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勝手に読書感想文。漫画も映画も含みます

タグ: 芥川賞

  • 『悪い血』と私小説

    2026年上半期の芥川賞ノミネート作、鈴木涼美すずみさんの『悪い血』を読みました。5作品ノミネートされていたうちの、5つ目に読みました。順番は図書館の貸し出し状況次第です。

    『悪い血』は主人公の女性が病院で検査のための採血をされているシーンから始まります。何か問題があったというわけではなく、妊婦さんが全員受ける検査の一つのようです。幸せいっぱい、な感じは全くなく、ちょっとけだるいトーンです。

    描写が判然としません。一人で病院に行っているのかと思ったら、突然、右手を握る「彼の握力」が出てきます。が、それ以上は触れず、移動や風景や記憶の描写が続きます。そして、しばらくして、「彼の左手の指に繋がれたままだったので」なんて出てくるけど、また風景や心情の描写、その後やっと、会話が出てきて、ああ、ずっと二人だったんかい、となる。

    作文だったら添削したいところです。「そこに誰がいるかちゃんと説明してから話を続けないと分かりにくいでしょ」と。読み進めると、この分かりにくさが意図的なものであることがだんだんわかってきます。主人公の女性は大げさに言うと、ちょっとした心神耗弱状態なのでしょう。思考が渋滞しているせいで、目の前の男性(赤ちゃんの父親)のことが眼中にない感じです。病院の帰りに外食するシーンでは会話が交わされ、一見したところ正常な状態になったように思えるのですが、夜中になって、ある考えに取りつかれて病院に向かいます。その考えがタイトルにもなっている「悪い血」というわけです。

    どこにいるのか、何が起きているかがつかみにくいです。風景の描写がいつのまに回想になっていたりします。その、混乱した文章の展開が、自分はなぜここにいるんだ、なんでこんなことをしているんだ、という感じを読者に印象づけます。なので、よく分からなくなっても読み進めましょう。

    えぐいシーンがけっこう出てきます。「面白かったから、読んでみたら?」と子供には勧めにくいです。体感的にはR18指定です。小説にそういうのってないのでしょうか。ビニールで包んだりとか。

    夜のお店でのサービスの描写、行為の描写、あげくは、テレビやラジオでは言ってはいけないとされている、「そのままの呼称」とか。攻めてます。こんな攻めた小説が芥川賞をとったりするのでしょうか。審査員は攻めるのでしょうか。Audibleで朗読されたりするのでしょうか。朗読する声優さんや俳優さんの事務所からNGが出そうです。「ピー」を入れるわけにもいきません。

    この夜の描写のリアリティはどこからくるのかと思ったら、鈴木涼美さんの経歴を見て納得しました。本人の体験とは限らないでしょうけど、そういう界隈に近づいことがあるかどうか、常連なのか一見いちげんさん(取材という手もあるし)なのかは、聞いた話や想像した話であったとしても、その臨場感に差を生み出すものなのでしょう。

    芥川賞の候補作は重たい作品が多いですが、この作品に感じたのはルポルタージュのような重たさでした。本当にそんな風に考えて、どんどんおかしな方向に行ってしまう人がいるような、実在するんじゃないかと思ってしまうようなそんな感じ。私は男なので主人公側の視点は持ちにくいのですが、女性であるがゆえに、何もかもを手に入れられるかもしれない錯覚と、何もかもを失ってしまうかもしれない錯覚が同居する感覚、その感覚を生み出すのに、必ず絡んでくるのが男であるという実情はひしひしと感じます。

    この『悪い血』はいわゆる私小説ではないのですが(現代で私小説を書いている作家はいるのだろうか?)、作家の生い立ちや体験が随所に現れている気がします。小学生のときに海外生活を送っていること、中高生のときにコギャル(死後?)だったこと、形態は微妙に違えど夜の仕事についていたこと、最近出産を経験していることなど。理系と文系で異なりますが、お父さんが学者肌だったあたりも。

    もちろん相違点も多いです。鈴木さんのお父さんは存命ですし、主人公は高校中退ですが、鈴木さんは修士課程を修了しています。海外滞在していたのはアメリカではなくイギリスだし。あと、赤ちゃんはすくすくと元気に育っています。(お子さんとの微笑ましいエピソードを書いた鈴木さんのエッセイが、同じ『文學界』2026年6月号に掲載されていて、『悪い血』とのコントラストが面白い)

    小説というフィクションでありながら、作者の体験や思想も色濃く反映されてくるあたり、円城塔さんが言っていた「私小説じゃない小説はありえるのか」という問いを思い出します。

    又吉さんの『火花』も、『東京百景』と見比べるとよくわかるけど、笑いに対するこだわりみたいなのが散りばめられている感じだったし。先輩との会話でボケることが普通になってくると、ボケないことが、逆にボケになる、みたいなこじらせ気味のシーンがありました。

    今回ノミネートの『丹心(まごころ)』の中国経済ハードボイルド感には、仁科れんさんの「東京都生まれ、香港、上海、ロンドン育ち」という経験が明らかに反映されているでしょうし、きっと、『ゾンビ回収婦』の小砂川こさがわチトさんは、尿意をがまんしながら、VRゲームにはまった経験があるにちがいない。「すわバグかと思われるほどの長い長い放尿」というのはなかなかのフレーズです。

    私小説といえば、最近読んだ中では、宇野千代の作品が衝撃的でした。30年を経て書かれた別の作品に、ほとんど同じプロット(40歳の宇野千代と71歳の宇野千代の私小説)。これは実体験をほぼそのままベースにしているということなのでしょう。でなければ、ものすごいマンネリです。

