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勝手に読書感想文。漫画も映画も含みます

タグ: 長篇

  • 登場人物を固有名詞で呼ばない『サイレントシンガー』

    全くの前提知識なしで読みました。小川 洋子さんの『サイレントシンガー』。普通、本を読むときって、「読みたい!」と思ってから入手するものなので、前提知識なしで読むことはほとんどないと思います。私の場合、妻が図書館で借りた本を、何のフィルターも加えずに読むことによって、これを実現しています。そうです、私は内容を確認せずに「日替わり定食」注文できるタイプです。

    ドヴォルザークの「家路」がけっこう重要なポイント(別にミステリーじゃないけど)になっています。読み始めてすぐ「家路」と聞いて、ドヴォルザーク交響曲第9番の第二楽章のあれが出てこなくて、知らない曲なのかもと思っていました。話が進んで、どこかで(役所の人が依頼するところだったか)、「ドヴォルザーク」という名前が出てきて、あれかー、と。

    というのも、自分が知っている歌詞と違ったんですよね。私の中で、ドヴォル9-2と言えば、♪遠き山に日は落ちて♪ なんですよね。

    遠き山に日は落ちて 歌詞 – 歌ネット

    歌詞がウェブで確認できるって便利ですね。「明星」とか「平凡」の歌本って今もあるんでしょうか。

    作品中では違う歌詞があてられていたので、ピンとこなかったのですが、あの歌詞は別の作詞家によるものなのでしょうか? 小川洋子さんのオリジナルでしょうか?

    「調べれば?」という声が天から聞こえたので、調べてみますと、私が知っていた「遠き山に 日は落ちて・・・」は堀内敬三氏が作詞したもので(前記のリンク)、『サイレントシンガー』に出てきた「響きわたる 鐘の音に・・・」は野上彰氏が作詞したものでした。Wikipediaに書いてありました

    歌詞は↓こちらにありました。

    家路 Goin’ Home 歌詞の意味 和訳 原曲 ドヴォルザーク

    前者は学校で習った記憶があるので知っていたのですが、後者を含め多数の日本語の歌詞がつけられていること(Wikipedia参照)は知りませんでした。(調査&感想 おわり)

    『サイレントシンガー』のタイトルの通り、主人公のリリカは歌うことを生活の糧の一部としています。歌うのに「サイレント」とはどういうことでしょうか? 声を出さないわけではないですよ。それは読んでのお楽しみ。

    これを読んで、誰にも意識されない歌声に思いをはせるようになりました。そもそも「聴く」ことが主目的にはなりえないシチュエーションだったり、歌は聞いていても、誰が歌っているかには注意が払われない用途だとか。

    着ぐるみの中の人を連想しましたね。ディズニーランドではしゃいでいるひとは、キャラクターの中の人のことは、もちろん考えないですよね。考えないのが正しい楽しみ方です。だから、リリカの歌が、リリカのことを全く意識しない人たちに消費されていくのも、それは正しい利用のされ方であると。じゃあ一体、リリカは誰に向けて歌おうとしているのか、というあたりは読みどころです。

    読んでいて気づいたのが、出てくる人名が極端に少ないということです。人が出てこないという意味ではなく、固有名詞として出てこないというところです。

    「リリカ」以外では、出てこなかった気がします。「おばあさん」「老介護人」「毛刈り担当さん」。アカシアの野辺の人たちについては名前を知らないという可能性もあります。いや、名前に意味はないということかもしれません。

    でも、そこそこ親しくなる、しかも野辺の人ではない「料金係さん」の名前が出てこないあたりを考えると、かなり意図的なのだと思います。この、すべての人を役割で呼ぶという、現実味のない表現が、この小説のふわっとした雰囲気を醸し出しているのかもしれません。

