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勝手に読書感想文。漫画も映画も含みます

タグ: 短篇

  • 宇野千代の初期の方の短篇『幸福』を読む

    宇野千代の初期の作品といえば、岩波文庫になっている『老女マノン・脂粉の顔』を入手すれば、新聞の懸賞で一等を獲ったデビュー作である『脂粉の顔』が読めます。

    上記で『脂粉の顔』は読んだので、じゃあその後くらいの時期に書かれた初期の代表作を読みたいなあと思い、ウィキペディアを見てみると、どうやら『幸福』という短篇集が出ているようです。じゃあ、それを読もうというつもりで借りたのが、なんと違う短篇集『幸福』であったというのがこちらの話でした。(過去記事:宇野千代の二つの『幸福』

    よくわからないと思いますので、整理しますと、

    初期の『幸福』後期の『幸福』
    初出の年1924年1970年
    初出の雑誌『我観』
    大正13年2月号
    『新潮』
    昭和45年4月号
    単行本の出版1924年 金星堂1972年 文藝春秋
    全集への収録1929年 改造社『新選宇野千代集』、
    1977年 中央公論社『宇野千代全集』
    備考第十回女流文学賞受賞

    この2つの短編『幸福』は全く異なるものです。私が先に読んだ後期の『幸福』の方は、70歳過ぎの女性が語り手で、執筆当時の宇野千代さんの年齢と一致しています。11軒の家を建てた話とか、離婚している点など、実際の宇野さんのエピソードとの符合がみられます。

    そして、今回やっと読んだのが初期の『幸福』のほうです(1977年 中央公論社『宇野千代全集』に収録)。すでに結婚している女性「仮名子」が主人公で、その仮名子が里帰りをする話です。年齢は明確に書かれていないのですが、「彼女が未だやっと十七であった頃の情人」というのが登場して、「この男と別れてから十年と言う長い歳月が過ぎ去って居た事を気附いたのであった」という場面があることから、27歳くらいであろうと推測されます。初出の1924年時点の宇野千代さんの年齢を計算すると、26、27歳なので、これまた一致しますね。設定からいって、いわゆる私小説ではなさそうですが、宇野さんは自身と同性別・同年代の人物を語り手にすることが多いみたいですね。

    仮名子は気性が激しいことを想像させる女性です。言動というよりは心情の描写にあらわれています。会社の重役と結婚し、都会で裕福に暮らす彼女は、村の人たちからみれば「成功者」のような立場です。

    夫を連れずに一人で帰京し、かつての恋人「田沢」が仕事帰りに通るであろう土手で、会って何の目的があるというわけでもないが、日がな一日待ち続ける、みたいな話で、これだけ聞くと、ちょっと淡い恋の話に思えなくもないですが、もっとドロドロ感があります。

    田沢は手紙でそっけなく仮名子を振ったあと、勤め先の上司の娘と出世目的と思われるような結婚をしています。自分はそんなに軽い存在だったのか、というのを今でも問いただしたいという気持ちが仮名子にはあります。

    そういう未練のようなものと裏腹に、しょせん田舎の公務員(専売局の官員)でうだつのあがらない生活をしているであろう田沢をあざ笑いたい、後悔させたいとい気持ちが見え隠れします。そのような心情に加え、容姿に関するコンプレックス(ここでは「劣等感」ではない)も絡んできます。

    田沢の年上の妻が、彼女の耳の後に先の赤くなった、今にも化膿しそうなそれで居て決して小さくなる事のない、たん瘤を持って居ると言う話しは、仮名子を危く噴き出させるところであった。

    「たんこぶ」とは腫瘤や脂肪腫の類でしょうか。今だったら、病院でとってもらったりできるのでしょうが、おそらく当時は無理で、美醜の印象に大きな影響を与えていたでしょう。自分を振った男の妻のことを、なんだその程度か、みたいに考えたい気持ちは分かりますが、疾患による症状を「危く噴き出させるところ」などと表現するあたり、こじらせた未練のすさまじさがするどく描かれています。

    他にも、田沢は美男子である、一方、仮名子の夫は「一面に薄痘痕のある赭黒い、柱時計のような顔」であるなど、複雑な感情を想起させる設定が揃っています。

    もし会ったとして、何を言うのか、そもそも何でこんなことをしているのかなど逡巡しながら、土手で待つ仮名子でしたが、

    仮名子は、最後に唯った一人の洋服を着た男が(この小さい村では小学校の先生か専売局の官員以外に洋服を着るものはなかったが、)幾らか猫背の儘に長い影を曳き乍らとぼとぼと帰って来るのを――然し、彼は決してあの男ではなかった。――見送るまで、彼女は彼女が其処で何を如何しようとして居るのかさえ忘れて、ぼんやりと立って居た。

    私、ピンときました。これは伏線だなと。

    それはさておき、田沢に会えなかった仮名子は、数日続けていた土手通いをやめます。そして、近くに住んでいる伯母を訪ねるために、乗り合い馬車に乗っているときに、なんと田沢と遭遇することになります。このあといったいどうなるのかが知りたいかたは、(たぶん入手は難しいので)図書館で借りて読んでみてください。

  • 『新しい本棚を共有する。』と『イデオロウィンの行進』

    『すばる』2026年7月号の「SNSが好きで嫌いで」という特集で、小説が4本掲載されていました。まず、必ず読むことになっている(いきさつ:2026年上半期の芥川賞を予想・・・はせずに、賞を新設する)小砂川チトさんの『犬たちの頭痛』を読みまして、次に何だか気になった村田沙耶香さんの『喪失』を読みました。4つ載っている小説のうち2つだけ読んで、残りを読まないというのは、なんか変なので(変なので?)、残り2本もちゃんと読みました。律儀な性格なのです。

