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勝手に読書感想文。漫画も映画も含みます

タグ: 日本

  • 大正時代のカフェと『巷の雑音』(宇野千代)

    今回は『巷の雑音』です。『脂粉の顔』(過去記事)、『墓をあばく』(過去記事)に続く、宇野千代のたぶん三作目です。

    「たぶん」と書いたのは、宇野千代 – Wikipedia を見ても、ちょっと判然としないからでして。

    「来歴」の項目を見てみると、

    1921年に『時事新報』の懸賞短編小説に『脂粉の顔』が一等当選し、作家デビュー。

    と、一作目は分かりやすいですね。

    「文章がこんなに金になるのか」と驚き、「なんて儲かるんだ、これは書かなきゃいけない!」と執筆活動に専念。『墓を暴く』を中央公論に送ったが、一向に返事がなく、上京したところ、すでに掲載されていたことを知り、その場で原稿料をもらう。

    と、流れがあり、『墓を発く』が二作目っぽいです。ちなみに、引用は本文ママなのですが、『墓を暴く』になっていますね。ウィキペディアー(有志)の方、修正お願いします。

    初期の作品については、「来歴」にはそれ以上の記載はありません。「年譜」の項目には、1921年に『脂粉の顔』が懸賞一等、1922年に『墓を発く』が中央公論に掲載、1923年に短編集『脂粉の顔』が上梓されたことが書かれています。でも、これからだけでは、短編集の収録作品は分からないですね。

    そして、今 私が読んでいるのは、『老女マノン・脂粉の顔 他四篇』 (岩波文庫 緑 222-2)なんですが、嬉しいことに各作品の最後に日付が入っていて、これは脱稿の日付だそうです。書き出してみると、

    『脂粉の顔』   1920年12月
    『墓を発く』   1921年11月22日
    『巷の雑音』   1922年7月5日
    『三千代の嫁入』 1925年1月13日
    『ランプ明るく』 1925年2月26日
    『老女マノン』  1928年5月30日

    となっています。初期の作品は順番に並んでいそうということで、「宇野千代のたぶん三作目」とさせていただきました。(前置き終わり)

    主人公のおきぬは、東京に出てきて、念願のミシンを手に入れ、これで稼ぐぞーと考えていたのですが、ふとしたことで足を怪我して、ミシンが踏めなくなり、ミシン屋にローンを支払えないと判断され、ミシンを取り上げられ、どうやって食べていこうと思っているところに、追い打ちで、田舎から学生の弟が姉を頼ってやってきて、にっちもさっちもいかなくなる、という流れです。

    そこで、カフェー(アクセントは後ろにおいてほしい)が出てきます。大正時代のカフェーは、スタバのような意識の高い場所ではなく、ちょっといかがわしさの漂うところでした。

    以下はお絹が働くことになったお店の描写です。

    カフェ、ローラは都下でも二流と下らない店であったから、夜、九時より遅くまでどあ、、を開いておく事を恥としていた。(それはただ、表看板であった。恥しくて掲げられない看板であった)

    今じゃあまり見ない「二流と下らない」みたいな使い方が難しいですが、つまりは、うちは一流の上品な店だから夜中の営業なんかしないよ、ということでしょうか。ただ、それは表向きの話で、「恥しくて掲げられない看板」のような裏の側面もあった、ということだと解釈しました。

    実情は、

    お蔭で、女給仕たちは比較的早く、家へ帰れるのであった。然し、彼女等には、それから後に、薄暗い世界があった。思い思いの方角へ出掛けて行った。

    お絹自身は、そんな夜の世界には染まらずに、つっぱってやっていこうとしますが、他の女給たちのいやがらせ、品のない客から受けるストレス、多忙な業務(給仕だけでなく、閉店時間帯の片づけや掃除も彼女たちの仕事でした)、睡眠不足などで、徐々に精神的に追い詰められていきます。

    短編集を『脂粉の顔』『墓を発く』『巷の雑音』と読んできましたが、全部重たいです。もたれています。次こそはデザートのような作品を、と期待しながら読み進めていくのでした。

  • 『幸せな家族 そしてその頃はやった唄』の単行本(偕成社)

    私の感想文ルール: 一つ、装丁について書いてもよい

    『幸せな家族』については、BSテレ東の『あの本、読みました?』で知りました。そして、その本、読みました。(実在する『その頃はやった唄』

    『あの本、読みました?』では、以下のように紹介されていて(番組サイトへのリンク)、

    ▼36年前に出版された『幸せな家族 そしてその頃はやった唄』も復刊後、再ブレイク! その意外な理由とは?

    私は、その復刊した文庫版を読んだんですね。文庫版はすっかり大人な感じの、電車で読んでも恥ずかしくないデザインの表紙になっていました。ターゲット層は今の若者ではなく、元ジュブナイルなんだと思います。その頃、読んで戦慄を受けた世代が、懐かしんで読むことを想定した装丁になっているんでしょう。

    元ジュブが現ジュブだった頃に、どんな感じの表紙で、裏表紙のあらすじやあおり、、、文には何が書かれていたのかが気になります。アマゾンでは単行本はヒットしません。これが絶版ってやつなんですね。

    でも、自治体の図書館で探したらありました。絶版本は図書館に限りますな。

    表紙はこんな感じ。

    厚みはこんな感じ。

    主人公(語り手)の省一と、物語で特に重要な役割を果たすお姉さんの一美でしょうか。お兄さんの行一ってことはないですよね。そういえば、みんな「一」がつきますね。お父さんの勇一郎からとったのでしょうか。まあ、みんな死んじゃうんですけど。

