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勝手に読書感想文。漫画も映画も含みます

タグ: アメリカ

  • 映画『心の旅』と好かれる親父

    映画『心の旅』見ました。邦題がどうも好きになれませんで。『心の旅』と言えば、チューリップのほうですよね。1991年の映画なのですが、邦題の検討のときに、チューリップの曲名とかぶるからやめとこう、とはならなかったのでしょうか。

    原題は『Regarding Henry』なので、直訳すると「ヘンリーについて」「ヘンリーに関する(出来事・物語)」くらい意味なのでしょうが、そう考えると「心の旅」はちょっとクサい感じもします。

    ウィキペディアには、

    Rotten Tomatoesによれば、批評家の一致した見解は「ハリソン・フォードはシリアスな役どころを掘り下げる機会を最大限に活用しているが、『心の旅』は安っぽい感傷と陳腐な決まり文句によって台無しにされている。 」であり、30件の評論のうち高評価は43%にあたる13件で、平均点は10点満点中5.3点となっている。

    なんて書いてありますが、私はそんなに悪くないと思いましたけどね。映画の評価(特に点数的なもの)をWikipediaに載せるってちょっと微妙じゃないですか? Rotten Tomatesというのは映画レビューのサイトです。○○によれば、って書いてあるから、最初はよく読まずに人名か何かかと思ったら、「腐ったトマト」(というサイト名)じゃないですか。今見たら高評価の割合は増えてて、49%になっていました。

    後半ヘンリーがいい人になりすぎるって感はありました。過去の不公正な裁判の自省とそれに対する行動、夫婦仲の問題、子供との関係なんかも。後半に向けて、映画はそれなりにドラマティックにしなきゃいけないと思いますので、出来すぎた感じはありますよね。

    『アルジャーノンに花束を』を読んだとき(過去記事:『アルジャーノンに花束を』はSFだったんですね)にも感じた、高い知性を手に入れたがゆえに失うもの、知性を失ったがゆえに手に入れたもの、みたいなテーマがあると思います。

    ヘンリーは有能な弁護士で、完全な勝ち組です。お金もあるし、会社での地位もある。なので、髪形もオールバックです。(それは関係ない)

    事件に巻き込まれた後は、脳に障害が残って、ちょっと子供っぽいところが出てきたり、ものごとをストレートに考えるようになったり、変なプライドや思い上がりみたいなものがなくなったり。すっかり性格が変わります。あと、オールバックでもなくなります。(そこはあまり大事じゃない)

    それが人生にとって大切なものは何か、みたいな後半の言動にもつながりますが、私は前半のちょっとした変化のところが好きでした。

    会社で秘書の話をちゃんと聞くようになったり(事件前は自分の伝えたいこと優先の露骨な上下関係)、自宅の高級アパートのドアマンに挨拶して驚かれたり。

    小学生くらいの娘との関係も事件前は説教臭くて、一方的。娘のほうはあきらめてて反論もしない状態でした。

    娘が朝食のときにオレンジジュースをこぼすシーンがあって、変な空気になるんですね。以前だったら説教が始まる場面。でも、性格が変わったヘンリーは、自分もよくこぼすよ、みたいな感じで、わざとこぼして見せたりします。

    脳の後遺症のせいで、うまく読み書きできないヘンリーに娘が字を教えるシーンは好きですね。嫌われる親父と好かれる親父のエッセンスがこの映画にはつまっています。

    ちょっとした金や社会的地位を手に入れて、すっかり思いあがっている、あなたにおすすめの映画です。(なんちゅう言い草)

  • 『最高の人生の見つけ方』は、大金持ちの側の視点で見る

    夏休みの宿題で読書感想文を書かなければいけない。指定図書を読んでみて、まあ面白かったのだが、感銘を受けたというほどでもなく、この本で感想文を書くのは難しい。かといって、今から別の本を読むのも大変だし、次に読んだ本で書けるとも限らないし、きりがない。とにかく、最初に読んだ本に対して、あーだこーだ書いて、「感想文」ということにしよう。・・・という感じです、今回は。

    見た映画は『最高の人生の見つけ方』です。監督のロブ・ライナーが死亡し、殺人事件である可能性が高いというニュースを見たのがきっかけです。

    ニュースを見たから、映画を見たくなったというわけではなく、実はすでに稲城市立図書館の予約かご(これから借りたいものリストみたいなもの)には入れていたんですよね。でも、なぜ入れたかが思い出せない。重要な事実は、ミステリーでは隠されるものです。しかし、この事実は最後まで判明しないので、ミステリーとして成立しません。なので、この私の文章のジャンルは、つまり「とりとめのない話」です。

