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勝手に読書感想文。漫画も映画も含みます

タグ: 芥川龍之介

  • 芥川龍之介『葱』と宇野千代と今東光

    2026年後期のNHKの朝ドラ『ブラッサム』のモデルは作家の宇野千代です。もちろんフィクションですが、きっと宇野千代のエピソードがいろいろと盛り込まれることでしょう。そして、このエピソードは絶対に入ってくるのではないかというのが、「デート中のネギ購入事件」です。ウィークエンダー風に再現VTRを作ったりすると盛り上がりそうです。「小説によりますと・・・」

    小説ではあるんですが、宇野千代に関するエピソードを人から聞いて、それを作品に仕上げたというものみたいです。この『葱』は青空文庫で読めます(芥川龍之介 『葱』)。

    「お君さん」のモデルが宇野千代、「田中君」のモデルが今東光こんとうこう(作家)だそうで。

    まずは、待ち合わせのシーン。

    「御待たせして?」

    お君さんは田中君の顔を見上げると、息のはずんでいるような声を出した。

    「なあに。」

    田中君は大様おおような返事をしながら、何とも判然しない微笑を含んだ眼で、じっとお君さんの顔を眺めた。それから急に身ぶるいを一つして、
    「歩こう、少し。」

    どうやら、サーカスを見に行く予定だったみたいですが、食事に変更です。

    「お君さんには御気の毒だけれどもね、芝浦のサアカスは、もう昨夜ゆうべでおしまいなんだそうだ。だから今夜は僕の知っている家へ行って、一しょに御飯でも食べようじゃないか。」

    「そう、私どっちでもいわ。」

    お君さんは田中君の手が、そっと自分の手を捕えたのを感じながら、希望と恐怖とにふるえている、かすかな声でこう云った。

    なんか、いい雰囲気です。その後、路幅の狭い町を歩いていると、一軒の八百屋があります。

    お君さんは思わずその八百屋の前へ足を止めた。それから呆気にとられている田中君を一人後に残して、あざやかな瓦斯の光を浴びた青物の中へ足を入れた。しかもついにはその華奢な指を伸べて、一束四銭の札が立っている葱の山を指すと、「さすらい」の歌でもうたうような声で、
    「あれを二束下さいな。」と云った。

    やっぱり「葱」というのが効いていますね。ズッキーニでもルッコラでもなく、ネギというのがポイントです。八百屋で何か買おうとする時点で興ざめな感じはありますが、ネギというのがさらにそれを盛り上げます。バッグにさっと入る形状でもないし、独特の匂いもあるし、生活感野菜の王様です。

    小説はこのあと、あきれたような様子の田中君と、お得な買い物ができて嬉しそうなお君さんの対比で幕を閉じるのであります。

    どうやら実話がもとになっているであろう、このエピソードを芥川に書かれた宇野千代は、『老女マノン』の中で、登場人物の「小母おばさん」が若い頃、ある作家に自分についての小説を書かれたという設定で、逆にネタにするという、さらなるおまけエピソードにつながります。(過去記事

    私は、芥川龍之介というと、『杜子春』や『蜘蛛の糸』のようなおとぎ話系のやつではないもので、作家としての自分を登場するものだと『或阿呆の一生』のイメージが強くて、暗い、重いものを想像してしまいます。でも、この『葱』は軽く書いたような演出がなされてて、印象が違いました。

    冒頭も、

    おれは締切日を明日みょうにちに控えた今夜、一気呵成かせいにこの小説を書こうと思う。いや、書こうと思うのではない。書かなければならなくなってしまったのである。では何を書くかと云うと、――それは次の本文を読んで頂くよりほかに仕方はない。

    みたいな始まりかたです。他にも、気障きざなキャラの田中君のような人を見たければ、音楽会や展覧会に行けばいい、そんな奴は2,3人は必ずいる、みたいな流れで、

    だからこの上明瞭な田中君の肖像が欲しければ、そう云う場所へ行って見るがい。おれが書くのはもう真平御免まっぴらごめんだ。

    と、物語の中に作者が登場してきます。最後の方では、

    まあこのままでペンをこう。左様さようなら。お君さん。では今夜もあの晩のように、ここからいそいそ出て行って、勇ましく――批評家に退治されて来給え。

    のように、登場人物に語りかけたりします。これが小説? なんだかエッセイっぽい書き方のような気もするので、この話がそのまま実話なんじゃないかという気もしてきますが、やっぱり小説なんですよね

