彼が、たまらないのだった。もっと叱られればいい、もっとみじめになればいい。」

    なんだか谷崎潤一郎みたいなのを思い浮かべるかもしれませんが、それとも違います。もっと淡い感じがするし、決して確信犯でもないあたり、初々しさがあります。

    にな川の人物の描き方もいいです。どう見てもイケメンではありません。分かりやすく言うとオタクっぽいという言い方になるんですが、それだとちょっとニュアンスが違います。好きなものを無邪気に好きだといえる小学生のような感じ。カムフラージュする必要があると思っていない頃の。

    ハツが、にな川のコレクションの中から、こんなものを発見します。

    無理があった。オリチャン(注:にな川が好きな女性タレント)の顔写真に、オリチャンの本当の身体とは似ても似つかないだろう、まだ成長しきっていない少女の裸が、指紋のついたセロテープでつぎはぎしてある。

    やべぇやつです。警察に押収されかねないブツです。

    ハツはこれをこっそり持ち帰ってしまいます。ハツが押収しました。

    そして、それを返す場面がきます。さすがにこんなものを見られては(そして盗まれては)、にな川は狼狽・激怒するのではという展開を想像していましたが、

    にな川は顔を近づけ写真を凝視し、次の瞬間、ぱっと顔を輝かせた。

    「失くしたと思ってたのに。ちっちゃいけど、なんかそそるとこがあって気に入ってんだ、これ。」

    想像をはるかに超えてきました。

    そうか青春の一歩手前なんですね。高校生でこれだと、周囲からは気味悪がられそうですが、にな川はまだ子供なんだと思えば納得がいきます。好きなものには正直、それ以外には無頓着。

    オリチャンを凝視するにな川を、凝視するハツも、そんなことをすればはた、、から見るとどう映るかまで気が回らなかったり、コントロールできなかったり。現にハツの友人の絹代は二人が恋愛関係だと思い込みます。普通そうでしょ、家に行ったり、一緒にライブに行ったり、ステージは見ずに、ステージを見ているにな川ばかり見つめるハツを見れば。

    でも、二人は青春の一歩手前で、世の中の常識的な関係性を落としどころにする、なんて感覚を持ち合わせていない。なるほど、これは青春前夜小説なのであると思った次第です。

    ちなみに、電子書籍を借りられなかったので、紙のページをめくって該当箇所を探すのが大変でした。やっぱり付箋紙は必需品です。

  • 妊娠と文学『妊娠カレンダー』

    小川洋子さんの『妊娠カレンダー』読みました。妊娠した姉のつわりがひどく、そのとばっちりをうける妹が語り手。何を作ってもケチをつけてくる姉は、ほとんど何も食べられない状態でしたが、たまたま妹が作ったグレープフルーツのジャムにはまり、パンなどにつけるでもなく、カレーライスのようにスプーンで食べ続けます。妹はせっせとグレープフルーツのジャムを作る、姉はすぐに食べてしまう、妹は作る、姉は食べるというが毎日続きます。妹はスーパーで買うときに確認します。

    「これ、アメリカ産のグレープフルーツですか?」

    純文学系の作品でよく見かけるのですが、はたから見ると何も起きていないように見える、でも何か大変なことが起きているかもしれない。でも、結局何も起きてないんじゃないか、とかね。

    ネタバレですよ。要注意。

    作品の最後のところ。

    わたしは、破壊された姉の赤ん坊に会うために、新生児室に向かって歩き出した。

    多少多めに、発がん性のある物質を摂取したからといって、すぐに何か影響が出るとは考えにくい。普通に考えると、この程度で問題が発生する確率はごくごく低いでしょう。つまり、はたから見れば、あるいは、結果的には、妹は姉の好きな食べ物をせっせと作ってあげた、というだけの話です。

    羽田圭介さんの『スクラップ・アンド・ビルド』に出てくる、祖父を甲斐甲斐しく介護する孫を思い出します。

    死期を早めてあげるための介護とは?『スクラップ・アンド・ビルド』

    一見、何でもやってあげるやさしい孫なのですが、その目的は、頭も体も使わせないようにして、心身の機能を弱め、死期を早めてあげることだったりします。

    あと、思ったのは妊娠は文学になるんだなーということ。姉は難産になることを恐れているのですが、それ以上に・・・

    「でももっと怖いのは、自分の赤ん坊に会わなきゃならないってこと」
    (略)
    「ここで一人勝手にどんどん膨らんでいる生物が、自分の赤ん坊だってことが、どうしてもうまく理解できないの。抽象的で漠然としてて、だけど絶対的で逃げられない。(略)」

    そういえば、2026年上半期の芥川賞ノミネート作、鈴木涼美すずみさんの『悪い血』も妊娠が重要なモチーフでした。

    『悪い血』と私小説

    今までさんざん無茶な生き方をしていた自分が、結婚して子供産んで幸せになるなんてことは絶対にない、許されない。検査で子供に何か出るに違いないし、もしそうでなくても、どこかでしっぺ返しがくるはずだという考えに取りつかれた女性の行動が描かれていました。

    最近読んだ、井戸川射子さんの短篇集『移動そのもの』に収録されている『花瓶』の設定も、妊娠したお姉さんとその妹(語り手)が登場人物というものでした。

    『移動そのもの』と『旅は育ての親』

    姉妹そろって精神科医にかかっているようで、その医者への妹の独白が続くだけなので、どこまで客観性があるのかは分かりませんが、結婚・妊娠がきっかけとなって、ちょっとしたごたごたが発生しているような感じ。

