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勝手に読書感想文。漫画も映画も含みます

タグ: 児童文学

  • フウイヌム国渡航記とガリヴァーのその後

    いよいよ、ガリヴァー旅行記 最後の第四篇『フウイヌム国渡航記』です。理知的な馬であるフウイヌムと野蛮な人間であるヤフーの国です。フウイヌムが支配していて、ヤフーは家畜です。しかも、下品で粗野でずるいダメダメな家畜扱いです。

    ところで、ヤフーといえば、ヤホーですよね。お察しの通り、語源の一つらしいです。

    Yahoo – Wikipedia

    また、ファイロとヤンは自分たちのことを「ならずもの」だと考えているので、「粗野な人」という意味がある「Yahoo」(『ガリヴァー旅行記』に登場する野獣の名前が由来)という言葉を選んだと主張している。

    そういえば、放送大学のラジオで「ヨーロッパ文学の読み方―近代篇(’19)」というのをやっていて、その第三回がガリヴァー旅行記でした。

    第3回 イギリス(2)

    スウィフト『ガリヴァー旅行記』を読む。

    【キーワード】
    風刺文学、空想旅行記、異文化接触

    執筆担当講師名:大橋 洋一(東京大学名誉教授)
    放送担当講師名:大橋 洋一(東京大学名誉教授)

    この講義の中で、この回の担当講師である大橋先生が以下のような話を紹介していました。

    ガリヴァー旅行記の翻訳者でもあった中野好夫は、その訳書のあとがきで「ほとんど我々の顔に腐った臓腑を投げつけられる思いのするのは、第三篇ことに第四篇である」と述べ、「訳者としての希望を率直に言うならば、たとえ第一篇、第二篇は読まなくとも、後半の第三篇、第四篇だけはぜひ読んでもらいたいのである」と述べています。

    中野好夫氏といえば、「吾輩」訳ですね。講義の中での朗読も、一人称が「吾輩」だったので、中野氏の訳を使っていたのでしょう。なんだか、10万63歳の彼を思い浮かべてしまいます。

    私の印象では、4つの篇の中で一番、ガリヴァーがどうかしちゃうのが、このフウイヌム国渡航記という感じでしたね。

    他の国に行ったときも、自分たちの世界(ヨーロッパや英国)について、批判的になったり、あるいは弁護的になったり、というのがありました。フウイヌム国でも最初はそんなトーンだったのですが、だんだんとあっち側のスタンスになっていきまして、帰る気なんかなくなって、すっかり住み着くつもりだったのですが、そうはいかなくなります。

    以下は、章の最初に記されている、その章の概要からの引用です。

    著者、主人より、この国から退去するよう警告を受ける。著者、悲しみのあまり失神するが、結局退去を承諾する。

    主人というのは馬です。この主人との対話を通じて、だんだん人間嫌いになっていて、ヨーロッパの人間たちも目の前にいる野蛮なヤフーと変わらない、自分はヤフーだ、他の人間もヤフーだ、そんなところには帰りたくない、という考えを持ち始めます。そんな中、主人からこんな話を聞かされます。

    それによると、最近開かれた大会議の席上、ヤフー問題が取り上げられ、いろんな代表者が、要するに野蛮な動物にすぎないのにまるでフウイヌム同様に一匹のヤフー(つまり私のことだ)を家人として養っているのは怪しからん、といって主人を非難したというのである。

    追放されたガリヴァーは丸木船でフウイヌムの国を去りますが、イギリスに帰る気はなく、無人島で一生を過ごそうとしているところをポルトガル船に発見され、なかば無理やりヨーロッパに連れ戻されることになります。

    親切な船長にも失礼な態度をとり、家族と再会したときも、

    だが、家の者たちを見た時、私の心中に忽ち憎悪と嫌悪と軽侮の念だけがこみ上げきたことを、ここに率直に告白しておかなければならない。
    (略)
    のみならず、自分がヤフー族の一匹の雌と交わってそいつに数匹の子を生ませたことを考え、私はただもう堪え難い恥辱と当惑と恐怖に襲われどおしであった。

    後半の部分は、奥さんと子供のことを言っているんですね。ひどい言いようです。そして、お金ができると、2頭の馬を厩舎で飼い、

    私の可愛い馬たちは、こちらの言うことがかなり分かるので、毎日少なくとも四時間は、話し合うことにしている。

    人間を嫌悪することになった理由はそれなりにあり、思考のプロセスなども書かれているので、気持ちも分からなくもないのですが、イギリスで普通に暮らして待っていた家族からしてみたら、帰ってきたら人間を極度に嫌悪するようになっていて、毎日を馬に話しかけて過ごすようになって、もう完全に狂人です。

