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勝手に読書感想文。漫画も映画も含みます

タグ: アメリカ

  • 『風の歌を聴け』の芥川賞選考委員の選評

    村上春樹氏のデビュー作はいつか読まねばと思っていたのですが、のびのびになっていました。デビュー作の『風の歌を聴け』の初出は1979年です。私はかろうじて生まれていましたが、やっと漢字を習い始めたという頃でしょうか。『大きなかぶ』や『スイミー』は読みましたが、村上春樹は読んでいませんでした。

    なので、今さらながらですが読んでみました。そして、読む直前にこの『風の歌を聴け』が芥川賞にノミネートされていたこと(そして逃したこと)を知りました。村上氏が芥川賞を獲っていないことは、たまに話題になりますよね。意外だという印象だったり、授賞(あげるほうの視点ですね)しそこねたみたいな文脈だったり。芥川賞って、時の運というか、タイミングみたいなものも大きいですよね。作家キャリアの初期にしか対象にならないし、ライバルである他の候補作の具合とか、時代というか、その時の選考委員が誰だったかにもよりますし。

    なんだかM-1グランプリみたいなお笑い賞レースを連想します。すごく売れている芸人が意外にも無冠だったり、何年も前に優勝した人が今はそれほどでもなくて、「えっ? 獲ってたんだ」みたいなのとか。あと、審査員に上沼恵美子がいるかどうかが影響したりとか。

    本の話から入ったくせに、なかなか本の内容に入らないのが、私の唯一の欠点です。自己評価が甘いというのは長所です。

    本のことを話すときに、あれよりもこれの方が面白かった、みたいな言い方は何だか違うような気がしていて、せめて「インパク知」とか「バカシブ」みたいな2軸にする必要があるんじゃないかとか。もっというと、「バカ」と「知的」に優劣関係はないんだとか。

    しかし、君子は豹変し、『夏帆』より『風の歌を聴け』のほうが面白かった、などと言いたくなったりもします。ある作家の最近の作品と過去の作品を比べ、昔のやつのほうが面白かったなどというのは、昔の曲ばかり聞きたがる、アーティストの心、ファン知らずな感じで、もっと最近の曲もリクエストしてよ、と思ったりもします。

    でも、ここ数ヶ月で読んだ本の中で一番良かったんですよね。どこがいいって、鼻につく感じのところがいいです。学生ふぜいが毎日のようにバーで酒を飲んでいたり、車を乗り回していたり(←多分に悪意が含まれる表現)するところが。

    そして、悲劇といえば悲劇だが、どん底と呼べるほどではない、ちょっとした心の傷があったり。小粋なトークで、それを小出しにしたり。

    なんか悪口言っているみたいですが、物事はそんなに単純ではありません。前述のような表現にだんだん引き込まれていくんですよね。

    登場人物が「演じている」感じがいいです。無口な主人公がぽつりと何かひねったことを言う。それに対し、会話の相手は、「ちょっと何言ってるかわからない」とは言わずに、同じくらいひねった、端的な言葉を返す。

    演じる主人公と演じる女の会話、演じる主人公と演じる友人のやりとりが、次第に世界を作っていって、どこにもないような無国籍な空間を作り出す。かなり独特な雰囲気を持っています。この空気感を出せるのが村上氏なのでしょう。

    芥川賞にノミネートされると嬉しいのは、選考委員の選評が読めることです。『風の歌を聴け』についても、芥川賞のまとめサイトにノミネート時の選評が載っています。

    村上春樹(むらかみ はるき)-芥川賞候補作家|芥川賞のすべて・のようなもの

    一番上に載っていた丸谷才一氏(53歳)の評言が以下のようなもので、

    「アメリカ小説の影響を受けながら自分の個性を示さうとしてゐます。」

    「もしこれが単なる模倣なら、文章の流れ方がこんなふうに淀みのない調子ではゆかないでせう。それに、作品の柄がわりあひ大きいやうに思ふ。」

    え、そんな昔? と思ったら、他の選考委員の人は普通の日本語で書いていて、丸山氏だけがこんな口調。落語の「たらちね」の奥さんみたいな人なのかもしれません。他の選考委員のメンバーを見ても、丸山氏はどちらかというと若いほうで、彼だけがこんな言葉遣いなのは変な感じです。きっとこのやうな表記へうきの仕方を好む人だったのでせう。

    選考委員の顔ぶれがすごいです。井上靖(72歳)、開高健(48歳)、遠藤周作(56歳)、大江健三郎(44歳)などなど。大江健三郎が最年少。

    このメンバーになら、ボロクソに言われてもしょうがないか(ってこともないでしょうが)と思いきや、意外にポジティブな意見も多く、でもあともう一歩的な感じが目立ちました。

    ということで、過去の受賞作やノミネート作を読むときは、選評をあわせて読むと一粒で二度味わえます。でも、変な先入観を持たないで読むためには、作品を読んだ後に選評を読むほうがよさそうです。

  • 美化上等、映画『Michael/マイケル』

    映画『Michael/マイケル』、劇場で見てきました。映画館に行くことは滅多にないので、これは貴重ですよ。1つ前に見に行ったのは『国宝』で、これは最近ですね。でも、もう1つ前は子供を連れて行った『クレヨンしんちゃん』なんですが、いつだったかは記憶があやふやです。忍者の話だったような・・・。

    『Michael』は前提知識なしで見ました。主演がマイケルの甥っ子(ジャファー・ジャクソン。本作がデビュー作とのこと)だというのもあとから聴きました。子供時代を演じた子役も、ジャファー・ジャクソンも、曲のシーンのパフォーマンスがすごいです。ストーリーとかさておいて、このパフォーマンス部分だけで楽しめます。

