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勝手に読書感想文。漫画も映画も含みます

タグ: 児童文学

  • 『幸せな家族 そしてその頃はやった唄』の単行本(偕成社)

    私の感想文ルール: 一つ、装丁について書いてもよい

    『幸せな家族』については、BSテレ東の『あの本、読みました?』で知りました。そして、その本、読みました。(実在する『その頃はやった唄』

    『あの本、読みました?』では、以下のように紹介されていて(番組サイトへのリンク)、

    ▼36年前に出版された『幸せな家族 そしてその頃はやった唄』も復刊後、再ブレイク! その意外な理由とは?

    私は、その復刊した文庫版を読んだんですね。文庫版はすっかり大人な感じの、電車で読んでも恥ずかしくないデザインの表紙になっていました。ターゲット層は今の若者ではなく、元ジュブナイルなんだと思います。その頃、読んで戦慄を受けた世代が、懐かしんで読むことを想定した装丁になっているんでしょう。

    元ジュブが現ジュブだった頃に、どんな感じの表紙で、裏表紙のあらすじやあおり、、、文には何が書かれていたのかが気になります。アマゾンでは単行本はヒットしません。これが絶版ってやつなんですね。

    でも、自治体の図書館で探したらありました。絶版本は図書館に限りますな。

    表紙はこんな感じ。

    厚みはこんな感じ。

    主人公(語り手)の省一と、物語で特に重要な役割を果たすお姉さんの一美でしょうか。お兄さんの行一ってことはないですよね。そういえば、みんな「一」がつきますね。お父さんの勇一郎からとったのでしょうか。まあ、みんな死んじゃうんですけど。

    表紙は特に子供向けという感じはしないですね。ただ、表紙の裏には

    本格派ほんかくは長編ちょうへんミステリー、ついに登場とうじょう

    と、ルビ付きで書かれているあたりが、ジュブチックです。

    あと、挿絵は文庫版と同じです。挿絵っていいですね。好きです。変に大人ぶらないで、挿絵ばんばん入れてほしいです。

    意外だったのは、楽譜も載ってた点でした。『百年の孤独』の家系図みたいに文庫化にあたって足したものだと思ってました。青少年たちはリコーダーで吹いたりしたのかもしれません。

    偕成社かいせいしゃは主に児童書を出版している会社で、『幸せな家族』も「K.ノベルズ」というシリーズの1つのようです。巻末にK.ノベルズの広告ページがあり、そのキャッチコピーがいかしてました。

    「マンガが一番おもしろい」と言っている吉田君に読ませたい

    誰でしょうか? 吉田といえば、茂か拓郎か照美か牛の吉田君などが思い浮かびますが、どれでもなさそうです。

  • ガリヴァー旅行記(巨人国)と偏見の構造

    小人国(リリパット国)に続いて、巨人国(ブロブディンナグ国)です。子供向けの絵本によっては小人国のみという構成のものもありますが、ガリヴァーは小人国から無事イギリスに帰国したあと、

    性分と運命に災いされて、絶えず動き回っていなければ気がすまない私は、帰国して十ヵ月でまたもや故国を飛び出し、1702年六月二十日にダウンズから出帆した。

    (引用は、平井正穂訳の岩波文庫版より)

    ガリヴァーのキャラ設定は、寅さんまたは裸の大将といった感じで、大変な目にあって帰ってきても、すぐにまた航海に出てしまうんですよね。

    航海の途中、水を補給しようと「大きな島だか大陸だか」にロング・ボートで上陸したところ、現れた巨人にびっくりして逃げていく仲間たちに置いてきぼりにされるというスタートです。ブロブディンナグの国民はちゃんとした文明を持っており、進撃の巨人みたいに食べられたりはしないので、ご安心を。

    リリパット国のときにいろいろなものの小ささで驚く話がたくさんあったのと同じような感じで、ブロブディンナグ国では大きさに驚くというエピソードが散りばめられてきます。ただ、単位がインチとかフィートのヤード・ポンド法なので、いまいちピンときません。注釈によると、著者による比率の換算はけっこういいかげんらしいので、あまり気にして読む必要はなさそうです。「それがぁ、すっごい、でかくてぇー」くらいの感覚で読みました。

    興味深かったのは、ブロブディンナグ国からの脱出後に、普通のスケールの人に会ったり、普通のサイズの街に戻った後の感覚のずれですね。

    そのずれはイギリス人との再会である救出の場面から始まっていました。なんやかやありまして、ガリヴァーは木でできた頑丈な箱に入った状態で海に漂うことになります。巨人にとっては持ち運べる箱、ガリヴァーにとっては居住できる一部屋ほどのサイズ感です。