    3本目に読んだのは、鈴木結生ゆういさんの『新しい本棚を共有する。』です。「。」がついています。「モーニング娘。」と一緒ですね。書き出しはこうです。

    ここ数日、ぼくは《独学者》と一緒に暮らしていたようだ。

    小説の出だしは状況をつかむまでが大変です。「独学者」は括弧がついているので、まあいいでしょう。きっと、あとで何か説明があるのでしょう。問題は「墨」です。このあとの使われ方をいくつか見てみると、固有名詞かもしれないと思いました。つまり、墨さんという苗字ですね。中国系だとそういう名前があるのかもしれないし、印鑑があるかないかで対決するような珍名さんかもしれません。

    ただ、読み進めていると、もしかしてこれは一人称の人称代名詞、 つまり、「僕」の言い換えというか、当て字というか、そういうもののような気がしてきました。結局、最後まで確信が持てなかったのですが、十中八九「僕」という意味のような気がしています。もし、そうだとしたら、ちょっとイラっとしてしまいそうです。いけませんね、これがキレる老人というやつでしょうか。25歳が書いたものにいい歳をしたおっさんがキレてはいけません。

    しばらくすると、

    「結局、本棚っていうのは満杯にしないといけないものなのかもね」墨は、一瞬済補から目を外し、自分の前に並んだ、四列のカシマカスタムを眺めて嘆息した。

    「済補」? また、知らない言葉が出てきた。しかもルビも振っていないあたりをみると、一般的な言葉なんでしょう。Web検索してみました・・・。造語の当て字じゃねぇかっ! いかんいかん、キレそうになった。以下のサイトに、「済補」の意味するところが書いてありました。福岡県(⊃佐賀県)出身者なら誰もが知っているRKB毎日放送のサイトで、鈴木結生氏へのインタビュー記事です。

    「まずスマホっていう言葉がね、あまり小説では使いたくない感じがした。電子機器の固有名詞は小説と相性悪いと思う。ポケベル、ファクシミリとか、とたんに時代感が出る。(略)」

    というのを避けたかったようです。ただ、スマホは固有名詞ではなく一般名詞では? という気もしますが、意図したところはなんとなく分かりました。芥川賞をとった『ゲーテはすべてを言った』の中で使っていたようですが、今回の短篇の範囲の印象だと、邪魔にしかなっていないような・・・。時代感を出したくないなら、「携帯」とか「手元の端末」くらいにしておけば、ガラケーともスマホともとれるし、今後出てくる何らかの次世代ハードウェアともとれるので汎用的ではないでしょうか。「すまほ」という音を使った時点で、スマートフォンであることが固定されてしまうので、むしろ「時代感」が出てしまうような気がします。

    ちなみに「カシマカスタム」については文芸雑誌を読むような人なら当然知っているような単語なのかもしれません。

    「墨」と「済補」にはちょっとモヤモヤしましたが、ストーリーについてはアガサ・クリスティの『ABC殺人事件』に着想を得たらしい、非常に面白い読書マニアックミステリーファンタジーでした。

    次々と引用される名作の数々、もし読んだことがあれば、楽しさ倍増ですが、私が読んだことがあったのは、「I」のIsaka, Kotaroの『アヒルと鴨のコインロッカー』だけでした。やっぱり年間1000冊は読まないと駄目ですね。

    実はこの年間1000冊についても、本作『新しい本棚を共有する。』の中で言及があり、ちょっと面白いです。

    昨年、墨が文学賞を貰った際に、あるTV番組の取材で口走った「年間千冊読む新人作家」ということが喧伝され、会う人会う人からそのことについて尋ねられる、という不愉快な事態を招くこととなった。その度に墨としては、あれは終日図書館にこもって小説を書いていた一年間に限っての話であり、今となっては日に一冊読むのがせいぜいだ、と答えてきたのだけれど、どれだけ弁明したところで、世の中の人々の目につくのは「年間千冊読む新人作家」という部分であり、(略)

    メディアの人がそういうキャッチーなフレーズに飛びつく様子が目に浮かびます。なので、その真相をこのように作品に入れ込んでしまうのはいい考えかもしれません。ただ、「年間三冊読むマスコミ関係者」が、この作品を目にする確率はかなり低いかもしれません。次にこんな質問をされたときは、1兆個のギャグを持つ男 FUJIWARA原西さんを見習って、「今までに1兆冊読みました」とか言ってみて、本気にするかどうか試してみるのも手です。「千冊」には二度と触れられなくなるかもしれません。

    さて、最後に読んだのが奥田亜希子さんの『イデオロウィンの行進』です。実は奥田さんのことは存じあげておりませんでした。年間千冊読んでないもので(しつこい?)。小説に順番につけるのは、なんか違う気がしつつも、今回の特集「SNSが好きで嫌いで」の小説の中で、墨が(しつこい?)一番好きだったのは、この『イデオロウィンの行進』でした。

    主人公の男性、りょうのあまり主張をせず流される感じとか、その彼女の人を振り回す感じとか、そのへんによくいそうな普通の人の範囲のキャラクターなのに、SNSを絡めることで、そのズレがなんか許容できないような大きさになっていくという。ペット向け料理の先生 兼 活動家の松木さんも、そこまで異常な人というわけではないのに、動物愛がちょっと過剰なだけで、なんだか道をそれていってしまっている感じとか。

    後半の展開も意外だけどありえそうと感じさせる範囲のものだったので、人の行動なんて結構なりゆきで構成されているのかもと思っちゃったりして、それはつまりどう転ぶか分からないという恐怖であり、反面、突然ひらけちゃうものだったりという希望さえも感じさせるものでした。世の中の大それたこと(良いことも悪いことも)をやっている人も、実はこんな程度のきっかけだったのかもと思うと、やっぱりちょっと怖い感じもするあたりが、ゾクゾクとして楽しい小説でした。

  • インターネットのない世界でのヲチ『喪失』(村田沙耶香 著)

    (アイキャッチ画像:By Itasan – Own work, CC BY-SA 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=98530554

    文芸誌はほやほやの最新作が読めるのがいいですね。『すばる』2026年7月号に載っていた『喪失』は、現在(2026年8月)の時点で読める村田沙耶香さんのたぶん最新作です。