    誰もが知っている曲を楽しんでいるだけで時間が過ぎていきます。でも・・・、このあと児童性的虐待疑惑の話とか、鎮痛剤の過剰摂取と言われている死因だとか、どちらかという暗い、重たい話に移っていくのかなー、などと勝手に心配しておりましたが、いい感じのところで、尿意をもよおす暇もなく、突然終わりました。なので、ファンの方、安心して見られますよ。

    Wikipediaには、

    批評家からは概ね否定的な評価を受けており、ジャファーの演技は称賛されたものの、物語は「美化されている」と批判された。

    なんて書かれていますが、なにもドキュメンタリー映画を見て史実を確認したい、というわけではないんで、多少美化しているくらいがちょうどよいです。スターってそういうものでしょ。MTVのエピソード(当時、黒人のMVは避けられていたというのも驚きですが)とか、ジャクソン5の最後のツアーをやりとげるあたりも爽快です。

    そして、あのドン・キングも登場します。気づいたときには、テンションがあがりましたね。髪型で分かりました。というより、髪型でしか分かりませんが。ドン・キングといえば、マイク・タイソンです。マイク・タイソンも本名はマイケルですね。 で?

    親父が悪役すぎる以外は、楽しい映画ですので、安心して見てください。ポウッ!

  • 『フラニーとゾーイー』に出てくる『巡礼の道』は、『無名の順礼者』というタイトルで出版されている

    私がこの『無名の順礼者』という本を読むことになったきっかけは、J.D. サリンジャーの『フラニーとゾーイー』にこの本が登場したからです。

    短篇『フラニー』の中で、フラニーが読んでいた『巡礼の道』というタイトルの本が、この『無名の順礼者』です。タイトルが異なりますが、同一のものを指しています。『無名の順礼者』の表紙には英語版の書名である『THE WAY OF A PILGRIM and THE PILGRIM CONTINUES HIS WAY』というタイトルも併記されています。”pilgrim”とは巡礼者のことです。『(ひとりの)巡礼(者)の道(旅) そして 巡礼は旅を続ける』くらいの意味でしょうか。

    日本語で「巡礼」というと「巡礼する行為」を指すこともありますし、「巡礼する人」を指すこともあります。後者の使い方は前者ほど一般的ではない気がしますが、「一人の巡礼がいた」とか「巡礼さん」とか、そんな使い方もします。行為としての巡礼を表すのには “pilgrimage” という単語があるので、『フラニー』に出てきたタイトルは『巡礼(者)の道』と解釈するのが自然でしょう。

    また、日本語には「巡礼」「順礼」の2つの表記があるので、ややこしいですね。とにかく、両者が同一のものであることは、書籍の内容でも確認できました。

    『フラニー』中では、こんな感じで登場しています。ボーイフレンドのレーンから、さっき読んでいた本は何? みたいに聞かれ、フラニーは答えます。(引用は新潮文庫の野崎孝 訳からです)

    「題は『巡礼の道』っていうのよ」(略)「図書館から借り出したんだけど、今学期出ている『宗教概説』っていうの、それを教えている先生が名前を挙げた本なの」

    「誰が書いたんだい」

    「知らない」(略)「ロシアのお百姓さんみたい」(略)「全然名前が出てないのよ。最後まで名前は分からないんだな。作者はね、自分が百姓だということと、歳が三十三だということと、片方の腕が麻痺してるということしか言わないの。それから奥さんがなくなったということ。みんな1800年代のことなんですって」

    説明は続きます。

    「(略)初めはね、そのお百姓さん――というのが、その巡礼なのよ――これが、聖書の中に、絶えず祈れとあるのはどういうことなのか、その意味をつきとめたいと思うの。ね、分かるでしょ。休む間もなく祈るんだわ。テサロニケ書かどこかにあるでしょ。そこで、その人はね、絶えず祈るにはどうすればいいのか、それを教えてくれる人を探してロシア全土の旅に上るの(略)」

    このあと、巡礼者は街で出会った子供に連れられて、彼らの家に行くというシーンがあります。そこで、フラニーが「これまでに読んだ本の中の誰よりも好きだわ」と形容する夫婦にもてなされます。

    では、今度は『無名の順礼者』のほうからの引用です。

    聖堂に入り、しばらくお祈りをしてからふたたび歩き始めますと、わたしのうしろから「順礼さん、順礼さん、ちょっと待ってちょうだい」という声が聞こえました。こうわたしに呼びかけたのは、さきほど教会のそばで遊んでいた、男と女の二人の子どもです。(略)「わたしのお母さんは順礼さんが大好きだから、お母さんの所へよって」

    これと同じシーンが『フラニー』にも出てきます。「順礼さんが大好き」というのも変な表現ですが、この家の「奥さま」は巡礼者に親切にしたり、巡礼者の話を聞いたりするの好きみたいな感じです。

    お昼の時間になり、その家の食卓に着くのですが、奥さん以外にも食卓に同席している女性たちがいます。その女性たちはお皿を運んだりといった給仕をしながらも、一緒の食卓で食事もしているという状況です。巡礼者はちょっと不思議に思い(通常は「主人」なのか「召使い」なのかが明確なはずなので)、