    ちなみに、宇野千代の『老女マノン』のほうでは、そのようなことはあったが、その男性とは恋愛関係にはなかったし、登場している女性は自分とは全然似ていない(一方、登場する男性は実在する人と似ている)みたいなことが書いてありました。まあ、こちらも小説(フィクション)なんですが。

  • ガリヴァーと蚕の糸と『蜘蛛の糸』

    私の読書感想文ルール: 一つ、それぞれの「篇」について書いてもよい

    平井 正穂訳のガリヴァー旅行記を読んでいるんですが、

    • 第一篇 リリパット国渡航記
    • 第二篇 ブロブディンナグ渡航記
    • 第三篇 ラピュータ、バルニバービ、ラグナグ、グラブダブドリッブおよび日本への渡航記
    • 第四篇 フウイヌム国渡航記

    となっていて、今回は第三篇のラピュータ他です。つまりラピュ他です。各篇 盛りだくさん過ぎて、ガリヴァー旅行記の感想文と言っても、どの国のどの話を取り上げるのかが難しいところ。だったら、各篇ごとに書いてもいいじゃないかというわけです。

    第一篇は 小人国(過去記事)、第二篇は巨人国(過去記事)、一つ飛ばして、第四篇は、知的な馬「フウイヌム」が支配し、野蛮な人間「ヤフー」を家畜として扱っているような国。

    一、二、四は出てくる「国民」のクセが強めで比較的分かりやすいです。でも、第三篇は一言では言いにくい。5個も国が出てきます。おまけに日本まで出てきます。以前1回は読んだはずですが、ガリバーの日本訪問についてはまったく記憶がなく、今回読んでみて納得しました。ほとんど通過しただけで、事件らしい事件もおきず、変な国民性や風習などもあらわれませんでした。踏み絵がちょっとネタになっていたくらい。

    第三篇に出てくる「ラピュータ」といえば、あの宮崎駿の『天空の城 ラピュタ』の名前の由来になったものですが、ウィキペディアに書いてあるように、

    劇中に空飛ぶ島の物語を空想した人物としてスウィフトの名前も出てくるが、名前の借用以外は『ガリヴァー旅行記』との関連はない。

    のだそうです。たしかに、読んでみても、それらしいものは見つかりませんでした。シータも、ドーラも、「バルス!」も出てきませんでした。

    空飛ぶ島のラピュータに住んでいる支配者層が治めている地上の国が「バルニバービ」です。このバルニバービでは研究が盛んで、様々なものが研究されているんですが、トンデモ研究というか、ポンコツ博士というか、そんなんばっかり。しょうもないアイデアとか新しいものには飛びつき、伝統的なものを迫害し排除するようなバルニバービの国民性が、スウィフトがいろいろと風刺を乗せたかったとこなんだろうなと思いました。けっこう長々と書いてあったし。

    数々の変な研究が出てきます。例えば、

    研究所に着任以来この老人は、人糞をもとの食料に還元する実験を自分の仕事としてきた。人糞をそれぞれの成分に分解し、胆嚢からえた色素を除き、臭気を蒸発させ、唾液をすくいとるのがその仕事だそうであった。彼は、毎週、ブリストル大樽くらいの大きさの容器になみなみと入れられた人糞の配給を、研究所から受けていた。

    「食料に還元」できたとて、ですよ。還元したあと、どうするんでしょうか。私はこれ以上考えたくはありません。

    他にも、胡瓜から太陽光線を抽出する研究とか、家を屋根から作り始め最後に土台を作るという施工法を開発したという建築家とか、盲人に手触りと嗅覚で色を調合させる研究とか、畑に豚の好物を埋めて、それを掘り起こさせることで耕す労力を軽減する研究(埋めるのは耕すより労力がかかるというオチ)とか。

    ただそんな中に、蚕の代わりにクモを使うという研究があって、

    やがて、彼は、蜘蛛という家の内で飼える昆虫がこんなに沢山いるのに、世間の人々が蚕を飼うといった誤ちを永い間犯してきたことは残念だ、と言った。蜘蛛は紡ぐのもうまいが織るのもうまい、だから蚕よりも遥かに優れている、とのことであった。