    モーガン・フリーマンは大抵、いい人です。『ドライビング Miss デイジー』では運転手で、いい人でした。『セブン(SE7EN)』では殺人犯を追う刑事で、いい人でした。『ショーシャンクの空に』では殺人犯だったのに、いい人でした。さて、本作ではどうでしょうか。愚問ですね。

    あらすじは、ウィキペディアででも見てください。

    見ましたか? 見た前提で書きます。

    なんか都合が良すぎるというか、余命宣告されること以外は、相当ラッキーな感じでした。

    金で買える極端なものを享受しつつ、金では買えないちょっとしたものもあわせて描くという感じでしょうか。あと、余命6か月なわりには、二人とお元気で。

    さて、お金持ちのおじさんと、お金持ちでないおじさんが出てきます。モーガン・フリーマンはどちらでしょうか? そうですね、もちろん、お金持ちでないほうです。絶対にそうなのです。

    お金持ちのほうの人相が悪いなあと思ったいたら、この人でした。

    当時はアル中の作家でしたが、いつのまにか大金持ちになっていました。

    モーガン・フリーマンは病院でシャイニングと知り合い、意気投合して、金に糸目をつけない豪遊ができるわけです。でも、世の中の余命宣告される人たちには、そんな人はあまりいないので、なんだか、できすぎた話だなあ、と思ってしまいます。

    でも、シャイニング(あ、金持ちのエドワードのことですよ)の側からみると、独り身の因業野郎で死んでいくところだったのに、モーガン・フリーマン(そう、カーターのことですよ)と出会ったことで、人生の意味を見つめなおすことができた、ということでしょうか。そう見ると、「できすぎた話」感はちょっと薄れるかもしれません。

    あなたも私も「最高の人生」を見つけることができるかもしれません。ただ、いかんせん、あなたも私も大金持ちではないので、感情移入できないところが難点なのかもしれません。

    で、さっき知ったのですが、日本でのリメイク作品があるんですね。吉永小百合と天海祐希が主演の『最高の人生の見つけ方』です。

    はい、特に「見たい!」ということはないです。ねぇ?

    と思いきや監督の名前を見ると、『ジョゼ』の犬堂一心 監督じゃないですか。ちょっと見たくなりました。(過去記事: 『ジョゼと虎と魚たち』主に小説、少し映画

    アマゾンの説明を見ると、元のやつと話が全然違いそうな予感です。犬堂版を見たうえで、「タイトル以外の共通点を見いだせなかった」などと暴言を吐いてみたいです。

    私のBucket List(=死ぬまでにやりたいことリスト)に追加しておきます。

    • ・・・
    • 犬堂版も見る
    • 暴言を吐く

    いつも吐いているので、1つは消しておきました。

  • 『アルジャーノンに花束を』はSFだったんですね

    アルジャーノンに花束を』(ダニエル・キイス著)を読んだのはたぶん二回目です。家の本棚にずいぶん前からありました。かなり古い文庫本です。帯には「待望のテレビドラマ化」と書いてあります。2015年の山下智久主演の方じゃないですよ。2002年のユースケ・サンタマリア主演の方です。遠矢エリナ先生役(原作のアリス・キニアン先生に対応)は菅野美穂です。

    自分は帯はすぐに捨てちゃうのですが、こういうのを懐かしむためにもとっておいてもいいですね。ちなみにこの本は妻が買ったものなので、帯が残っていました。

    読んだのはドラマ化されていた当時(20年以上前)だと思います。なので、正直なところ読んだのかどうかも覚えていません。ただ、覚えているのは、治療によって手に入れた知性を、結局は失ってしまう悲しさ、みたいなイメージでした。でも、違いました。もちろんその要素もあるのですが、むしろ逆に賢くなってしまうことで失ってしまうもの悲しさの方に、より焦点が当てられていたように思います。

    そのことは、冒頭につけられていた「日本語版文庫への序文」という7ページほどの文章にも表現されていました。著者のダニエル・キイス氏が書き留めていたアイデアには、こんなことが書いてありました。

    「ぼくの教養は、ぼくとぼくの愛するひとたち――ぼくの両親――のあいだにくさびをうちこむ」

    主人公のチャーリィ・ゴードンは知能は低いものの穏やかな性格で、自分の周りにはやさしい人達や友達やがいて、自分のことを好きなのだと信じています。それはある部分は正しく、ある部分は正しくなくて、職場のパン屋には意地悪をする人がいたり、チャーリィを酒場に誘うある同僚も、チャーリィと仲良くしたいわけではなく、単に馬鹿なことをさせて笑いものにするのが目的だったりします。ただ、真面目に仕事をするチャーリィを好ましく思う同僚も多く、パン屋での仕事はそれなりに回っている状態でした。