    実は私は『コンビニ人間』しか読んだことがありません。でも、BSテレ東の「あの本、読みました?」に出演されていたのは見たので、オイコス(砂糖不使用の高たんぱくヨーグルト)に山ほど砂糖をかけて食べていて、朝井リョウさんに怒られたというエピソードは知っています。こういう話を聞くと、コンビニ人間の主人公の茹でただけの野菜を味をつけずに食べる話も、実話に基づいているのではないかと、ちょっと怖くなります。

    『喪失』の冒頭です。

    ある休日の午後、フォロワーと一緒に訪れ、ゲームに登場する森をイメージしたという巨大なロコモコを食べていたコラボカフェ以外の人類が全部滅亡してしまってから、だいたい20年が経ちました。

    頭に入ってきません。情報が多すぎる? いや違う。後半のインパクトに比べて、前半の情報の重要度が低すぎます。「フォロワー」とか「コラボカフェ」とか、どうでもいい情報が邪魔をします。

    でも、この小説って「SNSが好きで嫌いで」という特集の一つとして書かれたものなので、インターネットのサービスがきっかけで集まった人たちが災難に巻き込まれる(いや、逃れたのか)というのは、重要な要素の一つになります。自分たち以外の人類が滅亡しているので、インターネットやらSNSは使えなくなっている、という前提です。

    なるべくネタバレは避けたいのですが、ここのシーンについてだけは書きたい。20年経って、98歳になったおばあちゃんが、何かやりたいことはないか?と聞かれたときの台詞。

    「ツイの鍵垢にログインしてヲチ。ヲチスレのログ保存して必要あれば魚拓投下」

    残念ながら、私は意味が分かりませんでした。「ツイ」はツイッターだろう、「魚拓」はウェブページを保存して残しておくサービスだろう、とは思うのですが、「ヲチ」が何か分からないため、おばあちゃんが何をしたいのか全然イメージがわきませんでした。(結局、検索して調べた)

    インターネットが使えなくなって20年が経ち、他の比較的若い人たちはネット用語など使わなくなったタイミングでの、おばあちゃんのスラングばりばりの発言。これがツボでした。コントのシチュエーションにも使えそうです。

    おばあちゃんが使うスラングですから、ちょっと古いものだったりするのでしょうか。今は「ツイ」は何になっているんでしょうか。ほとんどの人がパソコンやスマホを使うようになって久しいので、今どきのおばあちゃんにとってヲチが好きということは珍しくないのかもしれません。(さっそく使ってみる)

    SNSとはどんなものなのか、人々にどんな影響を与えているのか。それはSNSのない世界を考えると、浮き彫りになるのかもしれません。そして、「ヲチ」という行為はインターネットやSNSがあるがゆえに生まれたもののように、普通は思います。しかし、インターネットができる前から、そしてインターネットがなくなってしまった20年後の世界であっても、「あの世界」は存在しているんじゃないか、という感覚を主人公は持ちます。それがどういう意味なのかは、『すばる』2026年7月号をご覧ください。(中の人?)


    この同じ特集の中に、小砂川チトさんの小説も掲載されています。

    犬×AIロボット犬×ミステリー?『犬たちの頭痛』

  • 犬×AIロボット犬×ミステリー?『犬たちの頭痛』

    『すばる』2026年7月号に載っていた、小砂川チトさんの『犬たちの頭痛』を読みました。現時点(2026年8月)では、小砂川さんの最新作だと思います。

    「SNSが好きで嫌いで」と題された特集に、村田沙耶香さんの『喪失』、鈴木結生ゆういさんの『新しい本棚を共有する。』、奥田亜希子さんの『イデオロウィンの更新』、そして、小砂川チトさんの『犬たちの頭痛』の4本の小説が掲載されていました。

    文芸誌は初心者なので、あまりよくわかっていないのですが、こういうのって作家さんに「お題」を出して書いてもらうんですよね。いずれ単行本になったりするのでしょうか。作家さんごとの単行本ならいくつか集めて1冊分くらいたまったら短編集になるとかなんですかね。この4作でお題ありきのアンソロジーみたいな形でもよさそうです。いずれにせよ、文芸誌のコスパは高いです。

    で、『犬たちの頭痛』ですが、小砂川さん得意のモチーフで、例によってちょっと変わったものとのインタラクションが描かれています。今回は、犬とAI犬(?)です。あと、今回は、え? ミステリー? みたいな展開も。

    あ、そうだ、すでに読んだ人と「これ、どういうこと?」と共有いたしたく、つまり読んだ人向けにいろいろ書きたくて、ネタバレしまくりますので、まだ読んでいない人は・・・

    2026年7月号 | バックナンバー | 集英社の月刊文芸誌「すばる」

    でね、マクが意図的に何かをしようとした、というのはありえないと思ったんですが、故意ではないにせよ、道案内を間違ったのか、ってあたりが明確になるのかなあ、なんて思って読んでいたら、けっこう急に終わっちゃったでしょ、何かをほのめかす感じで。

    太字になっていた、夫婦の言動とか、オチャッピイ(ネーミング!)の受信内容とかがヒントになっていると思うんですが、答え合わせまではしてくれていないので、ちょっともやもやっとしてまして。

    最後に消防署員が来て、あれ?何しに?と思ったら、指に土。そしてオチャッピイにも土。ということは犯人?

    夫が「お前らふたり」って言ってたから、奥さんと誰かの仲を疑っていて、果たして、本当にそうで、その「お前らふたり」が共謀して夫をドンッと。

    あらためて、時系列で整理すると、奥さんが消防署員と共謀して夫を山におびき出す。どこかいい感じのところ(消防署員は詳しいかもね)で突き落とす、でもそこじゃないところで事故があったと奥さんは証言して、捜索の目を逸らさせる。その作り話の被害者がマク。SNSでも有名だって書いてあったし。消防署員はオチャッピイを送り込んで、マク経由で情報を集める。死体は見つかりにくいところにあるものの、そのままにしておくと、いつ見つかるか分からないので、頃合いを見計らって、署員とオチャッピイでどこかに埋める、もしくは運び出す。そもそも、オチャッピイは消防署員が持ってきたものだから、グル(っていうかロボット犬だけど)という可能性は高い。

    なぜ、最後に山小屋を訪ねて来たのか? おじいさんを狙う理由もなさそうだし。もしや、マクがいろいろと知ってしまったから、マクの命を狙っているとか。そういえば、トイレを借りたいとか言っていたな。トイレで死体を処分するとか。まさか、本当にう❍こ?