    これに関しては、とんちんかんな研究というよりは、むしろいい線をついてきているような気がしています。というのも、『カラー図解 アメリカ版 新・大学生物学の教科書 第1巻 細胞生物学』をちょっと前に読んだときに、P134「生命を研究する:クモの糸を作る」に、以下のような記述を見つけまして、

    クモの糸は知られる限り最も強い素材の1つであるが、大量に得ることはきわめて困難である。産業界の生物学者は遺伝子エンジニアリングを用いてそのタンパク繊維を作っている。彼らは蚕(衣類で用いられる絹糸を作る昆虫の幼生)に、強力なクモの糸―絹糸の複合繊維を作らせるのである。

    (略)

    クモの糸はその二次構造のおかげで大変強いタンパク質ベースの資材である。人間が利用するためには、この繊維を大量に獲得することが望ましい。クモは巣を張るために糸を紡ぎ出すが、その量は人間が利用するのには不十分である。蚕は衣類で用いられる絹糸を豊富に産生するが、絹糸はクモの糸に比べてはるかに弱い。ワイオミング大学のランディ・ルイスによって率いられる科学者の国際チームは、クモの糸―絹糸の複合繊維を大量に作らせるべく蚕に遺伝子操作を加えた。それからこれらの繊維の性質を試験し、本来のクモの糸の性質と比較した。

    クモの糸は強く、用途によっては非常に有用だが、いかんせん量がとれない。蚕はたくさんの糸を産生することができるので、遺伝子操作でクモの糸と同じ材質の糸を作り出す蚕をつくればいいのではないか、という発想です。

    ガリヴァー旅行記は芥川龍之介の愛読書の一つだったようですが、『河童』だけでなく、『蜘蛛の糸』(青空文庫へのリンク)も、この旅行記から着想を得た、なんてことはさすがにないでしょうね。

    でも、クモの糸の丈夫さを、この小説以上に語っているものはないんじゃないですかね。だって、犍陀多かんだたの重さだけでなく、

    罪人たちは何百となく何千となく、まっ暗な血の池の底から、うようよと這い上って、細く光っている蜘蛛の糸を、一列になりながら、せっせとのぼって参ります。

    ・・・なんてことになっています。一時的(犍陀多が独占欲を出すまで)とはいえ、すごい人数の重量を支えていたのですから。

    話をガリヴァーに戻しまして・・・

    スウィフトはきっと、クモの糸を絹の代わりに使うなんてのは、実現しないことだと思って、数々のトンデモ研究の中にこれを入れたのでしょう。まさか300年後に彼が考えたのと同じような着想の研究が実用化されることになろうとは、夢にも思っていなかったでしょう。

    300年も経てば何が起こるか分かりません。ということは、もしかして、「人糞」のほうも、そのうち・・・

  • 宇野千代『老女マノン』と芥川龍之介『葱』

    私の感想文ルール: 一つ、本と関係ないことを書いてもよい

    私が小学生だった頃(40年以上前)、クラスに村田さんという女子がいて、彼女は読書感想文でよく賞をもらっていた。授業中にみんなの前で、賞を獲った感想文を読み上げたことがあったのだが、それを聞いた私は、「全然、本と関係のない話ばっかりじゃん」と思った。いや、訂正します。「全然、本と関係のなか話ばっかりばい」でした。佐賀出身なんで。

    小学2年生の頃、母が新しい職場(寮母)に就くことになった。職場に先輩のおばさんがいて、50代くらいだったろうか。非常に化粧が濃く、派手な身なりをしていた。私は何かの機会、おばさんや母や他の寮母さんがいる前で、そのおばさんの年齢を聞いて、「え?! お母さんよりも若いと思ってた」と言ったのを覚えている。

    母はそのとき30代だった。そのおばさんの方が若く見えるはずはない。だが、お世辞で言ったのではなく、本気でそう思っていた。「派手な格好をしている人は若い」というロジックだったのだろう。もしくは「年齢」という概念をよく理解していなかったのかもしれない。(小2で?)