    『悪い血』に話を戻しますと、私が好きだったのは、回想に出てくるお父さんの台詞。お父さんの死後の出来事である、主人公の知り合いの死に言及している時点で、主人公の妄想である可能性が高いです。でも、自分を勇気づけた他者の言葉みたいなものが、実は自分が作り出したものである(他者発であるけれども曲解しているとか)、なんてことはけっこうあるんではないかと、そしてそれでもいいんではないか、という気もしたのです。


    2026年7月14日追記
    続報です。
    2026年上半期の芥川賞を予想・・・はせずに、賞を新設する

  • VRゲーム、AI、働くこと『ゾンビ回収婦』

    2026年上半期の芥川賞ノミネート作、小砂川こさがわチトさんの『ゾンビ回収婦』を読みました。ノミネート作の中でも異色です。ゾンビが出てくる文学って、よくあるのでしょうか? ラノベとかなら分かりますが、本作は全然ライトではありません。

    主人公は30代の女性。AIに職を奪われ失業したのを期に、VRゲームに没頭します。タイトルからわかるように、ゾンビと戦うVRゲームです。そしてこれもタイトルからわかるように、彼女の仕事はゾンビを倒すことではなく、その屍(もともと屍?)を回収することです。

    ゾンビゲームといえば、プレイステーション(初代)のバイオハザードあたりで、私の知識は止まっています。最近のVRゲームがどんなことになっているのかも、いまいちイメージが湧きません。ネットで仮想世界に接続して、その場でプレイヤー同士が相互作用するような遊び方みたいですが、きっと面白いんだろうなと思いつつ、この手のゲームも遊んだことがありません。仮想世界といえば、「Second Life」が最後の記憶です。

    『ゾンビ回収婦』が掲載されたのは『群像』という文芸誌の2026年5月号です。『群像』の読者の年齢層ってどれくらいなのでしょうか。VRゲームの描写に50代、60代あたりの読者はついていけているのでしょうか。まあ、でもそれはあまり関係ないのかもしれません。現実と虚構の判別が曖昧になる現象は、昭和のやくざ映画の劇場出口でも、よく観察される光景でした。

    VRゲームの中が主な舞台である以上、ほとんどのイベントは仮想世界での出来事になります。とはいえ、ファンタジー小説でもSF小説でもありません。主人公の言動は、彼女の現実世界での経験に深く根差しています。育った環境、仕事で受けてきた待遇、AIに職を奪われたことによる失業、よくわからない理由で家を出て行った夫など。なので、イベントが仮想世界で起きていようが、主人公の行動や思考は現実世界と強くリンクしたものになっています。むしろ、現実世界では気づかなかったことを、仮想世界で再確認していくようなプロセスが描かれています。

    「働くこと」に対する意識がテーマになっています。主人公は仮想世界で非常に熱心に働きます。そんなバカな、という気もしますが、この仮想世界では倒されたゾンビは放置され、誰かが「回収」しないと床が見えなくなるほど蓄積していきます。血が飛び散った窓も拭かなきゃいけないし、床もモップがけしないといけません。主人公が仕事をしないと、この仮想世界は回っていかないことになってます。

    そんな大変な仕事をしている以上、ホテルの支配人に評価されたい、誰かに感謝されたい、仕事を認めてもらいたいという感情が主人公に起こります。しかし、それがかなえられることはありません。

    このあたり、現実世界のエッセンシャルワーカーと重ね合わせているんでしょうね。ほんのちょっとエッセンシャルワークが滞っただけでどうなってしまうのか、私たちはコロナのときに目撃したはずです。にもかかわらず、何か問題が起きるまで、気にも留められない仕事というものが世の中には存在して、そのような仕事の一つをゾンビの回収で比喩したのでしょう。

    もう一つ、指導する/される側、評価する/される側、期待する/される側など、立場の異なる両者の思いのすれ違いも描かれています。主人公は、親、部活の顧問、会社の上司などから、期待をかけられ、それに応えようとし、でもうまくいかず、失望させる、ダメ出しされる、という経験がトラウマのようになっています。自分が苦しめられたこれらの重圧を、無意識のうちに、自分が他者にかけようとしていたことに気づき愕然とします。他者とは誰でしょうか? それは、タイトルからわかるように・・・

    ゾンビ、ゲーム、仮想世界という、一見突飛な設定を使いつつも、実は人間の根源的な渇望について描きだそうとしたのが、この小説、『ゾンビ回収婦』なのでした。


    2026年7月14日追記
    続報です。
    2026年上半期の芥川賞を予想・・・はせずに、賞を新設する

  • 『丹心/まごころ』を読み解くための中国語

    2026年上半期の芥川賞ノミネート作品の中で、仁科斂さんの『丹心』はハードルが高いものとなっております。まず、タイトルが読めません。掲載されていた新潮の2026年4月には『丹心まごころ』のように振り仮名が振ってあります。「丹心」という言葉は国語辞典には載ってはいますが、読み方は「たんしん」であって、「まごころ」という読み方はありませんでした。いわゆる当て読みということでしょう。

    つまり、九城伸明が『ピエロンリー』で、「地球ほし」と読ませたり、「山手通りいつもの帰り道」と読ませたりしていたのと同じですね。

    国語辞典によると、「丹心」の意味は「まごころ」で、福沢諭吉の『学問のすすめ』での、「唯和して真率なる丹心あるのみ」という用例が載っていたので、日本語としても使われていたのでしょうが、現代の日本で目にすることは少ないように思います。小説のバックグラウンドを考えると、ここでは中国語としての「丹心」をイメージするのがいいのかもしれません。