    正直よく分かりません。読んだ人で、違う解釈をした人は教えてください。

    ミステリーっぽいところばかり書いちゃいましたが、浸食してくるテクノロジーみたいな要素もありましたね。AIロボット犬のせいで、マクやおじいさん(高野)はお役御免になりそうだし。SNSは悪意だけでなく善意もまき散らしてきて、およそ縁のなかった老人まで翻弄してしまうし。メディアが他者に語らせるようになるというのは面白い着想ですよね。何を言ったかではなく、誰が言ったかを気にするのが、人間ですから。

    (この記事はAIによって生成されました)

    ・・・うそよ。


    同じ特集として載っていた、村田沙耶香さんの作品も読みました。

    インターネットのない世界でのヲチ『喪失』(村田沙耶香 著)

  • 虚構の過去が現実に侵入してくる『トレーン、ウクバール、オルビス・テルティウス』

    何のきっかけで南米の作家の作品などを読むようになったのか記憶がないのですが、ホルヘ・ルイス・ボルヘスの本を何冊か持っていて、たまに読み返しています。

    私のお気に入りは『伝奇集』という短篇集に入っている『トレーン、ウクバール、オルビス・テルティウス』という作品です。はっきり言って、ボルヘスはハードルが高いです。『トレーン、ウクバール、オルビス・テルティウス』は文庫本で30ページもないくらいの短い作品ですが、非常に「濃い」です。知らない固有名詞が次々と出てきます。実在するものもあれば、架空のものもあります。南米の作家とか地名は、実在してても、多くの日本人には馴染がないでしょう。ましてや架空の著者や書籍なんかを引用された日にゃあ・・・、という感じなので、まずは細かいことは気にせずに、おおかたこんなんだろうと類推を働かせて、大きな流れを楽しむのがよいと思います。注釈を読んだりして精読するのは、2回目以降で。

    語り手の作家が、友人のビオイ=カサレス(実在するアルゼンチンの作家)と夜中に議論しているときに、こんなことがあった、みたいなところから始まります。ビオイ=カサレスはボルヘスの友人らしいので、このあとは語り手のことを「ボルヘス」と呼びます。リアリティが増していいでしょ。

    ビオイが「『鏡と交合は人間の数を増殖するがゆえにいまわしい』みたいな言葉を、ウクバールの異端の教祖が言っていたんだよ」と言うと、ボルヘスが「元ネタは?」と聞く。ビオイは「『アングロ・アメリカ百科事典』のウクバールの項に載っているよ」と。

    『アングロ・アメリカ百科事典』はメジャーな百科事典なので、議論をしていたボルヘスの別荘に置いてある。それで調べてみると、「ウクバール」なんて項目はない。ビオイは「あれ? おかしいなあ」って感じで、百科事典のあちこちを二人で探すんですが、徒労に終わります。ボルヘスは、ビオイのやつ、話をもっともらしくするために、その場ででっち上げやがったなと、むっとします。

    翌日、ビオイから電話がかかってきて、「今、百科事典の第46巻を見てるんだけど、ウクバールの項あるよ」と、昨日の言葉は、正確には、

    鏡と父性はいまわしい、宇宙を増殖し、拡散させるからである。

    だったよ、と。

    ビオイがその46巻を持参して、ボルヘスの46巻と比較すると、いずれも第十版の増刷分なのに、ページ数が微妙に違って、その差分がウクバールの項なわけです。

    なんじゃこりゃ? となるわけですが、ふとしたきっかけで、このウクバールを生み出そうとしている企みのことを知ります。架空の国の名前を百科事典に載せるというだけではありません。その国の歴史とか文化とか言語とか科学とか、あらゆるものを整合性のある形で創造しようとしているのです。1人や2人でできることではなく、それを成し遂げんとする秘密結社があり、ウクバールという一国・地域だけでなく、ウクバールを含むトレーンという天体の世界を作りだそうとしています。

    これらの架空の世界は緻密に想像されていて、その例が詳しく紹介されています。例えば、トレーンの言語には名詞が存在しません。「月」という名詞が存在しませんが、しいて訳するなら「月する」に該当する動詞があります。なので「月がのぼった」という現象は「上方に月した」と表現される、うんぬん。

    この「名詞が存在しない」という言語体系は、トレーンの人が生まれながらにもっている「唯心論」という考え方と関連していて、彼らは「存在」というものを信じていません。それがどういうものであるかを説明するために「九枚の銅貨の詭弁」という例があげられています。

    火曜日、Xは人気のない道を横切り、九枚の銅貨を失う。木曜日、Yが道で、水曜日の雨のためにすこし銹びた四枚の銅貨を見つける。金曜日、Zがやはり道で三枚を見つける。金曜日の朝方、Xはわが家の廊下で二枚を見つける。

    なんか、算数の文章題みたいですが、特に違和感のない内容だと思います。なくなったけど、あとで見つかったよ、という。ある教祖はこの例え話を使って、「人間には理解できない隠密なかたちにせよ」、銅貨がこの期間、存在していたと考えられるのではないか、と。

    (広義の)唯物論者である私たちにとっては当たり前のことなのですが、トレーンの人たちは消滅したものと出現したものを紐づけるという発想がありません。したがって、教祖の論法はそれらしい例を使って「単なる銅貨に存在という神聖なカテゴリーをあてはめようという冒涜的な」詭弁であると。

    このような感じで、トレーンの人々の思想・哲学、その議論の変遷、学術に与えた影響などが詳述され、この仮想の世界の持つ存在感が(小説の中でも、読者の中でも)増してきます。

    当初の百科事典の改竄くらいの活動なら悪ふざけの範疇のようにも思えますが、やがてトレーンに関する歴史的な遺物や考古資料のような、物理的な「もの」さえ見つかり始めます。そして、学校の歴史の授業にも、それらの虚構が侵入しはじめ・・・