    どうやら船に発見され(ガリヴァーには外がよく見えない)、外から声をかけられたときに、のこぎりで穴をあけて引っぱり出してやるという乗組員に向かって、ガリヴァーは、箱に輪がついているから、それに指でもひっかけて持ち上げてくれ、みたいなことを言います。ガリヴァーが悠々とすごせる大きさの箱が、簡単に持ち上げられるわけはないのですが、巨人の感覚になっているんですね。

    自分の家に戻ってきたときも、元のサイズに戻ったという感じではなく、何もかもが小さく見えるという感覚を味わいます。

    人が小さく見えるので、踏み殺さないようによけるのに苦労するとか(同じ大きさなのでそんな心配はないのだが・・・)。家に入るときも鴨居に頭をぶつけるような気がするとか。奥さんと再会して抱擁するときに、膝より下までしゃがみ込んでしまうとか。

    実は上記の反応って最初よくわからかったんですよね。後遺症には2パターンあって、1つはブロブディンナグにいたときと同じようにしてしまうというもの。大声で話す(ガリヴァーは小さいので大声を出さないと聞こえない)とか、上を見て話す(巨人の顔ははるか上方にあるので)とか。これは分かりやすいですよね。

    もう1つは、見えるものが小さく感じる→そのサイズにあった行動をとってしまう、という多段階の後遺症ですね。目で見えたサイズ感に対応する行動をとるのではなく、感覚のサイズ感に合わせて行動してしまうというもの。

    スウィフトらしく、これも何かの比喩になっているのかもしれません。平凡な出自なのに、何かのきっかけで上流社会の人たちと交わるようになる。その感覚にすっかり馴染んだ結果、自分もその仲間入りができたと錯覚し、平凡な人を見下すようになる。自分は何も変わっていないのに。・・・みたいな。考えすぎでしょうか。

  • 実在する『その頃はやった唄』

    読んだのは『幸せな家族 – そしてその頃はやった唄』(鈴木悦夫 著)です。読んでみて、「何だこれは?」と思うわけです。児童文学のカテゴリに入れられているようですが、いわゆる児童文学っぽさがないんですよね。児童文学といっても幅があると思いますが、ティーンエイジャーくらいが想定読者なのでしょうか。裏表紙の言葉を借りれば「ジュヴナイル・ミステリ」、図書館や書店などの分類でいうと「YA」(ヤングアダルト)という分類になると思います。

    はたから見ると幸せそうに見える家族が次々に死んでいき、小学6年生の次男のみが残ります。これはネタバレでもなんでもなく、プロローグの一番最初にこう書かれています。

    とうとうぼくはひとりになった。

    この一年のあいだに、ぼくの家族はぽつりぽつりと死んで、最後に、ぼくひとりがのこった。

    これが、青少年向け?という始まり方です。(終わり方はもっとすごいけど)

    私自身はいい歳ですが、最近いくつかYA向けの小説を読みました。読んだのは『杉森くんを殺すには』(長谷川まりる 著)、『THE MANZAI』(あさのあつこ著)、『カラフル』(森絵都 著)など。

    ある程度平易に書かれているという点もありますが、これらには子供や若者へのメッセージ性がありました。「いろいろあるけど、がんばれよ」みたいな(←雑な大人のまとめかた)。青春のきらきらした感じ、ちょっとしたことに悩みすぎる感じ、若い時に読めば共感できるし、年を取ってから読めばノスタルジックにも楽しめる。あと、はやまるなよ、ってのも大事なメッセージだったり。差別とか偏見がテーマとして盛り込まれていることもありますね。

    で、『幸せな家族』ですよ。「ジュヴナイル」って、ちょっと青春とか初々しさを感じる単語なんですけど、そんなのないですよ。みんな死ぬし。道徳的なもんでもない。

    普通に大人が読んでも楽しめるミステリ(サイコホラー?)だと思います。難しすぎる言葉や、凝りすぎたトリックはないので、子供でも読めるといえば読めるけど、「子供でも読める」「子供でも楽しめる」ようにお話を作りましたっていうのとは、なんか違う。