    あ、でも、固有名詞が出てくるキャラクターもいました。忘れてました。

    ためらっているリリカにはお構いなしに、先生は続けた。

    「歌うアシカ。名前はジョーよ」

    それは水族館のアシカショーで、歌を披露する仕事だった

    アシカは歌えないので、ジョーは歌っている仕草だけを芸として披露し、リリカが歌をあてるという仕事です。

    そして、今気づきました。これってもしかして、「あしたのジョー」とかかっているのでしょうか。どうでもいいことですが、なんだか無性に誰かに言いたいです。でも、もしそうだとしても、私は沈黙を守ろうと思います。

  • 『アメリカ(Amerika)』もやっぱりカフカ的だった

    カフカの『審判』と『城』は読んだことがありました。ただ、かなり昔で、図書館で借りたものをざっと1回読んだだけなので、ちょっと記憶はあやふやです。

    『審判』は、主人公のヨーゼフ・Kが理由も分らぬまま裁判にかけられるという話です。何が法に触れたのかもわからず、逮捕されるわけでもなく、呼び出しに応じて裁判に行っても、それが裁判なのかどうかもよくわからない場で裁かれて、最後はドラマティックな形で刑が執行されてしまうという変な話です。

    『城』もまた変な話で、測量士のKが城に雇われるのですが、仕事を始めるどころか、城にたどりつけもしない。道に迷うとか、そんな単純な話ではなく、関係者らしき人にたらい回しにされるというか、論理が通っているんだかいないんだかみたいな人たちの、のらりくらりとした会話に翻弄されるというか、ずっとじれったい感じが続きます。

    で、ちょっと前に、『審判』と『城』と並んで、『アメリカ』という作品が、カフカの長編の三部作と呼ばれていることを知り、今回この『アメリカ』を読もうと思った次第です。

    ちなみに、最初に『アメリカ (Amerika)』というタイトルで出版されたのですが、Wikipediaによると、

    カフカの草稿自体には作品タイトルはなく、ブロートは生前のカフカが「アメリカ小説」と表現していたことに基いてこのタイトルをつけ、これが長い間これが作品名として流通していた。しかしその後、カフカが『失踪者』のタイトルを予定していたことが日記から判明し、1983年の批判版全集以降は主に『失踪者』のタイトルが用いられるようになった。

    とのこと。でも、私が購入した角川文庫版は「アメリカ」のままとなっております。

    どんな話だろうと、裏表紙を見ると、こんな感じで紹介されています。

    年上の女に誘惑され愛されたばかりに、両親にやっかいばらいにされたカール少年は故国ドイツを追われアメリカに渡った。やっとのことでニューヨークの伯父にめぐりあい、面倒をみてもらえるようになったのもつかの間、何とも不可解な理由で伯父の家からも追い出される。追放されつづけるカール少年は放浪の旅に出るが・・・。
    軽妙に描かれるカフカ的冒険小説。

    たぶんですが、ほとんど人、特にカフカを読んだことない人が、この文章から想像するものとは、全然違うのではないかと思います。

    「何とも不可解な理由で伯父の家からも追い出される」というのはその通りなのですが、伯父とのめぐりあいのくだりも不可解です。「冒険小説」というイメージともだいぶ違うような・・・。でも、「カフカ的」と付いているから、これがカフカ的な冒険小説なのかも。

    世の中の多くの小説の「不可解」は、理解して楽しむための「不可解」だと思うんですよね。伏線があったり、種明かしがあったり、あるいは不可解が壮大すぎてそれ自体が楽しめるような。

    そうしてやらないと、不可解なものは、違和感を与えるだけですから、そんな小説は一般受けしないでしょう。新人の作家だったら、きっと編集者に直されちゃいます。だから、あまり存在しないんじゃないかと思います。

    カフカの不可解は、そんな大げさなものではなく、普通の人間との普通のやりとりの中で生まれてきます。出てくる登場人物かどこか変で、ロジックが少し変だったり、職務が少し変だったりします。でもオカルトやSFみたいな大げさな話ではなく、ただ単に登場人物のモノの感じ方や論理や表現の仕方が、ちょっとずれている(ような気がする)。でも、決して狂人ではない。そんな人たちと交渉しなきゃいけない立場の主人公はすっかり疲弊してしまう。でも、主人公さえも、そのちょっと変な登場人物の一人であったりして、読んでいるほうは、「いったい私は何を読まされているんだ?」みたいな気分になります。