  • 妊娠と文学『妊娠カレンダー』

    小川洋子さんの『妊娠カレンダー』読みました。妊娠した姉のつわりがひどく、そのとばっちりをうける妹が語り手。何を作ってもケチをつけてくる姉は、ほとんど何も食べられない状態でしたが、たまたま妹が作ったグレープフルーツのジャムにはまり、パンなどにつけるでもなく、カレーライスのようにスプーンで食べ続けます。妹はせっせとグレープフルーツのジャムを作る、姉はすぐに食べてしまう、妹は作る、姉は食べるというが毎日続きます。妹はスーパーで買うときに確認します。

    「これ、アメリカ産のグレープフルーツですか?」

    純文学系の作品でよく見かけるのですが、はたから見ると何も起きていないように見える、でも何か大変なことが起きているかもしれない。でも、結局何も起きてないんじゃないか、とかね。

    ネタバレですよ。要注意。

    作品の最後のところ。

    わたしは、破壊された姉の赤ん坊に会うために、新生児室に向かって歩き出した。

    多少多めに、発がん性のある物質を摂取したからといって、すぐに何か影響が出るとは考えにくい。普通に考えると、この程度で問題が発生する確率はごくごく低いでしょう。つまり、はたから見れば、あるいは、結果的には、妹は姉の好きな食べ物をせっせと作ってあげた、というだけの話です。

    羽田圭介さんの『スクラップ・アンド・ビルド』に出てくる、祖父を甲斐甲斐しく介護する孫を思い出します。

    死期を早めてあげるための介護とは?『スクラップ・アンド・ビルド』

    一見、何でもやってあげるやさしい孫なのですが、その目的は、頭も体も使わせないようにして、心身の機能を弱め、死期を早めてあげることだったりします。

    あと、思ったのは妊娠は文学になるんだなーということ。姉は難産になることを恐れているのですが、それ以上に・・・

    「でももっと怖いのは、自分の赤ん坊に会わなきゃならないってこと」
    (略)
    「ここで一人勝手にどんどん膨らんでいる生物が、自分の赤ん坊だってことが、どうしてもうまく理解できないの。抽象的で漠然としてて、だけど絶対的で逃げられない。(略)」

    そういえば、2026年上半期の芥川賞ノミネート作、鈴木涼美すずみさんの『悪い血』も妊娠が重要なモチーフでした。

    『悪い血』と私小説

    今までさんざん無茶な生き方をしていた自分が、結婚して子供産んで幸せになるなんてことは絶対にない、許されない。検査で子供に何か出るに違いないし、もしそうでなくても、どこかでしっぺ返しがくるはずだという考えに取りつかれた女性の行動が描かれていました。

    最近読んだ、井戸川射子さんの短篇集『移動そのもの』に収録されている『花瓶』の設定も、妊娠したお姉さんとその妹(語り手)が登場人物というものでした。

    『移動そのもの』と『旅は育ての親』

    姉妹そろって精神科医にかかっているようで、その医者への妹の独白が続くだけなので、どこまで客観性があるのかは分かりませんが、結婚・妊娠がきっかけとなって、ちょっとしたごたごたが発生しているような感じ。

    『妊娠カレンダー』に話を戻すと、文庫版のあとがきが興味深かったです。どんな話かというと、小川洋子さんが台所の床下収納を開けてみると、猫が死んでいたという話。

    そんな話をさらっとあとがきに書くなよー、と読み進めたら、実は腐った玉ねぎで、ぶよぶよになった玉ねぎが猫の頭蓋骨に見えたという落ち。でも、この先が面白くて、『妊娠カレンダー』は自分の経験を書いた作品か?と質問されることがよくあるらしく、そのたびに、「私の妊娠体験なんて、スーパーで買ってきた新鮮な玉ねぎそのもので、何の書かれるべき要素も含んでいない」と。玉ねぎが床下収納で腐ったり、それが猫の死骸になるところに小説があるのだと。

    日常のちょっとしたことに着想をえながらも、そのままじゃ小説になるようなものじゃない。新鮮な玉ねぎを買ってきたあとに、それを腐らせたり、猫の頭蓋骨にするのが作家の仕事なのだなあと。ちょっと想像できないので、これからも消費者として楽しませていただきたいと思っています。

  • 同級生との関係が長く続く秘訣?『いまさら』(古川真人著)

    平野啓一郎さんの『決定的瞬間 The Decisive Moment』を読むべく借りた『新潮』2026年5月号でしたが、例によって他の作品もつまみ食いしてみました。定期購読しているわけではないので、長篇はちょっと避けてしまいます。そこで、文芸誌にはたいてい3,4作は載っている短篇・中編を読みます。

    今回いくつか読んだ中で、グッとはまったのが古川真人さんの『いまさら』でした。登場人物の「四十近い」男性の三人は、中学生の頃からの知り合いで、半年に一度都内の居酒屋で集まるような関係です。

    その一人、養母田やぶたが直前になって会合に出ないと言い出すところから話は始まります。この会合の開催を主導したり、お店を選んだりと積極的なキャラが柿本。二人の関係を、一歩引いた感じで眺めているのが、メインの語り手の笹塚です。

    養母田と柿本は小学校からの知り合い、そこに中学校のときに笹塚が加わったという流れ。なので、笹塚は小学生時代の二人をあまり知らなくて、今回のごたごたで双方の言い分を聞いていく中で、二人の『いまさら』な過去を知っていくという展開です。

    小学校時代の話で二人で盛り上がっているときに感じる、残り一人の「蚊帳の外」感とか。場合によっては上下関係にも近いような、いじり・いじられの関係性、その関係性も時間が経つにつれて変化するもの、しないものがあったり。デリカシーのない小学生の「いじり」と「いじめ」の境界線って微妙で、それに起因する確執のようなものがあったりとか。まず、この誰もが経験したであろう、あるあるでつかまれます。

