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勝手に読書感想文。漫画も映画も含みます

タグ: SF

  • 短編映画『モーメント』(2019年 カナダ)

    ヒーローものとヒューマンドラマを合わせたような感じでしょうか。架空の物理法則の制限の中で、解決策を見つけ出そうとするあたりSFっぽくもあります。

    ヒーローは黒人の兄妹。活動は超能力(?)を使って遠隔で行われ、リビングのテレビの前で二人並んで座った状態で行われます。はたから見るとぼーっとしているように見えます。活動するときのコスチュームもアイマスクのようなものをつけるだけ。(そして、たぶん不要)

    主役の女性のピンチに、この二人のヒーローが現れ、時間を止めて助けようとします(実際は、時間が止まっているのではなく、思考が高速化し、時間が止まっているように見えるだけ、みたいな設定)。

    幽体離脱みたいに抜け出して、思考&コミュニケーションができますが、物理的に影響を与えることはできません。実世界とは切り離されていますので、時間が止まっている(ように見える)ときに、逃げたり、悪者を殴ったり、何か物を準備したりもできません。

    できるのは、「作戦を立てる」ことだけです。この制約が実にうまく機能しています。

    時間が止まっている状態で、あたりを移動することもできるので、ああやって、こうやって、とプランを練ることはできますが、再び時間が動き出した時には、「頭の中の作戦」以外には、何ら状況が好転していないというのが面白いです。

    このシステム的な面白さに加え、主役の女性の生い立ち、家族との関係、クソ彼氏などの要素も絡めたドラマ要素も詰め込まれています。

    これでなんと、上映時間 22分。短編映画はいいですね。サブスクでも見られるみたいですが、倹約家のあなたは(私もですが)、BS12の『土曜しょ~と劇場』を録画予約しておけばOKです。再放送されるかもしれません。されないかもしれません。その場合は、別の短編映画をお楽しみください。

  • 小田扉『ぐるぐるゴロー』の世界

    ひと月くらい前に大人買いした小田扉作品を少しずつ読んで楽しんでいます。大人買いと言っても単行本を3冊買っただけですが。これくらいの冊数を買うのは何とと呼べばいいでしょうか。とりあえず、「中二買い」にしておきます。

    漫画は一気に読めるけど、そうするのはなんだかもったいない。今回読んだのは『ぐるぐるゴロー』です。

    1とか2とか数字がついていないということは、1巻で完結ということでしょうか。巻末の初出一覧を見ると、「webアクション」と書いてある。紙の雑誌ではなく、オンラインで公開されて、単行本になるときに初めて紙になるということでしょうか。そんな時代になっているのか。漫画雑誌を買わなくなって久しく、またオンラインで漫画を読むという感覚もピンとこないですが、私のような紙ファンがいるから単行本は今でも発売されるのでしょうか。

    簡単に言うと短編集です。一話完結で、基本的にシチュエーションもキャラクターも違う独立した話が11話入っていました。

    第1話『ゴルゴン地蔵』では、皆さんもご存じのあの銅像、時に着衣で時に半裸で、そして、時に全裸でサックスを吹いているあの男の謎が判明します。いや、判明はしません。

    第3話は表題作の『ぐるぐるゴロー』。小田扉先生が得意とする(?)動物目線モノです。でも、今回はちょっと違っていて、人の目線を通した犬の目線という観点です。わかる?

    私が一番好きだったのは、第5話『飛べ!八つ裂き光輪!』です。人相が悪く、挙動が不審なため、冤罪をかけられ死刑になる電気屋さんの話。天井から現れ、床へ抜けて去っていくだけの神様とか、絞首台から地獄への落下シーンなど描写も凝っています。ラストのおばあさんからの「がんばったねえ」の言葉で、すべてが報われます。

    それぞれ独立した話だと書きましたが、第8話~第11話の4話についてはゆるく関連していて、一つのワールドを作っていました。

    第8話『見聞録』では、この世とは違うもう一つの世界が出てきます。この二つの世界はほとんど関係がなさそうに見えて、実は密接な対応があるという不思議なもの。

    第9話の『成り上がれ!』は、「まるで未来を見てきたかのように」アイデアを思いつく男(品方しなかた)が億万長者になる話。

    第10話『岩田の話』は、虚構の箱庭で育てられた男(岩田)の復讐の話。この箱庭を作りだしたのが、第9話の品方だったりします。

    第11話『異人クエスト』では、現実世界と、夢の世界と、ゲームの世界がクロスオーバーします。これらの関係に第8話の異世界との類似性があります。そして、「んー たぶん 40才くらい」になった岩田が登場します。

