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勝手に読書感想文。漫画も映画も含みます

タグ: 井戸川射子

  • 妊娠と文学『妊娠カレンダー』

    小川洋子さんの『妊娠カレンダー』読みました。妊娠した姉のつわりがひどく、そのとばっちりをうける妹が語り手。何を作ってもケチをつけてくる姉は、ほとんど何も食べられない状態でしたが、たまたま妹が作ったグレープフルーツのジャムにはまり、パンなどにつけるでもなく、カレーライスのようにスプーンで食べ続けます。妹はせっせとグレープフルーツのジャムを作る、姉はすぐに食べてしまう、妹は作る、姉は食べるというが毎日続きます。妹はスーパーで買うときに確認します。

    「これ、アメリカ産のグレープフルーツですか?」

    純文学系の作品でよく見かけるのですが、はたから見ると何も起きていないように見える、でも何か大変なことが起きているかもしれない。でも、結局何も起きてないんじゃないか、とかね。

    ネタバレですよ。要注意。

    作品の最後のところ。

    わたしは、破壊された姉の赤ん坊に会うために、新生児室に向かって歩き出した。

    多少多めに、発がん性のある物質を摂取したからといって、すぐに何か影響が出るとは考えにくい。普通に考えると、この程度で問題が発生する確率はごくごく低いでしょう。つまり、はたから見れば、あるいは、結果的には、妹は姉の好きな食べ物をせっせと作ってあげた、というだけの話です。

    羽田圭介さんの『スクラップ・アンド・ビルド』に出てくる、祖父を甲斐甲斐しく介護する孫を思い出します。

    死期を早めてあげるための介護とは?『スクラップ・アンド・ビルド』

    一見、何でもやってあげるやさしい孫なのですが、その目的は、頭も体も使わせないようにして、心身の機能を弱め、死期を早めてあげることだったりします。

    あと、思ったのは妊娠は文学になるんだなーということ。姉は難産になることを恐れているのですが、それ以上に・・・

    「でももっと怖いのは、自分の赤ん坊に会わなきゃならないってこと」
    (略)
    「ここで一人勝手にどんどん膨らんでいる生物が、自分の赤ん坊だってことが、どうしてもうまく理解できないの。抽象的で漠然としてて、だけど絶対的で逃げられない。(略)」

    そういえば、2026年上半期の芥川賞ノミネート作、鈴木涼美すずみさんの『悪い血』も妊娠が重要なモチーフでした。

    『悪い血』と私小説

    今までさんざん無茶な生き方をしていた自分が、結婚して子供産んで幸せになるなんてことは絶対にない、許されない。検査で子供に何か出るに違いないし、もしそうでなくても、どこかでしっぺ返しがくるはずだという考えに取りつかれた女性の行動が描かれていました。

    最近読んだ、井戸川射子さんの短篇集『移動そのもの』に収録されている『花瓶』の設定も、妊娠したお姉さんとその妹(語り手)が登場人物というものでした。

    『移動そのもの』と『旅は育ての親』

    姉妹そろって精神科医にかかっているようで、その医者への妹の独白が続くだけなので、どこまで客観性があるのかは分かりませんが、結婚・妊娠がきっかけとなって、ちょっとしたごたごたが発生しているような感じ。

    『妊娠カレンダー』に話を戻すと、文庫版のあとがきが興味深かったです。どんな話かというと、小川洋子さんが台所の床下収納を開けてみると、猫が死んでいたという話。

    そんな話をさらっとあとがきに書くなよー、と読み進めたら、実は腐った玉ねぎで、ぶよぶよになった玉ねぎが猫の頭蓋骨に見えたという落ち。でも、この先が面白くて、『妊娠カレンダー』は自分の経験を書いた作品か?と質問されることがよくあるらしく、そのたびに、「私の妊娠体験なんて、スーパーで買ってきた新鮮な玉ねぎそのもので、何の書かれるべき要素も含んでいない」と。玉ねぎが床下収納で腐ったり、それが猫の死骸になるところに小説があるのだと。