    作中で、Q先生(冒頭に登場するQさんという女性の父親)が、

    歴史也没有、一点的丹心也没有(歴史もない、一点の丹心まごころもない)

    と嘆くシーンがあります。発音はピンイン(中国語の発音記号みたいなもの)だと dānxīn です。ちなみに、私は中国語のまともな教育を受けたわけではなく、Eテレを見たり、デュオリンゴでかじったりした程度なので、ご了承ください。リンゴだけに

    あと、単行本では『丹心/まごころ』というタイトルになっていました。九城っぽい、と言われるのを嫌ったのかもしれません。でもスラッシュだと、なんだか『丹心』と『まごころ』の二作品が入っているように見えなくもありません。タイトルは難しいです。

    次に「仁科斂」が読めません。中国の話なので、仁 科斂(じん かれん)という中国人かも、などと深読みしてしまいそうですが、「にしな れん」でした。以前、YouTubeで平井堅さんのMVに、同志有志が中国語字幕をつけている、おそらく違法アップロードと思われる動画があったのですが、字幕での名前が「平 井堅」となっていました。そこで切ってはいけません。「ドンキ・ホーテ」ではなく「ドン・キホーテ」なのです。

    なかなか本題に入らないのは、読んでもよく分からなかったからです。なので、些末なところにクローズアップしていこうと思います。

    この小説における重要ワードは「爛尾楼」です。解説付きで登場します。

    広大な中国の全土に、数限りなく建っているこうした建物はインターネット上で爛尾楼ランウェイロゥと呼ばれた。工事の尻尾が爛った楼、という意味だ。

    爛尾楼は重要ワードで何度も出てくるので意味が分からなくなることはないのですが、読み方を忘れてしまいます。日本語的に「らんびろう」と呼んでもいい気もしますが、ここは中国気分(?)を盛り上げるために、中国語の発音で読みたいところ。ピンインは làn wěi lóu です。

    中国の不動産業界の破綻はニュースでちょっと聞いた程度で、あまり知りませんでした。こちらの記事あたりで(いつ完成するかわからない「爛尾楼」 | 現代ビジネス | 講談社)、イメージをつかんでおくと、楽しめるかもしれません。

    あと、これも何度も出てきます、「房子」。「ふさこ」ではありません。振り仮名は「ファンズ」となっていました。ピンインは fáng zi です。 家とか部屋とかを表す単語なのですが、本文に解説があります。

    房子とは、およそ日本語の住居にあたる語だ。大きさではなくじっさいに住んでいるかどうかが基準なので、物置から、上は紫禁城まで、房子と呼ぶことができる。

    こんな感じで、中国語が登場する際には、小説中で解説をしてくれているものも多いのですが、なんでしょう、最後まで記憶が続かないんですよね、短編なのに。房子はDuolingoでも頻出で、知っていたので、これについては特に問題ありませんでした。

    次に出てくるのは「青帮」。作中は「帮」でしたが、ウィキペディアには「青」という漢字で表記されていました。

    駐車場ビルに向かいながら、ミスQは、立退き要員として香港から青帮チンパンのメンバーを三人呼んできている、とさも自信ありげに言う。

    ピンインは qīng bāng です。ピンインのqiは「クィ」ではなく、息を強く吐き出す「チィ」みたいな感じです。清朝から存在する犯罪組織らしいです。立ち退きに応じない住民を脅すためにチンピラみたいなのを三人雇ってきたみたいですが、この三人は ど素人で全然怖くありません。指示をだすレン君(鹿野川教授の助手みたいな(たぶん)シンガポール人)のほうが、よっぽどヤクザみたいなときがあります。

    鹿野川で思い出した。物語は鹿野川教授とレン君の視点が交互に切り替わりながら進むのですが、頭の中でずっと「かのがわ」と呼んでました。が、実は小説の書き出しは、

    そのメールを受けとったとき都内某総合大学建築学科教授、鹿野川ししのかわわたるがいだたい印象は、Ningbo、それってどこだ、というものだった。

    というものだった。愛媛にあるのが鹿野川かのがわだからなあ、てっきり。鹿威ししおどしの鹿ししなんですね。難しい。

    さて、次の中国語は、

    改めてミスQは「こいつらに住人の立退きをやらせます。それならば、われわれは没有メィヨゥ関係グヮンシィでいられるので」と、三人にも分かるよう、中国語にきりかえて、告げた。

    「だいじょうぶ」「気にしないで」って意味で、「没関係」と言うのは初歩の中国語で必ず習うフレーズですが、ここでは文字通り「関係がない」という言い回しなのでしょう。ピンインは méi yǒu guān xì 。

    まだまだ、さりげなく出てきます、中国語。

    Q先生は「アイ、あなたは臭くないの⁉」と、すっとんきょうな裏声を出した。

    哎さんに呼びかけた、なんて思いませんでした? そんなヤツぁいないよ、と言われそうですが、100人に1人くらいはいるんじゃないかと思います。哎呀アイヤー!のアイで、驚きを表す言葉なんですね。ピンインは āi yā 。

    なんの説明もなしに、台詞に散りばめてきます。

    Q先生は舌打ちにまぎれて「臭死チョウスー」と何度も言い、「あれは誰なんですか?」と訊いてきた。

    ピンインは chòu sǐ です。「臭死」とは「死ぬほど臭い」という意味です。「くさっ!」ですね。他にも、「熱死」(あつっ)、「煩死」(うざっ)など、中国人はよく死にます。