    『岩田の話』は、『トゥルーマン・ショー』との類似点も感じられますが、岩田に関しては、箱庭からの脱出後の人生、そして、『異人クエスト』で岩田が「最後も嘘みたいな終わり方だ・・・」とつぶやくことになる終焉まで描かれています。

    奇抜な設定の中に、ギャグを散りばめつつも、考えさせられるような、感動するようなストーリーを構成する、小田扉ワールド全開の短編集でした。

  • 『アルジャーノンに花束を』はSFだったんですね

    アルジャーノンに花束を』(ダニエル・キイス著)を読んだのはたぶん二回目です。家の本棚にずいぶん前からありました。かなり古い文庫本です。帯には「待望のテレビドラマ化」と書いてあります。2015年の山下智久主演の方じゃないですよ。2002年のユースケ・サンタマリア主演の方です。遠矢エリナ先生役(原作のアリス・キニアン先生に対応)は菅野美穂です。

    自分は帯はすぐに捨てちゃうのですが、こういうのを懐かしむためにもとっておいてもいいですね。ちなみにこの本は妻が買ったものなので、帯が残っていました。

    読んだのはドラマ化されていた当時(20年以上前)だと思います。なので、正直なところ読んだのかどうかも覚えていません。ただ、覚えているのは、治療によって手に入れた知性を、結局は失ってしまう悲しさ、みたいなイメージでした。でも、違いました。もちろんその要素もあるのですが、むしろ逆に賢くなってしまうことで失ってしまうもの悲しさの方に、より焦点が当てられていたように思います。

    そのことは、冒頭につけられていた「日本語版文庫への序文」という7ページほどの文章にも表現されていました。著者のダニエル・キイス氏が書き留めていたアイデアには、こんなことが書いてありました。

    「ぼくの教養は、ぼくとぼくの愛するひとたち――ぼくの両親――のあいだにくさびをうちこむ」

    主人公のチャーリィ・ゴードンは知能は低いものの穏やかな性格で、自分の周りにはやさしい人達や友達やがいて、自分のことを好きなのだと信じています。それはある部分は正しく、ある部分は正しくなくて、職場のパン屋には意地悪をする人がいたり、チャーリィを酒場に誘うある同僚も、チャーリィと仲良くしたいわけではなく、単に馬鹿なことをさせて笑いものにするのが目的だったりします。ただ、真面目に仕事をするチャーリィを好ましく思う同僚も多く、パン屋での仕事はそれなりに回っている状態でした。

    前述の性質たちの悪い同僚から守ってくれるようなベテランの店員ギンピイというのもいるのですが、知能の高くなったチャーリィはギンピイとの関係もぎくしゃくします。

    ギンピイは得意客へパンを売るときに、料金を安くする代わりにその差額をキックバックさせるという、ちょっとした不正をやっていました。そのことに気づいたチャーリィはやめさせようと忠告するのですが、そのことでギンピイの反感を買います。

    実際のところ、ギンピイだけでなく、ほとんどの従業員が賢くなりすぎたチャーリィを歓迎していなかっただけでなく、店主のドナーも、チャーリィと他の従業員の関係に苦慮しており、結局パン屋を追い出されることになります。守るべき弱い存在であったチャーリィが、そのような存在でなくなったことで、周りの態度が変化してしまいます。

    弱い存在を守るべきだというのは、ほとんどの人が同意できるところだと思います。でも、賢くて強い立場にある人に対してはどうすべきなのか。彼が説く正論が、自分にとって不都合な場合、徒党を組んで排斥するようなことが許されるのか。強いものが相手なら、そういうことをやってしまいがちなのでは、というあたりもちょっと考えさせられます。

    この文庫、SFに強い早川書房から出ているんですよね。1枚目のページの裏の、

    日本語版翻訳権独占
     早 川 書 房

    というのを見ると、おー、SFみたいと思いました。

    そして、読んでみるとSFでした。さっき引用したアイデアメモの続きの部分ですが、

    そしてもう一行。
    「万が一人間の知能を増大させることができたとしたら、いったいどうなるだろう?」

    もし技術的に○○が可能だったら、どうなるだろう?みたいなのはSFチックな発想ですね。

    チャーリィはちょっと賢いというレベルではなく、様々な分野の学問に通じるようになり、言語もすぐに身に着けるので、論文も原著のまま読んだりもできます。専門家と話しても、相手が結局ある一分野のことにしか詳しくない(まあ、普通そうですよね)ということに失望します。話も合わないないし、言い負かされたくない研究者たちはチャーリィのことを腫れものにでも触るように扱いだします。