    日常のちょっとしたことに着想をえながらも、そのままじゃ小説になるようなものじゃない。新鮮な玉ねぎを買ってきたあとに、それを腐らせたり、猫の頭蓋骨にするのが作家の仕事なのだなあと。ちょっと想像できないので、これからも消費者として楽しませていただきたいと思っています。

  • 『移動そのもの』と『旅は育ての親』

    BSよしもとの『俺の推し本』で中野なかるてぃんさんが紹介していたのを見たのが、この『移動そのもの』(井戸川射子 著)を読んだきかっけです。紹介していた中野さんは、表題作の『移動そのもの』について、ストーリーはわけがわからないが、一行一行が面白く、詩のようだ、みたいなことを言っていました。その世界を確認すべく、読んでみたというわけです。

    9作入った短編集で、『移動そのもの』は変だけど比較的はっきりとしたストーリーがあるという点で、他の8作と比べても、読みやすいほうだと感じました。まずはこれを読んでみて(立ち読みは1分まで)、気に入ったら買うとかどうでしょうか。

    二人の男、年長のアリシマ、年下のトオシキが島の中を徒歩で移動しながら、他人の葬式をみつけては、遺族のふりをして遺産や遺品の分け前をもらい、それで生活している。ふとしたきっかけで、チンパンジーとシマウマと出会い、一緒に行動するようになる。

    みたいな序盤です。ほら穴で暮らしていたり、チンパンジーとシマウマが出てくるあたりから、なんとなくアフリカのようなイメージを持ちながら読んだのですが、「アリシマ」という名前がちょっと日本っぽい。それに、

    「これも見てごらん、新しいよ。貝の内側に小さな大仏を付着させて、それが真珠層で覆われているんだね。仏像真珠だ」

    みたいな、アリシマの台詞があります。アフリカで「大仏」とか「仏像」というのものねー。他にも、「そういえば神社で葬式っていうのは、あまり聞かないね」とか「七五三も神社だよね。」という台詞も出てきます。場所の設定自体に重要性がない、あるいは、あえてそこを曖昧にすることの効果を著者は狙ったのでしょうか。なので、アリシマとトオシキの風貌も、葬式のイメージも具体的にはわきません。いや、頭の中では強制的に具体化していても、読者ごとに全く違ったものになっていそうな気がします。

    ある葬式に参加して、アリシマが遺品(遺骨とそれを入れる容器)をそれとなく要求すると、遺族は詐欺であることを悟ったのか、シマウマと交換だとか、殴らせろとか、態度が急変します。アリシマは抵抗はせずに、さんざん殴られたあげく、錆びたコップに入った遺骨を手に入れます。

    単に詐欺に失敗したなら、そんな遺骨はその辺に捨てるのでしょうが、アリシマはその遺骨を大事そうに丁寧に別の容器に移し替えたりします。

    くだらないものの代償にシマウマを差し出したアリシマの行動に納得がいかないトオシキは別行動をはじめ、シマウマを連れた遺族のあとについていきます。

    後半は、アリシマとチンパンジーのやりとり、トオシキとシマウマのやりとりがメインですが、この二匹の動物が、おとぎ話やファンタジーによくあるような、言葉を理解するほど知的な存在なのか、それとも、ごく普通の動物なのかも判然としません。そして、トオシキ自身も、「シマウマはあのやり取りを分かっていたのだろうか」「もとから言葉など通じていなかったのだろうか」「言ったことが絶対に伝わったという瞬間も、今まではあったのに」など、疑問に思いながら話しかけていたりします。

    終盤のチンパンジーの意外な行動、新しい土地に居つくことを決めるトオシキ、なんだか不思議な余韻を残しつつ、話は終わります。

    んー、変なストーリですが、登場人物がいて、会話があって、イベントが起こって、という点では読みやすい気がします。

    二作目に収録されている『花瓶』などは、語り手の女性が(たぶん)精神科医に向かって話し続けている、その話だけで構成されています。医者のリアクションもないし。最後まで独白に近い形で展開します。