    わたしは奥さまに、「失礼ですがこのご婦人がたはご親類のかたですか」と尋ねてみました。すると奥さまは、「そうです。みんなわたしの姉や妹です」と言って一人々々をゆびさしながら説明してくれました、「この人は家のコックさん、あの人は御者の奥さん、それからそちらがわたしの小間使いの人です」

    私は最初、肉親である姉や妹がコックや小間使いをしているのかと勘違いしてしまいましたが、この「奥さま」の発言については、フラニーの説明を聞くと、腑に落ちます。再び『フラニー』からの引用。

    「みんな召使なんだけど、いつも自分たち夫婦といっしょに坐って食事をする、それはみんながキリストにおいて姉妹きょうだいだからだって」

    「みんなわたしの姉や妹です」という奥さんの発言は比喩なんですね。フラニーはこのシーンが気に入っているようで、

    「わたしはね、その巡礼が、そこにいるご婦人がたは誰かって尋ねるとこ、そこがとてもいいと思ったの」

    と言います。

    このあたりのフラニーとレーンの会話は食事中に行われています。レーンはあきらかに興味がない様子で、関係のない、かみ合わない発言を繰り返します。あげくに自分が書いたという論文を「あれをどうこうする気持は全然ないつもり」と言いながらも、「活字にするとか、なんとかね」みたいな持って回った言い回しで、スノッブ臭をぷんぷんさせてきます。

    具体的に理由までは表現されていませんが、元農夫の素朴な順礼、彼に親切にする善良な人々の話と、自分のまわりのエゴ丸出しの人間たちを引き比べて耐えきれなくなったのか、フラニーはそのまま気を失い、その後、すっかりふさぎ込んでしまいます。ここまでが連作短篇の一作目の『フラニー』。

    二作目の『ゾーイー』では、兄のゾーイーがふさぎ込んだフラニーの誤解(?)を解くために、長い長い会話を通じての説得を試みます。もちろん『フラニーとゾーイー』だけで作品として楽しめるのですが、『巡礼の道』こと『無名の順礼者』を読むことで、なぜフラニーがそれほどまでにこの本に耽溺するようになったのか、を実感することができるんじゃないかと思います。

    ちなみにこの『無名の順礼者』、現在では入手するのが非常に困難です。巻末にこんな説明があります。

    本書は1967年に刊行されたドイツ語原本による旧訳本第一の物語より第四部までと、第五部以下の第七部及び付録とを英語訳原本から訳出し完結本として刊行された。題名は「無名の順礼者」が踏襲された。

    尚、本物語の中にしばし登場する「修徳の実践」は現在未完であるが、近年中に刊行される予定である。

    ちょっと表現が分かりづらいですが、エンデルレ書店から1967年に出版されたものは、第一の物語~第四の物語が収録されていて、同じくエンデルレ書店から1995年に出版されたものはさらに第五~第七の物語が追加されているということらしいです。

    『修徳の実践』は順礼が聖書とともに持ち歩いている書物で、彼はこの本の解釈を隠修士に教えてもらったり、時には出会った人に読んで聞かせてあげたりしています。

    3書ともすでに絶版になっていて、アマゾンでは古書が1万円~2万円のような値段で売られています。また、出版元のエンデルレ書店はすでに廃業しているので、この出版社から復刊される可能性は期待できないということですよね。とりあえず復刊ドットコムのリクエストに投票しておきました。投票が多いと復刊されることがあるようです。本書については、今の票数を見ると、なかなか厳しそうですが。

    『無名の巡礼者 あるロシア人巡礼者の手記(ローテル訳)』 レビュー一覧 | 復刊ドットコム

    私が今回借りて読んだものは、1995年出版のほうで、川崎市の図書館にリクエストしたところ所蔵がなく、提携している横浜市立図書館から取り寄せてもらったものになります。他の自治体からの貸出は延長もできないし、取り寄せに時間もかかるので、やはり手元に置いておくか、自分が住んでいる自治体の図書館に所蔵されるのが理想です。

    第一の物語から第四の物語までが一区切りで、その後は後日談とか対談(鼎談)のような感じなので、主要な部分という意味では第四の物語まででいいと思います。薄めの文庫本くらいの量になると思うので、1000円切るような文庫本にして、『フラニーとゾーイー』(もしくは『フラニーとズーイ』)の横に並べれば、ちょっとは売れると思うんですけどねえ。そんなに甘くはないですかね。

  • 映画『メメント』と白いトランクス

    私の感想文ルール: 一つ、昔見た映画を思い出しながら書いてもよい

    見たのが昔とは言え、かなり繰り返し見たので、ギャメル刑事がレナードに会いに来た時に、

    Lenny!

    と呼びかける、ちょっと怪しい笑顔も鮮明に脳内再生できるほどです。

    主人公のレナードには、妻を殺された事件の時に、自身も頭を殴られ、記憶が10分程度しか持続しないという後遺症があります。自分の名前や昔のことは覚えているけど、新しい記憶が保持できないという状態です。

    これをどう表現するか? です。レナードはちょいちょい、「あれ? 今、俺 何してたんだっけ?」みたいな状況になります。この感覚を見ている人が疑似体験するために、編集上の工夫がこらされています。

    例えば、各アルファベットがある「時点」だとして、A→B→C→D→Eという時間の流れだった場合、これをこの順番で見ていくと、映画を見ている人は因果関係を自然に理解できる反面、「今、何してたんだっけ?」という感覚は共有できません。

    これを、

    D→E、C→D、B→C、A→B

    というシーン割りで見せることによって、各シーンの先頭で鑑賞者は、どういう場面なのかを、今与えられている断片的な情報から推理しなくてはいけない状況になります。これはある意味、鑑賞者のストレスになるんですが、レナードの心理状態を共有するという点で、非常に有効な演出になっているわけです。