    各国への渡航のラストをかざり、ガリヴァーの精神状態にとどめをさすのは、やっぱりこのフウイヌム国がふさわしかったのでしょう。巻末の解説によると、執筆されたのは1720年から1725年頃。発表と同時に大きな好評を博したが、その後、スウィフトはいろんな論文や詩を書いて、やがて狂人となって死んでいった、とのこと。

  • ガリヴァーと蚕の糸と『蜘蛛の糸』

    私の読書感想文ルール: 一つ、それぞれの「篇」について書いてもよい

    平井 正穂訳のガリヴァー旅行記を読んでいるんですが、

    • 第一篇 リリパット国渡航記
    • 第二篇 ブロブディンナグ渡航記
    • 第三篇 ラピュータ、バルニバービ、ラグナグ、グラブダブドリッブおよび日本への渡航記
    • 第四篇 フウイヌム国渡航記

    となっていて、今回は第三篇のラピュータ他です。つまりラピュ他です。各篇 盛りだくさん過ぎて、ガリヴァー旅行記の感想文と言っても、どの国のどの話を取り上げるのかが難しいところ。だったら、各篇ごとに書いてもいいじゃないかというわけです。

    第一篇は 小人国(過去記事)、第二篇は巨人国(過去記事)、一つ飛ばして、第四篇は、知的な馬「フウイヌム」が支配し、野蛮な人間「ヤフー」を家畜として扱っているような国。

    一、二、四は出てくる「国民」のクセが強めで比較的分かりやすいです。でも、第三篇は一言では言いにくい。5個も国が出てきます。おまけに日本まで出てきます。以前1回は読んだはずですが、ガリバーの日本訪問についてはまったく記憶がなく、今回読んでみて納得しました。ほとんど通過しただけで、事件らしい事件もおきず、変な国民性や風習などもあらわれませんでした。踏み絵がちょっとネタになっていたくらい。

    第三篇に出てくる「ラピュータ」といえば、あの宮崎駿の『天空の城 ラピュタ』の名前の由来になったものですが、ウィキペディアに書いてあるように、

    劇中に空飛ぶ島の物語を空想した人物としてスウィフトの名前も出てくるが、名前の借用以外は『ガリヴァー旅行記』との関連はない。

    のだそうです。たしかに、読んでみても、それらしいものは見つかりませんでした。シータも、ドーラも、「バルス!」も出てきませんでした。

    空飛ぶ島のラピュータに住んでいる支配者層が治めている地上の国が「バルニバービ」です。このバルニバービでは研究が盛んで、様々なものが研究されているんですが、トンデモ研究というか、ポンコツ博士というか、そんなんばっかり。しょうもないアイデアとか新しいものには飛びつき、伝統的なものを迫害し排除するようなバルニバービの国民性が、スウィフトがいろいろと風刺を乗せたかったとこなんだろうなと思いました。けっこう長々と書いてあったし。

    数々の変な研究が出てきます。例えば、

    研究所に着任以来この老人は、人糞をもとの食料に還元する実験を自分の仕事としてきた。人糞をそれぞれの成分に分解し、胆嚢からえた色素を除き、臭気を蒸発させ、唾液をすくいとるのがその仕事だそうであった。彼は、毎週、ブリストル大樽くらいの大きさの容器になみなみと入れられた人糞の配給を、研究所から受けていた。

    「食料に還元」できたとて、ですよ。還元したあと、どうするんでしょうか。私はこれ以上考えたくはありません。

    他にも、胡瓜から太陽光線を抽出する研究とか、家を屋根から作り始め最後に土台を作るという施工法を開発したという建築家とか、盲人に手触りと嗅覚で色を調合させる研究とか、畑に豚の好物を埋めて、それを掘り起こさせることで耕す労力を軽減する研究(埋めるのは耕すより労力がかかるというオチ)とか。

    ただそんな中に、蚕の代わりにクモを使うという研究があって、

    やがて、彼は、蜘蛛という家の内で飼える昆虫がこんなに沢山いるのに、世間の人々が蚕を飼うといった誤ちを永い間犯してきたことは残念だ、と言った。蜘蛛は紡ぐのもうまいが織るのもうまい、だから蚕よりも遥かに優れている、とのことであった。