    第八章の「オクラホマの野外劇場」なんか最たるものでした。職を探しているカールは、オクラホマの劇場の座員募集のポスターを見かけて、志願すべく会場に向かいます。

    会場についても、誰が採用の係員なのかよくわからなかったり、それらしい人にあたっても誰が意思決定者なのか判然としなかったり、どういう基準で選考しているかもふわふわしていたり、そもそもカールはどういう職種で雇われるのかも二転三転します。そもそも、オクラホマの劇場がどういう組織で、どういうビジネスをやっているのかも、もやもやしたままです。もやもやしたまま、どうやら採用されたらしいカールは列車に乗せられて・・・

    はっきりとオチのついた小説が好きで、もやもやとした気分にさせられるのが嫌いな方には、カフカはお勧めしません。でも、あなたがそのような種類の人間かどうかについては、私の関与するところではなく、私の権限が及ばない類のものであることを、まずはあなたに伝えておかねばなりますまい。

  • 『成瀬は都を駆け抜ける』と琵琶湖疏水

    (注意:若干のネタバレがあります)

    「あの本、読みました?」と「第一芸人文芸部 俺の推し本」を録画して見ている私が、成瀬シリーズに気づかないわけもなく、その存在は知っておりました。書店でも平積みになっていたし。

    でも、ラノベっぽいタイトルと表紙で、「まあ、いいか」と思っていました。

    読むきっかけは、中学生の子供の担任の先生が学級だよりみたいなもので、おすすめの本の一つとしてあげていたこと。子供が読みたいと言って(妻が誘導した感もあるが)、買うことになりました。

    身近な誰かが読んでいる本は極力読むようにしています。思えば、赤川次郎を読んでいたのは姉で、火の鳥(これは漫画だけど)を貸してくれたのは久石君(小・中学の同級生)で、筒井康隆をすすめてくれたのは松崎君(小・中・高の同級生)でした。なので、子供から借りて読みました。

    話を戻して、一作目の『成瀬は天下を取りにいく』を買ったときはまだ文庫本が出てなかったので、単行本を買いました。その直後に文庫が出たので、しまった、とも思ったけれど、二作目の『成瀬は信じた道を行く』も、今回読んだ三作目の『成瀬は都を駆け抜ける』も、文庫化を待たずにすぐに読めたので、結果オーライです。シリーズものって、単行本か文庫かで揃えたかったので。

    全編を通じての主人公は成瀬あかりですが、各章(各話)にはそのエピソードでのメインキャラクターがいて、そこに成瀬が絶妙に絡んできます。成瀬は、端的に話すから言葉数は多くはないし、感情を表情に出さないタイプなので、成瀬に関する情報量は少なめなのだけど、重要な役割を演じます。

    滋賀県民が琵琶湖の水を止めたがる、というお約束の冗談に対して、

    「それはきっと京都や大阪側が作った説だ。わたしたち滋賀県民は琵琶湖がみんなのものだと学んでいるからそんなことは言わない」

    と真面目に返す。この段階では何気ない世間話なんだけど、最後のエピソードで、この信念を伝える場面が再び訪れます。琵琶湖疏水そすい(琵琶湖から京都へつながる、人工的に作られた水路)で、島崎みゆき(成瀬の幼馴染)が「びわ湖大津観光大使」の活動をしていると、ちょっとめんどくさい人が現れる。

    「琵琶湖疏水は京都のものやねんけど、だれに許可とってやったはんの」
    (略)
    「明治時代、滋賀県は琵琶湖疏水の工事に反対してん。それを今さら仲良うしようなんて恥ずかしないん?」

