森見登美彦さんのことを知ったのは『太陽の塔』で、長男が中学生か高校生の頃に宿題の読書感想文を書くとかなんとか、そんな理由で買った本が家にあったのがきっかけです。読んだような記憶があります、そして、おい、これで感想文書けるのか? とちょっと心配になった記憶もあるのですが、なんと、内容は全く覚えていません。なんだか、疾走している場面で遠くに太陽の塔が見えている、みたいなそんなイメージが思い浮かぶのですが、私の妄想かもしれません。
そして、次に意識したのが『成瀬は都を駆け抜ける』で森見氏の名前が出てきたときで、この『成瀬』の単行本は次男が買ったものでした。受動的な読書姿勢。
そして『ペンギン・ハイウェイ』は妻が図書館で借りて、次男にすすめていたので、私も読むことにしました。読むことにしたのですが、貸し出しの期限が来てしまったので返却し、再度借りようと川崎市の図書館システムで検索してみると、たくさんヒットしまして、まず単行本と文庫本版、そして角川つばさ文庫版。これは児童・生徒向けのいわゆるヤングアダルト層向けのやつで、振り仮名がたくさん振ってあって、挿絵が入っているやつですね。そして、英語版、韓国・朝鮮語版。『ペンギン・ハイウェイ』はいろんな言語に翻訳されているんですね。検索してみるとなんとイタリア語版もあるみたいで。韓国・朝鮮語版があるあたり、川崎っぽいですね。「音楽のまち・かわさき」(公式)、「映像のまち・かわさき」(公式)、「焼肉のまち・かわさき」(非公式)。
角川つばさ文庫版に惹かれましたが、電車で読むときにちょっと恥ずかしいので普通の文庫版にしました。
主人公はアオヤマ君という小学4年生の少年です。小説に限らず物語には「理想的な人物」というのが登場することがありますよね。アオヤマ君は私の考える「理想的な人物」ですね。単に優秀だからというわけではなく、優秀な自分を実現するためにかなり自覚的に努力しているところがかっこいい。
書き出しで、かましてきます。
ぼくはたいへん頭が良く、しかも努力をおこたらずに勉強するのである。
だから、将来はきっとえらい人間になるだろう。
こんな感じだと、さぞ、うぬぼれているのかと思いきや、そんな印象はありません。なぜだろう? 他者から矛盾点を指摘されたりすると、素直に認めたり、謝ったりする謙虚さはありますね。そして、極めつけは、やっぱり怒らないところだったりします。
ウチダ君というおとなしい男の子と一緒にいるときに、いじめっ子のスズキ君グループにひどい目にあわされます。ウチダ君はその場から逃げ出すのですが、アオヤマ君は動けないようにしばりつけられたうえに、探検地図を奪われ、ノート(アオヤマ君はいろんなことをノートにメモしている)も、スズキ君たちにおしっこをかけられダメにされてしまいます。
その翌日に学校でウチダ君が話しかけてきます。
(略)彼は「アオヤマ君怒ってる?」とヘンなことを言うので、ぼくはたいへんおどろいてしまった。「なんで?」
「日曜日、ぼくはアオヤマ君を見捨てて逃げたから」
「怒ってない。ぼくは五歳になったときから、決して怒らないのだ」
(略)
「あれはかしこい判断だった。あのときウチダ君がもどってきても、二人いっしょにつかまるだけだった。だから君がつかまらなかっただけましだったとぼくは考える」
怒らないことにしているというポリシーもすごいけど、見捨てられたという感情的な側面ではなく、被害を最小限にするための行動をとるべきだったという合理的な考え方。
そして、このあとに名言が出ますよ。なぜ怒らないのか不思議がるウチダ君はアオヤマ君に訊きます、
「アオヤマ君はスズキ君にも怒らないんだね」
「怒りそうになったら、おっぱいのことを考えるといいよ。そうすると心がたいへん平和になるんだ」
小四にして、なんという処世術。
この何が起きても怒らない、というスタンスには神々しさすら感じます。湧き上がる怒りに対してどう接するべきかについては、仏陀がダンマパダ(『ブッダの真理のことば・感興のことば』)の中でも説いています。
第17章 怒り