    これに関しては、とんちんかんな研究というよりは、むしろいい線をついてきているような気がしています。というのも、『カラー図解 アメリカ版 新・大学生物学の教科書 第1巻 細胞生物学』をちょっと前に読んだときに、P134「生命を研究する:クモの糸を作る」に、以下のような記述を見つけまして、

    クモの糸は知られる限り最も強い素材の1つであるが、大量に得ることはきわめて困難である。産業界の生物学者は遺伝子エンジニアリングを用いてそのタンパク繊維を作っている。彼らは蚕(衣類で用いられる絹糸を作る昆虫の幼生)に、強力なクモの糸―絹糸の複合繊維を作らせるのである。

    (略)

    クモの糸はその二次構造のおかげで大変強いタンパク質ベースの資材である。人間が利用するためには、この繊維を大量に獲得することが望ましい。クモは巣を張るために糸を紡ぎ出すが、その量は人間が利用するのには不十分である。蚕は衣類で用いられる絹糸を豊富に産生するが、絹糸はクモの糸に比べてはるかに弱い。ワイオミング大学のランディ・ルイスによって率いられる科学者の国際チームは、クモの糸―絹糸の複合繊維を大量に作らせるべく蚕に遺伝子操作を加えた。それからこれらの繊維の性質を試験し、本来のクモの糸の性質と比較した。

    クモの糸は強く、用途によっては非常に有用だが、いかんせん量がとれない。蚕はたくさんの糸を産生することができるので、遺伝子操作でクモの糸と同じ材質の糸を作り出す蚕をつくればいいのではないか、という発想です。

    ガリヴァー旅行記は芥川龍之介の愛読書の一つだったようですが、『河童』だけでなく、『蜘蛛の糸』(青空文庫へのリンク)も、この旅行記から着想を得た、なんてことはさすがにないでしょうね。

    でも、クモの糸の丈夫さを、この小説以上に語っているものはないんじゃないですかね。だって、犍陀多かんだたの重さだけでなく、

    罪人たちは何百となく何千となく、まっ暗な血の池の底から、うようよと這い上って、細く光っている蜘蛛の糸を、一列になりながら、せっせとのぼって参ります。

    ・・・なんてことになっています。一時的(犍陀多が独占欲を出すまで)とはいえ、すごい人数の重量を支えていたのですから。

    話をガリヴァーに戻しまして・・・

    スウィフトはきっと、クモの糸を絹の代わりに使うなんてのは、実現しないことだと思って、数々のトンデモ研究の中にこれを入れたのでしょう。まさか300年後に彼が考えたのと同じような着想の研究が実用化されることになろうとは、夢にも思っていなかったでしょう。

    300年も経てば何が起こるか分かりません。ということは、もしかして、「人糞」のほうも、そのうち・・・

  • 鈴木悦夫の短編集『もうちょっとで大人』(『祭りの日』収録)

    幸せな家族 そしてその頃はやった唄』の文庫本の巻末の解説に、著者の鈴木悦夫氏が『祭りの日』という作品で第二回 日本児童文学者協会新人賞を受賞したという話が載っていました。その賞は権威のある賞で、受賞した作品はそれなりに注目されるにもかかわらず、『祭りの日』が収録された短編集『もうちょっとで大人』が出版されたのは、受賞から17年も経ったあとだったとも書かれていて(過去記事:実在する『その頃はやった唄』)、ぜひ読んでみたいと思ったわけです。

    しかし、Amazonで検索しても出てこないし、ブックオフのオンラインストアにも在庫がない。表紙の画像さえも出てこないという状況。絶版ってやつですね。でも、稲城市の図書館にあったので借りることができました。

    昔は図書館の本には、裏表紙あたりに貸出管理用の記入欄の紙が必ず貼ってありましたよね。この本にも「貸出期限票」が貼られていて、それには(昭和)61年の日付のスタンプが押されていました。出版された1986年に購入され、現在まで所蔵されていたということになります。

    裏表紙には

    こみね創作児童文学・9

    小学校上級から 小峰書店 定価980円

    と書いてあり、装丁も児童向けという感じですが、内容は『幸せな家族…』を彷彿とさせるものがあります。

    9作が収録された短編集で、安心して子供にすすめられるようなさわやかなハッピーエンドの作品も含まれているのですが、微妙な読後感のものもいくつかありました。

    このあとはネタバレだらけなので、読もうと思っている人は、早めに図書館へどうぞ・・・

    ・・・読んだ?