    私の経験ですが、活発な人気者が何かのきっかけで皆から疎まれるようになるとか、見かけたなあ。ちょっとしたことでバランスがおかしくなって、失脚するんですよね。小学校のときのガキ大将キャラが、中学校で別の小学校から来たガチのヤンキーみたいなのに出会って、急におとなしくなっちゃうとか。

    で、話を戻すと、三人の気軽な「言い分」レベルかと思いきや、けっこうドロドロとしたというか、簡単に消化しきれないような過去の出来事とか、それらをうやむやにしたままの微妙な関係性だとかが出てきて、ちょっとドキドキします。ものすごい、いやーな感じの読後感だったらどうしよう、みたいな。

    でも、安心してください。なんだかんだで、そんなに悪いことにはなりません。強気キャラの柿本、いじられキャラの養母田、それを一歩引いて見ている笹塚。笹塚は面倒なことには目をつぶり、自分をさらけださないという自身の消極性を自覚していて、そのことを否定的に捉えています。しかし、実はこの特性が二人からいろいろ聞きだして(自分は語らず、相手にしゃべらせて)、蝙蝠こうもりのように仲介して、でそ、れがなんか触媒のように働いて、結局関係は続いていく、みたいな。長く続く関係って、笹塚のような無意識の触媒が働いてるのかも。

    『いまさら』という言葉は、「いまさら、そんな話かよ」とか、「いまさら、どうしようもない」みたいな後ろ向きのニュアンスで使うことが多いですが、「いまさらだけど反省する」とか「いまさらだけど、きちんとしておく」とか、そういう積極的な意味合いも込めることができるのだなあと、いまさらながら感じました。

  • 『移動そのもの』と『旅は育ての親』

    BSよしもとの『俺の推し本』で中野なかるてぃんさんが紹介していたのを見たのが、この『移動そのもの』(井戸川射子 著)を読んだきかっけです。紹介していた中野さんは、表題作の『移動そのもの』について、ストーリーはわけがわからないが、一行一行が面白く、詩のようだ、みたいなことを言っていました。その世界を確認すべく、読んでみたというわけです。

    9作入った短編集で、『移動そのもの』は変だけど比較的はっきりとしたストーリーがあるという点で、他の8作と比べても、読みやすいほうだと感じました。まずはこれを読んでみて(立ち読みは1分まで)、気に入ったら買うとかどうでしょうか。

    二人の男、年長のアリシマ、年下のトオシキが島の中を徒歩で移動しながら、他人の葬式をみつけては、遺族のふりをして遺産や遺品の分け前をもらい、それで生活している。ふとしたきっかけで、チンパンジーとシマウマと出会い、一緒に行動するようになる。

    みたいな序盤です。ほら穴で暮らしていたり、チンパンジーとシマウマが出てくるあたりから、なんとなくアフリカのようなイメージを持ちながら読んだのですが、「アリシマ」という名前がちょっと日本っぽい。それに、

    「これも見てごらん、新しいよ。貝の内側に小さな大仏を付着させて、それが真珠層で覆われているんだね。仏像真珠だ」

    みたいな、アリシマの台詞があります。アフリカで「大仏」とか「仏像」というのものねー。他にも、「そういえば神社で葬式っていうのは、あまり聞かないね」とか「七五三も神社だよね。」という台詞も出てきます。場所の設定自体に重要性がない、あるいは、あえてそこを曖昧にすることの効果を著者は狙ったのでしょうか。なので、アリシマとトオシキの風貌も、葬式のイメージも具体的にはわきません。いや、頭の中では強制的に具体化していても、読者ごとに全く違ったものになっていそうな気がします。

    ある葬式に参加して、アリシマが遺品(遺骨とそれを入れる容器)をそれとなく要求すると、遺族は詐欺であることを悟ったのか、シマウマと交換だとか、殴らせろとか、態度が急変します。アリシマは抵抗はせずに、さんざん殴られたあげく、錆びたコップに入った遺骨を手に入れます。

    単に詐欺に失敗したなら、そんな遺骨はその辺に捨てるのでしょうが、アリシマはその遺骨を大事そうに丁寧に別の容器に移し替えたりします。

    くだらないものの代償にシマウマを差し出したアリシマの行動に納得がいかないトオシキは別行動をはじめ、シマウマを連れた遺族のあとについていきます。

    後半は、アリシマとチンパンジーのやりとり、トオシキとシマウマのやりとりがメインですが、この二匹の動物が、おとぎ話やファンタジーによくあるような、言葉を理解するほど知的な存在なのか、それとも、ごく普通の動物なのかも判然としません。そして、トオシキ自身も、「シマウマはあのやり取りを分かっていたのだろうか」「もとから言葉など通じていなかったのだろうか」「言ったことが絶対に伝わったという瞬間も、今まではあったのに」など、疑問に思いながら話しかけていたりします。

    終盤のチンパンジーの意外な行動、新しい土地に居つくことを決めるトオシキ、なんだか不思議な余韻を残しつつ、話は終わります。

    んー、変なストーリですが、登場人物がいて、会話があって、イベントが起こって、という点では読みやすい気がします。

    二作目に収録されている『花瓶』などは、語り手の女性が(たぶん)精神科医に向かって話し続けている、その話だけで構成されています。医者のリアクションもないし。最後まで独白に近い形で展開します。

    短編集全体が実験的なスタイルの作品ばかりなんですね。万人受けすることを狙っていない感じがすばらしいです。きっと大ヒットはしなくて、でも熱狂的な一部の読者が感銘を受けている、みたいな。

    そして、ここまで「言葉で遊ぶ」か、と思ったのが、最後に収録されていた『旅は育ての親』です。

    こんな書き出しです。

    皆の靴や裸足が、地を掘り泥にまみれている。裸足などよく耐えられるものだと、犬持ちは思う、こちらも犬を抱く背負うの動作を繰り返すので、肩や胴は泥だらけだが。

    短編ので出だしは、頭をフル回転させて、状況を把握しにいきますよね、みなさん。「犬持ち」って何でしょうか? 「家持ち」とか「妻子持ち」なんて言い回しがあるので、一般的な意味で「犬を飼っている人」のことを、そう呼んでいるんでしょうか。