    前述の性質たちの悪い同僚から守ってくれるようなベテランの店員ギンピイというのもいるのですが、知能の高くなったチャーリィはギンピイとの関係もぎくしゃくします。

    ギンピイは得意客へパンを売るときに、料金を安くする代わりにその差額をキックバックさせるという、ちょっとした不正をやっていました。そのことに気づいたチャーリィはやめさせようと忠告するのですが、そのことでギンピイの反感を買います。

    実際のところ、ギンピイだけでなく、ほとんどの従業員が賢くなりすぎたチャーリィを歓迎していなかっただけでなく、店主のドナーも、チャーリィと他の従業員の関係に苦慮しており、結局パン屋を追い出されることになります。守るべき弱い存在であったチャーリィが、そのような存在でなくなったことで、周りの態度が変化してしまいます。

    弱い存在を守るべきだというのは、ほとんどの人が同意できるところだと思います。でも、賢くて強い立場にある人に対してはどうすべきなのか。彼が説く正論が、自分にとって不都合な場合、徒党を組んで排斥するようなことが許されるのか。強いものが相手なら、そういうことをやってしまいがちなのでは、というあたりもちょっと考えさせられます。

    この文庫、SFに強い早川書房から出ているんですよね。1枚目のページの裏の、

    日本語版翻訳権独占
     早 川 書 房

    というのを見ると、おー、SFみたいと思いました。

    そして、読んでみるとSFでした。さっき引用したアイデアメモの続きの部分ですが、

    そしてもう一行。
    「万が一人間の知能を増大させることができたとしたら、いったいどうなるだろう?」

    もし技術的に○○が可能だったら、どうなるだろう?みたいなのはSFチックな発想ですね。

    チャーリィはちょっと賢いというレベルではなく、様々な分野の学問に通じるようになり、言語もすぐに身に着けるので、論文も原著のまま読んだりもできます。専門家と話しても、相手が結局ある一分野のことにしか詳しくない(まあ、普通そうですよね)ということに失望します。話も合わないないし、言い負かされたくない研究者たちはチャーリィのことを腫れものにでも触るように扱いだします。

    チャーリィの体験は極端ですが、ほとんどの人が似たような体験をしているのでは、という気もします。

    子供の頃は賢い子だとちやほやされても、それこそ周りの大人よりも賢くなって、意見でも言い出したら、どういう反応をされるか。

    会社の新人なんかも、何も分からないで謙虚な頃は可愛がってもらえます。でも、実力をつけて、先輩の立場を脅かし始めると、逆に足引っ張られたりとか。見たことはないですけど、なんか漫画とかドラマでありそう。

    物を知るにつれて、すごいと思っていたものが大したものではなかったことに気づいて、自分の有能感を強く感じるようになったり、とか。でも、それもけっこう勘違いだったり、とか。

    自分がチャーリィだったらという読み方もできるし、自分がチャーリィの周りの人間だったらという読み方もできます。それから、後半、チャーリィが知能を失っていく過程は、年を取って認知能力が衰えてきたときの(というかすでに自覚症状がありますが)、予習になると思いました。きっとこういう感じを味わうんだろうな、とか。

    2026年3月26日追記
    なんだか共通するテーマを感じました。
    映画『心の旅』と好かれる親父

  • 『スローターハウス5』が、「この商品はAmazonアソシエイトプログラムから除外されています」???

    「スローターハウス5」の記事を書いたとき、ちょっと腑に落ちなかったこと。

    いつものように、書名からリンクするための、Amazonアソシエイトのリンクを生成しようとすると、

    この商品はAmazonアソシエイトプログラムから除外されています。

    と表示され、リンクが生成できません。

    初めて出会った現象なので調べてみると、一部の商品は除外対象として指定されているとのこと。

    ギフト券、期間限定品、不正利用が多い商品、などが指定されることが多いようです。あと、マーケットプレイスの出品者が対象外に設定している場合もあるようです。

    でも、スローターハウス5は書籍だし、amazonが直接販売している商品だし、上記には該当しそうもありません。

    なぜ、Amazonアソシエイトから「除外される商品」は増えているのか

    上記の記事を見てみると、アダルトとか、医薬品系とかちょっとグレーなものも対象だそうです。でも、ヴォネガットの小説がポルノにあたるとも思えません。ちょっとセクシャルな表現はありましたが、まあ普通の小説の範囲だと思います。

    スローターハウス5 – Wikipedia

    を見てみると、

    『スローターハウス5』は1969年の発売以来、反社会的、わいせつ、不適切な言葉遣いなどの理由によって保守的な価値観を持つ人々から悪書として批判され、全米図書館協会の調査では出版から30年以上経った1990年から2000年の10年のあいだでも、図書館から排除を求められた本の69位と上位に位置している。

    えー、そうなん? 別に、反社会的でも猥褻でもなかったけど・・・。Wikipediaには教材として排除するための訴訟などへの言及がありますが、1970年代ものがメインでかなり昔の話ではあります。

    アマゾンが除外しているという現在の状況と関係があるのでしょうか?