    『13個目のカセットテープ』は、長野県に住んでいて、体が弱かったせいもあり海を見たことがない愛子が、海の近くに住んでいる健一と文通をしているという設定。これが普通の文通ではなく、カセットテープを使った《声の便り》というわけです。

    愛子は海を自分の目で見たいので、健一の住む町に訪ねて行こうとするのですが、健一はなんだか乗り気ではない。でも、愛子は訪問を強行します。

    道を聞くために入った郵便局で見かけた目の見えない男の子が、なんと健一だったいうわけです。

    健一は目が見えるふりをして、海の様子を語って、愛子にカセットテープを送っていた。愛子が訪ねてくると、そのことがばれてしまうので、訪問に否定的だったり、《声の便り》を終わらせようとしていたり、というわけです。

    『ブラック・ジャック』(手塚治虫)の『ハローCQ』というエピソード(単行本7巻に収録)を思い出しました。足の不自由なジュンと、目の不自由なトムが友人どうしなのですが、お互いの病気を隠しています。それを成立させるための仕掛けがアマチュア無線というわけです。トムが訪日しジュンに会おうとしますが、ジュンは嘘を隠し通すために、トムと仲たがいして関係を絶とうとする、という悲しい展開ですが、最後はブラック・ジャックがハッピーエンドにします。

    一方、鈴木悦夫の『13個目のカセットテープ』の方は微妙な終わり方をします。あたかも見えているかのようなふりをして、海の様子をカセットテープ吹き込んできた健一が、自分は嘘つきだと謝ります。今までのいきさつについて、二人は海の岩場で話をしていたのですが・・・

    と、その時だった。健一のからだが岩の上でくずれ、宙に浮かんだ。

    「ぼくにできるのは、この手で、からだで、海にさわることだけなんだ」

    「だめ――」

    愛子は、おもいきり手をのばした。その手の向こうに、のびやかにそった健一のからだがあった。

    「ぼくは、泳いだこともなかったんだ――」

    このあと、数行あるのですが、結局何が起きたのか、私にはよく分かりませんでした。「岩の上でくずれ」たあとに、「宙に浮かんだ」とはどういう状態なのか?

    「のびやかにそった健一のからだ」という表現から、海へ飛び込む様子が目に浮かびます。でも、そのあとに台詞が続くところがしっくりこないし、飛び込んだのなら「からだが岩の上でくずれ」のところが合わない気もするし、いろいろとモヤモヤする終わり方でした。いろんな解釈を残すために、あえてぼかしたのでしょうか。

    他にも、「問題作」がいろいろと収められています。

    『手押しボタン式信号機』では、物語のかなり前半で、

    ぼくは今、横断歩道を渡りかけて、自動車にはねとばされ、こうして地面にうちつけられて死ぬまぎわだっていうのに、その瞬間に思い出したことは、ものすごく多いのですから。

    という語りが出てきて、それまでに何があったのかが次第に分かっていきます。少年が車にはねられることになる原因も、大人への疑念、反抗、子供特有の非合理的な考え方などが相まったもので、児童文学の真骨頂なのかもしれません。

    『コケシの首』は、大火事で町で焼けたことで、後を継ぐはずだったこけし屋がなくなり、閉塞的な毎日からの脱出や未来への希望を感じる少年の話。

    日本児童文学者協会新人賞を受賞した『祭りの日』は、(少なくとも大人には)よく分からない理由で家出する少年の話。強いて理由を書くなら、祭りが好きな「魚源のじいさん」が、山車だしが倒れ燃えてダメになって大泣きしているのを見かけたから、だったりします。

    〈山車が燃えただけで、あんなに泣けるのはなぜだろう〉と、長いことじいさんを見ながら考えていた。なぜだか知らないけれど、少しずつ、うらやましいような気持ちがわいてきた。

    祭りの日に何かを確信した少年は、ただひたすら海岸線に沿って歩いて行くという、終着点の見えない家出を開始します。

    子供の家出というと、街中で補導されてすぐに連れ戻されるイメージがありますが、人目につかない田舎の海岸線を歩き続ける、この家出は二十日以上にわたります。しかし、ある出来事がきっかけで、少年は家出を終了させ、帰ることを決めます。

    こんな話だったら子供が喜ぶだろうとか、これくらいだったら子供でも分かるだろう、みたいな妥協がなく、子供の独特の心理を描き出し、かつて子供だった大人たちの感情さえも揺さぶってくるのが、鈴木悦夫作品の特徴であるように思います。

  • 『幸せな家族 そしてその頃はやった唄』の単行本(偕成社)

    私の感想文ルール: 一つ、装丁について書いてもよい

    『幸せな家族』については、BSテレ東の『あの本、読みました?』で知りました。そして、その本、読みました。(実在する『その頃はやった唄』

    『あの本、読みました?』では、以下のように紹介されていて(番組サイトへのリンク)、

    ▼36年前に出版された『幸せな家族 そしてその頃はやった唄』も復刊後、再ブレイク! その意外な理由とは?