    表紙は特に子供向けという感じはしないですね。ただ、表紙の裏には

    本格派ほんかくは長編ちょうへんミステリー、ついに登場とうじょう

    と、ルビ付きで書かれているあたりが、ジュブチックです。

    あと、挿絵は文庫版と同じです。挿絵っていいですね。好きです。変に大人ぶらないで、挿絵ばんばん入れてほしいです。

    意外だったのは、楽譜も載ってた点でした。『百年の孤独』の家系図みたいに文庫化にあたって足したものだと思ってました。青少年たちはリコーダーで吹いたりしたのかもしれません。

    偕成社かいせいしゃは主に児童書を出版している会社で、『幸せな家族』も「K.ノベルズ」というシリーズの1つのようです。巻末にK.ノベルズの広告ページがあり、そのキャッチコピーがいかしてました。

    「マンガが一番おもしろい」と言っている吉田君に読ませたい

    誰でしょうか? 吉田といえば、茂か拓郎か照美か牛の吉田君などが思い浮かびますが、どれでもなさそうです。

  • 宇野千代の二作目『墓を発く』

    物騒なタイトルです。『墓をあばく』と読みます。

    主人公は「若い女教員の吉子」、前半は主に学校に関連する出来事がメインで、後半は吉子の家族や出自が(そして誰の墓なのかなどが)明らかになっていく展開です。

    幸せな人の充実した人生を描く爽やかな読後感の小説とか、憎めないような良い人ばかりが出てくる落語とかいろいろありますが、その真逆を行くような小説ですね。

    登場人物は、虐げられている人、そうでなければそれを虐げている側のこずるい、、、、人のどちらかという感じ。

    学校の入り口が騒がしいので吉子が行ってみると「唖の久太」が学校に来るのを止めようとしている父親がいます。久太は話すことができないが、授業の邪魔になるようなこともなく、本人も朝一番に登校するほどの学校好きです。でも、勉強はできなくて「三年間を通して同一学年にいた」という状況。

    吉子は、久太を止めようとしている父親の行動をいぶかって、

    如何どうして河井さんを学校へ寄越さないようになさるんですか?」

    と聞くと、父親は、

    「校長先生がそうお話しなされまいた。(略)今度の試験は大切な場合じゃから、久太が粗相な事でも為出しでかしよると大事になるで、試験が済むまでは学校へ出さんように、とくれぐれもおっしゃられまいた。(略)」

    「試験」というのは、新任の県知事が言い出した、学校を調査するための県下一斉の試験のことで、

    この種の挙行は、新任知事の或る野心、虚栄心、衒気げんきを満足させるに十分であった。が、彼にとっては単なる思付きであり、殆ど気紛れに近いものであったとしても、各小学校長にとっては致命傷を与えるものになるかも知れないのであった。

    というものです。「衒気」とは自分の学識を見せびらかす、てらうような気持ちのことです。だから「衒」という字を使うんですね。難しい言葉を使うなあ。

    トップの思い付きが現場に負担をかける。プレッシャーを感じた現場の長が末端へその負担を伝達していく。増幅させながら。よく見る構造です。

    校長は試験の結果を少しでも良くするために、本来のカリキュラムを変更して、授業内容は、

    読方と算術だけが数える事のできないくらい繰り返された。

    という状況です。テストの対象になりそうな、国語と算数ばっかりの授業を行ったというわけです。でも、そのヤマも外れるんですけどね・・・

    試験対策ばかりの授業で児童たちを疲弊させるだけでは飽き足らず、校長は自ら出向いて、成績の悪い久太に登校させないよう裏工作をしていた。このような人間が出世して校長になるような制度や組織。吉子だけでなく、読者もなんだか悶々としてしまいます。

    この手の理不尽が、他にもいろいろ出てきます。吉子の伯母は文房具店を営んでいるんですが、文房具の売れ行きは教師の一言でがらりと変わります。それに付け込んだ教師が、吉子の叔母に酒代をたかるという構造。

    貧しい児童の家の畑が軍隊の演習でめちゃくちゃにされます。国から補償金が支払われるのですが、それを地主が受け取り、農業を営んでいるその家族には一銭も入りません。搾取する地主、虐げられる小作人。

    前半はそんな社会構造の理不尽に対する吉子の憤りが描かれています。後半に入ると趣きが変わり、吉子の家族に焦点が移ります。不幸に見舞われる子供たち(吉子と異父姉弟)、そしてその元凶となった吉子の母親の行動がどういうものだったのかが、明らかになっていくという展開。

    この『墓を発く』にはちょっと面白いエピソードがあって、『脂粉の顔』のデビュー作に続く二作目にあたる作品なのですが、ウィキペディアによると、

    『墓を暴く』を中央公論に送ったが、一向に返事がなく、上京したところ、すでに掲載されていたことを知り、その場で原稿料をもらう。あまりの大金であったため、その足で実家に戻り、母親に原稿料の一部を渡す。