    もしかしたら、「子供だからこそ楽しめる」「子供にしか楽しめない」という要素もあるのではないかと。小6の主人公の思考はストレートで単純で視野が狭いです。大人から見れば、「子供だなあ」だけど、子供や若者からすれば、それがリアルであると。そう考えると、YA作品は大人向け作品の簡易版などではなく、まさにその層にしか分からない感覚に突き刺さることを目標にしたものなのだろうかと思います。

    じゃあ、大人がそれを楽しめないかというと、また違った面白さが出てくる。何考えているか分からない子供の怖さや不気味さでしょうか。何に価値を置き、何を好み・嫌い、何を恐れるのか、その基準が大人とずれている。楳図かずおの『漂流教室』なんかも、そこでぐっとつかまれるでしょ。子供から見た大人の描かれ方。常識でものを捉えようとしたり、卑怯なことを考えたり、現実に耐えられなくて発狂したり。

    『幸せな家族』に話を戻しますと、本編以外の部分もけっこう興味深く読めました。

    「その頃はやった唄」は実在するというのは驚きでした。小説のための架空の歌ではありません。あとがきに、詩人の山本太郎氏の詩集『覇王紀』に収められていること、これに俳優の西村正平氏の発案で、作曲家の越部信義氏が曲をつけた、ということが書かれていました。文庫版には楽譜も載っています。

    あと、『幸せな家族』は『鬼ヶ島通信』という同人誌に六年間にわたって連載されていたものである、とか。

    著者の鈴木悦夫氏は、「祭りの日」という作品で第二回日本児童文学者協会新人賞を受賞したが、この作品が収録された単行本『もうちょっとで大人』が出版されたのは、受賞から17年も経ったあとだった、とか。「売れない」と出版社に判断されてしまったのでしょうか。事情は分かりませんが。

    鈴木悦夫氏の人となりや、作品に関するエピソードは、文庫版に収録されている、著者による「あとがき」、「鈴木悦夫が遺したものとは?――追悼・鈴木悦夫」(野上暁)、「解説」(松井和翠)をご参照ください。けっこう尖ったかただったみたいで・・・

    そうだ、思い出した。テレビCMのディレクターや撮影班が事件後もけっこう長く、この家庭に残ることになるんです。殺人なんかおきてCMが撮れなくなったんだったら、普通はすぐにいなくなりますよね。この家族を心配してとかなんとか、という理由は分かりますが、いかにもお話を作るための設定だなーとか思っていたけど、私はこのあたりが一番ゾッとしました。


    2026年4月16日追記
    オリジナル版(単行本)の表紙が見たくて、図書館で借りてきました。
    『幸せな家族 そしてその頃はやった唄』の単行本(偕成社)

  • ガリヴァー旅行記(リリパット国渡航記)と教義の対立

    ガリヴァー旅行記』(ジョナサン・スウィフト著)のごく一部、リリパット国渡航記だけの感想文です。

    子供の頃に読んだガリバー旅行記(昔は「ヴァー」なんてタイトルではなかった)といえば、小人国にたどりついた巨大なガリバーが地面に縛り付けられた挿絵が思い浮かびます。髪の毛が細い束にされて、それぞれが杭につながれた絵を見て、「さすが小人、仕事が細かい」と思った記憶があります。

    子供向けのガリバーの本といえば、小人国(リリパット国)だけか、小人国と巨人国(ブロブディンナグ国)という構成だったように記憶しています。滞在した国の人間がすごく小さかったり、すごく大きかったりして、そこから生まれるエピソードというのは子供にもキャッチーですよね。「悲報! 宮殿放尿消火事件」とかね。(注:原作とは異なります)

    ガリバー旅行記の原作が子供向けのものではなく、むしろ大人でも理解が難しい風刺に満ちたものであることは、有名ですよね。どこかで聞いたことがあるでしょう? えっ、ない? じゃあ、「クルマ買い取り No.1」というのは? それはある、と。はい、今回はその話ではありません。

    リリパット国はブレフスキュ国(それぞれイギリスとフランスに対応)と戦争状態なのですが、戦争の原因の一つに「教義」があります。

    この皇帝も、ブレフスキュ帝国の全土を併呑して属領にし、総督を派して統治する、卵を大きな方の端で割るといって亡命した連中を抹殺する、全人民が卵を小さな方の端で割ることを強制する、――こうすることによって自分は全世界の唯一の帝王として安泰を誇る、ということ以外には何も眼中にはないらしかったのだ。

    なんで卵の話が? と思われるかもしれませんが、卵をどちらの側から割るのかというのが、2つの小人国の間での「教義」の対立なんですね。カトリックとプロテスタントの教義争いを、あえてこのようなどうでもいい卵の話と対比しています。