    私は、その復刊した文庫版を読んだんですね。文庫版はすっかり大人な感じの、電車で読んでも恥ずかしくないデザインの表紙になっていました。ターゲット層は今の若者ではなく、元ジュブナイルなんだと思います。その頃、読んで戦慄を受けた世代が、懐かしんで読むことを想定した装丁になっているんでしょう。

    元ジュブが現ジュブだった頃に、どんな感じの表紙で、裏表紙のあらすじやあおり、、、文には何が書かれていたのかが気になります。アマゾンでは単行本はヒットしません。これが絶版ってやつなんですね。

    でも、自治体の図書館で探したらありました。絶版本は図書館に限りますな。

    表紙はこんな感じ。

    厚みはこんな感じ。

    主人公(語り手)の省一と、物語で特に重要な役割を果たすお姉さんの一美でしょうか。お兄さんの行一ってことはないですよね。そういえば、みんな「一」がつきますね。お父さんの勇一郎からとったのでしょうか。まあ、みんな死んじゃうんですけど。

    表紙は特に子供向けという感じはしないですね。ただ、表紙の裏には

    本格派ほんかくは長編ちょうへんミステリー、ついに登場とうじょう

    と、ルビ付きで書かれているあたりが、ジュブチックです。

    あと、挿絵は文庫版と同じです。挿絵っていいですね。好きです。変に大人ぶらないで、挿絵ばんばん入れてほしいです。

    意外だったのは、楽譜も載ってた点でした。『百年の孤独』の家系図みたいに文庫化にあたって足したものだと思ってました。青少年たちはリコーダーで吹いたりしたのかもしれません。

    偕成社かいせいしゃは主に児童書を出版している会社で、『幸せな家族』も「K.ノベルズ」というシリーズの1つのようです。巻末にK.ノベルズの広告ページがあり、そのキャッチコピーがいかしてました。

    「マンガが一番おもしろい」と言っている吉田君に読ませたい

    誰でしょうか? 吉田といえば、茂か拓郎か照美か牛の吉田君などが思い浮かびますが、どれでもなさそうです。

  • ガリヴァー旅行記(巨人国)と偏見の構造

    小人国(リリパット国)に続いて、巨人国(ブロブディンナグ国)です。子供向けの絵本によっては小人国のみという構成のものもありますが、ガリヴァーは小人国から無事イギリスに帰国したあと、

    性分と運命に災いされて、絶えず動き回っていなければ気がすまない私は、帰国して十ヵ月でまたもや故国を飛び出し、1702年六月二十日にダウンズから出帆した。

    (引用は、平井正穂訳の岩波文庫版より)

    ガリヴァーのキャラ設定は、寅さんまたは裸の大将といった感じで、大変な目にあって帰ってきても、すぐにまた航海に出てしまうんですよね。

    航海の途中、水を補給しようと「大きな島だか大陸だか」にロング・ボートで上陸したところ、現れた巨人にびっくりして逃げていく仲間たちに置いてきぼりにされるというスタートです。ブロブディンナグの国民はちゃんとした文明を持っており、進撃の巨人みたいに食べられたりはしないので、ご安心を。

    リリパット国のときにいろいろなものの小ささで驚く話がたくさんあったのと同じような感じで、ブロブディンナグ国では大きさに驚くというエピソードが散りばめられてきます。ただ、単位がインチとかフィートのヤード・ポンド法なので、いまいちピンときません。注釈によると、著者による比率の換算はけっこういいかげんらしいので、あまり気にして読む必要はなさそうです。「それがぁ、すっごい、でかくてぇー」くらいの感覚で読みました。

    興味深かったのは、ブロブディンナグ国からの脱出後に、普通のスケールの人に会ったり、普通のサイズの街に戻った後の感覚のずれですね。

    そのずれはイギリス人との再会である救出の場面から始まっていました。なんやかやありまして、ガリヴァーは木でできた頑丈な箱に入った状態で海に漂うことになります。巨人にとっては持ち運べる箱、ガリヴァーにとっては居住できる一部屋ほどのサイズ感です。