    この小説に関しては、宗教や性的な面より、戦争に対する諦観を強く感じました。子供がちょっと大きくなったくらいの若者や、ど素人まで戦場に送り込んでしまう国家の無様な状況みたいな。

    スローターハウス5の冒頭で、戦争についての小説を書くとヴォネガットが話したときの、戦友の奥さんの言葉ですが、

    「戦争中、あなたたちは赤んぼうだったじゃないの――二階にいるあの子らとおんなじような!」

    (略)

    「でも、そんなふうには書かないんでしょう」

    (略)

    「わたしにはわかるわ。二人が赤んぼうじゃなくて、まるで一人前の男だったみたいに書くのよ。映画化されたとき、あなたたちの役を、フランク・シナトラやジョン・ウェインやそんな男臭い、戦争好きな、海千山千のじいさんにやってもらえるように(略)」

    戦争の、かっこ悪くて、みじめで、無様な一面を広められては、戦争がやりにくくなってしまいそうです。まさかそんな理由ではないとは思いますが。

    ビリー・ピルグリムが戦場において、「赤んぼう」のようにまったくの無力さを晒していたことは、お伝えしておきます。

  • 『スローターハウス5』を再度読む

    私が最初に読んだカート・ヴォネガット・ジュニアの小説は『タイタンの妖女』でした。読んだきっかけは、「助けてくれー!」でおなじみの爆笑問題の太田さんが勧めていたから。

    他に読んだのは『バーンハウス心霊力についてのレポート』という短篇小説で、『20世紀アメリカ短篇選 下』という岩波文庫に収録されていました。この作品は『カート・ヴォネガット全短篇 2』という単行本にも『バーンハウス効果に関する報告書』というタイトルで収録されています。

    スローターハウス5』については、聞いたことはあるが、読んではいないという状態だったので、私が愛用している稲城市立図書館で借りようと思ったのですが、所蔵がない。仕方がないので(言い草!)、買いました。

    パラパラとめくりましたところ、読んだことがありました。いやー、忘れるもんですね。手元に所有もしていないし、図書館にもないので、読んでいなものだと思い込んでいたのですが、川崎市立図書館で借りて読んだことがありました。

    これは読んだぞ、と確信したのは、

    神よ願わくばわたしに
    変えることのできない物事を
    受けいれる落ち着きと
    変えることのできる物事を
    変える勇気と
    その違いを常に見分ける知恵とを
    さずけたまえ

    この箇所を見つけたとき。

    元ネタは二ーバーの祈りというものらしいのですが、われらがヒッキーこと宇多田ヒカルも、「Wait & See ~リスク~」で本歌取りみたいな歌詞を書いています。

    変えられないものを受け入れる力
    そして受け入れられないものを
    変える力をちょうだいよ

    ・・・というブログ記事を当時(2012年)自分で書いたにも関わらず、読んだことをすっかり忘れていたというていたらく。

    スローターハウス5を読む前の私と、読んだあとの私を、行き来したわけではなさそうです。

    ちなみにこの表紙、イラストレーターの和田誠さんによるものです。そうです、平野レミさんの旦那さんです。

    この小説、冒頭はヴォネガット自身の、戦争の体験をもとにした小説を書こうとしているという語りで始まります。反戦・厭戦的な重たい小説が始まるんだろうなーと思いきや、トーンはコメディです。そしてSFです。でも、戦争というものに対してのメッセージはひしひしと伝わってきます。

    主人公のビリー・ピルグリムは、ろくな訓練もうけず、ちゃんとした装備も与えられず、戦場に放り込まれます。ビリーは、従軍牧師助手という立場なので、

    敵を傷つけることもできなければ、友人を助ける力もない。事実、彼に友人はなかった。説教師の従者というだけであり、昇進やメダルの望みもなく武器も持たされず、あるのはただ慈愛に満ちたイエス様への恭順な信仰ばかり、もちろんたいていの兵士はそんなものをせせら笑った。