    掲載するという連絡もせず、本人が出版社に来た時に原稿料(しかも大金)を渡したという、本当だとしたらかなり杜撰な作家・原稿料マネジメントという印象です。

    岩波文庫『老女マノン・脂粉の顔』の巻末の「《解説》宇野千代の生と文学」に該当するエピソードが書かれていましたが、微妙にニュアンスが違います。

    引用箇所に登場する「樗陰」とは、中央公論の編集長を務めていた滝田たきた樗陰ちょいんです。

    千代はその投稿の採否を知りたくて、1922(大正11)年春に上京、樗陰の手から刷り上がったばかりの『中央公論』五月号と多額の原稿料を受け取った。

    ウィキペディアの内容を読んだとき、すでに出版されていたかのように(勝手に)思い浮かべたのですが、掲載することが決まり、印刷が終わって(つまり掲載された)、これから販売というタイミングだったのでしょうか。だとしたら、ありえないエピソードでもなさそうです。とはいえ、掲載が決定したら印刷前に連絡してもよさそうなもんですが。

    とにかく、エピソードとしては面白げなので、朝ドラのストーリーに盛り込まれることに一票です。

    千代が『脂粉の顔』でデビュー後、執筆活動に専念、書き上げた二作目を出版社に送るも、反応がなくやきもき。しびれを切らして上京、出版社で掲載を知り、大金の原稿料も手にする。しかも、そこで出会うのが、その後『中央公論』に立て続けに千代の作品を掲載する編集長の滝田樗陰であるところなんか、ドラマとして映えそうところです。

    連続テレビ小説『ブラッサム』が始まるのいつでしたっけ? 半年後かー。見逃さないようにしなきゃ。

  • 宇野千代のデビュー作『脂粉の顔』と当時のモラル

    数日前(2026年3月30日)に新しい朝ドラの『風、薫る』が始まりました。『明治のナイチンゲール 大関和物語』(田中ひかる著)を原案としているそうで、その本を読んでみようかとも思いましたが、もう始まってしまったこのタイミングではちょっと遅い。先取り先取りでやっていきたいということで、『風、薫る』の次である2026年度後期『ブラッサム』のモデルである作家 宇野千代の作品を読むことにしました。ドラマが始まる頃には、こんな感想文を書いたこともすっかり忘れているかもしれません。

    読んだのは宇野千代のデビュー作『脂粉の顔』(1920年)です。いきなりタイトルに知らない単語が入っています。脱脂粉、、乳の略かもと思ったあなた、全然ちがいます。どうやら、化粧、おしろいのことみたいです。

    主人公のおすみは「カフェの給仕女」であると最初の行に書いてあります。ここで、喫茶店のようなカフェを想像して読み進めてしまうと、イメージが食い違ってきてしまいます。当時の「カフェ」については、ウィキペディアを読むと雰囲気が分かると思います。

    カフェー (風俗営業) – Wikipedia

    カフェーは、日本で20世紀前半に流行した飲食店・風俗営業の一業態。古くは特殊喫茶、社交喫茶という言い方もあった。

    女給という職業は単なるホールスタッフではなく、「接客業」であったということです。ただ、Wikipediaによれば、この接客サービスが露骨になっていったのはもう少し後の時期らしいです。ただ、カフェは喫茶店ではなく、お酒を飲む夜のお店であることは押さえておきたいところ。(そしてこんな喫茶があるから、そうではない普通の喫茶を「純喫茶」と言うんだ、という豆知識までつきます)

    なので、「瑞西スイス人のフバーから」、「突然流暢な日本語で」

    「一体貴女あなたは、一ヶ月に何程なにほどかかります?」

    なんて不躾ぶしつけな言葉が飛んできても、それほど不自然な流れではないことになります。

    これって、例えば大学を出たばかりの今の若者が読んでも分かるんですかね。つまり、一通り学校教育は受けてきていれば、この台詞を見て、この外国人の男性が何を尋ねようとしているのかピンとくるものなのでしょうかね? 学校で教わることはなさそうだとしても、今までに見たドラマとか映画とかで想像つくもんですかね。

    まあ、つまりこの台詞は、

    生活費がどれくらいかを聞いています。

    ・・・なんてことではなく、毎月の給金はいくら払えばいいですか? ということですね。さて、何に対する対価でしょうか? まあ、普通は妾になることへの報酬ですよね。昔は「女を囲う」なんて言葉がありました。常識の変化って怖いですね。

    金銭的に余裕のある男が、正妻がいるにも関わらず、別宅や離れを用意して、金銭を払うことを条件に、そこに別の女性を住まわせるということが、普通に許されていた時代があったんですね。

    近所の人から「あのエロじじい」とは言われるでしょうが、違法でもないし、世間から糾弾されるわけでもないという。そういう時代背景があっての、ハウ マッチ アー ユーであると。

    でも、ちょっと違うのはフバーはお澄を妾にしようというのではなかったところですね。ここがこの短編小説のポイントになるのだと思います。フバーの意図が、正直よく分からないのです。

    お澄はあまり深く考えなかったのか、

    (略)とにかく、まとまった金の六十円は有難い事に違いなかった。(略)さりとてこのままフバーの妾にせられるのでもなさそうだし、何しろ歴然はっきりした条件のない曖昧な境遇に置かれるというだけで遊んで暮らせるのは実にい、と思った。

    くらいの感じで、フバーからの呼び出しに応じます。それは速達で届いた手紙で伝えられた「午後から目黒の大競馬を見物しよう」というものでした。

    なんで目黒に競馬場なんかあるんだ?というかたはWikipediaを見てください。1907年から1933年の間は目黒に競馬場があり、その後、府中の東京競馬場に移転したそうです。

    (ちなみに7ページほどの短い作品で、このあと、どんどんネタバレしていくので、読むつもりのある人は、こんなブログ記事など読む前に、まず作品をお読みください)