    ・・・みたいな話は、ウィキペディアとか、読み解きサイトにきっと書いてあるので、そちらにお任せするとして、私としては、

    レナードがはいているのは白いトランクス

    という点に着目したいと思います。

    レナードは記憶が持続しないので、覚えておかなくてはいけないと思ったことはメモに取ります。人の顔も覚えられらないので、ポラロイドカメラ(チェキのもっと立派なやつ)で写真をとり、写真にその人の名前や、どういう人物なのか(「こいつを信じるな」とか)を書き込んだりします。

    メモや写真は無くしてしまう可能性があるので、本当に大事なことは体に書き込むのがよい、という正気の沙汰とは思えないポリシーに従い、レナードの体はタトゥーだらけです。きっと、日本の温泉には入れないでしょう。

    このタトゥーは映画の重要な要素なので、それをさりげなく見せるべく、レナードはよく裸になります。往年の井出らっきょさんのようです。そのときに、どんなパンツをはいているかは、笑福亭鶴光師匠じゃなくても、気になるところです。

    レナード(ガイ・ピアース)は、なかなかの細マッチョです。もし、ビキニのセクシーなパンツをはいていたとしたら、それが気になって、話の筋を見失ってしまう可能性があります。そう、観客のほうが記憶を失ってしまうかもしれません。

    無難なトランクスをはかせることにしても、それが水玉だったりペーズリーだったり、微妙な柄だったり色だったりすると、レナードが置かれた悲劇的な状況の描写の邪魔をします。高級スーツやジャガーとも合いません。

    ここはなるべくクセを排した、白のトランクス一択となります。

    白いトランクス(上部)
    白いトランクス(下部)

    私はこの映画を見て、白のトランクスって意外とありじゃん、と思い「♪あれも!これも!デイリーファッションパレット♪」という店内ソングでおなじみの衣料品店「パレット」で、イメージに近いものを発見し、購入してみました。

    しかし、私はガイ・ピアースのような細マッチョではなく、どちらかというと太ポッチャの中年であるため、妻によれば「おじいちゃんみたい」な仕上がりになりました。

    「Don’t wear white trunks.」というタトゥーを、お腹のあたり彫っておこうと思います。

  • 映画『心の旅』と好かれる親父

    映画『心の旅』見ました。邦題がどうも好きになれませんで。『心の旅』と言えば、チューリップの曲のほうですよね。映画は1991年のものなのですが、邦題の検討のときに、チューリップの曲名とかぶるからやめとこう、とはならなかったのでしょうか。

    原題は『Regarding Henry』なので、直訳すると「ヘンリーについて」「ヘンリーに関する(出来事・物語)」くらい意味なのでしょうが、そう考えると「心の旅」はちょっとクサい感じもします。

    ウィキペディアには、

    Rotten Tomatoesによれば、批評家の一致した見解は「ハリソン・フォードはシリアスな役どころを掘り下げる機会を最大限に活用しているが、『心の旅』は安っぽい感傷と陳腐な決まり文句によって台無しにされている。 」であり、30件の評論のうち高評価は43%にあたる13件で、平均点は10点満点中5.3点となっている。

    なんて書いてありますが、私はそんなに悪くないと思いましたけどね。映画の評価(特に点数的なもの)をWikipediaに載せるってちょっと微妙じゃないですか? Rotten Tomatesというのは映画レビューのサイトです。○○によれば、って書いてあるから、最初はよく読まずに人名か何かかと思ったら、「腐ったトマト」(というサイト名)じゃないですか。今見たら高評価の割合は増えてて、49%になっていました。

    後半ヘンリーがいい人になりすぎるって感はありました。過去の不公正な裁判の自省とそれに対する行動、夫婦仲の問題、子供との関係なんかも。後半に向けて、映画はそれなりにドラマティックにしなきゃいけないと思いますので、出来すぎた感じはありますよね。

    『アルジャーノンに花束を』を読んだとき(過去記事:『アルジャーノンに花束を』はSFだったんですね)にも感じた、高い知性を手に入れたがゆえに失うもの、知性を失ったがゆえに手に入れたもの、みたいなテーマがあると思います。

    ヘンリーは有能な弁護士で、完全な勝ち組です。お金もあるし、会社での地位もある。なので、髪形もオールバックです。(それは関係ない)

    事件に巻き込まれた後は、脳に障害が残って、ちょっと子供っぽいところが出てきたり、ものごとをストレートに考えるようになったり、変なプライドや思い上がりみたいなものがなくなったり。すっかり性格が変わります。あと、オールバックでもなくなります。(そこはあまり大事じゃない)

    それが人生にとって大切なものは何か、みたいな後半の言動にもつながりますが、私は前半のちょっとした変化のところが好きでした。

    会社で秘書の話をちゃんと聞くようになったり(事件前は自分の伝えたいこと優先の露骨な上下関係)、自宅の高級アパートのドアマンに挨拶して驚かれたり。

    小学生くらいの娘との関係も事件前は説教臭くて、一方的。娘のほうはあきらめてて反論もしない状態でした。

    娘が朝食のときにオレンジジュースをこぼすシーンがあって、変な空気になるんですね。以前だったら説教が始まる場面。でも、性格が変わったヘンリーは、自分もよくこぼすよ、みたいな感じで、わざとこぼして見せたりします。