    彼が配属された連隊はすでに壊滅していて、上官である従軍牧師にも会えないまま、戦闘に巻き込まれて、でもビリーは戦うこともできない。敗残兵のグループに紛れ込むも、ほどなくドイツ軍に見つかって、捕虜となります。

    自軍にいるときでさえ、ままならなかったくらいですから、捕虜になってからはさらにいっそうひどい扱いを受けることになり、生きる気力を完全になくして、呆けたような状態になります。

    でも、結果的にビリーは生き延びます。生きる気力のある人が必ずしも生き残るわけではなく、偶然や気まぐれで、生き残ったり、死んだり。ちょっとした理不尽とも思える理由で人が死んでいきます。そのたびに、ヴォネガットは「そういうものだ。(So it goes.)」というフレーズを使います。このフレーズは作品中に何度も現れ、バイトを使って数えさせたところ(うそ)、100回以上使われてました(ほんと)。

    『スローターハウス5』はSFでもあります。空間の3次元に加えて、時間の1次元を加えた4次元空間という考え方はよくSFに出てきますよね。4次元空間に住む生物、時間も空間と同じように行き来できる生物みたいな話も聞いたことがあります。

    『スローターハウス5』でもそのアイデアを利用していますが、そこに幸福とか自由意志とかをどう考えるか、あるいは3次元空間になじんだ我々がその4次元空間を体験するとは、どういうことなのか、というところの表現に衝撃を受けました。

    ビリーは、子どもの頃、戦争中、その後の検眼医としての裕福な時期、そして、死の瞬間まで、あらゆる時間を行き来します。ビリーはそれをコントロールすることはできませんが、これを自在にコントロールできるとしたら、トラルファマドール星人と同じ感覚を味わうことになるのかもしれません。

    もしその感覚を味わえば、人間が感じる最期としての死とか、不幸な結末などに対して、どういう思想を持つにいたるのか。SFというスタイルを、戦争とか運命とかに対する考え方を展開するための場として活用した小説だと思いました。

    つらいストーリーをコメディとして語りつつ、SFで扱われてきた概念を哲学レベルの要素として絡め、戦争の現実を伝えつつ、新たな幸福論(不幸論)を展開する、そんな小説でした。

  • 『アメリカ(Amerika)』もやっぱりカフカ的だった

    カフカの『審判』と『城』は読んだことがありました。ただ、かなり昔で、図書館で借りたものをざっと1回読んだだけなので、ちょっと記憶はあやふやです。

    審判』は、主人公のヨーゼフ・Kが理由も分らぬまま裁判にかけられるという話です。何が法に触れたのかもわからず、逮捕されるわけでもなく、呼び出しに応じて裁判に行っても、それが裁判なのかどうかもよくわからない場で裁かれて、最後はドラマティックな形で刑が執行されてしまうという変な話です。

    』もまた変な話で、測量士のKが城に雇われるのですが、仕事を始めるどころか、城にたどりつけもしない。道に迷うとか、そんな単純な話ではなく、関係者らしき人にたらい回しにされるというか、論理が通っているんだかいないんだかみたいな人たちの、のらりくらりとした会話に翻弄されるというか、ずっとじれったい感じが続きます。

    で、ちょっと前に、『審判』と『城』と並んで、『アメリカ』という作品が、カフカの長編の三部作と呼ばれていることを知り、今回この『アメリカ』を読もうと思った次第です。

    ちなみに、最初に『アメリカ (Amerika)』というタイトルで出版されたのですが、Wikipediaによると、

    カフカの草稿自体には作品タイトルはなく、ブロートは生前のカフカが「アメリカ小説」と表現していたことに基いてこのタイトルをつけ、これが長い間これが作品名として流通していた。しかしその後、カフカが『失踪者』のタイトルを予定していたことが日記から判明し、1983年の批判版全集以降は主に『失踪者』のタイトルが用いられるようになった。

    とのこと。でも、私が購入した角川文庫版は「アメリカ」のままとなっております。

    どんな話だろうと、裏表紙を見ると、こんな感じで紹介されています。

    年上の女に誘惑され愛されたばかりに、両親にやっかいばらいにされたカール少年は故国ドイツを追われアメリカに渡った。やっとのことでニューヨークの伯父にめぐりあい、面倒をみてもらえるようになったのもつかの間、何とも不可解な理由で伯父の家からも追い出される。追放されつづけるカール少年は放浪の旅に出るが・・・。
    軽妙に描かれるカフカ的冒険小説。

    たぶんですが、ほとんど人、特にカフカを読んだことない人が、この文章から想像するものとは、全然違うのではないかと思います。

    「何とも不可解な理由で伯父の家からも追い出される」というのはその通りなのですが、伯父とのめぐりあいのくだりも不可解です。「冒険小説」というイメージともだいぶ違うような・・・。でも、「カフカ的」と付いているから、これがカフカ的な冒険小説なのかも。