    お澄は、フバーと競馬を見に行き、ちょっと嫌な目に合います。まあ、このへんが純文学作品という感じで、すごく劇的なことが起こるわけではないんですよね。大したことではないよう、でも、なんかいやーな気分になるような、考えようによっては、ものすごいトラウマにもなるような、そんな体験なんですよね。

    待ち合わせ場所に行ってみると、フバー以外に「見知らぬ娘」がいるんです。お澄はこの「美しい連れ」に対して、服装や容姿の点で引け目を感じてしまいます。しかもこの3人での行動は終始、その娘のペースで進み、フバーがどういうつもりでお澄を呼んだのかもはっきりしないだけでなく、フバーは途中からお澄を避けるような態度さえ取り始めます。

    翌日、お澄はフバーに電話をかけ、お礼などを伝えるも、気乗りのしない反応をされ、その日の夕方、さっそくフバーから絶交状が届く。

    1日競馬見物に付き合っただけで六十円(大卒の初任給くらいだそうで)を手に入れたものの、

    あるむしゃくしゃしたかすが胸の中へたまって何時いつまでも取れなかった。

    という終わり方をします。

    お澄や前述の娘の年齢については書かれておらず、容姿についてもそれほど詳しくは触れられていません。その娘についてはほとんど情報がありません。でも、お澄よりワンランク上 感があるんですよね。金銭的にも裕福だったり、高い教育を受けていたり、ちやほやと扱われることに慣れているような、そんな感じ。「娘」と表現しているあたりを見ても、年齢もお澄より若いのでしょう。

    お澄はカフェではそれなりの人気があり(書いてないけどそんな気がする)、フバーにも見初められ(たと思い)、六十円という好条件を提示され、いったんは気分が高揚したはずです。競馬場では、その娘からも、フバーからも軽んじられ、いてもいなくても一緒のような態度を取られる。一気に奈落に落とされるような感じでしょうか。しかも、そもそも男性が金銭で女性を自由にするという理不尽な社会情勢もあれば、六十円という微妙な金額の金が、より侮辱された感を醸しだすような気もします。そんな、はした金でいいように扱われる自分、みたいな。

    20代前半の宇野千代が、この『脂粉の顔』を書きあげ、時事新報(日刊の新聞)の懸賞短編小説に一等で当選し、彼女は作家としてデビューする、というスタートになるわけです。

    そして、これが、朝の連続テレビ小説『ブラッサム』の第一話のあらすじです。 ・・・なんてことはありませんが。


    2026年4月12日追記
    新人作家の登竜門と言われていた『中央公論』に掲載されることなった二作目です。その後、立て続けに六作が中央公論に掲載されることになります。
    宇野千代の二作目『墓を発く』

  • 実在する『その頃はやった唄』

    読んだのは『幸せな家族 – そしてその頃はやった唄』(鈴木悦夫 著)です。読んでみて、「何だこれは?」と思うわけです。児童文学のカテゴリに入れられているようですが、いわゆる児童文学っぽさがないんですよね。児童文学といっても幅があると思いますが、ティーンエイジャーくらいが想定読者なのでしょうか。裏表紙の言葉を借りれば「ジュヴナイル・ミステリ」、図書館や書店などの分類でいうと「YA」(ヤングアダルト)という分類になると思います。

    はたから見ると幸せそうに見える家族が次々に死んでいき、小学6年生の次男のみが残ります。これはネタバレでもなんでもなく、プロローグの一番最初にこう書かれています。

    とうとうぼくはひとりになった。

    この一年のあいだに、ぼくの家族はぽつりぽつりと死んで、最後に、ぼくひとりがのこった。

    これが、青少年向け?という始まり方です。(終わり方はもっとすごいけど)

    私自身はいい歳ですが、最近いくつかYA向けの小説を読みました。読んだのは『杉森くんを殺すには』(長谷川まりる 著)、『THE MANZAI』(あさのあつこ著)、『カラフル』(森絵都 著)など。

    ある程度平易に書かれているという点もありますが、これらには子供や若者へのメッセージ性がありました。「いろいろあるけど、がんばれよ」みたいな(←雑な大人のまとめかた)。青春のきらきらした感じ、ちょっとしたことに悩みすぎる感じ、若い時に読めば共感できるし、年を取ってから読めばノスタルジックにも楽しめる。あと、はやまるなよ、ってのも大事なメッセージだったり。差別とか偏見がテーマとして盛り込まれていることもありますね。

    で、『幸せな家族』ですよ。「ジュヴナイル」って、ちょっと青春とか初々しさを感じる単語なんですけど、そんなのないですよ。みんな死ぬし。道徳的なもんでもない。

    普通に大人が読んでも楽しめるミステリ(サイコホラー?)だと思います。難しすぎる言葉や、凝りすぎたトリックはないので、子供でも読めるといえば読めるけど、「子供でも読める」「子供でも楽しめる」ようにお話を作りましたっていうのとは、なんか違う。

    もしかしたら、「子供だからこそ楽しめる」「子供にしか楽しめない」という要素もあるのではないかと。小6の主人公の思考はストレートで単純で視野が狭いです。大人から見れば、「子供だなあ」だけど、子供や若者からすれば、それがリアルであると。そう考えると、YA作品は大人向け作品の簡易版などではなく、まさにその層にしか分からない感覚に突き刺さることを目標にしたものなのだろうかと思います。

