宇野千代の初期の作品といえば、岩波文庫になっている『老女マノン・脂粉の顔』を入手すれば、新聞の懸賞で一等を獲ったデビュー作である『脂粉の顔』が読めます。
上記で『脂粉の顔』は読んだので、じゃあその後くらいの時期に書かれた初期の代表作を読みたいなあと思い、ウィキペディアを見てみると、どうやら『幸福』という短篇集が出ているようです。じゃあ、それを読もうというつもりで借りたのが、なんと違う短篇集『幸福』であったというのがこちらの話でした。(過去記事:宇野千代の二つの『幸福』)
よくわからないと思いますので、整理しますと、
| 初期の『幸福』 | 後期の『幸福』 | |
| 初出の年 | 1924年 | 1970年 |
| 初出の雑誌 | 『我観』 大正13年2月号 | 『新潮』 昭和45年4月号 |
| 単行本の出版 | 1924年 金星堂 | 1972年 文藝春秋 |
| 全集への収録 | 1929年 改造社『新選宇野千代集』、 1977年 中央公論社『宇野千代全集』 | |
| 備考 | 第十回女流文学賞受賞 |
この2つの短編『幸福』は全く異なるものです。私が先に読んだ後期の『幸福』の方は、70歳過ぎの女性が語り手で、執筆当時の宇野千代さんの年齢と一致しています。11軒の家を建てた話とか、離婚している点など、実際の宇野さんのエピソードとの符合がみられます。
そして、今回やっと読んだのが初期の『幸福』のほうです(1977年 中央公論社『宇野千代全集』に収録)。すでに結婚している女性「仮名子」が主人公で、その仮名子が里帰りをする話です。年齢は明確に書かれていないのですが、「彼女が未だやっと十七であった頃の情人」というのが登場して、「この男と別れてから十年と言う長い歳月が過ぎ去って居た事を気附いたのであった」という場面があることから、27歳くらいであろうと推測されます。初出の1924年時点の宇野千代さんの年齢を計算すると、26、27歳なので、これまた一致しますね。設定からいって、いわゆる私小説ではなさそうですが、宇野さんは自身と同性別・同年代の人物を語り手にすることが多いみたいですね。
仮名子は気性が激しいことを想像させる女性です。言動というよりは心情の描写にあらわれています。会社の重役と結婚し、都会で裕福に暮らす彼女は、村の人たちからみれば「成功者」のような立場です。
夫を連れずに一人で帰京し、かつての恋人「田沢」が仕事帰りに通るであろう土手で、会って何の目的があるというわけでもないが、日がな一日待ち続ける、みたいな話で、これだけ聞くと、ちょっと淡い恋の話に思えなくもないですが、もっとドロドロ感があります。
田沢は手紙でそっけなく仮名子を振ったあと、勤め先の上司の娘と出世目的と思われるような結婚をしています。自分はそんなに軽い存在だったのか、というのを今でも問いただしたいという気持ちが仮名子にはあります。
そういう未練のようなものと裏腹に、しょせん田舎の公務員(専売局の官員)でうだつのあがらない生活をしているであろう田沢をあざ笑いたい、後悔させたいとい気持ちが見え隠れします。そのような心情に加え、容姿に関するコンプレックス(ここでは「劣等感」ではない)も絡んできます。
田沢の年上の妻が、彼女の耳の後に先の赤くなった、今にも化膿しそうなそれで居て決して小さくなる事のない、たん瘤を持って居ると言う話しは、仮名子を危く噴き出させるところであった。
「たん瘤」とは腫瘤や脂肪腫の類でしょうか。今だったら、病院でとってもらったりできるのでしょうが、おそらく当時は無理で、美醜の印象に大きな影響を与えていたでしょう。自分を振った男の妻のことを、なんだその程度か、みたいに考えたい気持ちは分かりますが、疾患による症状を「危く噴き出させるところ」などと表現するあたり、こじらせた未練のすさまじさがするどく描かれています。
他にも、田沢は美男子である、一方、仮名子の夫は「一面に薄痘痕のある赭黒い、柱時計のような顔」であるなど、複雑な感情を想起させる設定が揃っています。
もし会ったとして、何を言うのか、そもそも何でこんなことをしているのかなど逡巡しながら、土手で待つ仮名子でしたが、
仮名子は、最後に唯った一人の洋服を着た男が(この小さい村では小学校の先生か専売局の官員以外に洋服を着るものはなかったが、)幾らか猫背の儘に長い影を曳き乍らとぼとぼと帰って来るのを――然し、彼は決してあの男ではなかった。――見送るまで、彼女は彼女が其処で何を如何しようとして居るのかさえ忘れて、ぼんやりと立って居た。
私、ピンときました。これは伏線だなと。
それはさておき、田沢に会えなかった仮名子は、数日続けていた土手通いをやめます。そして、近くに住んでいる伯母を訪ねるために、乗り合い馬車に乗っているときに、なんと田沢と遭遇することになります。このあといったいどうなるのかが知りたいかたは、(たぶん入手は難しいので)図書館で借りて読んでみてください。