    脳の後遺症のせいで、うまく読み書きできないヘンリーに娘が字を教えるシーンは好きですね。嫌われる親父と好かれる親父のエッセンスがこの映画にはつまっています。

    ちょっとした金や社会的地位を手に入れて、すっかり思いあがっている、あなたにおすすめの映画です。(なんちゅう言い草)

  • 『最高の人生の見つけ方』は、大金持ちの側の視点で見る

    夏休みの宿題で読書感想文を書かなければいけない。指定図書を読んでみて、まあ面白かったのだが、感銘を受けたというほどでもなく、この本で感想文を書くのは難しい。かといって、今から別の本を読むのも大変だし、次に読んだ本で書けるとも限らないし、きりがない。とにかく、最初に読んだ本に対して、あーだこーだ書いて、「感想文」ということにしよう。・・・という感じです、今回は。

    見た映画は『最高の人生の見つけ方』です。監督のロブ・ライナーが死亡し、殺人事件である可能性が高いというニュースを見たのがきっかけです。

    ニュースを見たから、映画を見たくなったというわけではなく、実はすでに稲城市立図書館の予約かご(これから借りたいものリストみたいなもの)には入れていたんですよね。でも、なぜ入れたかが思い出せない。重要な事実は、ミステリーでは隠されるものです。しかし、この事実は最後まで判明しないので、ミステリーとして成立しません。なので、この私の文章のジャンルは、つまり「とりとめのない話」です。

    モーガン・フリーマンは大抵、いい人です。『ドライビング Miss デイジー』では運転手で、いい人でした。『セブン(SE7EN)』では殺人犯を追う刑事で、いい人でした。『ショーシャンクの空に』では殺人犯だったのに、いい人でした。さて、本作ではどうでしょうか。愚問ですね。

    あらすじは、ウィキペディアででも見てください。

    見ましたか? 見た前提で書きます。

    なんか都合が良すぎるというか、余命宣告されること以外は、相当ラッキーな感じでした。

    金で買える極端なものを享受しつつ、金では買えないちょっとしたものもあわせて描くという感じでしょうか。あと、余命6か月なわりには、二人とお元気で。

    さて、お金持ちのおじさんと、お金持ちでないおじさんが出てきます。モーガン・フリーマンはどちらでしょうか? そうですね、もちろん、お金持ちでないほうです。絶対にそうなのです。

    お金持ちのほうの人相が悪いなあと思っていたら、映画『シャイニング』の、この人でした。

    当時はアル中の作家でしたが、いつのまにか大金持ちになっていました。

    モーガン・フリーマンは病院でシャイニングと知り合い、意気投合して、金に糸目をつけない豪遊ができるわけです。でも、世の中の余命宣告される人たちには、近くにそんな人はあまりいないので、なんだか、できすぎた話だなあ、と思ってしまいます。

    でも、シャイニング(あ、金持ちのエドワードのことですよ)の側からみると、独り身の因業野郎で死んでいくところだったのに、モーガン・フリーマン(そう、カーターのことですよ)と出会ったことで、人生の意味を見つめなおすことができた、ということでしょうか。そう見ると、「できすぎた話」感はちょっと薄れるかもしれません。

    あなたも私も「最高の人生」を見つけることができるかもしれません。ただ、いかんせん、あなたも私も大金持ちではないので、感情移入できないところが難点なのかもしれません。

    で、さっき知ったのですが、日本でのリメイク作品があるんですね。吉永小百合と天海祐希が主演の『最高の人生の見つけ方』です。

    はい、特に「見たい!」ということはないです。ねぇ?

    と思いきや監督の名前を見ると、『ジョゼ』の犬堂一心 監督じゃないですか。ちょっと見たくなりました。(過去記事: 『ジョゼと虎と魚たち』主に小説、少し映画

    アマゾンの説明を見ると、元のやつと話が全然違いそうな予感です。犬堂版を見たうえで、「タイトル以外の共通点を見いだせなかった」などと暴言を吐いてみたいです。

    私のBucket List(=死ぬまでにやりたいことリスト)に追加しておきます。

    • ・・・
    • 犬堂版も見る
    • 暴言を吐く

    いつも吐いているので、1つは消しておきました。

  • 『アルジャーノンに花束を』はSFだったんですね

    『アルジャーノンに花束を』(ダニエル・キイス著)を読んだのはたぶん二回目です。家の本棚にずいぶん前からありました。かなり古い文庫本です。帯には「待望のテレビドラマ化」と書いてあります。2015年の山下智久主演の方じゃないですよ。2002年のユースケ・サンタマリア主演の方です。遠矢エリナ先生役(原作のアリス・キニアン先生に対応)は菅野美穂です。

    自分は帯はすぐに捨てちゃうのですが、こういうのを懐かしむためにもとっておいてもいいですね。ちなみにこの本は妻が買ったものなので、帯が残っていました。

    読んだのはドラマ化されていた当時(20年以上前)だと思います。なので、正直なところ読んだのかどうかも覚えていません。ただ、覚えているのは、治療によって手に入れた知性を、結局は失ってしまう悲しさ、みたいなイメージでした。でも、違いました。もちろんその要素もあるのですが、むしろ逆に賢くなってしまうことで失ってしまうもの悲しさの方に、より焦点が当てられていたように思います。

    そのことは、冒頭につけられていた「日本語版文庫への序文」という7ページほどの文章にも表現されていました。著者のダニエル・キイス氏が書き留めていたアイデアには、こんなことが書いてありました。