(略)
222 走る車をおさえるようにむらむらと起る怒りをおさえる人――かれをわれは〈御者〉とよぶ。他の人はただ手綱を手にしているだけである。(〈御者〉とよぶにはふさわしくない。)
223 怒らないことによって怒りにうち勝て。善いことによって悪いことにうち勝て。わかち合うことによって物惜しみにうち勝て。真実によって虚言の人にうち勝て。
アオヤマ君は〈御者〉とよぶにふさわしい人格をそなえていて、すでに悟りに近いところにいるのかもしれません。別の意味でむらむらしそうですが、そこはおいておきましょう。このアオヤマ君の怒らない、真実を語る(極力そうしようとする)というスタンスが人物を魅力的にみせ、このアオヤマ君とお姉さん、アオヤマ君とウチダ君やいじめっ子スズキ君たちとの会話を興味深いものにしています。
いくつかの「研究」を主導しているのはアオヤマ君で、ウチダ君は自身の「研究」についてはあまり話そうとしないのですが、アオヤマ君を信頼するにいたって、ウチダ君は「主観的観念論+パラレルワールド」のような斬新な自説を披露します。
「ぼくが死んだあとの世界のこと。ぼくが死んで、そのあともみんなは生きていて、でも生きているみんなについてぼくはもう考えることもできないってこと。それはどういうことなんだろうって考えていた。ずっと考えてきて、ぼくは気づいたんだ。もしかすると、ぼくらはだれも死なないんじゃないかなって。」
(略)
「(略)ほかの人が死ぬとき、ぼくはまだ生きていて、死ぬということを外から見ている。でもぼくが死ぬときはそうじゃない。ぼくが死んだあとの世界はもう世界じゃない。世界はそこで終わる」
でも、他の人にとっての世界はまだ存在しているよね、と訊くアオヤマ君にたいして、一つの「線」ともう一つの「線」という表現をつかって説明するウチダ君。しばらく不思議な議論が続きますが、メインのストーリーは、このウチダ君の研究とは特に関係なく続いていきます。ん? もしかしたら、関係があるのか? 私が気づかなかっただけ? 続編で伏線が回収されるとか。
それはさておき(話を滑らかにつなごうという努力を怠るところが私の欠点です)、アオヤマ君の科学的思考は、お父さんの影響を受けていて、こんな「三つの役立つ考え方」を教えてもらったりしています。
□ 問題を分けて小さくする。
□ 問題を見る角度を変える。
□ 似ている問題を探す。
なんだか、ジョージ・ポリア先生が『いかにして問題をとくか』(過去記事:『いかにして問題をとくか』と『エレガントな問題解決』)の中で書いていた方法との関連性も感じます。
このあたり、
◇ 条件の各部を分離せよ、それをかき表わすことができるか。
◇ 前にそれをみたことがないか、又は同じ問題を少しちがった形でみたことがあるか。
◇ 似た問題を知っているか。役に立つ定理を知っているか。
うん、共通点ありますね。ね?
『ペンギン・ハイウェイ』は4つの章に分かれていて、4つ目の「episode 4 ペンギン・ハイウェイ」の章では一気にクライマックスが訪れます。ここ、ちょっと私はしんどかったです。想像力が鈍っているのかもしれません。ペンギンはまあ思い浮かぶとして、「〈海〉」とか「ジャバウォック」とか、そもそも自分の頭の中で整理しきれていないものが、変形したり、湧き出たり、消えたりすると自分の想像力がついていけず、知恵熱が出そうでした。
こういうのは映像で見られたらいいですよねー。アニメ化とかしたらいいんじゃないですか?
・・・ あー、すでにアニメ映画化されてました。しかもNetflixで見られるじゃないですか。私は吝嗇なので、そう簡単にサブスクにお金払ったりするタイプじゃないのですが、息子が勤めている会社の福利厚生(?)なのか、リビングのテレビでNetflixが見られる状態になっているので、たまに見ています。今『地面師たち』を見ているので、見終わったら、映画『ペンギン・ハイウェイ』を見てみようと思います。そろそろ、人が死なないやつを見たかったんですよねー。


コメントを残す