    というおじいさんに対して、ひるみそうになる島崎ですが、そこに成瀬が現れて、毅然と考えを伝える。理屈で論破する、というのとは違うんです。シンプルな考えをストレートに伝える。琵琶湖はみんなのもの、同じ琵琶湖の水を使っている者同士、仲良くしたほうがいい、ということを、いつものあの口調で伝える。

    そのあまりの直球ぶりに、おじいさんは苦し紛れに、

    「あ、あんたこそ偽物ちゃうの? 観光大使がそんな言葉遣いしたらあかんやろ」

    と言うんですが、その発言に対しては、

    「いいんだ」

    と断言したあとに、

    「よかったら貴殿もびわ湖疏水船に乗って大津まで来てくれ。琵琶湖はいつでもすべての者を歓迎してくれる」

    小さい人間を完全に包み込んでしまう、この度量。信じているもんがあるから揺るがない。時折 炸裂する成瀬語録は間違いなくこの作品の魅力です。

    実は今回 成瀬以外でも、なかなかいいこと言う! と思った登場人物がいました。二作目に登場し、成瀬と二人で観光大使を務めている篠原かれん。

    成瀬の代打で観光大使の活動を手伝うことになった島崎ですが・・・

    「わたし、任命されてないけど大丈夫なんですか?」

    弱気になって尋ねると、篠原さんは笑顔のまま首をかしげる。
    (略)
    「でもね、一年間成瀬を見てて思った。観光大使って、やりたい人がやりたいときにやればいいんだって」
    (略)
    「ほら、成瀬って、イベントがないときでも勝手に衣装を着て大津市のPRしちゃうでしょう? そこに資格なんて要らない。だから今日は島崎さんがやったらいいの」

    そうか、そうだよなー。誰がやるべきとか、資格とか、郷土愛はそういうもんじゃない。

    そして、著者の宮島未奈さんも、やりたい人として、やりたいときに、小説を通して、観光大使をやっているんだなあということに気づきました。

    私は滋賀県には興味はなかったし、大津市のことは知らなかったのですが(地理で習ったはずなんですが・・・)、琵琶湖の歴史についていろいろ知ることができましたし、びわ湖疏水船にも乗りたくなりました。いろんな形の観光大使があるんです。

  • 『アルプス席の母』は泣ける小説なのか

    妻が読みたいというので、自治体の図書館で予約したんですが、順番が回ってくるまでに5か月かかりました。その自治体では7冊所蔵していたのですが、予約した時点では数百番目だったと思います。

    妻が本をリクエスト(私の図書館利用者カードで予約)するときは、たいていK-City出身のFさんのおすすめだったりするのですが、今回借りたきっかけを本が届いたときに聞くと、「忘れた」とのことでした。思い出せよ、と思いましたが、考えようとさえしていないことが手に取るように分かったので、それ以上は追及しませんでした。

    タイトルは『アルプス席の母』で、帯には、「全母親が落涙必至!!」とか、「こんなん、泣くにきまってるやん。」とか書かれていて、私としては普通だったら避ける系です。

    「泣ける!」を売りにされた途端、泣けなくなります。というか、そもそも泣くことを目的とはしていないのですが、なぜ、そんなに、みんなが泣きたがっているのだと決めつけてくるのでしょうか。

    まあ、でもこういうのは大人の事情というか、出版社とか編集者によるマーケティングであり、プロモーションでしょうから、あまり気にしてもしょうがないとも思いました。

    なにより、順番が回ってくるのに5か月もかかったので、今回読んでおかないと、次はないぞ、という強迫観念にかられ、読むことにしました。

    読んでみて驚きました。この作品は、関西人の嫌なところ、高校球児の甲子園に行きたいという思いに付け込む汚い大人(学校や監督)たち、子供の活躍を自身の手柄のように勘違いし横柄に振る舞う、子離れできない親たち、などを描いた社会派作品でした。