    じゃあ、大人がそれを楽しめないかというと、また違った面白さが出てくる。何考えているか分からない子供の怖さや不気味さでしょうか。何に価値を置き、何を好み・嫌い、何を恐れるのか、その基準が大人とずれている。楳図かずおの『漂流教室』なんかも、そこでぐっとつかまれるでしょ。子供から見た大人の描かれ方。常識でものを捉えようとしたり、卑怯なことを考えたり、現実に耐えられなくて発狂したり。

    『幸せな家族』に話を戻しますと、本編以外の部分もけっこう興味深く読めました。

    「その頃はやった唄」は実在するというのは驚きでした。小説のための架空の歌ではありません。あとがきに、詩人の山本太郎氏の詩集『覇王紀』に収められていること、これに俳優の西村正平氏の発案で、作曲家の越部信義氏が曲をつけた、ということが書かれていました。文庫版には楽譜も載っています。

    あと、『幸せな家族』は『鬼ヶ島通信』という同人誌に六年間にわたって連載されていたものである、とか。

    著者の鈴木悦夫氏は、「祭りの日」という作品で第二回日本児童文学者協会新人賞を受賞したが、この作品が収録された単行本『もうちょっとで大人』が出版されたのは、受賞から17年も経ったあとだった、とか。「売れない」と出版社に判断されてしまったのでしょうか。事情は分かりませんが。


    2026年4月26日追記
    『もうちょっとで大人』も読みました。
    鈴木悦夫の短編集『もうちょっとで大人』(『祭りの日』収録)


    鈴木悦夫氏の人となりや、作品に関するエピソードは、文庫版に収録されている、著者による「あとがき」、「鈴木悦夫が遺したものとは?――追悼・鈴木悦夫」(野上暁)、「解説」(松井和翠)をご参照ください。けっこう尖ったかただったみたいで・・・

    そうだ、思い出した。テレビCMのディレクターや撮影班が事件後もけっこう長く、この家庭に残ることになるんです。殺人なんかおきてCMが撮れなくなったんだったら、普通はすぐにいなくなりますよね。この家族を心配してとかなんとか、という理由は分かりますが、いかにもお話を作るための設定だなーとか思っていたけど、私はこのあたりが一番ゾッとしました。


    2026年4月16日追記
    オリジナル版(単行本)の表紙が見たくて、図書館で借りてきました。
    『幸せな家族 そしてその頃はやった唄』の単行本(偕成社)

  • テレビ番組は面白くない人たちが作っている

    『漫才過剰考察』(髙比良くるま著)は、予約がたくさん入ってて借りるのに半年くらいかかったので、記事を1つだけ(『漫才過剰考察』に『ザ・カセットテープ・ミュージック』を見る)では、なんだかもったいないので、再びだらだらと・・・

    本の後半に掲載されていた粗品さんとの対談のところ。霜降り明星がM-1で優勝して、テレビのレギュラーが増えた時期の話。テレビ番組の作り手に対して、粗品さんがとっていた態度についてのなかなか尖ったエピソード

    粗品 (略)おもんないと思ったら「おもんない」って言いまくってた。「こういう企画やろうと思ってるんです」って持ってこられるものに対して「なんやねん、これ」「キモいねん」って。日テレの番組で錦鯉さんが老人ホームに行ってネタするVTRがあって、でも老人たちがウケてないねん。そのウケてない様子をバーンとカット割ってテロップで「・・・」チーン、みたいなVで。

    くるま 日テレだなぁ(笑)。

    既視感・・・。すべっている場面や失敗している場面を切り取って、「チ~ン」みたいな鐘の効果音。いかにもな、ベタな編集。笑いで勝負している芸人がすべっている場面を強調するという失礼さ。そうやって犠牲を払ってまで作ったVTRの仕上がりが大して面白いものでもなかったとしたら・・・、ねえ?

    ちょっと言い過ぎとも思える粗品さんの発言も、芸人たちからしたら、「よくぞ、言ってくれた」なのかも。

    くるま それでいうと、僕、フジテレビで6年バイトしてて、粗品さんがテレビに出始めて感じた面白くなさにそこで気づいちゃったんだと思います。その時期にテレビの仕組み的なものを学んで「これは出てる人だけが面白いんだ」って理解しました。だからはっきり言って、つくってる人が面白くないというのは僕も思ってますよ。

    芸人二人でボロクソに言っています。でも、この発言を読んで、あらためてテレビを見ていると、確かにねー、という感じもします。これって表には出にくいんですよね。だって、つまらない台本を書いても、(お二人の話が正しいなら)演者が面白くしてしまうんですから。なので、面白い番組があったとして、構成作家の手柄なのか、演者の手柄なのかは分かりにくい。そして、つまらない番組があったら、それは誰のせいなのか?