    例えば、「家賃なんか払ってられないよと、家持ちはよくそういうことを言う」くらいのニュアンス。でも、その直後、

    (略)犬持ちは着衣の時も靴下から履く、(略)

    この時点では、犬を飼っている人ってそうなの? みたいに思ってました。

    苔貼りは裸足の足で感触を楽しむ、(略)

    花飾りは、自身にへばりつく花びらを、良い角度でそこにあるかを手で撫で常に確認する。

    「苔貼り」は何かそういう行為、「花飾り」はアクセサリーだと思ってました。「花飾りは」と主語になるのは変ですが、これは「舟唄」の「肴はあぶった イカでいい」の、「肴は」みたいに、主語ではなく主題としての使い方ですね。「花飾りに関しては」くらいの。

    まあ、真剣にそんなことを考えながら読んでいたわけではないのですが、なんとなく読み流していたんです。でも、全部読み間違えていたことに、以下の一文で気づきます。

    (略)仮装行列は年に一回なので、(略)

    仮装している人物を指している呼称だったんですね。このあとも、一緒に行動している仮装仲間が登場します。

    「獣真似」「泥塗り」「翼背負い」。 ・・・どんな仮装だよ。この6人が仮装行列をしている姿が描かれていたんですね。タイトルによれば「旅」でもあるわけです。

    旅の過程でちょっとした出来事なども起こるのですが、登場人物たちの「仮装」のクセが強すぎて、出来事の内容が入ってきません。でも、ここでグッと心をつかまれました。

    (略)犬持ちは犬の相手をずっとしている、ずっとで重くないんですか、と問われれば、ちょうどいい重さですと答える、(略)

    あー、ずっと犬を「持って」いるのね。そういう仮装なのね。それは仮装なのか?

    小説だからできる表現ですよね。映像だったら、やっぱり犬を持っている絵を出さざるを得ない。文章だと、「犬持ち」がどんな感じかは触れずにおいて、その後何気なく姿・形を開陳する。

    そして、さらにボケは続きます。

    獣真似は多くの獣を真似ようと、跳ねたり走り出したりする、演技は仮装とはまた違うだろうと、泥塗りなどは思うが。着ている服が普段着なのは、毛皮など何色を選ぶかで、何の獣か決めてしまうようなものなので選べなかったのだ。

    獣真似は普段着でした。

    これは確信犯ですね。獣真似の名前や言動から、おおかた毛皮のコスチュームでも来てるだろうと想像させておいての、泳がせておいての、普段着。

    読者はどう想像するかなー、勘違いするかなー、分かるかなー、わけわかんねぇって怒るかなーって感じで、にやにやしながら書いているに違いない。

    カフカもやっていた悪ふざけだな。城に雇われているのに城にたどり着けないとか、逮捕されたのに自由に行動できるとか。

    ・・・ということで、普通の小説に飽きた人は読んでみてください。「本読み」の「駄文書き」がお届けしました。

  • 『決定的瞬間 The Decisive Moment』なんか読まなければよかった

    本はぼちぼち読んでいたのですが、それらは文庫本か単行本で、文芸雑誌というものは、つい最近まで(=50年間以上)読んだことのない状態でした。が、最近、文芸雑誌の魅力に気づきつつあります。

    きっかけは、芥川賞のノミネート作をいち早く読みたいという理由でした。ノミネートされた段階では、単行本化されていないこともありますし、単行本化されていても図書館では予約がたくさん入っていて順番待ち(自分に順番が回ってくる頃には次の芥川賞が発表されている、みたいな人数)になることも多いです。

    でも、文芸誌は図書館利用者の中でもあまりメジャーな存在ではないのでしょうか、(利用者のマークが)けっこう手薄です。単行本に予約が殺到している中、その作品が掲載された文芸誌は待ち人数ゼロ、みたいなときもあります。検索システムのせいかもしれません。「簡単検索」みたいなテキストボックスに作品名を入れても、掲載された雑誌はヒットしないシステムが多いように思います。私が利用している2つの自治体の図書館システムでは、雑誌の内容については雑誌専用の欄に入力して検索しないとうまく見つけられません。

    村上春樹さんの『夏帆─The Tale of KAHO─』がもうすぐ出るぞーってときに、あれ? もしかしたら過去に雑誌に掲載されていたりする? って思って、検索してみたら1章から4章まで全部雑誌で読めるじゃんということに気がつきました。単行本化にあたって加筆や修正はあるでしょうけど。

    ということで、ここまでが前置きでした。イントロさえも短く短くというこの時代に、本題に入らないまま、だらだらと書き続けてしまいました。B’zの「LOVE PHANTOM」なみですね。「LOVE PHANTOM」は、なんというか、こう、期待を盛り上げていく感じがありますが、私の前置きはどうだったでしょうか。いらいらが募ったでしょうか。というか、きっと読むのをやめたのではないかと思います。つまり、これを読んでいるのはあなた一人です。あれ? でもあなたの後ろにもう一人・・・

    つまり、何が言いたいかというと、平野啓一郎さんの新作がちょっと前の『新潮』(2026年5月号)に載っていて、それを読みました、ということでした。タイトルは『決定的瞬間 The Decisive Moment』です。さっそく知らない単語が出てきました “Decisive”。

    意味はですね。”If a fact, action, or event is decisive, it makes it certain that there will be a particular result.”(Collins COBUILD Advanced Learner’s Dictionary)だそうです。

    中高生のときに、英英辞典をすすめてきたりする英語の先生とかいませんでした? 知らない単語の説明が、知らない単語でなされているとか無間地獄じゃないか、思っていました。でも不思議なもんですね、50代になるとなんとなくわかるものです。この調子なら80代になる頃にはもっとすらすらと読めることになっているでしょう。

    でも、この “decisive” の意味やそのニュアンスについては作中に出てきますので、あまり気にしなくてもOKです。

    「すらすら読める」と言えば、この『決定的瞬間 The Decisive Moment』はすらすら読めました。断片的な記録、会話、資料のようなちょっと変わったスタイルになっていて、過剰な風景描写や心情描写がないところが私の好みでした。物語のパーツを集めていく感じでしょうか。芥川龍之介の『藪の中』みたいな。