    短編集全体が実験的なスタイルの作品ばかりなんですね。万人受けすることを狙っていない感じがすばらしいです。きっと大ヒットはしなくて、でも熱狂的な一部の読者が感銘を受けている、みたいな。

    そして、ここまで「言葉で遊ぶ」か、と思ったのが、最後に収録されていた『旅は育ての親』です。

    こんな書き出しです。

    皆の靴や裸足が、地を掘り泥にまみれている。裸足などよく耐えられるものだと、犬持ちは思う、こちらも犬を抱く背負うの動作を繰り返すので、肩や胴は泥だらけだが。

    短編ので出だしは、頭をフル回転させて、状況を把握しにいきますよね、みなさん。「犬持ち」って何でしょうか? 「家持ち」とか「妻子持ち」なんて言い回しがあるので、一般的な意味で「犬を飼っている人」のことを、そう呼んでいるんでしょうか。

    例えば、「家賃なんか払ってられないよと、家持ちはよくそういうことを言う」くらいのニュアンス。でも、その直後、

    (略)犬持ちは着衣の時も靴下から履く、(略)

    この時点では、犬を飼っている人ってそうなの? みたいに思ってました。

    苔貼りは裸足の足で感触を楽しむ、(略)

    花飾りは、自身にへばりつく花びらを、良い角度でそこにあるかを手で撫で常に確認する。

    「苔貼り」は何かそういう行為、「花飾り」はアクセサリーだと思ってました。「花飾りは」と主語になるのは変ですが、これは「舟唄」の「肴はあぶった イカでいい」の、「肴は」みたいに、主語ではなく主題としての使い方ですね。「花飾りに関しては」くらいの。

    まあ、真剣にそんなことを考えながら読んでいたわけではないのですが、なんとなく読み流していたんです。でも、全部読み間違えていたことに、以下の一文で気づきます。

    (略)仮装行列は年に一回なので、(略)

    仮装している人物を指している呼称だったんですね。このあとも、一緒に行動している仮装仲間が登場します。

    「獣真似」「泥塗り」「翼背負い」。 ・・・どんな仮装だよ。この6人が仮装行列をしている姿が描かれていたんですね。タイトルによれば「旅」でもあるわけです。

    旅の過程でちょっとした出来事なども起こるのですが、登場人物たちの「仮装」のクセが強すぎて、出来事の内容が入ってきません。でも、ここでグッと心をつかまれました。

    (略)犬持ちは犬の相手をずっとしている、ずっとで重くないんですか、と問われれば、ちょうどいい重さですと答える、(略)

    あー、ずっと犬を「持って」いるのね。そういう仮装なのね。それは仮装なのか?

    小説だからできる表現ですよね。映像だったら、やっぱり犬を持っている絵を出さざるを得ない。文章だと、「犬持ち」がどんな感じかは触れずにおいて、その後何気なく姿・形を開陳する。

    そして、さらにボケは続きます。

    獣真似は多くの獣を真似ようと、跳ねたり走り出したりする、演技は仮装とはまた違うだろうと、泥塗りなどは思うが。着ている服が普段着なのは、毛皮など何色を選ぶかで、何の獣か決めてしまうようなものなので選べなかったのだ。

    獣真似は普段着でした。

    これは確信犯ですね。獣真似の名前や言動から、おおかた毛皮のコスチュームでも来てるだろうと想像させておいての、泳がせておいての、普段着。

    読者はどう想像するかなー、勘違いするかなー、分かるかなー、わけわかんねぇって怒るかなーって感じで、にやにやしながら書いているに違いない。

    カフカもやっていた悪ふざけだな。城に雇われているのに城にたどり着けないとか、逮捕されたのに自由に行動できるとか。

    ・・・ということで、普通の小説に飽きた人は読んでみてください。「本読み」の「駄文書き」がお届けしました。