    こんなのもあります。

    ここは福建省のど田舎じゃない、南京と上海と杭州のちょうど真ん中の城市なんだ」

    字面から、城下町とか城塞都市を想像しそうになってしまいますが、中国語で「城市」といえば「都市」くらいの意味です。ピンインは chéng shì 。「城市」「城」などというフレーズがちょいちょい出てきますが、単に「都市」「街」くらいの意味で、お城はたぶんないはずです。

    厠所ツェスォに行ってくる」と言って店の外でスマホを確認し、(略)

    これは字で分かりますね。かわや、トイレですね。ピンインは cè suǒ 。

    収穫後らしい農地がしばらく続き、ちょっとした街道沿いに、商店や家や、いくつかの〈公司〉が並ぶ。

    中国からの輸入品に書いてあったりするので、「会社」であることは知っている人は多いと思うのですが、もはやこのへんは常識扱いなのでしょうか。このレベルの語を知らないと、この小説を読むのは厳しいです。発音は「ゴンス」「コンス」に近くて、ピンインは gōng sī です。

    「ところであの祠の神は誰なの」(略)

    「知らない。でもジァのですよ。全部人を騙すやつだ」

    「仮」の漢字は日本語だと「かりの」の意味ですが、対応する中国語の漢字は「ジァ」で意味は「うそである」「本物でない」という意味になります。ピンインは jiǎ です。

    他にも、「丈夫有責」という看板が出てきて、鹿野川教授がミスQに意味をたずねるのですが、「後で説明しますから」と言われる(そして、それっきりになる)、というシーンがあります。

    「丈夫」は「夫」のことなので、「夫に責任がある」という意味になります。何の責任かというと、一人っ子政策の計画出産に関して、ということじゃないかと思います、たぶん。

    著者の仁科斂さんの経歴をWikipediaで見ると、「東京都生まれ、香港、上海、ロンドン育ち」だそうです。そのせいで、やぶからスティックに中国語が混ざってしまうのかもしれません。


    2026年7月14日追記
    続報です。
    2026年上半期の芥川賞を予想・・・はせずに、賞を新設する

  • 『アンチ・グッドモーニング』と「あのエレベーター」

    アイキャッチ画像:Krzysztof Golik投稿者自身による著作物, CC 表示-継承 4.0, リンクによる

    芥川賞(2026年上半期)の発表前にノミネート作品を全部読んで、どれが受賞するか(心の中で)予想するという一人企画をやっています。知らんがな、という声が聞こえてきそうですが。

    八木詠美さんの『アンチ・グッドモーニング』は3つ目に読んだ作品でした。読む順番は図書館の貸出・返却状況に左右されます。だって、もう掲載されていた文芸誌のバックナンバーが売っていないんですもの。

    読み始めたときは、中国の廃墟マンションを美術館に設計しなおす『丹心/まごころ』や、空行なしで最後まで主人公の心情と発言が混在した文体が続く『ソリティアおじさんがいた頃』(過去記事)と比べると、普通の作品なのかなと思いました。

    普通というのも変ですが、文体にクセがあるわけでもなく、現代の日本が舞台で、リモートワークをする会社員が主人公ということで、すっと入っていけそうだなあと。でも、読み終わってみると、一番ぶっ飛んでいました。この「ぶっ飛ぶ」という言葉は死語のような気がしますが、死語を蘇生していこうという一人企画をやっておりまして、積極的に使っていきたいと思います。なんちゃって。

    記事につけたタイトルをまず消化しておきましょう。「あのプール」と言えば、「あぁ、あれね」という男性諸氏は多いと思いますが、全年齢対象のレーティングを標榜する当方といたしましては、これ以上プールの方は掘り下げないことにします。

    では、「あのエレベーター」とは、どのエレベーターでしょうか。

    「ドイツの黒い森地方地方には不思議な建物があるんですよ。カーニバルで有名な中世の町、ロットヴァイルにです。250メートルほどある高層ビルなんですが、窓がほとんどなくて誰も住んでいないしテナントのお店も入っていない。さて、何のためのビルだと思いますか?」

    どういう流れでこんな話が出てくるかは、読んでのお楽しみで、その答えは、

    「エレベーターの試験用のタワーで、中には12本のシャフトがあるんです。そこを試験用のエレベーターがひたすら上がったり下がったりしているんですよ。想像できます?」

    あー、知ってるー! 知ってると嬉しくなりますね。知ってるといっても、ちょっと前に読んだ小川洋子さんの『夜明けの縁をさ迷う人々』(過去記事)に収録されている『イービーの叶わぬ望み』に出てきたから知っているという、知りたてのほやほやなのでした。

    文字通り生まれながらのエレベーターボーイ(Elevator Boy)のイービーが、エレベーターを追われる(どういう状況か、想像を膨らましてみよう)ことになったときに、安住の地のように語られるのが、このエレベーター塔なのでした。なんだかガンダーラみたいに。

    ドイツの深い森に高層ビルがあり、人をのせていないエレベーターが来る日も来る日も上下し続けるというイメージは、文学の要素として魅力的ですね。

    尾崎放哉ほうさいの「咳をしても一人」が思い浮かびました。「最上階についても無人」みたいな。どうやら私には文学のセンスがないようです。

    尾崎つながりだと、尾崎豊っぽく「押されたボタンを無視したとき 自由になれた気がした 15の階」なんてどうでしょう。「エレベーターが叫んでる。大人たちが作ったシャフトを上下するのは、もうまっぴらなんだ!」とか。後者は尾崎というより、井上マーでした。

    最近、何書いてたんだっけ?ってことがよくあります。寝不足かもしれません。

    主人公の野上のがみさんはSコーポレーションという健康食品メーカーで働く女性です。このSコーポ―レーションがコンサル会社に買収された頃から徐々にブラックになっていきます。この会社「『健幸』宣言」なんてものを出していて、働きやすい職場をもつウェルビーイングを重視する会社として対外的には知られているという、なんとも皮肉な状況。ONとOFFが切り替えられないリモートワークのせいか、野上さんはある日突然、不眠になります。もがき苦しむ描写が痛々しいです。