    どうやら船に発見され(ガリヴァーには外がよく見えない)、外から声をかけられたときに、のこぎりで穴をあけて引っぱり出してやるという乗組員に向かって、ガリヴァーは、箱に輪がついているから、それに指でもひっかけて持ち上げてくれ、みたいなことを言います。ガリヴァーが悠々とすごせる大きさの箱が、簡単に持ち上げられるわけはないのですが、巨人の感覚になっているんですね。

    自分の家に戻ってきたときも、元のサイズに戻ったという感じではなく、何もかもが小さく見えるという感覚を味わいます。

    人が小さく見えるので、踏み殺さないようによけるのに苦労するとか(同じ大きさなのでそんな心配はないのだが・・・)。家に入るときも鴨居に頭をぶつけるような気がするとか。奥さんと再会して抱擁するときに、膝より下までしゃがみ込んでしまうとか。

    実は上記の反応って最初よくわからかったんですよね。後遺症には2パターンあって、1つはブロブディンナグにいたときと同じようにしてしまうというもの。大声で話す(ガリヴァーは小さいので大声を出さないと聞こえない)とか、上を見て話す(巨人の顔ははるか上方にあるので)とか。これは分かりやすいですよね。

    もう1つは、見えるものが小さく感じる→そのサイズにあった行動をとってしまう、という多段階の後遺症ですね。目で見えたサイズ感に対応する行動をとるのではなく、感覚のサイズ感に合わせて行動してしまうというもの。

    スウィフトらしく、これも何かの比喩になっているのかもしれません。平凡な出自なのに、何かのきっかけで上流社会の人たちと交わるようになる。その感覚にすっかり馴染んだ結果、自分もその仲間入りができたと錯覚し、平凡な人を見下すようになる。自分は何も変わっていないのに。・・・みたいな。考えすぎでしょうか。

  • 実在する『その頃はやった唄』

    読んだのは『幸せな家族 – そしてその頃はやった唄』(鈴木悦夫 著)です。読んでみて、「何だこれは?」と思うわけです。児童文学のカテゴリに入れられているようですが、いわゆる児童文学っぽさがないんですよね。児童文学といっても幅があると思いますが、ティーンエイジャーくらいが想定読者なのでしょうか。裏表紙の言葉を借りれば「ジュヴナイル・ミステリ」、図書館や書店などの分類でいうと「YA」(ヤングアダルト)という分類になると思います。

    はたから見ると幸せそうに見える家族が次々に死んでいき、小学6年生の次男のみが残ります。これはネタバレでもなんでもなく、プロローグの一番最初にこう書かれています。

    とうとうぼくはひとりになった。

    この一年のあいだに、ぼくの家族はぽつりぽつりと死んで、最後に、ぼくひとりがのこった。

    これが、青少年向け?という始まり方です。(終わり方はもっとすごいけど)

    私自身はいい歳ですが、最近いくつかYA向けの小説を読みました。読んだのは『杉森くんを殺すには』(長谷川まりる 著)、『THE MANZAI』(あさのあつこ著)、『カラフル』(森絵都 著)など。

    ある程度平易に書かれているという点もありますが、これらには子供や若者へのメッセージ性がありました。「いろいろあるけど、がんばれよ」みたいな(←雑な大人のまとめかた)。青春のきらきらした感じ、ちょっとしたことに悩みすぎる感じ、若い時に読めば共感できるし、年を取ってから読めばノスタルジックにも楽しめる。あと、はやまるなよ、ってのも大事なメッセージだったり。差別とか偏見がテーマとして盛り込まれていることもありますね。

    で、『幸せな家族』ですよ。「ジュヴナイル」って、ちょっと青春とか初々しさを感じる単語なんですけど、そんなのないですよ。みんな死ぬし。道徳的なもんでもない。

    普通に大人が読んでも楽しめるミステリ(サイコホラー?)だと思います。難しすぎる言葉や、凝りすぎたトリックはないので、子供でも読めるといえば読めるけど、「子供でも読める」「子供でも楽しめる」ようにお話を作りましたっていうのとは、なんか違う。

    もしかしたら、「子供だからこそ楽しめる」「子供にしか楽しめない」という要素もあるのではないかと。小6の主人公の思考はストレートで単純で視野が狭いです。大人から見れば、「子供だなあ」だけど、子供や若者からすれば、それがリアルであると。そう考えると、YA作品は大人向け作品の簡易版などではなく、まさにその層にしか分からない感覚に突き刺さることを目標にしたものなのだろうかと思います。