    『妊娠カレンダー』に話を戻すと、文庫版のあとがきが興味深かったです。どんな話かというと、小川洋子さんが台所の床下収納を開けてみると、猫が死んでいたという話。

    そんな話をさらっとあとがきに書くなよー、と読み進めたら、実は腐った玉ねぎで、ぶよぶよになった玉ねぎが猫の頭蓋骨に見えたという落ち。でも、この先が面白くて、『妊娠カレンダー』は自分の経験を書いた作品か?と質問されることがよくあるらしく、そのたびに、「私の妊娠体験なんて、スーパーで買ってきた新鮮な玉ねぎそのもので、何の書かれるべき要素も含んでいない」と。玉ねぎが床下収納で腐ったり、それが猫の死骸になるところに小説があるのだと。

    日常のちょっとしたことに着想をえながらも、そのままじゃ小説になるようなものじゃない。新鮮な玉ねぎを買ってきたあとに、それを腐らせたり、猫の頭蓋骨にするのが作家の仕事なのだなあと。ちょっと想像できないので、これからも消費者として楽しませていただきたいと思っています。

  • 『風の歌を聴け』の芥川賞選考委員の選評

    村上春樹氏のデビュー作はいつか読まねばと思っていたのですが、のびのびになっていました。デビュー作の『風の歌を聴け』の初出は1979年です。私はかろうじて生まれていましたが、やっと漢字を習い始めたという頃でしょうか。『大きなかぶ』や『スイミー』は読みましたが、村上春樹は読んでいませんでした。

    なので、今さらながらですが読んでみました。そして、読む直前にこの『風の歌を聴け』が芥川賞にノミネートされていたこと(そして逃したこと)を知りました。村上氏が芥川賞を獲っていないことは、たまに話題になりますよね。意外だという印象だったり、授賞(あげるほうの視点ですね)しそこねたみたいな文脈だったり。芥川賞って、時の運というか、タイミングみたいなものも大きいですよね。作家キャリアの初期にしか対象にならないし、ライバルである他の候補作の具合とか、時代というか、その時の選考委員が誰だったかにもよりますし。

    なんだかM-1グランプリみたいなお笑い賞レースを連想します。すごく売れている芸人が意外にも無冠だったり、何年も前に優勝した人が今はそれほどでもなくて、「えっ? 獲ってたんだ」みたいなのとか。あと、審査員に上沼恵美子がいるかどうかが影響したりとか。

    本の話から入ったくせに、なかなか本の内容に入らないのが、私の唯一の欠点です。自己評価が甘いというのは長所です。

    本のことを話すときに、あれよりもこれの方が面白かった、みたいな言い方は何だか違うような気がしていて、せめて「インパク知」とか「バカシブ」みたいな2軸にする必要があるんじゃないかとか。もっというと、「バカ」と「知的」に優劣関係はないんだとか。

    しかし、君子は豹変し、『夏帆』より『風の歌を聴け』のほうが面白かった、などと言いたくなったりもします。ある作家の最近の作品と過去の作品を比べ、昔のやつのほうが面白かったなどというのは、昔の曲ばかり聞きたがる、アーティストの心、ファン知らずな感じで、もっと最近の曲もリクエストしてよ、と思ったりもします。

    でも、ここ数ヶ月で読んだ本の中で一番良かったんですよね。どこがいいって、鼻につく感じのところがいいです。学生ふぜいが毎日のようにバーで酒を飲んでいたり、車を乗り回していたり(←多分に悪意が含まれる表現)するところが。

    そして、悲劇といえば悲劇だが、どん底と呼べるほどではない、ちょっとした心の傷があったり。小粋なトークで、それを小出しにしたり。

    なんか悪口言っているみたいですが、物事はそんなに単純ではありません。前述のような表現にだんだん引き込まれていくんですよね。

    登場人物が「演じている」感じがいいです。無口な主人公がぽつりと何かひねったことを言う。それに対し、会話の相手は、「ちょっと何言ってるかわからない」とは言わずに、同じくらいひねった、端的な言葉を返す。

    演じる主人公と演じる女の会話、演じる主人公と演じる友人のやりとりが、次第に世界を作っていって、どこにもないような無国籍な空間を作り出す。かなり独特な雰囲気を持っています。この空気感を出せるのが村上氏なのでしょう。

    芥川賞にノミネートされると嬉しいのは、選考委員の選評が読めることです。『風の歌を聴け』についても、芥川賞のまとめサイトにノミネート時の選評が載っています。

    村上春樹(むらかみ はるき)-芥川賞候補作家|芥川賞のすべて・のようなもの

    一番上に載っていた丸谷才一氏(53歳)の評言が以下のようなもので、

    「アメリカ小説の影響を受けながら自分の個性を示さうとしてゐます。」

    「もしこれが単なる模倣なら、文章の流れ方がこんなふうに淀みのない調子ではゆかないでせう。それに、作品の柄がわりあひ大きいやうに思ふ。」

    え、そんな昔? と思ったら、他の選考委員の人は普通の日本語で書いていて、丸山氏だけがこんな口調。落語の「たらちね」の奥さんみたいな人なのかもしれません。他の選考委員のメンバーを見ても、丸山氏はどちらかというと若いほうで、彼だけがこんな言葉遣いなのは変な感じです。きっとこのやうな表記へうきの仕方を好む人だったのでせう。

    選考委員の顔ぶれがすごいです。井上靖(72歳)、開高健(48歳)、遠藤周作(56歳)、大江健三郎(44歳)などなど。大江健三郎が最年少。

    このメンバーになら、ボロクソに言われてもしょうがないか(ってこともないでしょうが)と思いきや、意外にポジティブな意見も多く、でもあともう一歩的な感じが目立ちました。