    とにかく、母とおばさんの映像を今 思いうかべると、どう考えても母の方が若い。そのおばさんの皺だらけの顔は今でも覚えている。母は化粧っけのないほうだった。思えば、私はその時初めて、「化粧の濃いおばさん」という存在をリアルに見て、世の中のおばさんやおばあちゃんは濃い化粧などするわけがないという固定観念との矛盾で、頭が混乱していたのかもしれない。

    そう、村田さんの感想文はこんな感じだった。「いったい、何の話やねん」とつっこみたくなるような。いや、訂正します。「いったい、何の話ば しよーとやろうか」でした。

    つまり、『老女マノン』を読んで、このエピソードを思い出したということでした。共通点は「化粧の濃いおばさん」くらいですが。

    『老女マノン』は、小説として面白い構造になっています。

    主人公の「私」は、「まだ三十二にもなっていない」女性です。長期滞在していた「伊豆の山間にある或る小さな温泉場」で「小母おばさん」を見かけます。

    最初に見かけたときは

    そのほっそりした腰つきと、吾妻下駄をつっかけにした素足の白粉おしろい でもいたような仄白ほのじろさとが遠くまで眼に続く。あれはきっと、昨日東京から来たという長唄の師匠ででもあるのかも知れない、私はそう思ったのであった。

    と、どちらかというとポジティブな描写です。

    しかし、後日、すれ違いさまにもっと近くで見かけたとき、「私の眼からはたちまちにあの後姿の色っぽい水々しさが消えてしま」い、

    年齢は五十を越えていようかと思われるその醜くとしとった濃い脂粉の顔の中に、熟んだ桑苺の実のような口紅の真赤まっかさが、それはあまりに似合わしくないというよりも、見る人の心を寒くさせる。

    と、かなり辛辣な表現に変化しています。桑苺というのは桑の実のことで、未熟なときは赤くてきれいなのですが、熟れると黒くなって、見た目はいまいちになります。この、色の変化を小母さんと重ね合わせたのかとも思いましたが、「熟んだ桑苺の実のような口紅の真赤さ」という表現とは、ちょっと矛盾しますね。

    「私」は、なぜか、この小母さんは自分の姿であるという感覚にとらわれ始めます。将来こんな感じになるんだろうな、という微かなものではなく、もっと強い一体感のようなものです。

    いまや私は二人の過去がまるで一つのもののように似通っていることを、迷信のように信じ始めた。そうなのだ。だから私はその小母さんの話を、まるで私自身のことででもあるかのように私の言葉で書いて見る。

    そして、小母さんから聞いた話は、語り手が小母さんにスイッチした状態で展開します。

    その語りの中で、自分(小母さん)をモデルした小説がある作家によって書かれていて、それは、デートの途中に女性が八百屋の店先で安いネギを見つけ買う、それを見た男性が興ざめする、みたいな話なんですね。

    この、ネギを買った話を小説のネタにされたという部分が、事実に基づいていて、宇野千代が今東光こんとうこう(小説家)と歩いているときの出来事を芥川龍之介が聞き、小説にしたという話を小母さんの話の中に入れ込んでいるんですね。アンサーソングならぬアンサーノベルでしょうか。

    その小説は『葱』という作品で、もしかしたら全集などには入っているのかもしれませんが、ちょっと探した感じだと、単行本や文庫本には収録されていなさそうです。でも、青空文庫(芥川龍之介『葱』)で読むことができます。

    耳にした、人の恥ずかしいエピソードをネタに小説を書く作家、小説に書かれたことを、ネタとして小説に盛り込む作家。実体験と創作がない交ぜになっている、当時の作家像が垣間見られる、二作品でした。

  • ガリヴァー旅行記(リリパット国渡航記)と教義の対立

    『ガリヴァー旅行記』(ジョナサン・スウィフト著)のごく一部、リリパット国渡航記だけの感想文です。

    子供の頃に読んだガリバー旅行記(昔は「ヴァー」なんてタイトルではなかった)といえば、小人国にたどりついた巨大なガリバーが地面に縛り付けられた挿絵が思い浮かびます。髪の毛が細い束にされて、それぞれが杭につながれた絵を見て、「さすが小人、仕事が細かい」と思った記憶があります。