    「ぼくの教養は、ぼくとぼくの愛するひとたち――ぼくの両親――のあいだにくさびをうちこむ」

    主人公のチャーリィ・ゴードンは知能は低いものの穏やかな性格で、自分の周りにはやさしい人達や友達やがいて、自分のことを好きなのだと信じています。それはある部分は正しく、ある部分は正しくなくて、職場のパン屋には意地悪をする人がいたり、チャーリィを酒場に誘うある同僚も、チャーリィと仲良くしたいわけではなく、単に馬鹿なことをさせて笑いものにするのが目的だったりします。ただ、真面目に仕事をするチャーリィを好ましく思う同僚も多く、パン屋での仕事はそれなりに回っている状態でした。

    前述の性質たちの悪い同僚から守ってくれるようなベテランの店員ギンピイというのもいるのですが、知能の高くなったチャーリィはギンピイとの関係もぎくしゃくします。

    ギンピイは得意客へパンを売るときに、料金を安くする代わりにその差額をキックバックさせるという、ちょっとした不正をやっていました。そのことに気づいたチャーリィはやめさせようと忠告するのですが、そのことでギンピイの反感を買います。

    実際のところ、ギンピイだけでなく、ほとんどの従業員が賢くなりすぎたチャーリィを歓迎していなかっただけでなく、店主のドナーも、チャーリィと他の従業員の関係に苦慮しており、結局パン屋を追い出されることになります。守るべき弱い存在であったチャーリィが、そのような存在でなくなったことで、周りの態度が変化してしまいます。

    弱い存在を守るべきだというのは、ほとんどの人が同意できるところだと思います。でも、賢くて強い立場にある人に対してはどうすべきなのか。彼が説く正論が、自分にとって不都合な場合、徒党を組んで排斥するようなことが許されるのか。強いものが相手なら、そういうことをやってしまいがちなのでは、というあたりもちょっと考えさせられます。

    この文庫、SFに強い早川書房から出ているんですよね。1枚目のページの裏の、

    日本語版翻訳権独占
     早 川 書 房

    というのを見ると、おー、SFみたいと思いました。

    そして、読んでみるとSFでした。さっき引用したアイデアメモの続きの部分ですが、

    そしてもう一行。
    「万が一人間の知能を増大させることができたとしたら、いったいどうなるだろう?」

    もし技術的に○○が可能だったら、どうなるだろう?みたいなのはSFチックな発想ですね。

    チャーリィはちょっと賢いというレベルではなく、様々な分野の学問に通じるようになり、言語もすぐに身に着けるので、論文も原著のまま読んだりもできます。専門家と話しても、相手が結局ある一分野のことにしか詳しくない(まあ、普通そうですよね)ということに失望します。話も合わないないし、言い負かされたくない研究者たちはチャーリィのことを腫れものにでも触るように扱いだします。

    チャーリィの体験は極端ですが、ほとんどの人が似たような体験をしているのでは、という気もします。

    子供の頃は賢い子だとちやほやされても、それこそ周りの大人よりも賢くなって、意見でも言い出したら、どういう反応をされるか。

    会社の新人なんかも、何も分からないで謙虚な頃は可愛がってもらえます。でも、実力をつけて、先輩の立場を脅かし始めると、逆に足引っ張られたりとか。見たことはないですけど、なんか漫画とかドラマでありそう。

    物を知るにつれて、すごいと思っていたものが大したものではなかったことに気づいて、自分の有能感を強く感じるようになったり、とか。でも、それもけっこう勘違いだったり、とか。

    自分がチャーリィだったらという読み方もできるし、自分がチャーリィの周りの人間だったらという読み方もできます。それから、後半、チャーリィが知能を失っていく過程は、年を取って認知能力が衰えてきたときの(というかすでに自覚症状がありますが)、予習になると思いました。きっとこういう感じを味わうんだろうな、とか。

    2026年3月26日追記
    なんだか共通するテーマを感じました。
    映画『心の旅』と好かれる親父

  • 『スローターハウス5』が、「この商品はAmazonアソシエイトプログラムから除外されています」???

    「スローターハウス5」の記事を書いたとき、ちょっと腑に落ちなかったこと。

    いつものように、書名からリンクするための、Amazonアソシエイトのリンクを生成しようとすると、

    この商品はAmazonアソシエイトプログラムから除外されています。

    と表示され、リンクが生成できません。

    初めて出会った現象なので調べてみると、一部の商品は除外対象として指定されているとのこと。

    ギフト券、期間限定品、不正利用が多い商品、などが指定されることが多いようです。あと、マーケットプレイスの出品者が対象外に設定している場合もあるようです。

    でも、スローターハウス5は書籍だし、amazonが直接販売している商品だし、上記には該当しそうもありません。

    なぜ、Amazonアソシエイトから「除外される商品」は増えているのか

    上記の記事を見てみると、アダルトとか、医薬品系とかちょっとグレーなものも対象だそうです。でも、ヴォネガットの小説がポルノにあたるとも思えません。ちょっとセクシャルな表現はありましたが、まあ普通の小説の範囲だと思います。

    スローターハウス5 – Wikipedia

    を見てみると、

    『スローターハウス5』は1969年の発売以来、反社会的、わいせつ、不適切な言葉遣いなどの理由によって保守的な価値観を持つ人々から悪書として批判され、全米図書館協会の調査では出版から30年以上経った1990年から2000年の10年のあいだでも、図書館から排除を求められた本の69位と上位に位置している。

    えー、そうなん? 別に、反社会的でも猥褻でもなかったけど・・・。Wikipediaには教材として排除するための訴訟などへの言及がありますが、1970年代ものがメインでかなり昔の話ではあります。

    アマゾンが除外しているという現在の状況と関係があるのでしょうか?