    きっと、こんな会社あるよなあ。みたいな風刺的な側面も感じます。資料を作るときは「余白」を残すという職場の先輩のアドバイスが秀逸でした。指摘して直すところがないと上司は何か見つけだそうとして、些末なところをいじって資料がおかしくなると。

    (略)ここの部分は迷っているから相談にのってほしいって言って何かアドバイスさせれば、向こうも安心するでしょう? 仕方ないのよ、自分の手を動かさずにお金を稼ごうとする人ほど不安になりやすいの。(略)だからわたしたちは彼らの存在意義を作って、適当に安心させてあげればいいのよ。

    「アドバイスさせ」るとか、「自分の手を動かさずにお金を稼」ぐとか、「安心させてあげればいい」とか、なかなか毒が効いています。八木さんって会社員経験者?

    なんてあたりのことを書くと、隠れブラック企業を風刺する社会派小説かと思ってしまうかもしれませんが、それでは終わりません。途中からだんだん変になっていきます。どの辺からだったかなー、e-ラーニングの動画の講師「出冬覚いでふゆ さとる」が出てくるあたりからだったと思います。そう、へび苺メガネの。不眠が原因の幻覚なのか、実は眠れていて夢なのか、現実なのか(ファンタジー小説かもしれないしね)、よく分からない感じになってきます。

    いろんな要素が次々に出てきて飽きさせません。純文学とエンタメは両立するんだなと思いました。私は読書をしているとすぐに眠くなるので、小分けにして読むことが多いのですが、『アンチ・グッドモーニング』は就寝予定時間(午後九時)を過ぎていることも忘れて、一気に読んでしまいました。そして、そのあとすぐ寝ました。ぐっすり眠れました。うらやましいですか。

    いまちょっと検索してみたら、もうすぐ(2026年6月29日)単行本が出るんですね。楽しみなことは、「もういくつ寝ると・・・」なんて数えたりしますが・・・、寝られるといいですね。


    2026年7月14日追記
    続報です。
    2026年上半期の芥川賞を予想・・・はせずに、賞を新設する

  • 『ソリティアおじさんがいた頃』の独特の文体

    第175回(2026年上半期)の芥川賞にノミネートされた作品が載っているということで、『文學界』2026年5月号を図書館で借りてきました。村司侑むらしゆうさんの『ソリティアおじさんがいた頃』という作品です。

    文芸誌を買ったことがない私は、この『文學界』なる雑誌がどのようなものなのかも、あまり分かっておりません。文藝春秋社から出ている純文学寄りの文芸誌だそうです。ややこしいのは『文藝春秋』という総合誌もあって、芥川賞を受賞した作品が、後日この『文藝春秋』に掲載されます。こちらは再掲ということですね。

    『文學界』(文藝春秋社) 、『新潮』(新潮社)、 『群像』(講談社)、 『文藝』(河出書房) 、『すばる』(集英社)あたりに掲載された小説からノミネートがされることが多いようです。

    この『ソリティアおじさんがいた頃』はすでに文學界新人賞を受賞してるんです。で、さらに芥川賞にもノミネートされたということですね。

    主人公の古井瀬ふるいせ瑠奈は30代の女性です。この瑠奈の一人称の小説なのですが、文体が独特です。瑠奈の心情と台詞がごっちゃになっていて、他の人の台詞は普通に括弧書きになっていて、構成要素はそれだけです。・・・という説明じゃ分かりませんよね。

    例をあげますと、

    「ちょっとええか、古井瀬」と、珍しく小さな平見部長の声。(略)
    「きょうの、黒野田さんのお通夜な、自分、行くか?」
    え、いえ、わたしは、大勢押しかけるなって言ったはったんで、遠慮しよかと。
    「そか。ええよ」
    用はそれだけかと思ったが、すぐには出ていかない。なんやろ、と思う。
    「川上くんは、どうやろか」
    海史? と思いながら答えを探す。え、いや、どうでしょ?
    「すまんけどな、スマホ使ってええさかい、ちょっと訊いてくれへんか(略)」

    見ての通り瑠奈の台詞が括弧に入っていないんですね。本当だったら、「え、いえ、わたしは、大勢押しかけるなって言ったはったんで、遠慮しよかと」と「え、いや、どうでしょ?」のところは括弧で括るのが普通です。でも、小説全体を通じて、この瑠奈の台詞は括弧に入れないという方針が貫かれています。つまり、瑠奈が考えていることと実際に口に出した事は表記上は区別されていません。文脈からほとんどは判断できますが、境目が曖昧な箇所もあります。

    目の前で起きたこと、考えたこと、話した事、その結果帰ってきた反応、などをつらつらと流れるように書いている文体のリズムを壊さないように、このような表記法にしたのでしょうか。初めて見ました。

    話したことを括弧で括ると、メリハリがつきすぎて、他の地の部分の、ある意味だらだらと起きたこと・考えたことを描写するテイストと合わないかもしれません。大体こんなこと言ったら、こんな反応があって、そしたらこんな気がしたので、またこんな感じのことを伝えた、くらいの「言い方までは限定しない表記」は新しい発明なのかもしれません。