    世の中の多くの小説の「不可解」は、理解して楽しむための「不可解」だと思うんですよね。伏線があったり、種明かしがあったり、あるいは不可解が壮大すぎてそれ自体が楽しめるような。

    そうしてやらないと、不可解なものは、違和感を与えるだけですから、そんな小説は一般受けしないでしょう。新人だったら、編集者に直されちゃいます。だから、あまり存在しないんじゃないかと思います。

    カフカの不可解は、そんな大げさなものではなく、普通の人間との普通のやりとりの中で生まれてきます。出てくる登場人物かどこか変で、ロジックが少し変だったり、職務が少し変だったりします。でもオカルトやSFみたいな大げさな話ではなく、ただ単に登場人物のモノの感じ方や論理や表現の仕方が、ちょっとずれている(ような気がする)。でも、決して狂人ではない。そんな人たちと交渉しなきゃいけない立場の主人公はすっかり疲弊してしまう。でも、主人公さえも、そのちょっと変な登場人物の一人であったりして、読んでいるほうは、「いったい私は何を読まされているんだ?」みたいな気分になります。

    第八章の「オクラホマの野外劇場」なんか最たるものでした。職を探しているカールは、オクラホマの劇場の座員募集のポスターを見かけて、志願すべく会場に向かいます。

    会場についても、誰が採用の係員なのかよくわからなかったり、それらしい人にあたっても誰が意思決定者なのか判然としなかったり、どういう基準で選考しているかもふわふわしていたり、そもそもカールはどういう職種で雇われるのかも二転三転します。そもそも、オクラホマの劇場がどういう組織で、どういうビジネスをやっているのかも、もやもやしたままです。もやもやしたまま、どうやら採用されたらしいカールは列車に乗せられて・・・

    はっきりとオチのついた小説が好きで、もやもやとした気分にさせられるのが嫌いな方には、カフカはお勧めしません。でも、あなたがそのような種類の人間かどうかについては、私の関与するところではなく、私の権限が及ばない類のものであることを、まずはあなたに伝えておかねばなりますまい。

  • あるイタリア系アメリカ人の更生

    彼はベトナム戦争から帰還し、タクシーの運転手をやっていました。そのときに、ちょっとした事件を起こしますが、社会からそれほど爪はじきになるということはありませんでした。

    しかしその後、彼はすっかり裏社会に入り込み、マフィアのボスになりました。野球が好きだった彼はチームプレイを愛する一方、へまをしたやつは許さないという冷酷な人間になりました。

    晩年、妻に先立たれた彼は、あるベンチャー企業で実習生として働くようになりました。今までの経験を活かし、若き女性経営者の心の支えになるような立派な人になりました。

    一時期は踏み外しかけたこともありましたが、すっかり更生し、平穏な人生を送ることができるようになったので、よかったなあと思いました。(おわり)

    何の話だって? ロバート・デ・ニーロの半生ですが。

    タクシードライバー』(1976年)からの、『アンタッチャブル』(1987年)を経ての、『マイ・インターン』(2015年)です。マイ・インターンを見ていて、ベンがニコッとしたとき表情が、カポネがニヤッとしたときのことを彷彿とさせ、バットで殴られるんじゃないか、とドキドキするようなことはないと思いますので、ご安心を。

    これらの作品で、私が覚えた英語フレーズは

    You talkin’ to me?

    です。さて、どの作品でしょう?

    ちゃんと書くと “Are you talking to me?” でしょうか。「あなたは私に向かって話しているのですか?」という意味です。

    街で絡まれたときなどに使ってみてください。「え、俺か? 俺に言っているのか? 他には誰もいないようだが・・・ 本当に俺に向かって言っているのか?」などと、ちょっとくどめに確認をしたあとに、袖口に忍ばせたピストルをさっと出し、相手をバンッ・・・

    みたいな冗談は最近受け入れらないので、なんだか窮屈です。

  • 『シーモア-序章-』はサリンジャーではなく、バディ・グラースの作品?