    大きな方の端で割る人をビッグエンディアン、小さな方の端で割る人をリトルエンディアンというのですが、これがコンピューターで複数バイトを扱うときの並びの規則(ハードウェアのアーキテクチャによって異なる。どちらが良いというタイプのものでもない)の語源になっていたりもします。

    ガリバー旅行記はいろいろなものの元ネタになっていますよね。人間のような野蛮な動物のヤフーも、あのYahoo!の由来(の一つ)みたいです。ラピュタも出てくるしね。

    芥川龍之介の『河童』のモチーフになっている話も有名ですよね。この話だと『フウイヌム国渡航記』のほうが語られることが多いと思いますが、『リリパット国渡航記』のほうにも、その片鱗があります。

    そんなわけで、子供が自分を生んでくれた父親や育ててくれた母親に対して、何も恩義を感じなければならぬいわれはない。人生はただでさえ悲しいことで一杯なのだ、生まれてくることなどそれ自体何も有難いことではないし、(略)

    なので、子供の教育に関して国がしっかり管理する、みたいなリリパット国の制度の話につながります。

    芥川の『河童』だと(青空文庫より)

    その代りに人間から見れば、実際又河童のお産位、可笑しいものはありません。現に僕は暫くたつてから、バツグの細君のお産をする所をバツグの小屋へ見物に行きました。
    (略)
    けれどもお産をするとなると、父親は電話でもかけるやうに母親の生殖器に口をつけ、「お前はこの世界へ生れて来るかどうか、よく考へた上で返事をしろ。」と大きな声で尋ねるのです。

    で、中から子供が答えます。

    「僕は生れたくはありません。第一僕のお父さんの遺伝は精神病だけでも大へんです。その上僕は河童的存在を悪いと信じてゐますから。」

    親の都合で生まれてくること、生まれたところで人生は困難だらけ、のように悲観的な捉え方をするあたりに共通点があります。

    第一篇のリリパット国渡航記、第二篇のブロブディンナグ国渡航記に関していうと、こんなに小さい、こんなに大きいみたいな話が(ちょっと飽きるくらい)いろいろでてきて、そこばかり目が行きがちですが、実は、ちょっとした制度、政治の仕組、国民の信条などにスウィフトの考え方が表れているような気がします。そういう観点で読んでみると、子供の頃に読んだのとは違う発見があるのではないかと思います。

    ちなみに、リリパット国の政治の世界では、出世するために、綱渡り(比喩ではなく)をしたり、王様が動かす棒を飛び越えたり、くぐり抜けたりする登用試験があるのですが、これは何を比喩しているんでしょうねえ。


    2026年4月9日追記
    小人国の次は巨人国(ブロブディンナグ国)に向かいます。
    ガリヴァー旅行記(巨人国)と偏見の構造

  • 森絵都『カラフル』

    森絵都さんの『カラフル』読みました。森さんは児童文学の賞をたくさん受賞されているかたで、この『カラフル』もカテゴリ的には児童文学みたいです。

    「みたいです」と書いたのは、もう境目が分からないというか、文庫本版で読んだのですが、装丁も児童向けという感じはないし、挿絵があるわけでもないし、ルビが若干多めかなという程度。

    内容がほんわかしているかというと、そうでもない。母親の不倫、中学3年の同級生の女子の援助交際。主人公の「魂」が間借りする肉体は中3の男子の小林真君なのですが、彼は三日前に服薬自殺をはかり危篤状態。まもなく死んで魂が抜けたところに、主人公が入り込むという設定。

    最後の設定はちょっとファンタジーっぽいですが、それなりに重い要素が詰まっています。児童書でもこんなテーマを扱うんですね。でも、語り口は軽めな感じです。不倫や援交の生々しさはありません。

    あと、イヤミスみたいなことにはならないので、安心して読めます。読後の青少年を路頭に迷わせないという点は、児童文学の守るべき一線なのかもしれません。

    他人の言動の一側面を見て、その人の考え方や生き方を理解したような気になってはいけない、という著者のメッセージだと解釈しました。それは自分がどういう人間であるかについても同様です。ましてや、早とちりなどせぬよう、ということです。

    さすがに『ズッコケ三人組』を(おっさんが)電車で読むのは恥ずかしいですが、『カラフル』の文庫本なら堂々と読めますので、漢字や難しい言い回しが多い本に疲れたら、たまには児童文学もいかがでしょうか。