    ストーリーのことをいろいろ書いても、この小説の特徴は伝わらないような気がして、今回は文体のことばかり書いてみました。思考は逡巡して、いろいろ考えるが大した根拠はなく、たった今考えたことを反省したり、思いが伝わっているのか不安だったり、相手の真意がよくわからなかったり、言おうと思ったが言わなかったり、なんでこんなことになったのか不思議だったり、ちょっとしたきっかけで決断したり、行動したり、でも、確信はなかったりするけど、後悔もなくて、結局人生は続いていく、みたいな話です。読めば分かるさ。


    2026年7月14日追記
    続報です。
    2026年上半期の芥川賞を予想・・・はせずに、賞を新設する

  • 直木賞は無理だが、芥川賞はなんとかなる

    「とれる」とか「とれない」とか、そんな話ではなく、「ノミネート作品が発表された直後に図書館で予約すれば、すぐに借りられるか」という話です。

    今日(2026年6月11日)の午前5時頃、日本文学振興会が芥川賞と直木賞のノミネート作品を発表するポストを投稿してました。

    第175回芥川龍之介賞の候補作は、以下の5作品です。
    小砂川 チト「ゾンビ回収婦」(群像5月号)
    鈴木涼美「悪い血」(文學界6月号)
    仁科斂「丹心」(新潮4月号)
    村司侑 「ソリティアおじさんがいた頃」(文學界5月号)
    八木詠美「アンチ・グッドモーニング」(文藝春季号)

    これは読まねばと思い、でも、もう予約が殺到しているかも、とも思いつつ、自治体の図書館サイトで検索したところ、3誌については他の人の予約はない状態ですぐに借りられ、2誌については貸出中だったものの順番が1位なので2週間以内には借りられる、という状況でした。

    朝5時頃にポストされ、6時過ぎには予約したのが良かったのでしょう。年寄りは有利です。

    「じゃあ、直木賞もいけるか?」と思い検索しましたが、こちらはすでに何十件も予約が入っている状態でした。直木賞はすでに単行本になっているものが対象だから(例外もあるみたいですが。過去記事:向田邦子『思い出トランプ』のイヤ~な気持ちになるところを考察する)、もうすでにそこそこ話題になっちゃってますもんね。

    一方、芥川賞のほうは文芸雑誌には掲載されているが、単行本にはなる前の状態なので、まだ世の中の大多数の人は知らないというものが多いでしょう。だって、文芸誌ってちょっとハードルが高いですよね。小さい字でこれでもかというくらい作品が詰め込まれているし(=コスパはかなり高い)。分厚いから持ち歩いたり、電車で読んだりするのも厳しいし。

    ということで、いち早く芥川賞ノミネート作品を読む方法は、
     ① Xで日本文学振興会のアカウントをフォローする
     ② ポストされたらすぐに図書館サイトで予約する
    でした。しかし、これを実行するためには、
     ⓪ 毎日早起きする、というのが必要です。

    「無ぅ~理ぃ~」というあなたは、単行本が出たら買ってください。

    今ちょっとアマゾンで検索してみたのですが、文芸誌のバックナンバーって在庫がなくなってしまうのか「この本は現在お取り扱いできません。」になっていますね。『文學界』と『文藝』については電子書籍版があるみたいです。

    「電子書籍はいやだ、紙がいい」というあなたは、やっぱり、単行本が出たら買ってください。

    鈴木涼美「悪い血」が掲載されている「文學界」6月号

    村司侑 「ソリティアおじさんがいた頃」が掲載されている「文學界」5月号
    八木詠美「アンチ・グッドモーニング」が掲載されている「文藝」春季号

  • 死期を早めてあげるための介護とは?『スクラップ・アンド・ビルド』

    BSテレ東の「あの本、読みました?」で、作家の羽田圭介さんが谷崎潤一郎を紹介していまして(実は読みやすい&短い!?谷崎潤一郎作品を羽田圭介が熱弁解説)、なかなか面白そうなので読んでみようと思いました。

    そういえば、羽田さんの本を読んだことがありません。又吉さんの『火花』と同じタイミングだったせいか、メディアも大きめに取り上げていた印象があり、羽田さんの顔ははっきり、くっきりと思い浮かびます。顔立ちのせいのような気もします。たしか、作品(書籍)がプリントされたTシャツを着てテレビに出てたりもしましたよね。本の装丁はある意味アートなので、Tシャツのプリントにするというのは、それほど不自然ではない気もします。でも、「芥川賞受賞」と書かれた帯まで一緒にプリントされていたりします。そして、ウェブで画像検索してみると、羽田氏がカメラ目線でキリっと決めたTシャツ姿の写真がいっぱいでてきます。Tシャツで自身の書籍をアピールしていたのは『スクラップ・アンド・ビルド』だけじゃないんですね。

    羽田さんの本を読んでいないのに、羽田さんの勧める谷崎の本を読むのは、順番がおかしい気がしたので、先に羽田さんの芥川賞受賞作である『スクラップ・アンド・ビルド』を読んでみました。えぇ、あのTシャツの本です。

    通勤の朝の電車で読み始めて、昼ご飯(冷凍お弁当)を食べながら読み、帰りの電車でも読み、数ページ残っていたので、寝る前に読んで、読み終わり、もやもやしながら寝ました。さっき、起きました。

    主人公の健斗は母親と祖父と同居しています。父は死別。前職を退職していて今は求職中で、家にいる時間は長く、祖父の介護を手伝っています。介護といっても、祖父は努力すれば大抵のことは自分でできる程度の要介護度です。娘(健斗の母)から、かなり邪険な扱いを受けています。