    じゃあ、大人がそれを楽しめないかというと、また違った面白さが出てくる。何考えているか分からない子供の怖さや不気味さでしょうか。何に価値を置き、何を好み・嫌い、何を恐れるのか、その基準が大人とずれている。楳図かずおの『漂流教室』なんかも、そこでぐっとつかまれるでしょ。子供から見た大人の描かれ方。常識でものを捉えようとしたり、卑怯なことを考えたり、現実に耐えられなくて発狂したり。

    『幸せな家族』に話を戻しますと、本編以外の部分もけっこう興味深く読めました。

    「その頃はやった唄」は実在するというのは驚きでした。小説のための架空の歌ではありません。あとがきに、詩人の山本太郎氏の詩集『覇王紀』に収められていること、これに俳優の西村正平氏の発案で、作曲家の越部信義氏が曲をつけた、ということが書かれていました。文庫版には楽譜も載っています。

    あと、『幸せな家族』は『鬼ヶ島通信』という同人誌に六年間にわたって連載されていたものである、とか。

    著者の鈴木悦夫氏は、「祭りの日」という作品で第二回日本児童文学者協会新人賞を受賞したが、この作品が収録された単行本『もうちょっとで大人』が出版されたのは、受賞から17年も経ったあとだった、とか。「売れない」と出版社に判断されてしまったのでしょうか。事情は分かりませんが。


    2026年4月26日追記
    『もうちょっとで大人』も読みました。
    鈴木悦夫の短編集『もうちょっとで大人』(『祭りの日』収録)


    鈴木悦夫氏の人となりや、作品に関するエピソードは、文庫版に収録されている、著者による「あとがき」、「鈴木悦夫が遺したものとは?――追悼・鈴木悦夫」(野上暁)、「解説」(松井和翠)をご参照ください。けっこう尖ったかただったみたいで・・・

    そうだ、思い出した。テレビCMのディレクターや撮影班が事件後もけっこう長く、この家庭に残ることになるんです。殺人なんかおきてCMが撮れなくなったんだったら、普通はすぐにいなくなりますよね。この家族を心配してとかなんとか、という理由は分かりますが、いかにもお話を作るための設定だなーとか思っていたけど、私はこのあたりが一番ゾッとしました。


    2026年4月16日追記
    オリジナル版(単行本)の表紙が見たくて、図書館で借りてきました。
    『幸せな家族 そしてその頃はやった唄』の単行本(偕成社)

  • ガリヴァー旅行記(リリパット国渡航記)と教義の対立

    ガリヴァー旅行記』(ジョナサン・スウィフト著)のごく一部、リリパット国渡航記だけの感想文です。

    子供の頃に読んだガリバー旅行記(昔は「ヴァー」なんてタイトルではなかった)といえば、小人国にたどりついた巨大なガリバーが地面に縛り付けられた挿絵が思い浮かびます。髪の毛が細い束にされて、それぞれが杭につながれた絵を見て、「さすが小人、仕事が細かい」と思った記憶があります。

    子供向けのガリバーの本といえば、小人国(リリパット国)だけか、小人国と巨人国(ブロブディンナグ国)という構成だったように記憶しています。滞在した国の人間がすごく小さかったり、すごく大きかったりして、そこから生まれるエピソードというのは子供にもキャッチーですよね。「悲報! 宮殿放尿消火事件」とかね。(注:原作とは異なります)

    ガリバー旅行記の原作が子供向けのものではなく、むしろ大人でも理解が難しい風刺に満ちたものであることは、有名ですよね。どこかで聞いたことがあるでしょう? えっ、ない? じゃあ、「クルマ買い取り No.1」というのは? それはある、と。はい、今回はその話ではありません。

    リリパット国はブレフスキュ国(それぞれイギリスとフランスに対応)と戦争状態なのですが、戦争の原因の一つに「教義」があります。

    この皇帝も、ブレフスキュ帝国の全土を併呑して属領にし、総督を派して統治する、卵を大きな方の端で割るといって亡命した連中を抹殺する、全人民が卵を小さな方の端で割ることを強制する、――こうすることによって自分は全世界の唯一の帝王として安泰を誇る、ということ以外には何も眼中にはないらしかったのだ。

    なんで卵の話が? と思われるかもしれませんが、卵をどちらの側から割るのかというのが、2つの小人国の間での「教義」の対立なんですね。カトリックとプロテスタントの教義争いを、あえてこのようなどうでもいい卵の話と対比しています。