    ということで、過去の受賞作やノミネート作を読むときは、選評をあわせて読むと一粒で二度味わえます。でも、変な先入観を持たないで読むためには、作品を読んだ後に選評を読むほうがよさそうです。

  • 『猿の戴冠式』と人形とゾンビ

    アイキャッチ画像はボノボ(Greg Hume – 投稿者自身による著作物, CC 表示-継承 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=15057912による

    以前、自分に課しましたルール(過去記事:2026年上半期の芥川賞を予想・・・はせずに、賞を新設する)にしたがって、小砂川チトさんの作品を片っ端から読んでいます。「片っ端」と言っても小砂川さんはこの前まで新人だった若手なので、問題なく遂行できそうです。これが北方謙三さんだったりすると、大量のストックを読んでいる間に、どんどん在庫が追加されていく感じがして、読み終わる気がしません。こっちが読むスピードより、あっちが書くスピードが速いという、無間地獄になってしまうかもしれません。

    今回は『猿の戴冠式』を読みました。単行本の表紙は『家庭用安心坑夫』と同じ、榎本マリコさんです。顔のないあの絵です。本の表紙の絵に顔がないというのは、なかなか良いのではないかと思います。というのも、良くも悪くも『成瀬』の顔は表紙のあの顔を想像してしまって、それはそれでいいんですが、なんかちょっと想像の可能性が限定されてしまうというか、もうあれで固定されてしまうというか。

    時系列に並べると、『家庭用安心坑夫』、『猿の戴冠式』、『ゾンビ回収婦』という順です。一作目が芥川賞ノミネート、二作目もノミネート、三作目に受賞って、ホップ・ステップ・ジャンプみたいですごいですね。一作目でいきなり受賞という方もいますが、受賞するとその後はノミネートされなくなるので、それはそれでインパクトは弱め。あえて、泳がせ、泳がせ、のあとの必殺技みたいな感じは伝説チックです。

    三作読んでみますと、共通点というか、主題というか、重点施策というか、そんなものが見えてきました。

    まず、主人公がテンパっています。主人公が順風満帆では文学になりにくいので(それはそれでエンタメにはなるけど)、大抵の小説の主人公は課題や葛藤を抱えているものですが、小砂川さんの小説の主人公には痛々しいくらいの焦燥感があります。

    この主人公の感覚がいまいちわからないという読者もいるかもしれません。自信満々に何かを提案してくる人とか。自己肯定感のかたまりみたいな人とか。でも、どちらかというと、そうでない人、なんらかの部分でこれらの主人公と共通点がある人の方が多数派なのではという気もします。「そんなこと、電話かけて、直接聞いちゃえばいいやん」っていう感覚は、おじさんになってからやっと身につけられました。一線を越えてしまえばこんなに楽なことはないのですが、意外にこれが苦手という人は多い気がします。人それぞれ、意外なものが怖かったりするものです。まんじゅうとか。

    このような主人公の焦燥感は、『家庭用安心坑夫』ではこうでなければいけない、こうしなければいけないという強迫観念、『ゾンビ回収婦』では仕事を評価してほしいという承認欲求でした。『猿の戴冠式』では、「抑えがたい失敗欲」というものが登場します。

    失敗するかもという恐れが、こういう失敗の仕方があるという妄想に変わり、そうやって何もかもがダメになってしまうことが起きるはずだという確信に変わり、むしろそのほうが楽なのでは、というところまでこじれていく。この感覚、分かる人には分かると思います。そんな非合理が自分の中にあることに気づかされる感覚が快感です。

    そして、三作品の共通点と言えば、人間ではない存在との心の交流でしょうか。それを主人公は渇望するんですが、そんなに簡単にいかないというか、そもそも無理というか、その対象が人形(『家庭用安心坑夫』)だったり、ゾンビ(というかAIかも)だったり。

    『猿の戴冠式』での相手は猿なので、今回は可能性が高そうです。ただ、「うまくいった」ということと、「うまくいったと思い込む」ことには、それほど差がないのかもしれません。

    さて、収拾がつこうがつくまいが、そろそろお開きの時間です。実は隠された法則性を見つけてしまいました。

    小砂川さんの最新作は、『すばる』2026年7月号に掲載されている『犬たちの頭痛』です。

    『家庭用安心坑』→『の戴冠式』→『ゾンビ回収』→『たちの頭痛』

    脳トレでしょうか。次はキジが出てきて、最後に桃太郎が出てくるかもしれません。夫婦といえば、円満、茶碗、漫才、別姓・・・。夫婦仲、犬猿の仲・・・。

  • 大学教授の「その夜、生き延びるための唯一の方法」

    村上春樹氏の『夏帆』(単行本の一章に相当)が掲載されていた、『新潮』の2024年6月号を図書館で借りて、目当てだった夏帆を読み終わったので、パラパラと他のページをめくっておりました。

    創刊120周年記念特大号ということで、なかなか分厚く、表紙にもかなりの数の作家さんの名前が並んでいました。「創作の小さな真実」と題して、40人以上の作家さんのエッセイが掲載されており、その中に又吉直樹氏の名前があったので、気軽な気持ちで読んでみたのですが、なかなか重たい内容でした。

    幼少の頃の自分の創作(工作の類)がゴミとして扱われた経験、中学時代の美術の粘土の創作がクラスメートのいたずらによって破壊された経験、しかも全然面白くもないものに作り替えられていた、という話。

    その流れで、ある大学教授が『火花』を酷評した話に話題は移ります。その評論なのか書評なのかがネットで検索しても参照できない状態なので、あくまで又吉さんの言い分なのですが、このようなものだったとのこと。