    冒頭、母親の菜々子が甲子園の観客席にいるシーンから始まります(このあと、過去に戻って、経緯が描かれ、また甲子園の場面につながってきます)。菜々子が息子の航太郎の名前を大声で叫ぶと、他の父母たちがギョッとするという場面があるのですが、なぜかというと、

    航太郎が入学したときにもらった十数ページにも及ぶ野球部父母会の心得には、ひたすら禁止事項が記されていた。

    • 日傘禁止
    • 間食禁止
    • サンバイザーは白色のみ
    • 水分の補給は選手と同じタイミングで。たとえば試合中ならイニング間
    • 監督への直接の声がけ禁止
    • 球場では三年、二年、一年の順に前列から隙間なく座っていく
    • 後輩の親が座るのは、先輩の親が全員座るのを見届けてから

    (略)

    • 試合中の単独での声出し禁止。声援は応援団の指示通りに

    もちろん小説です。フィクションです。でも、この作品の性格上、「そんな父母会ねえよ」とか、「そんなルールありえねえ」とか、そういうつっこみをうけるような設定にはしないはずです。

    作者の早見和真さんは元高校球児で、甲子園に何度も出場している名門高校の出身です。そのあたりを踏まえると、高校野球父母会あるあるに違いないという気がしてきます。

    こんな場面もあります。佐伯さんというのは、野球部の監督です。

    「私も知らなかったんだけど、これうちの学校の伝統なんだって。毎年、新チームになったときに各家庭から八万円ずつ集めて、それを佐伯さんに渡してるって。佐伯さんが中学生のスカウトとかのために地方に行ったりするのに学校からお金が出てないらしくて、そういう活動費に使ってもらうものなんだって」

    必要な経費があるなら、会費なりなんなりの形で集めて、領収書ももらうようにして、収支報告もちゃんとやればいいのですが、メールは使うな、文書は残さない、封筒に入れて直接手渡し、と裏金臭がぷんぷんです。

    これを監督に渡すシーンが面白い。菜々子の1つ上の会計係が金を渡そうとすると、監督は

    「こんなものは受け取れません」

    いや、そこをなんとか、みたいなやりとりがあり、

    「わかりました。それでは、これは部の活動費として大切にお預かりさせていただきます。しかし、来年以降は絶対にこんなことしないでくださいね。約束してください」

    この茶番を見ていて、菜々子は思わず、聞いてしまうのです。

    「本当に来年以降はしなくていいのでしょうか?」

    まとまりかけたところで、場が凍り付く発言。ぞくぞくしますね。

    そう、この作品は高校球児を支える母親を描いた感動作、というカムフラージュをしているが、実は高校野球の暗部を描く、社会派告発作品だったのです。

    というのは、なんだか言い過ぎです。たぶん普通に感動的な作品です。おい、どっちなんだよという方は、読めばいいと思うよ。

  • 『コンビニ人間』と『傲慢と善良』

    『コンビニ人間』(村田沙耶香 著)を読み直してみました。理由は、電車の中でさっと読めるもの(長編とかではなく)を家の本棚で探していて、目についたから。それほど本は買わない妻が買った本でした。

    なんとなく内容は覚えているものの、細部はもちろん記憶していないし、最後どうなったかも全く覚えていないので、新鮮な気持ちで読めました。芥川賞受賞作だと、純文学でござい、みたいなのもたまにありますが(偏見?)、『コンビニ人間』はエンタメ小説としても普通に楽しめるし、内容はほとんどコメディだと思う。主人公の女性の、他者を理解できない、合わせられないという感覚は、かなり絶望的なレベルなのですが、本人は深刻視していないところが喜劇的でありつつ、深刻視できないところは悲劇的でもある、みたいな感じ。

    以前、『傲慢と善良』を読んだときに(『何者』と『富士山』と『傲慢と善良』)、婚活が小説のテーマになる時代なんだなあと思ったのですが、読み返してみると、『コンビニ人間』も婚活をテーマにしていたことに気づきました。婚活というよりは、就職・結婚・出産などに関して、「普通の感覚」を持った人たちが振り回す無自覚な暴力に苦しめられるタイプの人間というところでしょうか。