    大きな方の端で割る人をビッグエンディアン、小さな方の端で割る人をリトルエンディアンというのですが、これがコンピューターで複数バイトを扱うときの並びの規則(ハードウェアのアーキテクチャによって異なる。どちらが良いというタイプのものでもない)の語源になっていたりもします。

    ガリバー旅行記はいろいろなものの元ネタになっていますよね。人間のような野蛮な動物のヤフーも、あのYahoo!の由来(の一つ)みたいです。ラピュタも出てくるしね。

    芥川龍之介の『河童』のモチーフになっている話も有名ですよね。この話だと『フウイヌム国渡航記』のほうが語られることが多いと思いますが、『リリパット国渡航記』のほうにも、その片鱗があります。

    そんなわけで、子供が自分を生んでくれた父親や育ててくれた母親に対して、何も恩義を感じなければならぬいわれはない。人生はただでさえ悲しいことで一杯なのだ、生まれてくることなどそれ自体何も有難いことではないし、(略)

    なので、子供の教育に関して国がしっかり管理する、みたいなリリパット国の制度の話につながります。

    芥川の『河童』だと(青空文庫より)

    その代りに人間から見れば、実際又河童のお産位、可笑しいものはありません。現に僕は暫くたつてから、バツグの細君のお産をする所をバツグの小屋へ見物に行きました。
    (略)
    けれどもお産をするとなると、父親は電話でもかけるやうに母親の生殖器に口をつけ、「お前はこの世界へ生れて来るかどうか、よく考へた上で返事をしろ。」と大きな声で尋ねるのです。

    で、中から子供が答えます。

    「僕は生れたくはありません。第一僕のお父さんの遺伝は精神病だけでも大へんです。その上僕は河童的存在を悪いと信じてゐますから。」

    親の都合で生まれてくること、生まれたところで人生は困難だらけ、のように悲観的な捉え方をするあたりに共通点があります。

    第一篇のリリパット国渡航記、第二篇のブロブディンナグ国渡航記に関していうと、こんなに小さい、こんなに大きいみたいな話が(ちょっと飽きるくらい)いろいろでてきて、そこばかり目が行きがちですが、実は、ちょっとした制度、政治の仕組、国民の信条などにスウィフトの考え方が表れているような気がします。そういう観点で読んでみると、子供の頃に読んだのとは違う発見があるのではないかと思います。

    ちなみに、リリパット国の政治の世界では、出世するために、綱渡り(比喩ではなく)をしたり、王様が動かす棒を飛び越えたり、くぐり抜けたりする登用試験があるのですが、これは何を比喩しているんでしょうねえ。


    2026年4月9日追記
    小人国の次は巨人国(ブロブディンナグ国)に向かいます。
    ガリヴァー旅行記(巨人国)と偏見の構造

  • 森絵都『カラフル』

    森絵都さんの『カラフル』読みました。森さんは児童文学の賞をたくさん受賞されているかたで、この『カラフル』もカテゴリ的には児童文学みたいです。

    「みたいです」と書いたのは、もう境目が分からないというか、文庫本版で読んだのですが、装丁も児童向けという感じはないし、挿絵があるわけでもないし、ルビが若干多めかなという程度。

    内容がほんわかしているかというと、そうでもない。母親の不倫、中学3年の同級生の女子の援助交際。主人公の「魂」が間借りする肉体は中3の男子の小林真君なのですが、彼は三日前に服薬自殺をはかり危篤状態。まもなく死んで魂が抜けたところに、主人公が入り込むという設定。

    最後の設定はちょっとファンタジーっぽいですが、それなりに重い要素が詰まっています。児童書でもこんなテーマを扱うんですね。でも、語り口は軽めな感じです。不倫や援交の生々しさはありません。

    あと、イヤミスみたいなことにはならないので、安心して読めます。読後の青少年を路頭に迷わせないという点は、児童文学の守るべき一線なのかもしれません。

    他人の言動の一側面を見て、その人の考え方や生き方を理解したような気になってはいけない、という著者のメッセージだと解釈しました。それは自分がどういう人間であるかについても同様です。ましてや、早とちりなどせぬよう、ということです。

    さすがに『ズッコケ三人組』を(おっさんが)電車で読むのは恥ずかしいですが、『カラフル』の文庫本なら堂々と読めますので、漢字や難しい言い回しが多い本に疲れたら、たまには児童文学もいかがでしょうか。