    「火花」という小説の一場面。恋人だった真樹との別れによって自暴自棄に陥った神谷という芸人が、下着を脱ぎ、「若手の、若手の、若手の登竜門!」と言いながら、でんぐり返しで肛門を後輩に見せつけるくだりがあった。敢えてつまらないことをするという芸人としての自傷行為である。しかし、その部分を引用して「大学生レベル」と書き、このようなつまらない芸人の話など読むに値しないと結論付ける評論を目にした。

    神谷がおかしくなって、とんでもなくつまらないことをやっているというシーンなので、この行動のレベルの低さを引き合いに出して、小説の価値うんぬんを語るのが間違いであることは、ある程度日本語が読める人ならお気づきのことだと思います。

    この神谷の行動を、又吉さんが面白いと思って書いたと、その大学教授が考えているなら、とんでもない誤読です。「読むに値しない」ことを主張するために、作品の一部を引用するとして、このシーンを引用したんじゃ、完全に論理が破綻しております。

    ・・・なんてことは言わずもがなですが、私はちょっと違うところがひっかかりました。神谷の行動のくだらなさを表現するのに「大学生レベル」という言葉を使うのは、大学生に失礼じゃないか?

    自分が教育を行っている対象である教え子たちをそのように見ているのでしょうか? 私が大学生ならそんな教授にものは教わりたくないですし、私が親なら自分の子供の教育をそんな教授に任せたくありません。こういうところで人の本性が透けて出るのだと思います。彼は学生たちに敬意を払っていないばかりか、小ばかにしていることが分かってしまいました。

    それはさておき、この論評が発表されたのはかなり前のことだと思います。『火花』が芥川賞を受賞したのは2015年の上半期だったので、論評もそれからほどなく発表されたのではないかと思います。「創作の小さな真実」が2024年に書かれたエッセイだとすると、もう9年近くたっていたはずです。この話を持ち出すということは、又吉さん、かなり根に持ってますね。でも、許すも何も向こうは訂正も謝罪もしていないのでしょうね。

    でも、私、ちょっと、もしかしたら、なんて思うことがあるんです。『火花』の私の好きなシーンで、神谷先輩がネットの中傷などについて話している場面で、不当な批評が自分に向けられることが、いかにつらいかという話をしたあとに、でも、書いた側の人間の状況を想像しつつ、話を続けます。

    「だけどな、それがそいつの、その夜、生き延びるための唯一の方法なんやったら、やったらいいと思うねん。(略)」

    大学教授にだってつらいことはあるでしょう。彼がその夜を生き延びるために、誰かを攻撃する必要があり、それがたまたま又吉さんであったのだとしたら、そっとしておいてあげてもいいのかもしれません。彼も、もう気づいている頃かもしれません。

  • 『赤頭巾ちゃん気をつけて』とパロディとオマージュ

    (アイキャッチ画像:Mountainlife, CC BY-SA 3.0
      https://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0, via Wikimedia Commons)

    6月末頃に新聞で著者の庄司薫氏の訃報を見つけて、読んでみました。実は氏の名前も知らなくて、作品を読んだこともありませんでした。『赤頭巾ちゃん気をつけて』というタイトルだけが記憶にあって、たしかNHKの「世界サブカルチャー史」という番組でとりあげていたような・・・。

    検索してみたらXでポストしている方がいました。正確には、「世界サブカルチャー史 欲望の系譜 シーズン3 日本 逆説の60-90s第4回」だったようです。

    学生運動が激化して、その年の東大の入試が中止になり(実際の出来事)、それに巻き込まれた受験生の話。そして、著者自身がその騒動に巻き込まれた体験者だった、くらいの記憶です。

    それ以上の情報はないまま読み始めました。すると、知り合いのお母さんが「あら薫さん、元気?」という感じで、著者が実名で登場します。まあでも、「庄司薫」というのは本名ではなくペンネームなんですけど。

    そういえば、この『赤頭巾ちゃん気をつけて』というタイトル、きっとこんなきっかけ(世界サブカル&訃報)でもないと読まないだろうな、という気がします。なんというか、昭和のアイドルの曲名みたいな。表紙の裏に庄司氏のディスコグラフィ、ではなく代表作が載っていて、その中に『狼なんかこわくない』というのもあり、そうそう、その感じ! と。石野真子の『狼なんか怖くない』と丸かぶりじゃんと思ったら、庄司氏の小説が1971年、真子ちゃんの曲が1978年なので、小説の方が先でした。なので、アイドルっぽい曲名の小説なのではなく、小説っぽいタイトルの曲を真子ちゃんが歌ったということなのでしょう。でも、よく調べてみると、ディズニーの『三匹の子ぶた』の映画の挿入曲のタイトルだったようで、つまり、ディズニーっぽい小説タイトル、ディズニーっぽい曲名だった、ということで。

    文体は独特です。一人称で心情を滔々とうとうと語っていく感じです。好き嫌いが別れそうです。この手の文体は、非常に読みにくいと感じることもある反面、語り手とシンクロし始めると、「読んでいる」ということを忘れるような感覚になることもあります。

    主人公の「庄司薫」は日比谷高校に通っています。私は地方出身なのでピンとこないのですが、日比谷高校は全国でもトップクラスの公立高校で、今でも名門校なのは間違いないですが、あとがきによると「かつて毎年二百名近い東大入学者が出ていたことがあるなんていま誰が信じるだろうか」という感じだったようです。

    そして、作品全体に教養主義が現役だった頃の空気が漂っています。同級生の様子とか、高校でのイベントなどの話から、ちょっと今の高校生とは違う感じが伝わってきます。旧制中学・高校の流れを汲んでいて、ただ勉強ができるというだけでなく、日本を支えていくという真のエリート意識があり、哲学や芸術について議論するような。(過去記事:『教養主義の没落』と岩波文庫