    「なんで結婚(しようと)しないの?」、「なんで(就職しようとせずに)アルバイトなの?」なんて質問は、普通の基準に合わせるのが普通だと信じている人には普通でも、普通の基準に合わせるのが普通だとは感じられない人にとっては普通ではない。

    私自身は順調に進学して、卒業したら就職して、そろそろかなという時期に結婚して、しばらくしたら子供が生まれて、という感じだったので、この手の質問や干渉に苦しめられたことはありませんでした。唯一あるとすれば、中学・高校と一切部活をしなかったこと。何もやったことがないというのは結構少数派で、よく人が自分は何部だったからこんな感じ、みたいな話になると、私は特に話すことがなくなります。

    部活に入らなかった理由は、拘束時間が嫌いだから。学校が終わるのも待ち遠しいのに、なんでそのあとも学校に残るような活動を行わなければならないのか。部活に入る人の気がしれない、と思っていました。

    あと、スポーツも文化的な活動も含めて、それらのスキルを高めたり、知見を深めたりということに、なんら価値を感じられなかったから。体育でのサッカーの試合は楽しいんだけど、パスとかドリブルの練習とか全く楽しくないし、そんなことまでしてうまくなくなることに執着できなかった。これについては、意識が変わって、30代くらいからは、鍛錬の魅力に気づきました。なので、現在の人生のポリシーで、中高をやり直すとすれば、たぶん部活に入ります。

    話を戻して、『コンビニ人間』で興味深かったのは、人の話し方やしぐさや服装が、まわりの人の影響を受け、それを吸収し、実践し、またそれがまわりの人に伝染していくさまを、古倉恵子(主人公)がするどく観察していて、それを意識しながらも、自分自身もそれを行っている様子を、客観的に見抜いている感覚でした。

    古倉さんは、いわゆる空気読めない感じの人なのですが、そのような違和感には敏感で、古倉さんと他の登場人物のどちらが普通なのだろうかと、考えさせられます。おそらく、理屈ではなく、多数派が「普通」認定されるのでしょう。

    結構序盤に、アルバイトの研修の場面。

    私はバックルームで見せられた見本のビデオや、トレーナーの見せてくれるお手本の真似をするのが得意だった。今まで、誰も私に、「これが普通の表情で、声の出し方だよ」と教えてくれたことはなかった。

    この手のビデオや指導って、目線はこうでとか、おじぎの角度はこれくらいでとか、些末なところでこういうときにはこうしろとか、なんか本来なら各自の自由裁量で行われる行為まで踏み込んで指定してくるから、言われた通りに演じる自分に気恥ずかしくなったり、演じる他者をみると「マニュアル通りにやりやがって」なんて思ったりしちゃいます。

    古倉さんは、こうするのが普通だからこうしなさい、と言われると安心して、そうするタイプ。たぶん、そうする人は、ちょっと変な人と思われがち。

    世の中の大多数は、そんなことは人に言われることではなく、自分で判断してやること、と思っているのではないかと。でも、その一方、周りを観察し、人の行動様式を真似、話し方やボキャブラリー、場合によっては服装なんかも合わせていく。それを無自覚に行うというのが、現代の「普通」とされているのかなあと。いや、もしかしたら縄文時代(ある登場人物の口癖)から、そうなのかもしれない。

    私も高校生の輪の中に入ると、高校生みたいになるのだろうか。変な略語を使ったり、なんでも「やばい」で形容するようになるのだろうか。ちなみに、今はおじさんたちの輪の中にいるので、おじさんみたいな感じです。というか、おじさんですが。

  • 『桐島、部活やめるってよ』に出てくる映画(『ジョゼと虎と魚たち』他)