    でも、これが分かりやすいケースもあります。めざましテレビを見ておりました。タレントがレポートしていることもありますが、局アナがレポートすることもありますよね。普通にやればいいのですが、やっぱり笑いの要素を入れたいのでしょうか、VTRの冒頭で、叫ばされたり、歌わされたり、変なことをさせられているのをよく見かけます。アナウンサーはたぶん、たぶんですが、台本の通りにやるんですよね、たぶんね。なので、台本通りがどんなものであるかが、ここで分かると。で、見ている方が恥ずかしくなるようなのが多い。やっている方も恥ずかしいかもしれません。でも、見ている方もなかなかですよ。これ朝の番組で、朝食食べたり、出かける準備とかしながら、てきとうに見ているから耐えられますが、じーっと見てたら、けっこう厳しいですよ。

    こういう台本を渡されて、そのままじゃ、すべるのが目に見えているから、芸人はうまく、面白くアレンジしてやっているんですかね。

    「チコちゃん」なんかも、大学の先生とかに変なことやらせて、ウケればいいですけど、しょせん素人ですから、変な空気になったりする。でも、大丈夫。スタジオの岡村さんがコメントとかで、さっと笑いに変えてくれるから。

    「ケンミンSHOW」なんかも、出たがりの素人を使って番組を成立させようとしてますが、演出のパターンもベタだし、前述の「チ~ン」的なものが盛りだくさんですね。真面目に見ちゃダメなんですよ。片手間に見てちょうどいいくらいで、真剣にみると疲れちゃいます。

    でも、それでいいんじゃないかと思います。というか、そういうバラエティ番組を見ている層のほとんどって、そんなに鋭い笑いなんか求めてなくて、どこかで見たような予定調和の笑いで十分で、なんだか楽しくワイワイやっていますよ感が出てれば満足なんですよね。

    つまり、地上波のゴールデンの番組に粗品は不要です!(私は今、粗品さんを絶賛しているということが、賢明な読者には伝わっていると思います)

    なんかの小説で、登場人物が構成作家で、会話している相手に「業界の人ですか、すごいですねー」みたいなこと言われるんだけど、「台本書いたところで、そんなの誰も見やしない」と、構成作家の悲哀みたいなものを語っていました。まあ、フィクションですけど。

    ところで、M-1グランプリの笑神籤えみくじって必要ですか? 直前に順番が決まる仕組みがほしいとしても、アスリートをゲストに呼んで、時間取って、引かせるのはいらないと思いますけどね。ああいうのは誰が決めているんでしょうか、プロデューサーでしょうか、ディレクターでしょうか、構成作家なんでしょうか。

  • 森絵都『カラフル』

    森絵都さんの『カラフル』読みました。森さんは児童文学の賞をたくさん受賞されているかたで、この『カラフル』もカテゴリ的には児童文学みたいです。

    「みたいです」と書いたのは、もう境目が分からないというか、文庫本版で読んだのですが、装丁も児童向けという感じはないし、挿絵があるわけでもないし、ルビが若干多めかなという程度。

    内容がほんわかしているかというと、そうでもない。母親の不倫、中学3年の同級生の女子の援助交際。主人公の「魂」が間借りする肉体は中3の男子の小林真君なのですが、彼は三日前に服薬自殺をはかり危篤状態。まもなく死んで魂が抜けたところに、主人公が入り込むという設定。

    最後の設定はちょっとファンタジーっぽいですが、それなりに重い要素が詰まっています。児童書でもこんなテーマを扱うんですね。でも、語り口は軽めな感じです。不倫や援交の生々しさはありません。

    あと、イヤミスみたいなことにはならないので、安心して読めます。読後の青少年を路頭に迷わせないという点は、児童文学の守るべき一線なのかもしれません。

    他人の言動の一側面を見て、その人の考え方や生き方を理解したような気になってはいけない、という著者のメッセージだと解釈しました。それは自分がどういう人間であるかについても同様です。ましてや、早とちりなどせぬよう、ということです。

    さすがに『ズッコケ三人組』を(おっさんが)電車で読むのは恥ずかしいですが、『カラフル』の文庫本なら堂々と読めますので、漢字や難しい言い回しが多い本に疲れたら、たまには児童文学もいかがでしょうか。

  • 岡本太郎『迷宮の人生』、岡本敏子の『迷宮をゆく太郎』

    よく分からなかった。しかし、分からなくても書くのが読書感想文。書かなければ宿題が終わらないからだ。

    メインは岡本太郎氏の文章で、「迷宮」についての考察です。全部で130ページ足らずの本で、1ページあるいは見開きで2ページの作品の写真などもあるので、読み終わるのに1時間もかからないと思います。でも、岡本太郎氏のことをほとんど知らない私には、1時間で理解できそうにはありませんでした。

    巻末近くに岡本敏子氏が書いた十数ページの文章があります。「岡本敏子」? 誰でしょうか? 裏表紙に略歴が書かれていました。

    岡本敏子 おかもと としこ

    1926年生まれ。東京女子大学卒業。’48年に岡本太郎の秘書となり、以来約五十年間、公私にわたり支え続ける。

    岡本太郎との関係について、それ以上は書かれていません。苗字が同じということは奥さん? でも、妻とか結婚とかそういうワードもない。太郎より13歳年下。妹の可能性もなくもない。結局、Wikipediaで調べてみると、

    出版社勤務を経て、岡本太郎主催「夜の会」で太郎と親しくなり秘書となった。事実上の妻であり、のちに太郎の養女となる。

    なぜ、「事実上の妻」が、のちに「養女」になるのか? 謎は深まります。さらにWikipediaを読み進めると、

    敏子が「妻」ではなく「養女」として太郎に迎えられたのは、太郎が結婚というものを望まなかったためということが、二人と親交のあった瀬戸内寂聴から語られている。太郎が結婚を望まなかった理由については明確になっていないが、テレビでは「両親(岡本一平・岡本かの子)の結婚生活に嫌気を感じていたため結婚を嫌い」というように触れられることが多い。