    でも、主人公の薫君はそんな空気をちょっと冷ややかに見ているタイプです。同級生の「小林」はいかにも旧制中学・高校の学生という感じで、そんな二人が友達だったりするのもちょっと面白いです。

    終盤のクライマックスで、主人公が自分はこういう人間になりたいんだ、という話を語ります。なんだかこの流れ、『ライ麦畑でつかまえて』っぽいと思ったら、私の勘は当たっていたようで、発表当時いろいろ論争になっていたようです。でも、主人公が日本の高校生という時点で、パクリだとかなんだとかそういうものには当たらないと思うんですけどね。だいたい、あんな有名なものはパクれないです。みんな知っているんで。

    誰にも知られていないようなものをコピーしてきて、さも自分の作品のように発表して、それで誰にも気づかれなくて、やっと、晴れて自分の作品として扱われる、というところまで行って、剽窃作戦大成功というわけですから、有名な作品ではそうはなりえません。有名な作品は、パロディにされるか、オマージュされるかしかないような気がします。

    でも、その作品を踏まえて書いたのか、偶然類似性が生じたのか、というのは気になるところ。BSテレ東の「あの本、読みました?」で、羽田圭介さんが、自身の『隠し事』という作品が、谷崎潤一郎の『鍵』と類似しているという書評を見て、それから気になって『鍵』を読んでみた、みたいな話をしていたのを思い出しました。

    『鍵』は以前読んだので(過去記事:日記は究極の信頼できない語り手 谷崎潤一郎『鍵』)、今度は『隠し事』を読まなくては、と思いました。こうやって、読みたい本は増えていき。

  • 『ゾンビ回収婦』の落穂拾い

    3度目のノミネートで晴れて受賞されました。予想が当たって嬉しいです。いや、予想したのではなく別の賞を勝手に作ったのでした。(過去記事:2026年上半期の芥川賞を予想・・・はせずに、賞を新設する

    ということで、『群像』2026年5月号を書庫へ戻す(=図書館へ返す)前に、掲載されていた『ゾンビ回収婦』をもう一度読んでみました。最近、映画『メメント』の主人公なみの記憶力になってきており、以前何を書いたのかがあやふやだったので、一度目に書いた感想文を読み返しました(過去記事:VRゲーム、AI、働くこと『ゾンビ回収婦』)。なるほど、そんなことも書いていたな、なつかしい。

    二度目に読んでみると、まだまだ気になったことがありましたので、「『ゾンビ回収婦』の落穂拾い」と題しまして、前回書き忘れていたことを、うだうだと書いていこうと思います。ちなみに、落穂を拾うという行為と、ゾンビを回収するという行為が、かけてあるという点に気づいていただけたでしょうか。後付けなんですけど。

    電車などで読んでいると、知らない言葉が出てきても簡単に調べることができません。スマホで調べたら? ってか。右手にGUNZO、左手に吊革、そして、心に花束(@阿久悠)という状態なので、スマホの余地はありません。ちなみに「GUNZO」という表記を見ると、タンバリンのGONZOが頭に浮かんでしまいます。しかも、それはかなり激しく踊っている映像なのです。すみません、誰もが思っているような、当たり前のことを書いてしまいました。

    一回目に読んだときに、よくわからずにスルーしていたのが「ザ・グランド・口唇期ホテル」というネーミングです。なぜそのような名前にしたかという点だけでなく、そもそも「口唇期」という言葉を知りませんでした。なので、一般的な言葉なのか造語なのかもわからず。

    今は手に何も持っていないので(心に花束はあります)、調べてみます。Wikipediaによると、フロイトが使っていた、生まれてから最初の発達段階をあらわす用語だそうです。

    口は最初に経験する快楽の源で、生存のためにある。赤ん坊は本能的に吸う。口から満足を得ることで、赤ん坊には信頼と楽観的パーソナリティが発達する。時期については諸説あるがおおむね出生時から2歳までとされる。

    なるほど、主人公の満たされない感覚が成長期に起因していることとかかっているようです。ゾンビを駆逐して楽しむ場所(そして果てたゾンビを回収する仕事でやりがいをえる場所)に、「口唇期」という名前をつけるとは、すごいセンスです。そっか、テディベアの「吸てつ」行動とも関連してくるのですね。

    あと、これ。

    【きのこと 名乗ったからには かごに入れ】

    私は最初、頭の中で「かごにはいれ」ではなく、「かごにれ」と呼んでしまい、そうすると後半が七五調になるので、だったら最初のところも「椎茸と」とか「松茸と」と変えると俳句になるな、なんて思ってしまいました。でも、きっとこれは「いれ」ではなく「はいれ」なんだろうなと。これをあえて「いれ」と読ませるためには、こうしたらどうだろうか。

    きのこだと 名乗ったお前を かごに入れ

    最後に「一茶」とかなんとかつけておけば、見た人が深読みしてくれるかもしれません。秋のキノコ狩りの風景です、とかなんとか。

    なんて考えながら、調べてみると、ロシアのことわざでした。「おそ(略)」。

    っていうか、タトゥーは最初謎のメッセージじみた感じで登場しますが、実はロシアとかの諸外国の諺だったりして、なんでそんなものが刻まれているのか、というのはよく読めば分かるのですが、一回目に読んだときは、私の中でしっかりつながってませんでした。電車の中で読んだため、1分に1回繰り出される、おっさんの咳払いや、正確に130BPMを刻む、隣に座っている人の貧乏ゆすりに気をとられていたのかもしれません。