    子供向けのガリバーの本といえば、小人国(リリパット国)だけか、小人国と巨人国(ブロブディンナグ国)という構成だったように記憶しています。滞在した国の人間がすごく小さかったり、すごく大きかったりして、そこから生まれるエピソードというのは子供にもキャッチーですよね。「悲報! 宮殿放尿消火事件」とかね。(注:原作とは異なります)

    ガリバー旅行記の原作が子供向けのものではなく、むしろ大人でも理解が難しい風刺に満ちたものであることは、有名ですよね。どこかで聞いたことがあるでしょう? えっ、ない? じゃあ、「クルマ買い取り No.1」というのは? それはある、と。はい、今回はその話ではありません。

    リリパット国はブレフスキュ国(それぞれイギリスとフランスに対応)と戦争状態なのですが、戦争の原因の一つに「教義」があります。

    この皇帝も、ブレフスキュ帝国の全土を併呑して属領にし、総督を派して統治する、卵を大きな方の端で割るといって亡命した連中を抹殺する、全人民が卵を小さな方の端で割ることを強制する、――こうすることによって自分は全世界の唯一の帝王として安泰を誇る、ということ以外には何も眼中にはないらしかったのだ。

    なんで卵の話が? と思われるかもしれませんが、卵をどちらの側から割るのかというのが、2つの小人国の間での「教義」の対立なんですね。カトリックとプロテスタントの教義争いを、あえてこのようなどうでもいい卵の話と対比しています。

    大きな方の端で割る人をビッグエンディアン、小さな方の端で割る人をリトルエンディアンというのですが、これがコンピューターで複数バイトを扱うときの並びの規則(ハードウェアのアーキテクチャによって異なる。どちらが良いというタイプのものでもない)の語源になっていたりもします。

    ガリバー旅行記はいろいろなものの元ネタになっていますよね。人間のような野蛮な動物のヤフーも、あのYahoo!の由来(の一つ)みたいです。ラピュタも出てくるしね。

    芥川龍之介の『河童』のモチーフになっている話も有名ですよね。この話だと『フウイヌム国渡航記』のほうが語られることが多いと思いますが、『リリパット国渡航記』のほうにも、その片鱗があります。

    そんなわけで、子供が自分を生んでくれた父親や育ててくれた母親に対して、何も恩義を感じなければならぬいわれはない。人生はただでさえ悲しいことで一杯なのだ、生まれてくることなどそれ自体何も有難いことではないし、(略)

    なので、子供の教育に関して国がしっかり管理する、みたいなリリパット国の制度の話につながります。

    芥川の『河童』だと(青空文庫より)

    その代りに人間から見れば、実際又河童のお産位、可笑しいものはありません。現に僕は暫くたつてから、バツグの細君のお産をする所をバツグの小屋へ見物に行きました。
    (略)
    けれどもお産をするとなると、父親は電話でもかけるやうに母親の生殖器に口をつけ、「お前はこの世界へ生れて来るかどうか、よく考へた上で返事をしろ。」と大きな声で尋ねるのです。

    で、中から子供が答えます。

    「僕は生れたくはありません。第一僕のお父さんの遺伝は精神病だけでも大へんです。その上僕は河童的存在を悪いと信じてゐますから。」

    親の都合で生まれてくること、生まれたところで人生は困難だらけ、のように悲観的な捉え方をするあたりに共通点があります。

    第一篇のリリパット国渡航記、第二篇のブロブディンナグ国渡航記に関していうと、こんなに小さい、こんなに大きいみたいな話が(ちょっと飽きるくらい)いろいろでてきて、そこばかり目が行きがちですが、実は、ちょっとした制度、政治の仕組、国民の信条などにスウィフトの考え方が表れているような気がします。そういう観点で読んでみると、子供の頃に読んだのとは違う発見があるのではないかと思います。

    ちなみに、リリパット国の政治の世界では、出世するために、綱渡り(比喩ではなく)をしたり、王様が動かす棒を飛び越えたり、くぐり抜けたりする登用試験があるのですが、これは何を比喩しているんでしょうねえ。


    2026年4月9日追記
    小人国の次は巨人国(ブロブディンナグ国)に向かいます。
    ガリヴァー旅行記(巨人国)と偏見の構造