    「本を読もうと思うのですが、何から読んでいいのか分かりません」のようなお悩みが寄せられている、みたいな話をたまに聞きます。テレビとか新聞の記事で見かけたというだけで、直接そんなことを聞いたわけではありませんが。

    なんでもいいから目についたものから読めばいいのに、と思ったりします。本を読む習慣のある人って、次に何を読もうか探すというよりは、次に読もうと思っている本が順番待ちになっていたりしません? 読もうと思っているどころか、すでに買って、積んであったりとか。そうでしょ?読書子(©岩波文庫)の皆さん。

    そんな状態になる原因の一つが、作品に出てきた作品のことが気になりそれを読みたくなるというもの。それは、本から本というだけでなく、本から映画、映画から本、みたいに戻ってくるなんてパターンもあります。音楽から映画なんてのもありますね。私が映画『いちご白書』を観たのは、「『いちご白書』をもう一度」という曲があったから。映画を観たら、原作の書籍も読みたくなったりとか、連鎖は止まりません。

    ちょっと前に『桐島、部活やめるってよ』(朝井リョウ)を読んだときにも、この感覚に襲われました。

    映画部の「前田涼也」の章。彼とその友人の武文はなかなか重要な役割を演じます。本当にかっこいいのは誰?、ダサいのは誰? って感じでしょうか。

    その武文のセリフに唐突に映画名が出てきます。

    「いやー、昨日ジョゼまた観てよー」
    (略)
    武文は犬童一新監督の『ジョゼと虎と魚たち』の話になるといつもより大きな声を出すし、テンションがあがりすぎてなぜかめがねを外したりする。

    このあとも、いろいろ映画の作品名が出てきます。

    僕はカラーページに蒼井優を見つけたので返事が適当になる。『百万円と苦虫女にがむしおんな、この田舎じゃ上映してくれなかったんだよなー・・・・・・DVD出るだろうし借りようっと。

    「『メゾン・ド・ヒミコ』もよかったし、やっぱり犬童一心最高!」

    「邦画のあの淡〜い表現方法が好きなんだ!」岩井俊二サイコー!という武文を説き伏せて、以前一緒に『BABEL』を観たことがある。
    (略)
    そのあと武文セレクトの『めがね』を観ようとしたが、チャプターを見てもどこがどこのシーンかわからなくてふたりで笑った。

    以下は、ちょっと違う文脈ですが、中学生の頃は親しくて一緒に映画を見たりする仲だった東原かすみについて、涼也が回想しているシーン。高校生になった今、かすみはアッパーな女子グループ、涼也はそんな女子たちには相手にされない「下」のグループ(だと涼也は思い込んでいる)というのが切ない。

    十四歳のあいつの声は今とあんまり変わっていなくて、 (略) 『となりのトトロ』のメイとサツキが本当は幽霊だなんて都市伝説をいまだに信じているのかもしれない。

    次のはテレビドラマらしいです(知らなかった)。武文のキャラが出ているので入れておきますと、

    「だから、真木よう子やばいよなって話!」
    (略)
    「『週刊真木よう子』とかな、あれ始まったとき、なんで俺が大人になって監督になったときにこの企画やってくれんかったんや!ってガチ思ったもん」

    監督になる前提。まだまだあるよ。

    「お前ほんと岩井俊二好きな」

    僕は半ばあきれたように返事する。

    「だってやっぱ天才やもん俺の中で。『リリイ・シュシュのすべて』とかさ。あれ観たあと二週間くらい引きずったんだよなー」

    ちょっと離れたところから聞こえるアッパー女子の声。陰口のような内容も聞こえ、「ダサい」男子組の武文が聞こえないふりをしながら、映画の話をし続けるあたりの描写は必見です。でも、そこはとばして、かすみの声・・・