    いやー、つらい読書体験でした。サリンジャーの中編が2つ入っている文庫本で、前半の『大工よ、屋根の梁を高く上げよ』を読んだときもなかなか厳しいものがありましたが、後半の『シーモア-序章』はそれ以上でした。

    『大工~』のほうはまだストーリーがあったのですが、『シーモア-序章-』のほうは、バディ(次男。シーモアのすぐ下の弟)の独白みたいな感じ。独白、じゃないな。えーと、バディは作家で、シーモアについての『シーモア-序章-』という作品を書いた。それが、この本に載っているわけです。つまり、『シーモア-序章-』はサリンジャーの作品ではなく、バディの作品という形になっています。メタフィクションってやつでしょうか。

    その作品は小説ではなくて、ノンフィクションというか、エッセイというか、途中まで書いて、しばらくして続きを書いて、というのをそのまま載せてある感じ。

    かなり後半ですが、こう表現されていました。

    わたしと同じ年齢で同程度の収入があり、自分の死んだ兄弟のことを魅力的な半ば日記形式で書く非常に多くの人間は、わざわざ読者に日付を知らせたり現在自分のいる、、場所を教えるようなことはしない。

    作者(バディ? サリンジャー?)が書いているんだから「日記形式」ということでよさそうです。

    この作品の中では、他のサリンジャーの短編もバディが書いたという設定になっています。

    しかし、これまでにわたしは直接シーモアについて語っていると考えられた二つの短編小説を書き、出版したと言ってもいいし、また言っておかねばなるまい。この二つの作品のうち、新しいほうは1955年に出版されたが、1942年の兄の結婚式をきわめて総括的に物語ったものである。

    出版年は実際とは違うみたいですが、「この二つの作品のうち、新しいほう」というのは『大工よ~』のことでしょう。そして、「他方、それ以前の、1940年代の末に書いたもっと短い小説」として言及しているのが、ナイン・ストーリーズに入っている『バナナフィッシュにうってつけの日』です。

    (略)彼自身が直接姿を現すばかりでなく、歩いたり、話したり、海にもぐったり、最後の一節では頭にピストルを打ちこんでいる。

    とあるので、読んだ人には明らかですよね。

    設定は大体わかっていただけたと思います。冒頭、いきなりカフカとキェルケゴールの引用から入り(数ページ後に説明がある)、シーモアの話をしそうでなかなかしない。何を言いたいのかがわからない、非常に長いセンテンスが続きます。係り受けの関係を読み解くだけでしんどいです。

    後半になると、具体的にシーモアの話が出てくるので、なんとか興味が持続するようになりますが、全般的にほとんどの人には楽しめない作品になっています、たぶん。私もそちら側でした。

    でも、アマゾンのレビューの点数だと、現時点で平均で4.4点です。高いほうですよね。楽しめる人もそれなりに多いようで。

    あなたはどちら派なのか、確かめてみたらいいかも。サリンジャーの全作品を読むのはけっこう簡単です。作品数が少ないので。でも、理解するとなると・・・、ねえ?

  • 大工よ、屋根の梁を高く上げよ。アレスさながらに、丈高き男の子(おのこ)にまさりて高き花婿きたる。

    私がサリンジャーの作品を読んだきっかけは、爆笑問題の太田さんがテレビ番組で薦めていたから。どうやら「爆笑問題のススメ」(wikipediaへのリンク)という番組だったようですが、私がサリンジャーを初めて読んだ時期が15,6年前だということを考えると、さらに前に放送されたものがYouTubeかなんかにアップされていて、それを見たのかも。

    太田さんは、サリンジャーの『フラニーとゾーイー』と、カート・ヴォネガット・ジュニアの『タイタンの妖女』を紹介していました。紹介している番組をどうしても見たい人は、ウェブで検索すれば出てくるのではないでしょうか。私はまだ読んでいないのですが、『爆笑問題の「文学のススメ」』という本も出ているので、そこでふれているんじゃないかと思います。絶版になっているみたいですが、図書館で借りるか、中古で買えば読めるでしょう。

    番組の中では、サリンジャーの『ナイン・ストーリーズ』という短編集にも触れていました。なぜかというと、この中に入っている『バナナフィッシュにうってつけの日』が、グラース家のストーリー(連作短篇のような形になっています)の発端になっているからです。

    出版の順序では、『バナナフィッシュ~』 → 『フラニー~』 → 今回読んだ『大工よ、屋根の梁を高く上げよ』ですが、ストーリーの時系列では、『大工~』(長兄シーモアはまだ生きている) → 『バナナフィッシュ~』(シーモアの自殺) → 『フラニー~』(兄を失った妹の葛藤)という流れになります。

    『大工~』は家に文庫本があったので、以前読んだはずなのですが全く内容を覚えておらず、もっと言うと、読んだかどうかも自信がなかったです。が、読んでみると、やっぱり読んでました。