    そして、前半のVRゾンビ部分のほうが強く印象に残っていたのですが、実は終盤の病院らしきところの展開もけっこう厚いことに、今さらながら気づきました。VRと現実がごっちゃになってしまった人、という点は、まあそうなんですが、ちりばめられた要素が話を面白くしています。

    食堂で他の患者がVRゴーグルをつけている場面。なんじゃそれ、くらいに思っていたけど、他の患者がそうなら、主人公も? となる。主人公はゴーグルを外したうえで治療を受けているのか、それともゴーグルをまだつけた状態なのか? ゴーグルをつけたまま、VRの世界で治療を受けているという可能性も。

    現実の世界を見ているのにVRだと勘違いしているのではなく、本当にまだVRの中なのかもしれないというほのめかし。看護師は人間なのかNPCなのか。そこが曖昧なままだから、陽気に話す老医師に主人公が抱く感覚も普通じゃない。

    だってほんとうに十日間一睡もしなかったんだとすればですよ、あなた死んじゃってたっておかしくないんですからねえ。アッハ! 医師はさきほどからわたしに頸部を狙われているとも知らず、やけにたのしげにしている。

    こらこら、医者の頸部を狙うんじゃない。でも、医者を駆逐するVRゲームかもしれないしね。

    まだまだ語りたい細かい仕掛けはあるんですが、長くなったので、そろそろゴーグルを外します。

  • 小砂川チト著『家庭用安心坑夫』

    先日、第一回 私が選ぶ「もうすぐ芥川で賞」を小砂川チトさんが受賞されましたので、私は小砂川さんの作品を全部読むことになりました。(いきさつ:2026年上半期の芥川賞を予想・・・はせずに、賞を新設する

    まず手始めに『家庭用安心坑夫』を読みました。出社(電車通勤)、昼休み(弁当を食べながら)、帰宅(電車通勤)で読めるくらいの、私が大好きな長さです。

    帯に「第65回 群像新人文学賞受賞」と書かれています。デビュー作なのですね。そして、「第167回 芥川賞候補作」とも書かれています。ということは逃したのですね。芥川賞は勝手にノミネートされて、勝手に落とされるので、なんだか告白していない人に振られた、みたいな感じにならないですかね。でも、あこがれのマドンナみたいな存在だから文句を言う人はいないんでしょうか。誰か、辞退したら面白いですね。「え? そういうんじゃないから」みたいな。

    そういえばレコード大賞は、「○○賞」を何作品かが受賞して、その中で「最優秀○○賞」を選ぶから、ノミネートされただけという結果はないですね。

    いいかげん内容に入ります。主人公の藤田小波さなみの父親は尾去沢おさりざわツトムという名前の炭坑夫(今は炭鉱夫という表記の方が一般的?)です。

    と、書いてこれが真実と言っていいかどうか、ちょっと迷うところです。実在する尾去沢鉱山を知っている人は、坑夫の名前が「尾去沢ツトム」という時点で、これは「坂井ほや丸」や「喫茶去きっさここひえもん」の類ではなかろうかと気づくかもしれません。誰が知っとんねんというツッコミに対しては、坂井市民とブルックス社員が知ってますぅー、と返しておきましょう。

    小砂川さんの『ゾンビ回収婦』では仮想空間が主な舞台でしたが、『家庭用安心坑夫』は現実世界を舞台にしつつも、何が現実なのか的カオス感は負けません。(今気づきましたが、「夫婦」になってますね)

    だいたい、小波の父親がツトムであるという設定が、ずっとよく分かりません。「生きている」ツトムも出てきますが、彼との関係もよく分かりません。ただ、アノニマスな殉職者のイメージがツトムに込められていると思うと、ちょっとグッときます。

    ツトムが何者かについては序盤に説明があって、

    秋田の実家近くには、〈マインランド尾去沢〉という廃鉱山を転用したテーマパークがあって、ツトムはその坑道の中腹に立っている、坑夫を模したマネキン人形のうちの一体だった。

    「マインランド尾去沢」は、今は「史跡 尾去沢鉱山」と改名して、8名以上の団体のみ受け付ける完全予約制になっているそうです。ツトムが誘拐されないための対策かもしれません。

    私はマインランド尾去沢に行ったことはなく、坑夫のマネキンを見たこともないのですが、けっこうイメージできます。史跡系にはよくあるので、類似したものを見たことある人は多いのではないでしょうか。縄文時代の展示とか(笑い飯の奈良県の歴史博物館のネタを思い出す)、お城にいる武将の人形とか、工場で働く人の人形とか。何年も前からそこにいて、そして何年後にもそこにいるであろう存在に思いを馳せる感覚。

    あの人形の質感。リアルなようで、よく見るとそうでもない造形。雑に扱われる宿命。博物館以外でも、田舎道でたまに見かける警察官の人形も味があったりしますよね。『ブラックジャック』の『人形と警官』の回を思い出します。

    小砂川さんは、言葉を発さない、感情を持っているのかどうかもわからないような人間ならざるもの、そしてそれに対して登場人物が抱く複雑な感情やインタラクションを描写するのに長けているのだなあと思いました。小波とツトムの鍋のシーンには、今年の「鍋・オブ・ザ・イヤー」をあげたいくらいです。ついでなので、『ゾンビ回収婦』には、「サプライズ・オブ・ザ・イヤー」をあげておきます。

    ・・・とここまで書いて、読んでいない人は何のことだ分からないかもという気もしてきました。でも、はっきり認識しました。私はこれらの本を「紹介」しているのではなく、『坑夫』や『ゾンビ』を読んだ人と感動を分かち合いたいのだと。地図は載せませんので、お腹をすかせて、探してください。