    「沙奈だって、なんかの予告観て妻夫木かっこいーとか言っとったやーん」

    だって妻夫木だよ? あなたと私で『感染列島』って感じー感染しちゃうようなことがしたーい、という甘ったるい声に、馬鹿だこいつー、と笑うかすみの声が被さる。

    こちらは中学の頃のかすみの言葉を回想している涼也です。

    池脇千鶴ちゃん天才だと思った、とか、他にはどんな映画が好きなの? とか、『きょうのできごと』って作品知っとる? とか、それも妻夫木くんと池脇千鶴ちゃんだよね、とか、関西弁がかわいくてさ、とか、 (略)

    私、『チルソクの夏』とかすごく好き

    ふたりで『ニライカナイからの手紙』を観に行った帰り、マクドナルドに寄った。

    再び、テンション高めの武文です。

    いやー最近やっと『サマータイムマシン・ブルース』を観てさ! (略) あと『檸檬のころ』みたいな、もうもどかし〜い甘酸っぱ〜い心臓きゅってなる〜みたいのも好きやし、 (略)

    どんだけ出てくるんだよって感じですね。あらためて読み直しながら抜き出してみたのですが、他にもこれが出てたよ、というのがあれば教えてください。観ます。

    ほとんどの映画が観ていない作品だったので、観ないといけないような気がします。そんな強迫観念に駆られます。そして、映画には原作の本があったりもします。これも読まなくてはいけません。連鎖は当分続くのです。


    2026年3月20日追記
    映画好きなら、こちらもどうぞ。
    『国宝』を撮る25年前の李相日監督の映画も紹介『12歳からの映画ガイド』

  • 『桐島、部活やめるってよ』と『桐島、部活やめてるよ』

    この本(『桐島、部活やめるってよ』(朝井リョウ著))を読もうと思ったきっかけは、『あの本、読みました?』というBSテレ東の番組に著者の朝井さんが出ていて、なんかとてもサービス精神が旺盛な人で、この人の書く本なら面白そうと思ったから。

    サービス精神という言葉が合っているのかどうかは分からないが、新聞書評の回では、対象の書籍が選ばれるプロセスや、自身が書評を書く際のこだわりなどを話していて、「本好きに贈る本好きのための番組」(番組の冒頭にこんなフレーズが出てくる)の視聴者が聞きたいであろうツボを押さえていて、きっと事前に話すネタをきっちり準備してしていたんだろうなーと。あと、番組後にこれも話しておけばよかったというのを思い出して、番組のスタッフに連絡をいれる点とか、自身の特集の回には詳細な年表を作ってきたり(番組側はそこまで要求はしていないのに)。伝えたい、という気持ちがひしひしと伝わってくる作家さんなのだ。

    朝井さんの作品で最初に読んだのは『何者』(過去記事:『何者』と『富士山』と『傲慢と善良』)で、こちらを読んだときにも感じたのが、朝井さんは、普段意識しないような自分の(あるいは多くの人の)イヤなところをついてくる。

    あからさまにイヤなやつのイヤなところではなく。自分で気づいているような、ある意味分かりやすい自分のイヤなところ(大抵の人にはあるでしょ?)でもなく。

    学校ではいけてる(死語?)ほうの登場人物である菊池宏樹が、これまたいけてる自分の彼女の沙奈の様子を見ながら、何かもやもやしているものをつかもうとしているシーン。

    (略)ダサいかダサくないかでとりあえず人をふるいにかけて、ランク付けして、目立ったモン勝ちで、そういうふうにしか考えられないんだろうな。

     だけどお前だってそうだろうが、と、夕陽に長く伸びる自分の影を見て思った。

    自分のことを棚にあげることはよくあることで、自分のことを棚にあげるのはよくないって指摘したりするのもありふれたことで、でも、そのことを直接言うんじゃなくて、ストーリーで語られると、グッとくる。ヒヤリとしてハッとする。事故を起こす前に悔い改めたい。

    あと、多くの人がご存知かと思うが、いつ思い出してもジワるので、これはリンクしておきたい。

    「桐島すでに部活やめてた」、3万2000人がリツイート | ねとらぼ