    内容に少し入りますと、主人公の学芸員(香澄)が故人の写真家の展示のためにアトリエで作品を整理していて、ちょっとまずいものを見つけてしまう。うやむやにすれば、展覧会は開催できるだろうけど、それを上司に相談したという判断によって、開催が難しくなっていく。

    正しい判断を毅然と行うことで、困難を無事に克服。・・・とならないのが文学なんですかね。(特に昨今の)コンプライアンス的には、香澄の行動は正解に近い感じがするけど、見つけたものについて、人に話したことによって、まわりに与える影響があまりにも大きすぎる。写真家にも、写真家の遺族にも、香澄にも。

    見つけたものに対しての対応という自分の判断もそうだし、もしこれを見つけていなかったら、気づいていなかったら、無事に展覧会が開催できていたら、というパラレルワールドが頭をよぎる。このあたり、平野氏の『息吹』とも共通するテーマかもしれません。ただ、香澄の思い浮かべるifの世界は手放しで喜べるようなものでもなかったりします。

    「知らなければよかった」なんてシチュエーションは月並みです。しかし、知ったことによって、「知らなかった世界」にも「知ってしまった世界」にも違和感や抵抗感や嫌悪感を感じるようになってしまったら・・・。いったい、どうだったらよかったのか・・・

    ああ、こんな小説読まなければよかった。(というのは最上級の賛辞です)


    同じ号の『新潮』に載っていた、『いまさら』もなかなか面白かったです。

    同級生との関係が長く続く秘訣?『いまさら』(古川真人著)

  • 『あなたが走ったことないような坂道』の選評の既視感

    (アイキャッチ画像は「香港は死んだ – 産経ニュース」より)

    たまたま読んだ小説が面白かったりすると、なんだか得をした気にになります。村上春樹さんの『夏帆』が小出しに掲載されたときの文芸誌を図書館で借りて読んでました。読もうと思っていたもの(つまり『夏帆とシロアリの女王』過去記事リンク)だけを読んで返すのがいつものパターンです。しかし、通勤時に鞄に入れていた本が、その日は『新潮』2025年11月号だけでした。『夏帆』は行きの電車で読み終わってしまい、昼休みと帰りに読むものを物色していました。表紙に「第57回 新潮新人賞発表」と書かれており、2作が受賞していたのですが、短いほう(90枚)の有賀未来みくさんの『あなたが走ったことないような坂道』を読むことになったというわけでした。

    崩した文体で一気に(あるいはだらだらと)語る文体は、満員電車で読むのにぴったりでした。足を組んでいる人や、1.1人分の場所をとる人、老眼のせいかこちらにでっかいスマホを突きつけてくる人などのことを意識から排除できました。+5分の余分な待ち時間と引き換えに手に入れた特等席で、私は読書に集中することができました。

    受賞作品のお楽しみといえば選評です。「全部面白かった」で済まされないので、選評を依頼される作家さんはそれなりに大変でしょう。同業者への厳しい批評はブーメランになって帰ってきたりして。帰ってくるなら、まだいいけど、何一つ飛んでこないとか。(のちの)この大人気作家をこき下ろしている、この作家って誰だっけ? とか言われちゃったりして。売れるのがすべてではないけれど。

    でも、選ぶ理由を語るからには、選ばなかった理由も語らなきゃいけないんでしょうね。良いとこだけを言う審査というのはやっぱり成立しないんですかね。M-1グランプリでの審査員のアドバイスを素直に聞いていたら、特徴のない漫才師が増えてしまいそう、と心配。「そんなアドバイス、聞き流して!」といつも願っております。

    さて、今回の選評のキーワードは「既視感」でした。(太字は私がつけたもの)

    大澤信亮さんの選評より。

    いわゆる崩れた若者文体だが既視感があった。

    次は、小山田浩子さんの選評。

    母国や母語への混乱や悲しみや怒りが表現されているのはわかるが、書きたいところ・思いついたところをそれっぽく書き散らしているような印象をどうしても受けてしまうし書かれている内容にも既視感があった。

    最後は、又吉直樹さん。

    母語喪失、セクシュアリティの問いという題材が持つ既視感は拭い切れないが、(略)

    なんというか、「既視感を低評価の理由にする選評」に既視感を覚えました。最近はお笑い芸人のネタやフリートークでもよく出てきますね、「既視感」というワード。

    「見たことのない景色」くらい、見たことのある言葉になってきました。こうなってくると、そろそろ「使うのがちょっと恥ずかしいワード」認定をするべきでしょう。だから私は「既視感」という言葉を今後は使わないことにします。これからはですね、こういうときは・・・、「デジャヴュ」と言うようにします。最後の「ヴュ」のところで、ちょっと頬を赤らめます。

    実は、又吉さんの選評の、さっきの部分の後ろは、

    ・・・既視感は拭い切れないが、現代を描くなら避けては通れぬ必然。

    と続いていて、特に悪くは書いていませんでした。しかも、全体的に肯定的なトーンでした。申し訳ございません、わたくし悪意のある「切り抜き」をやってしまいました。流刑にでもしてください。佐渡よりはオーストラリアのほうがいいです。

    でもね、選評を書く側も苦労しているんだと思います。「もし、あまり良くなかったところをしいてあげるとすれば、いえいえ、それはあくまで私が思った、というだけですが、このあたりですかね」くらいの気持ちで書かれていることと思います。そうでない感じのやつもよく見かけますが。

    こんな、厳しいことを言わなければいけない立場の人からの言葉を聞くときにぴったりなのが、ブルーハーツの『人にやさしく』のフレーズです。

    期待はずれの 言葉を言う時に

    心の中では ガンバレって言っている

    聞こえてほしい あなたにも

    厳しめの選評を書かれた作家さんたちの「ガンバレ」が、新人作家さんたちに届いていることを願っております。JASRACが何か言ってこないことも願っております。