    「お母さん、お皿、お願いします」

    食べ終えた皿を祖父が差しだすと、母は舌打ちした。

    「自分で台所まで運ぶって約束でしょ。ったく甘えんじゃないよ、楽ばっかしてると寝たきりになるよ」

    さらに、

    「お母さん、薬ばもう飲んだほうがよかね?」

    薬の入った袋を掲げながら祖父が母に訊ねた。

    「勝手にしなよ、そんなの本当は飲まなくてもいい薬なんだから」

    「すみません。健斗、水くれる?」

    「健斗に甘えるな! 自分でくみに行け!」

    そして、

    「じいちゃんは邪魔やけん部屋に戻っちょこうかね」

    「いちいち宣言しなくていいんだよ糞ジジイが・・・」

    杖をつき暗い廊下へ行く祖父をにらみながら母が言う。

    こうやって、母親の言動を(意図的に)切り抜いてみると、虐待か? という感じもしかねないですが、読んでいると不思議と祖父に対する共感や同情は湧いてきません。まあ、引用しなかった部分に書かれている、祖父の言葉とか生活態度を踏まえると、無理もないという気になってきます。

    祖父は、不眠や寒さ、鈍る思考、体の痛みなどを理由に、早く死にたいということをしきりに口にします。この言葉を真剣にとらえた健斗は祖父の死期を早めてあげるべく、行動を開始します。

    ただ、その手段が興味深いのです。介護職の友人から、

    「人間、骨折して身体を動かさなくなると、身体も頭もあっという間にダメになる。(略)過剰な足し算の介護で動きを奪ってぜんぶいっぺんに弱らせることだ。使わない機能は衰えるから」

    という話を聞き、実行に移します。

    何をやるかというと、かなり熱心に「介護」します。必要なものはさっと用意してあげて、祖父が動かなくもいいようにする。薬や洋服も仕訳けてあげて、頭を使わなくてもよくする、など。はたからみると、ただ単に、優しく介護している人に見えます。こういう点をふまえると、母親のスタンスは被介護者の自立を促す愛情のあるもののようにも見えます。

    苦労すれば歩けるであろう被介護者でも、転ばれたらやっかいなので車いすにのせ、食事も運んでやり、なるべく体を使わせないような介護のやり方を、健斗は嫌悪します。やっていることは同じでも、祖父のために死期を早めるという動機なのか、業務上の効率を追い求める動機なのか、という違いを重要視します。逆に、母親の介護のやり方とはまったく対立しますが、祖父のためを思ってという点では一致しており、むしろ理解を示すという、妙な共感の関係が生じます。

    もし、直木賞受賞作であれば、このあと、えげつない感じで健斗が目的を達成したり、まさかという出来事がきっかけでどんでん返しが起こったり、なんて展開もあるかもしれませんが、そんな流れにはなりません。異常な感じがするのは健斗の思考の中だけで、表面的に起きている事象は、ごく普通の日常のようにストーリーは流れていきます。

    古い建築物を壊して新しいものを作りなおす「スクラップアンドビルド」という言葉が、どうしてこの本のタイトルに使われているのかは読んでのお楽しみ。筋トレしたくなるかも。

  • 『コンビニ人間』と『傲慢と善良』

    『コンビニ人間』(村田沙耶香 著)を読み直してみました。理由は、電車の中でさっと読めるもの(長編とかではなく)を家の本棚で探していて、目についたから。それほど本は買わない妻が買った本でした。

    なんとなく内容は覚えているものの、細部はもちろん記憶していないし、最後どうなったかも全く覚えていないので、新鮮な気持ちで読めました。芥川賞受賞作だと、純文学でござい、みたいなのもたまにありますが(偏見?)、『コンビニ人間』はエンタメ小説としても普通に楽しめるし、内容はほとんどコメディだと思う。主人公の女性の、他者を理解できない、合わせられないという感覚は、かなり絶望的なレベルなのですが、本人は深刻視していないところが喜劇的でありつつ、深刻視できないところは悲劇的でもある、みたいな感じ。

    以前、『傲慢と善良』を読んだときに(『何者』と『富士山』と『傲慢と善良』)、婚活が小説のテーマになる時代なんだなあと思ったのですが、読み返してみると、『コンビニ人間』も婚活をテーマにしていたことに気づきました。婚活というよりは、就職・結婚・出産などに関して、「普通の感覚」を持った人たちが振り回す無自覚な暴力に苦しめられるタイプの人間というところでしょうか。

    「なんで結婚(しようと)しないの?」、「なんで(就職しようとせずに)アルバイトなの?」なんて質問は、普通の基準に合わせるのが普通だと信じている人には普通でも、普通の基準に合わせるのが普通だとは感じられない人にとっては普通ではない。

    私自身は順調に進学して、卒業したら就職して、そろそろかなという時期に結婚して、しばらくしたら子供が生まれて、という感じだったので、この手の質問や干渉に苦しめられたことはありませんでした。唯一あるとすれば、中学・高校と一切部活をしなかったこと。何もやったことがないというのは結構少数派で、よく人が自分は何部だったからこんな感じ、みたいな話になると、私は特に話すことがなくなります。

    部活に入らなかった理由は、拘束時間が嫌いだから。学校が終わるのも待ち遠しいのに、なんでそのあとも学校に残るような活動を行わなければならないのか。部活に入る人の気がしれない、と思っていました。

    あと、スポーツも文化的な活動も含めて、それらのスキルを高めたり、知見を深めたりということに、なんら価値を感じられなかったから。体育でのサッカーの試合は楽しいんだけど、パスとかドリブルの練習とか全く楽しくないし、そんなことまでしてうまくなくなることに執着できなかった。これについては、意識が変わって、30代くらいからは、鍛錬の魅力に気づきました。なので、現在の人生のポリシーで、中高をやり直すとすれば、たぶん部活に入ります。