    この小説に関しては、宗教や性的な面より、戦争に対する諦観を強く感じました。子供がちょっと大きくなったくらいの若者や、ど素人まで戦場に送り込んでしまう国家の無様な状況みたいな。

    スローターハウス5の冒頭で、戦争についての小説を書くとヴォネガットが話したときの、戦友の奥さんの言葉ですが、

    「戦争中、あなたたちは赤んぼうだったじゃないの――二階にいるあの子らとおんなじような!」

    (略)

    「でも、そんなふうには書かないんでしょう」

    (略)

    「わたしにはわかるわ。二人が赤んぼうじゃなくて、まるで一人前の男だったみたいに書くのよ。映画化されたとき、あなたたちの役を、フランク・シナトラやジョン・ウェインやそんな男臭い、戦争好きな、海千山千のじいさんにやってもらえるように(略)」

    戦争の、かっこ悪くて、みじめで、無様な一面を広められては、戦争がやりにくくなってしまいそうです。まさかそんな理由ではないとは思いますが。

    ビリー・ピルグリムが戦場において、「赤んぼう」のようにまったくの無力さを晒していたことは、お伝えしておきます。

  • 『スローターハウス5』を再度読む

    私が最初に読んだカート・ヴォネガット・ジュニアの小説は『タイタンの妖女』でした。読んだきっかけは、「助けてくれー!」でおなじみの爆笑問題の太田さんが勧めていたから。

    他に読んだのは『バーンハウス心霊力についてのレポート』という短篇小説で、『20世紀アメリカ短篇選 下』という岩波文庫に収録されていました。この作品は『カート・ヴォネガット全短篇 2』という単行本にも『バーンハウス効果に関する報告書』というタイトルで収録されています。

    『スローターハウス5』については、聞いたことはあるが、読んではいないという状態だったので、私が愛用している稲城市立図書館で借りようと思ったのですが、所蔵がない。仕方がないので買いました。(言い草!)

    パラパラとめくりましたところ、読んだことがあることに気付きました。いやー、忘れるもんですね。手元に所有もしていないし、図書館にもないので、読んでいなものだと思い込んでいたのですが、どうやら川崎市立図書館で借りて読んだことがあったみたいです。

    これは読んだぞ、と確信したのは、

    神よ願わくばわたしに
    変えることのできない物事を
    受けいれる落ち着きと
    変えることのできる物事を
    変える勇気と
    その違いを常に見分ける知恵とを
    さずけたまえ

    この箇所を見つけたとき。

    元ネタは二ーバーの祈りというものらしいのですが、われらがヒッキーこと宇多田ヒカルも、「Wait & See ~リスク~」で本歌取りみたいな歌詞を書いています。

    変えられないものを受け入れる力
    そして受け入れられないものを
    変える力をちょうだいよ

    ・・・というブログ記事を当時(2012年)自分で書いたにも関わらず、読んだことをすっかり忘れていたというていたらく。

    スローターハウス5を読む前の私と、読んだあとの私を、行き来したわけではなさそうです。

    ちなみにこの表紙、イラストレーターの和田誠さんによるものです。そうです、平野レミさんの旦那さんです。

    この小説、冒頭はヴォネガット自身の、戦争の体験をもとにした小説を書こうとしているという語りで始まります。反戦・厭戦的な重たい小説が始まるんだろうなーと思いきや、トーンはコメディです。そしてSFです。でも、戦争というものに対してのメッセージはひしひしと伝わってきます。

    主人公のビリー・ピルグリムは、ろくな訓練もうけず、ちゃんとした装備も与えられず、戦場に放り込まれます。ビリーは、従軍牧師助手という立場なので、

    敵を傷つけることもできなければ、友人を助ける力もない。事実、彼に友人はなかった。説教師の従者というだけであり、昇進やメダルの望みもなく武器も持たされず、あるのはただ慈愛に満ちたイエス様への恭順な信仰ばかり、もちろんたいていの兵士はそんなものをせせら笑った。

    彼が配属された連隊はすでに壊滅していて、上官である従軍牧師にも会えないまま、戦闘に巻き込まれて、でもビリーは戦うこともできない。敗残兵のグループに紛れ込むも、ほどなくドイツ軍に見つかって、捕虜となります。

    自軍にいるときでさえ、ままならなかったくらいですから、捕虜になってからはさらにいっそうひどい扱いを受けることになり、生きる気力を完全になくして、呆けたような状態になります。

    でも、結果的にビリーは生き延びます。生きる気力のある人が必ずしも生き残るわけではなく、偶然や気まぐれで、生き残ったり、死んだり。ちょっとした理不尽とも思える理由で人が死んでいきます。そのたびに、ヴォネガットは「そういうものだ。(So it goes.)」というフレーズを使います。このフレーズは作品中に何度も現れるので、アルバイトを使って数えさせたところ(うそ)、100回以上使われてました(ほんと)。

    『スローターハウス5』はSFでもあります。空間の3次元に加えて、時間の1次元を加えた4次元空間という考え方はよくSFに出てきますよね。4次元空間に住む生物、時間も空間と同じように行き来できる生物みたいな話も聞いたことがあります。

    『スローターハウス5』でもそのアイデアを利用していますが、そこに幸福とか自由意志とかをどう考えるか、あるいは3次元空間になじんだ我々がその4次元空間を体験するとは、どういうことなのか、というところの表現に衝撃を受けました。