    なるほど。この部分を知ると、本書の敏子氏が執筆した「迷宮をゆく太郎」の一節も理解できます。

    (太郎は)幼い頃から、孤独な子供だった。

    一平、かの子という壮絶な両親は自分たちの修羅に精いっぱいで、幼い太郎の心の闇なんかに振り向いている余裕はなかった。

    上記を把握すると、以下の部分(こちらは太郎が書いた文章)も意味合いについての理解も深まります。第二章「夢こそイマジネーションの迷宮」より。

    それから、また、まるで幼い頃の自分になって母親と散歩している夢。・・・・・・広々とした海原、そして緑の山、あたりにはニョキニョキと奇妙な建物がいっぱい建っている。私は母親に連れられて歩き回っている・・・・・・

    両親の話はほとんどしなかった太郎が、夢について書いた文章や、夢について敏子に語った内容から、敏子は太郎のうちにある迷宮について考えを巡らせているわけです。

    本書の主題に戻りますが、クレタ島のクノッソス宮殿を例に論考が始まります。このあたり、この宮殿のことやミノタウロスの伝説などを知らないとピンときません。わたしもピンときませんでした。

    古代のヨーロッパの迷宮や迷路遺跡などの建築物を例に出しつつも、人間が迷い込むのはそのような具体的な存在、他者が作った迷宮ではないという方向に話が進みます。迷宮を作り出すのは己である、と。

    その後、先述の夢の話があり、形状として表現することの困難さに触れ、幼少期、薄暗くなる頃に聞こえてくる「通りゃんせ」の唄声、イニシエーション(通過儀礼)、複雑化した社会システム(ここではカフカの「城」を比喩に使っています)、新宿や渋谷などの雑然とした繁華街の神秘性などにも触れています。

    何か結論があって、そこに向かって論考を進めているというより、著者自身も迷い、試行錯誤しながら、人間のうちなる迷宮の正体を探ろうとしている感じ。

    私が子供の頃、岡本太郎氏はバラエティ番組やCMにも出演していました。キャラが立つので、モノマネする芸人さんもいたりして。岡本氏が芸術について語るとき、観念的なワードが出てきて、話の流れも(凡人には)繋がりがつかみかねたりして、氏が書いた文章のトーンに、その時の語り口を思い出しました。

    そして、岡本太郎氏と言えば数々の名言で有名で、『TAROMAN』なんかはその数々の名言が出てくるというだけで楽しめます。この本は名言を取り上げたものではないので、たくさん出てくるわけではないですが、岡本敏子氏があげていた、太郎の言葉がありましたので、それをあげて終わりにします。

    「うまく行こうなんて思うな」

    「常に危険な方、こっちに行ったら死ぬかもしれない、という方を選ぶんだ」

  • 『国宝』を撮る25年前の李相日監督の映画も紹介『12歳からの映画ガイド』

    『12歳からの映画ガイド』佐藤忠男著、タイトルだけ見て、借りて読みました。まさか50歳を過ぎたおっさんが読むとは著者も思っていなかったでしょう。

    若い人に向けた口調で、語りかけるように映画が解説されています。小中高生でも読めるように振り仮名も多めです。4ページが1つの単位になっていて、前半3ページで必見の1本、残り1ページに追加の3本、という形で紹介されています。

    紹介されている作品は邦画・洋画、時代問わず、かなり多岐にわたっています。1920年代の無声映画もあれば、2000年代の映画(本書が出版されたのは2007年)もあります。洋画もアメリカやヨーロッパだけでなく、インド、トルコ、イランなど多彩です。「12歳からの~」というタイトルではありますが、子供向けの映画はほとんどなく、12歳の少年少女がこの本を片手に次に見る映画を選んでる姿はあまり想像できません。『桐島、部活やめるってよ』の前田涼也や武文のような映画マニア青年なら、ありそうですが。

    読み進めていると、『あおChongチョン』という作品の紹介があり、監督名を見ると、「李相日」。って、あの『国宝』の! 本文を読んで、またびっくり。

    この本を書いている私、著者の佐藤忠男はいま日本映画学校という学校の校長をしている。(略)

    「青~Chong」という映画は李相日リ・サンイルという学生が自分で脚本を書き、監督もして作った劇映画である。彼は日本で生まれた在日三世で、高校は朝鮮高校に行った。この映画はその経験をもとにしてストーリーが作られている。非常に出来が良かったので映画祭などでたくさんの賞をとり、映画館でも上映され、外国でも上映された。そしていまではDVDで売り出されている。

    日本映画学校といえば、今の日本映画大学ですね。卒業生は、ウッチャンナンチャン、出川哲郎、バカリズム、狩野英孝、ニッチェなどなど。つまりNSCみたいなもんです。・・・ちがいました。監督、脚本家、俳優なども多数輩出しております。

    著者についても前提知識がなかったので、そんな映画教育界のドンみたいな人なのかー、と驚きました。あー、だから若い人に向けた本書を書いたのね。納得です。

    話は変わって、重箱の隅をつつくようですが、みんな大好き『ニュー・シネマ・パラダイス』の紹介ところで、

    どんな田舎にも映画館があった頃のイタリアの田舎町の話。男の子のアルフレードは映画が大好きで、もう映画館に入りびたる日々だった。

    いやいや、「アルフレード」は、映写技師のおじさんのほうっ!