    チャーリィの体験は極端ですが、ほとんどの人が似たような体験をしているのでは、という気もします。

    子供の頃は賢い子だとちやほやされても、それこそ周りの大人よりも賢くなって、意見でも言い出したら、どういう反応をされるか。

    会社の新人なんかも、何も分からないで謙虚な頃は可愛がってもらえます。でも、実力をつけて、先輩の立場を脅かし始めると、逆に足引っ張られたりとか。見たことはないですけど、なんか漫画とかドラマでありそう。

    物を知るにつれて、すごいと思っていたものが大したものではなかったことに気づいて、自分の有能感を強く感じるようになったり、とか。でも、それもけっこう勘違いだったり、とか。

    自分がチャーリィだったらという読み方もできるし、自分がチャーリィの周りの人間だったらという読み方もできます。それから、後半、チャーリィが知能を失っていく過程は、年を取って認知能力が衰えてきたときの(というかすでに自覚症状がありますが)、予習になると思いました。きっとこういう感じを味わうんだろうな、とか。

    2026年3月26日追記
    なんだか共通するテーマを感じました。
    映画『心の旅』と好かれる親父

  • 『スローターハウス5』が、「この商品はAmazonアソシエイトプログラムから除外されています」???

    「スローターハウス5」の記事を書いたとき、ちょっと腑に落ちなかったこと。

    いつものように、書名からリンクするための、Amazonアソシエイトのリンクを生成しようとすると、

    この商品はAmazonアソシエイトプログラムから除外されています。

    と表示され、リンクが生成できません。

    初めて出会った現象なので調べてみると、一部の商品は除外対象として指定されているとのこと。

    ギフト券、期間限定品、不正利用が多い商品、などが指定されることが多いようです。あと、マーケットプレイスの出品者が対象外に設定している場合もあるようです。

    でも、スローターハウス5は書籍だし、amazonが直接販売している商品だし、上記には該当しそうもありません。

    なぜ、Amazonアソシエイトから「除外される商品」は増えているのか

    上記の記事を見てみると、アダルトとか、医薬品系とかちょっとグレーなものも対象だそうです。でも、ヴォネガットの小説がポルノにあたるとも思えません。ちょっとセクシャルな表現はありましたが、まあ普通の小説の範囲だと思います。

    スローターハウス5 – Wikipedia

    を見てみると、

    『スローターハウス5』は1969年の発売以来、反社会的、わいせつ、不適切な言葉遣いなどの理由によって保守的な価値観を持つ人々から悪書として批判され、全米図書館協会の調査では出版から30年以上経った1990年から2000年の10年のあいだでも、図書館から排除を求められた本の69位と上位に位置している。

    えー、そうなん? 別に、反社会的でも猥褻でもなかったけど・・・。Wikipediaには教材として排除するための訴訟などへの言及がありますが、1970年代ものがメインでかなり昔の話ではあります。

    アマゾンが除外しているという現在の状況と関係があるのでしょうか?

    この小説に関しては、宗教や性的な面より、戦争に対する諦観を強く感じました。子供がちょっと大きくなったくらいの若者や、ど素人まで戦場に送り込んでしまう国家の無様な状況みたいな。

    スローターハウス5の冒頭で、戦争についての小説を書くとヴォネガットが話したときの、戦友の奥さんの言葉ですが、

    「戦争中、あなたたちは赤んぼうだったじゃないの――二階にいるあの子らとおんなじような!」

    (略)

    「でも、そんなふうには書かないんでしょう」

    (略)

    「わたしにはわかるわ。二人が赤んぼうじゃなくて、まるで一人前の男だったみたいに書くのよ。映画化されたとき、あなたたちの役を、フランク・シナトラやジョン・ウェインやそんな男臭い、戦争好きな、海千山千のじいさんにやってもらえるように(略)」

    戦争の、かっこ悪くて、みじめで、無様な一面を広められては、戦争がやりにくくなってしまいそうです。まさかそんな理由ではないとは思いますが。

    ビリー・ピルグリムが戦場において、「赤んぼう」のようにまったくの無力さを晒していたことは、お伝えしておきます。

  • 『スローターハウス5』を再度読む

    私が最初に読んだカート・ヴォネガット・ジュニアの小説は『タイタンの妖女』でした。読んだきっかけは、「助けてくれー!」でおなじみの爆笑問題の太田さんが勧めていたから。

    他に読んだのは『バーンハウス心霊力についてのレポート』という短篇小説で、『20世紀アメリカ短篇選 下』という岩波文庫に収録されていました。この作品は『カート・ヴォネガット全短篇 2』という単行本にも『バーンハウス効果に関する報告書』というタイトルで収録されています。