    話を戻して、『コンビニ人間』で興味深かったのは、人の話し方やしぐさや服装が、まわりの人の影響を受け、それを吸収し、実践し、またそれがまわりの人に伝染していくさまを、古倉恵子(主人公)がするどく観察していて、それを意識しながらも、自分自身もそれを行っている様子を、客観的に見抜いている感覚でした。

    古倉さんは、いわゆる空気読めない感じの人なのですが、そのような違和感には敏感で、古倉さんと他の登場人物のどちらが普通なのだろうかと、考えさせられます。おそらく、理屈ではなく、多数派が「普通」認定されるのでしょう。

    結構序盤に、アルバイトの研修の場面。

    私はバックルームで見せられた見本のビデオや、トレーナーの見せてくれるお手本の真似をするのが得意だった。今まで、誰も私に、「これが普通の表情で、声の出し方だよ」と教えてくれたことはなかった。

    この手のビデオや指導って、目線はこうでとか、おじぎの角度はこれくらいでとか、些末なところでこういうときにはこうしろとか、なんか本来なら各自の自由裁量で行われる行為まで踏み込んで指定してくるから、言われた通りに演じる自分に気恥ずかしくなったり、演じる他者をみると「マニュアル通りにやりやがって」なんて思ったりしちゃいます。

    古倉さんは、こうするのが普通だからこうしなさい、と言われると安心して、そうするタイプ。たぶん、そうする人は、ちょっと変な人と思われがち。

    世の中の大多数は、そんなことは人に言われることではなく、自分で判断してやること、と思っているのではないかと。でも、その一方、周りを観察し、人の行動様式を真似、話し方やボキャブラリー、場合によっては服装なんかも合わせていく。それを無自覚に行うというのが、現代の「普通」とされているのかなあと。いや、もしかしたら縄文時代(ある登場人物の口癖)から、そうなのかもしれない。

    私も高校生の輪の中に入ると、高校生みたいになるのだろうか。変な略語を使ったり、なんでも「やばい」で形容するようになるのだろうか。ちなみに、今はおじさんたちの輪の中にいるので、おじさんみたいな感じです。というか、おじさんですが。

  • 『デートピア』と『#拡散希望』

    『DTOPIA デートピア』(安堂ホセ 著)を読もうと思ったのは、芥川賞受賞作をかたっぱしから読んでみようと思ったから。じゃあ、第1回から読んでみようと思い、確認してみると『蒼氓』(石川達三 著)だそうだ。まず、タイトルが読めない(「そうぼう」と読むらしいが、読めても意味が分からない)。受賞年は1935年。戦前? もはや古典。芥川賞初心者(3, 4冊読んだ記憶がある)には厳しそう、ということで、新しい方から読んでいくことにした。でも、図書館で借りるとなると、こういう新しい受賞作は予約がいっぱい入っていたりして・・・と思ったら、予約者はおらず、すぐに借りられる状況だった。私が利用している自治体の図書館では、このデートピアは各分館で1冊ずつ所蔵されているし、掲載された雑誌の文藝春秋も所蔵されている。行列は長くても回転が速いラーメン屋みたいな感じ。

    のようなきっかけで読み始めたので事前知識はゼロ。これは理想的な状況なんじゃないか。ただこの図書館では外した帯が、表紙の裏に貼り付けてあり、

    ひとりの女を巡り、世界各国10人の男たちが繰り広げる恋愛サバイバル―人種も、性も、国境も。すべての “当たり前” が崩れ落ちる、新時代の傑作


    などと書かれてある。おぉ、エンタメ作品みたいな煽り文。

    南のリゾート島で行われる、いわゆる恋愛リアリティショーみたいなシチュエーション。この手の番組(昔はテレビだったけど、今は動画配信?)見たことないなー。そんな番組があるというのは断片的に知っているけど。あ、でも今思えばフジテレビでやってた『あいのり』は、それだったのか。確か学生の頃だったから、ちょこっと見ていた気がする。「ロマンスさん」というワードには記憶があるが、どんな人だったか覚えていない。

    で、このようなリアルとフィクションの狭間のようなコンテンツをテーマにした作品で思い出したのが、『#拡散希望』(短編集『#真相をお話しします』(結城真一郎 著)に収録)。たしか、YouTube(のようなもの)での「移住してみた」みたいなシチュエーションだったような。(借りて読んだので、手元になく、うろ覚え)

    この『#拡散希望』はミステリーエンタメ作品なので、伏線があって、回収あって、オチがあって、みたいな感じで安心して読めた。

    で、この感じで「デートピア」を読むと、けっこうとまどう。恋愛リアリティショーの状況で何か起きるのかと思ったら、途中から出演者(日本代表?)の中学生時代の友人に焦点が移る。ここがメインというくらい手厚い。その後、またこの南の島に話が戻ってきたから、何かどんでん返しがあるぞあるぞと思うが、ない。

    そうか、芥川賞受賞作ってそんな感じだった。エンタメ作品のように分かりやすい大団円を期待してはいけない。何かが起きなかったと書いたが、分かりやすいオチがなかっただけで、何かは起きている。いろんなことがほのめかされている。それを感じ取れるかどうかが、この手の作品を楽しめるかどうかなのかも。

    で、本にはたいてい著者のプロフィールが載っているが、安堂ホセ氏の属性については「1994年、東京生まれ」ということしか書かれていない。あとは、作品名や受賞歴など。男か女かも分からない(ホセだから男か)。ペンネームだろうか、ハーフか外国人だろうか。よく見かける学歴なども書かれていない。どんな属性なのかが気になってしまう。

    ・・・そんな人に向けた作品なんじゃないかと思った。