    まあ、男の子ではあるし(最近の「女子」の広義化に準じる)、映画館に入りびたってはいるけど(仕事で)。

    男の子の名前は「トト」ですね。愛称ですが。

    ということで、改定増補版が出る場合は上記の修正よろしくお願いします。あと、『国宝』の紹介も追加しときましょう。

  • 『漫才過剰考察』に『ザ・カセットテープ・ミュージック』を見る

    令和ロマンの髙比良くるまさんが書いた『漫才過剰考察』を読みました。読む人を選びそうな本です。まず、M-1グランプリを見たことがない、これからも見るつもりがない、という人は読まないほうがいいでしょう。

    令和ロマンが1回目に優勝した2023年のM-1見ましたか? 2023年の優勝の経緯について語られていた箇所からの引用です。

    令和ロマンからシシガシラさや香カベポスターまでなんとしゃべくり漫才4連発。

    そしてマユリカヤーレンズ真空ジェシカと漫才コントが3連発。

    最後にダンビラムーチョくらげモグライダーのシステム系漫才3連発。

    ここに出てきた10組のコンビ名、すべて知っていて、顔が思い浮かぶという方: 合格です。読んでよし。

    この年のM-1の放送を見たけど、2、3組だけ顔と名前が一致しないぞという方: 私と一緒です。読んで勉強してください。

    この年のM-1の放送を見たけど、1組も覚えていないぞという方: たぶん見てません、、、、、。もしくは、物忘れ外来へ。(こんなこと書くと最近は怒られるのでしょうか)

    ちなみに引用した箇所は、同系統の漫才が続いてしまい、いかに笑神籤えみくじの順番が失敗の年だったか、ということへの言及でした。

    M-1に限らず、芸人の名前、ネタの内容、どのような意味があり、どう影響を与えたか、みたいな話が結構出てきます。この時に、芸人の名前も代表的なネタも全く思い浮かばないという状況だと、さすがに読んでて面白くないと思います。

    私の場合、割合で言うと、芸人さんもネタもピンとくる50%、おぼろげに分かる40%、ちょっと何言ってるか分からない10%、中道改革連合を支持する0%という感じでした。

    理想的には、よく知らない芸人さんやネタが出てきたときに動画で確認しながら読めると、定年後のよい暇つぶしになると思いました。まだ定年してないですけど。

    髙比良くるま氏はかなりの「分析おたく」だと感じました。芸人さんだったら、笑いの流れとかセオリーとか型を意識しているの当然だとは思うのですが、彼の場合もっとメタな時代の流れ、会場や客層の与える影響などを考察して、それに対策を立ててM-1に臨み、そして実績をあげてきたというすごみがあります。

    彼の文章には仮説がたくさん散りばめられています。これが原因でこういう結果になったのではないかとか、こうすればこうなるはずだ、のような。人間(芸人も客も)がやることですから、そんなに単純にはいかないでしょうし、すべてが正しいかもわかりませんが、だとしても仮説を立てないことには、議論も深まらないし、対策も立てられないので、これは非常に大切なことだと思います。

    演者だけでなく、見る側も対策を立てるべきです。なぜ笑えなかったのか、なぜすべらせてしまったのか、これをよく考えてM-1視聴に臨まなくてはいけません。予選や過去ネタで勉強するのも一つですが、知っていればいいというものでもありません。ネタバレが大爆笑の邪魔をしているかもしれないなら、予選は一切見ないなどの対策の可能性もあります。余計なノイズに邪魔されたくないなら、録画して、CMもスキップ、審査もスキップして見ると集中できます。ただ主催者には嫌がられそうです。観客側の対策は、より高難度なのかもしれません。

    さて、この「ものごとを過剰に考察する」感覚、なんだか既視感と思ったら、「ザ・カセットテープ・ミュージック」(BS12の伝説の番組。「伝説」は私認定)でした。音楽とお笑いとジャンルは違えど、マキタスポーツ氏、スージー鈴木氏と共通するにおいを感じました。加齢臭です。ちがいます。考察に対する情熱です。

    昔の曲を振り返ったりする番組が好きでよく見るんですが、地上波でやっているやつって、司会やゲストが「この曲が好き」だの「歌詞が魅力的」だのと賑やかにやっているんですが、考察はしていないんですよね。

    ザ・カセットテープ・ミュージックでは、なぜ売れたのか、なぜこのメロディーに惹かれるのか、なぜこの時代にこのジャンルがヒットしたのかなどを、コード進行、洋楽や他ジャンルからの影響、歌い手だけでなく、作曲・作詞家、ときには編曲家での切り口など、いろんな角度で仮説を立て、考察するんです。だから面白い。

    お笑いも分析的な視点で見ると、また違った楽しみ方ができるのではないかと思います。「面白かった」とか、「いまいちウケてなかった」とか、そんな結果だけじゃなくて、なぜ面白かったのか、なぜすべったのか、どうすればより爆笑を引き出せたのか、そういう部分に注目することで、新たな魅力が出てきます。

    どこかのテレビ局でやってくれないでしょうか。何組かのネタを紹介して、VTRを見たあとに、それを解説する。時代背景や客層の変化、上沼恵美子(注:淡路島の所有者)の表情などにも触れながら、大切なポイントはリプレイで振り返り、笑いの構造と原理を理解する。お笑い好きも、かけ出しお笑い芸人も、お笑いを目指している学生も見るんじゃないかと思います。放送大学あたりやれないでしょうか。担当講師はもちろん髙比良くるま先生で。


    2026年3月29日 追記
    もう一つ書きました。
    テレビ番組は面白くない人たちが作っている