    スローターハウス5』については、聞いたことはあるが、読んではいないという状態だったので、私が愛用している稲城市立図書館で借りようと思ったのですが、所蔵がない。仕方がないので(言い草!)、買いました。

    パラパラとめくりましたところ、読んだことがありました。いやー、忘れるもんですね。手元に所有もしていないし、図書館にもないので、読んでいなものだと思い込んでいたのですが、川崎市立図書館で借りて読んだことがありました。

    これは読んだぞ、と確信したのは、

    神よ願わくばわたしに
    変えることのできない物事を
    受けいれる落ち着きと
    変えることのできる物事を
    変える勇気と
    その違いを常に見分ける知恵とを
    さずけたまえ

    この箇所を見つけたとき。

    元ネタは二ーバーの祈りというものらしいのですが、われらがヒッキーこと宇多田ヒカルも、「Wait & See ~リスク~」で本歌取りみたいな歌詞を書いています。

    変えられないものを受け入れる力
    そして受け入れられないものを
    変える力をちょうだいよ

    ・・・というブログ記事を当時(2012年)自分で書いたにも関わらず、読んだことをすっかり忘れていたというていたらく。

    スローターハウス5を読む前の私と、読んだあとの私を、行き来したわけではなさそうです。

    ちなみにこの表紙、イラストレーターの和田誠さんによるものです。そうです、平野レミさんの旦那さんです。

    この小説、冒頭はヴォネガット自身の、戦争の体験をもとにした小説を書こうとしているという語りで始まります。反戦・厭戦的な重たい小説が始まるんだろうなーと思いきや、トーンはコメディです。そしてSFです。でも、戦争というものに対してのメッセージはひしひしと伝わってきます。

    主人公のビリー・ピルグリムは、ろくな訓練もうけず、ちゃんとした装備も与えられず、戦場に放り込まれます。ビリーは、従軍牧師助手という立場なので、

    敵を傷つけることもできなければ、友人を助ける力もない。事実、彼に友人はなかった。説教師の従者というだけであり、昇進やメダルの望みもなく武器も持たされず、あるのはただ慈愛に満ちたイエス様への恭順な信仰ばかり、もちろんたいていの兵士はそんなものをせせら笑った。

    彼が配属された連隊はすでに壊滅していて、上官である従軍牧師にも会えないまま、戦闘に巻き込まれて、でもビリーは戦うこともできない。敗残兵のグループに紛れ込むも、ほどなくドイツ軍に見つかって、捕虜となります。

    自軍にいるときでさえ、ままならなかったくらいですから、捕虜になってからはさらにいっそうひどい扱いを受けることになり、生きる気力を完全になくして、呆けたような状態になります。

    でも、結果的にビリーは生き延びます。生きる気力のある人が必ずしも生き残るわけではなく、偶然や気まぐれで、生き残ったり、死んだり。ちょっとした理不尽とも思える理由で人が死んでいきます。そのたびに、ヴォネガットは「そういうものだ。(So it goes.)」というフレーズを使います。このフレーズは作品中に何度も現れ、バイトを使って数えさせたところ(うそ)、100回以上使われてました(ほんと)。

    『スローターハウス5』はSFでもあります。空間の3次元に加えて、時間の1次元を加えた4次元空間という考え方はよくSFに出てきますよね。4次元空間に住む生物、時間も空間と同じように行き来できる生物みたいな話も聞いたことがあります。

    『スローターハウス5』でもそのアイデアを利用していますが、そこに幸福とか自由意志とかをどう考えるか、あるいは3次元空間になじんだ我々がその4次元空間を体験するとは、どういうことなのか、というところの表現に衝撃を受けました。

    ビリーは、子どもの頃、戦争中、その後の検眼医としての裕福な時期、そして、死の瞬間まで、あらゆる時間を行き来します。ビリーはそれをコントロールすることはできませんが、これを自在にコントロールできるとしたら、トラルファマドール星人と同じ感覚を味わうことになるのかもしれません。

    もしその感覚を味わえば、人間が感じる最期としての死とか、不幸な結末などに対して、どういう思想を持つにいたるのか。SFというスタイルを、戦争とか運命とかに対する考え方を展開するための場として活用した小説だと思いました。

    つらいストーリーをコメディとして語りつつ、SFで扱われてきた概念を哲学レベルの要素として絡め、戦争の現実を伝えつつ、新たな幸福論(不幸論)を展開する、そんな小説でした。