  • Audibleに加入した気分で『火花』を聴く

    Audibleは魅力的なサービスです。ぜひ利用したいところですが、経済的な余裕のない私は、図書館で借りたオーディオブック(CD)を聴くのでした。

    又吉直樹氏の『火花』を見つけました。『花火』ではないし、出版社は「ぶんじゅくじゅんじゅう」でもありません。たしか、何かの賞をとっていたはずです。名前から言って、直木賞にちがいない、などという冗談は100万回くらい発せられていそうだから、今回は言わない。いや、もう言ってしまっている。

    4枚組になっていて、それぞれ別資料扱いになっているため、いっぺんに借りることができません(この図書館では視聴覚資料は1回2点まで)。4枚組って、文庫本よりかさばるじゃないか、何の罰ゲームだよ、mp3かなんかに圧縮して1枚に入れてくれ、と思うようなモノグサな人のためにAudibleのようなサービスがあるんだろうと思うと、文句は言えない。いや、もう言ってしまっている。

    朗読しているのは堤真一さんでした。なのでAudible版と同じ音源だと思います。関西弁の台詞がほとんどなので、兵庫県出身の堤さんを起用したのはぴったりだと思います。よそもんが、関西弁つこてるのなんか、聞いてられへんもんなあ。ね? 聞いてられないでしょ。でも、金鳥のCMの長澤まさみさんの関西弁は好きです。ぞんぞんします。ぞんぞんは何弁でしょうか。ここではいい意味です。

    そして、新しい発見がありました。『火花』の朗読をスマホに入れて、最寄り駅まで歩いている間に聞いていると、Audibleに毎月1500円払っているような、そんな気分に浸れました。ちょっとつぶやけば、さらに気分は盛り上がります。「人はAudibleを聴くと、通勤時間がお笑いライブ会場になるらしい」とかなんとか。オーディブルの「ブル」とフレンチブルドックの「ブル」がかかっていることに気づいたときには、膝を打ったものです。しょーもなっ、と。

    『火花』はすでに1回読んでいました。芥川賞受賞で盛り上がって、その後、ほとぼりが冷めて、図書館でも借りやすくなった頃に。つまり、綾部さんがアメリカに行く、ちょっと前です。

    一度読んでも、内容はほとんど忘れていたので、もう一度楽しめました。この調子なら10年ごとに何度でも楽しめそうです。妻も読んだと言っていたので、ちょっと感想を聞いてみたのですが、豊胸のくだりは覚えていないとのこと。「じゃあ、逆に何だったら覚えているの?」と聞きたかったのですが、喧嘩になるといけないので、ぐっと飲み込みました。

    読み終わったあとで、 又吉直樹(またよし なおき)-芥川賞受賞作家|芥川賞のすべて・のようなもの を見直すと、また楽しめます。

    高樹のぶ子氏の評に

    優れたところは他の選者に譲る。私が最後まで×を付けたのは、破天荒で世界をひっくり返す言葉で支えられた神谷の魅力が、後半、言葉とは無縁の豊胸手術に堕し、それと共に本作の魅力も萎んだせいだ。

    とあって、そうそう、豊胸のところいるかなあ? と私も感じたのを思い出しました。でも、今思うと、神谷先輩の異常性(変態性)を際立たせるためには、これくらい意味の分からないエピソードを入れておくのもよかったのかもとも思いました。

    私が好きだったのは、神谷先輩が徳永(主人公)の髪形や服装をそっくり真似するエピソード。真似しないでくださいよ、というツッコミ待ちではありませんでした。神谷先輩にとっては笑いと直接関係のない髪形や服装は頑張るところではなく、単にかっこいいと思ったからそのまま真似していたという理由が、あとから明かされます。これを例えるのに、定食屋で人が食べているもの見て、おいしそうだから同じものを注文するくらいの感覚、という表現がされていました。「真似するな」とか、「オリジナリティがない」とかそんな風にはならないですよね。神谷先輩にとっては、服装とか髪形はそういうものだったという話。

    前述の芥川賞のサイトを見ていて、再発見があったのは、小川洋子氏の評での「天才気取りの詐欺師的理屈屋、神谷の存在」という表現です。私は、「世に受け入れられない天才的な漫才師」みたいな先入観を持って読んでいたので、あー、そうか、本当にしょうもない芸人に心酔してしまった主人公の話、と読めなくもないなあと思いました。

    ニュートラルな状態で一度読む、他の人の意見を見る、もう一回読む(聴く)というのは、なかなかおすすめの流れです。

  • 2026年上半期の芥川賞を予想・・・はせずに、賞を新設する

    ノミネート5作を全部読み終えたので(『ソリティアおじさんがいた頃』『アンチ・グッドモーニング』『丹心まごころ』『ゾンビ回収婦』『悪い血』)、さっそく選考に入ろうと思います。とはいえ、築地の料亭の招待状が、私には来ていませんので、勝手に予想する、ということになりましょうか。

    競馬だと、上位いくつかの順位に対して、どのような条件で当てるかで、単勝、連勝複式、連勝単式とかありますよね。私はギャンブルはやらないので知らなかったのですが、最近は「連勝複式」とか「連勝単式」て呼び方ではないんですね。それぞれ「馬連うまれん」「馬単うまたん」というみたいです。ちなみに、落語「らくだ」に出てくるのは「馬さん」です。

    芥川賞では順位が出るわけではないので、5作がノミネートされているなら、以下が場合の数(お、懐かしい)になりますね。

    1作受賞:5通り {1}{2}{3}{4}{5}
    2作受賞:10通り {1,2}{1,3}{1,4}{1,5}{2,3}{2,4}{2,5}{3,4}{3,5}{4,5}
    該当なし:1通り