    ビリーは、子どもの頃、戦争中、その後の検眼医としての裕福な時期、そして、死の瞬間まで、あらゆる時間を行き来します。ビリーはそれをコントロールすることはできませんが、これを自在にコントロールできるとしたら、トラルファマドール星人と同じ感覚を味わうことになるのかもしれません。

    もしその感覚を味わえば、人間が感じる最期としての死とか、不幸な結末などに対して、どういう思想を持つにいたるのか。SFというスタイルを、戦争とか運命とかに対する考え方を展開するための場として活用した小説だと思いました。

    つらいストーリーをコメディとして語りつつ、SFで扱われてきた概念を哲学レベルの要素として絡め、戦争の現実を伝えつつ、新たな幸福論(不幸論)を展開する、そんな小説でした。

  • 『アメリカ(Amerika)』もやっぱりカフカ的だった

    カフカの『審判』と『城』は読んだことがありました。ただ、かなり昔で、図書館で借りたものをざっと1回読んだだけなので、ちょっと記憶はあやふやです。

    『審判』は、主人公のヨーゼフ・Kが理由も分らぬまま裁判にかけられるという話です。何が法に触れたのかもわからず、逮捕されるわけでもなく、呼び出しに応じて裁判に行っても、それが裁判なのかどうかもよくわからない場で裁かれて、最後はドラマティックな形で刑が執行されてしまうという変な話です。

    『城』もまた変な話で、測量士のKが城に雇われるのですが、仕事を始めるどころか、城にたどりつけもしない。道に迷うとか、そんな単純な話ではなく、関係者らしき人にたらい回しにされるというか、論理が通っているんだかいないんだかみたいな人たちの、のらりくらりとした会話に翻弄されるというか、ずっとじれったい感じが続きます。

    で、ちょっと前に、『審判』と『城』と並んで、『アメリカ』という作品が、カフカの長編の三部作と呼ばれていることを知り、今回この『アメリカ』を読もうと思った次第です。

    ちなみに、最初に『アメリカ (Amerika)』というタイトルで出版されたのですが、Wikipediaによると、

    カフカの草稿自体には作品タイトルはなく、ブロートは生前のカフカが「アメリカ小説」と表現していたことに基いてこのタイトルをつけ、これが長い間これが作品名として流通していた。しかしその後、カフカが『失踪者』のタイトルを予定していたことが日記から判明し、1983年の批判版全集以降は主に『失踪者』のタイトルが用いられるようになった。

    とのこと。でも、私が購入した角川文庫版は「アメリカ」のままとなっております。

    どんな話だろうと、裏表紙を見ると、こんな感じで紹介されています。

    年上の女に誘惑され愛されたばかりに、両親にやっかいばらいにされたカール少年は故国ドイツを追われアメリカに渡った。やっとのことでニューヨークの伯父にめぐりあい、面倒をみてもらえるようになったのもつかの間、何とも不可解な理由で伯父の家からも追い出される。追放されつづけるカール少年は放浪の旅に出るが・・・。
    軽妙に描かれるカフカ的冒険小説。

    たぶんですが、ほとんど人、特にカフカを読んだことない人が、この文章から想像するものとは、全然違うのではないかと思います。

    「何とも不可解な理由で伯父の家からも追い出される」というのはその通りなのですが、伯父とのめぐりあいのくだりも不可解です。「冒険小説」というイメージともだいぶ違うような・・・。でも、「カフカ的」と付いているから、これがカフカ的な冒険小説なのかも。

    世の中の多くの小説の「不可解」は、理解して楽しむための「不可解」だと思うんですよね。伏線があったり、種明かしがあったり、あるいは不可解が壮大すぎてそれ自体が楽しめるような。

    そうしてやらないと、不可解なものは、違和感を与えるだけですから、そんな小説は一般受けしないでしょう。新人の作家だったら、きっと編集者に直されちゃいます。だから、あまり存在しないんじゃないかと思います。

    カフカの不可解は、そんな大げさなものではなく、普通の人間との普通のやりとりの中で生まれてきます。出てくる登場人物かどこか変で、ロジックが少し変だったり、職務が少し変だったりします。でもオカルトやSFみたいな大げさな話ではなく、ただ単に登場人物のモノの感じ方や論理や表現の仕方が、ちょっとずれている(ような気がする)。でも、決して狂人ではない。そんな人たちと交渉しなきゃいけない立場の主人公はすっかり疲弊してしまう。でも、主人公さえも、そのちょっと変な登場人物の一人であったりして、読んでいるほうは、「いったい私は何を読まされているんだ?」みたいな気分になります。

    第八章の「オクラホマの野外劇場」なんか最たるものでした。職を探しているカールは、オクラホマの劇場の座員募集のポスターを見かけて、志願すべく会場に向かいます。

    会場についても、誰が採用の係員なのかよくわからなかったり、それらしい人にあたっても誰が意思決定者なのか判然としなかったり、どういう基準で選考しているかもふわふわしていたり、そもそもカールはどういう職種で雇われるのかも二転三転します。そもそも、オクラホマの劇場がどういう組織で、どういうビジネスをやっているのかも、もやもやしたままです。もやもやしたまま、どうやら採用されたらしいカールは列車に乗せられて・・・

    はっきりとオチのついた小説が好きで、もやもやとした気分にさせられるのが嫌いな方には、カフカはお勧めしません。でも、あなたがそのような種類の人間かどうかについては、私の関与するところではなく、私の権限が及ばない類のものであることを、まずはあなたに伝えておかねばなりますまい。