    それぞれどれくらいのオッズになるのでしょうか。絶対やっている人いそうですね。違法ですよ。

    ちなみに、私はノミネート作を全部読んだのは初めてです。また、この作品は受賞したけど、この作品は受賞を逃した、みたいに比較する観点で読んだこともありません。つまり、どういう作品が選ばれる傾向にあるかについて、なんら情報がありません。

    こういう状況で予想することを何て言ったっけ。そうだ「当てずっぽう」だ。ずっぽうって何だ。

    まあ、当たる気もしないし、外したときに、「ちゃんと読んだのか」とか、「お前の目は節穴か」とか、「たまには買って読め」とか、厳しいご意見が来そうなので、予想するのはやめておきます。

    かわりに新しい賞を新設することにしました。「もうすぐ芥川で賞」です。ノミネート作品は芥川賞のノミネート作品に準じます。発表時期は芥川賞のノミネート作が発表されてから、受賞作が発表される前までの間です。

    もし本物のほうの受賞を逃した場合は「もうすぐだったね」という意味合いになり、もし本物のほうを受賞してしまったら、つじつまがあわなくなるので、「もうすぐ芥川賞発表の時期だね」という意味に解釈することにします。(ことにします、ってなんだよ)

    賞金や商品はありません。勝手にトロフィーとか送ったら不審物扱いされてしまいます。でも、何かあげたいです。作家がうれしいもの。それは何でしょうか? きっと、たくさんの人に読んでもらうことだと思います。なので、「受賞作の作家さんの作品を死ぬまで読む」にしました。そう、私が死ぬのが先か、お前が死ぬ(断筆する)のが先か、という勝負です。

    審査は、今朝がたから閉鎖された密室(私の頭の中)で行われており、先ほど天使と悪魔の勝負がつきました。

    では、第一回「もうすぐ芥川で賞」の発表です!

    その前にCM。

    (ここにアドセンスの広告でも入れたいところだが、一向に申請が通らない)

    「歩きスマホは犯罪です ♪エ~シ~」

    お待たせしました、発表です。

    どん、小砂川チトさん『ゾンビ回収婦』です。

    ご本人は、「それどころじゃない」ということで、ご欠席なので、あとは審査員の独り言をご覧ください。真面目に読まないように。


    ゾンビ回収婦

    ゾンビのサプライズのところで泣きそうになったので、これに決定。ゾンビって突然出てきて人をサプライズさせたりしますが、そうではないサプライズのほうです。話の流れからいって、それが現実でないことはわかりつつ読んでも、やっぱり感動的な妄想でした。それほどまでに、誰かに感謝、評価されたいという主人公の願いですね。

    ゲームや仮想世界へ依存している状況が描かれていますが、主題はそこではなくて、現実世界であっても、仮想世界であっても、どの世界にいようとも逃れられない、人間の渇望なんだなあと思いました。

    シャツに書かれた「(A)LASKA」を、ニックネームに使うあたりも加点ポイントです。澤部さんを思い出して、じわじわ来ました。


    アンチ・グッドモーニング

    不眠というごく個人的な体調不良をテーマにしつつも、ブラック企業がウェルビーイングを売りにしているという皮肉な設定での風刺も効いています。これ、一見いい人に見えて、実は人の気持ちを全然理解できていない夫との重ね合わせになっているんですかね。ヒヨコなんか持って帰ってくんなよ。この夫のビミョーに嫌な(うかうかしていると、いい夫に見えてしまう)描き方が好きです。


    ソリティアおじさんがいた頃

    定年後はすっかり思い出すこともなくなっていたソリティアおじさんこと黒野田さんのことを、その死をきっかけに深く考えるようになり、いろいろなことも思い出し、主人公の行動にも影響を与えるという展開が好きでした。派手な出来事や、どぎつい描写はないのに、胸を突かれるような感覚がありました。人生何が起きるかわからないし、なんでこうなっているかわからないし、他者が何を考えているかもよくわからないけど、それでもまあ、やっていくしかないじゃないという感覚は、意外と心地よい読後感でした。


    悪い血

    ずばりの「呼称」が出てきて、びっくりしました。でも、あれはああ表現するしかないですよね。登場人物の発言なので。これを言い換えたりすると、その人はそんな言葉は使いそうにない、という違和感につながります。カムイ伝で、失明したカムイをかばう村人が使った言葉が差別用語だということで、「相手は目が不自由でねえか」と言い換えられていた事例を思い出しました。江戸時代の人はそんな言葉は使わない。言い換えがいかに作品をダメにするかを考えると、やはりああするのが良かったのでしょう。

    幸福を追い求めるのではなく、かといって、意図的に悪いようにしたいわけでもなく、何も選ばないという生き方を選択するという気持ちにはなんだか共感できます。選んだけれども叶わないくらいなら、選んだことを批判されるくらいなら、みたいな。私もよく、内容を確認せずに、日替わり定食を選択します。


    丹心まごころ

    比喩が多いわりに、客観的な描写が少なく、誰の行動なのか、誰の発言なのか読み取れないところがありました。何度読み返しても、判然としない(どうとも取れる)ような箇所が複数あり、著者の意図がこちらに伝わりきれていないのはないかというストレスを感じました。ただ、映像化するなら本作です。中国政府の全面的な協力が得られれば、壮大で見せ場の多い映画になりそうです。ただ、共産党が爛尾楼làn wěi lóuという中国の恥部を認めるわけもなく、そんなものは存在しないと习习xí xíは言うかもしれません。


    では、また半年後に会いましょう。