    語り手は、シーモアのすぐ下の次男バディで、シーモアの結婚式のために、軍隊(本業は作家だから、たぶん兵役)の休暇をとって、病み上がり(治りきっていない)の体をおして、はるばるやってくるのだけれど、気まぐれとも思えるシーモアの行動により結婚式はドタキャンになり、花嫁側の親戚とたまたま同席してしまい、シーモアのことを悪く言う気の強そうな女性になんだかんだと言われる、みたいな話です。

    冒頭で、赤ん坊の頃のフラニーにシーモアが読み聞かせた中国の古典が引用されています。また、タイトルになっているフレーズは、ブーブー(長女、バディの妹)がバスルームの鏡に石鹸で書いた伝言の一部で、その内容はというと、

    「大工よ、屋根の梁を高く上げよ。アレスさながらに、丈高きの子にまさりて高き花婿きたる。先のパラダイス放送株式会社専属作家アーヴィング・サッフォより、愛をこめて。汝の麗しきミュリエルと何卒、何卒、何卒おしあわせに。これは命令である。予はこのブロックに住むなんぴとよりも上位にある者なり」

    古典のパロディのようだけど、元ネタが分かりません。あのサッフォーかなと思ったけど、ウィキペディアのサッポーのページを見ても、アーヴィングというファーストネームではありません。「アーヴィング␣サッフォ」で検索してもそれらしいページはでてきません。

    シーモアの奥さんになるミュリエルの名前が出てくるので、ブーブーからシーモアへの祝辞であろうということ分かるのですが、それ以外は不明です。シーモアは背が高いのでしょうか?

    小説のタイトルとして、この部分を選んだくらいだから、何か深い意味が込められているのかもしれません。

    ・・・このような感じですので、サリンジャーの作品の中であまり知名度が高くない(気がする)のもうなづけけます。

    グラース一家の物語を読みたい人は、『ナイン・ストリーズ』(普通に短篇集として楽しめます)から入って、そこ出てくる断片に触れて、『フラニーとゾーイ―』でより深く知って(村上春樹のズーイのほうでもいいけど)、それでシーモアに興味がわいたなら、『大工よ、屋根の梁を高く上げよ』に進むほうがよさそうです。

    サリンジャーの作品には、一度読んだだけでは理解できないようなものも多い気がします。でも、何度読んでも新たな発見があるような、そんな作家なんだろうなと思います。

  • 『Charlie and the Chocolate Factory』の原作(英語)と映画

    CHARLIE AND THE CHOCOLATE FACTORY』(ROALD DAHL著)を読みました。映画の『チャーリーとチョコレート工場』(ティム・バートン監督)を見た方、知っている方は多いと思います。あの映画の原作です。

    英語の多読を始めたのは20年以上前(注:20年以上続けているという意味ではない)で、最初はGraded Readers(英語学習者のためにレベル分けし、語彙をしぼったもの)や絵本から入っていったのですが、英語を読むことに慣れてきたら、「そろそろ児童文学」「いつかは児童文学」みたいなところがあって、ロアルド・ダールと言えば、真っ先に候補にあがる児童文学作家というイメージでした。

    で、当時は結局ロアルド・ダールは読まず、『ダレン・シャン』などを読み始めたものの、挫折したという記憶があります。

    今回、『CHARLIE and …』を読み終えられたのは、映画を見たことがあったので、話の筋はある程度分かっていたというのが大きいです。登場人物のイメージはある程度できているので、人物の形容で知らない単語が出てきても気にしすぎずに、映画を思い浮かべながら「おおかた こんな意味だろう」と読み流せたからのような気がします。

    いやね、出来事の流れを書いてあるところって比較的 読みやすいんですよ。難しいのは、人物の形容のところ。

    例えば、一人目のTicket FounderであるAugustus Gloop(お菓子ばっかり食べている太ったあの子ね)を形容している箇所

    Great flabby folds of fat bulged out from every part of his body, and his face was like a monstrous ball of dough with two small greedy curranty eyes peering out upon the world.

    難しいでしょ。ちなみに太字イタリックは私が知らない単語。よくよく考えるとmonstrousがmonsterの形容詞だというのは分かるんだけど、出てきた瞬間にはピンとこない。あと、doughもピザやパスタを作るって話の流れで出てきたらすぐに理解できるけど、人の形容で”a monstrous ball of dough”と言われても、はて?となっちゃう。一行に一つ以上知らない単語が現れるとさすがに厳しい。

    でも、このあたりは映画を思い浮かべつつ、太ってて、貪欲で、なんか醜い感じを表現しているんだろうなー、くらいで流してしまうのが良いような気がします。

    チャーリー以外の4人の問題児や、彼らの工場での受難(因果応報)は映画で忠実に表現されていたような記憶があるので、そこはそれを思い出せればOKということで。(映画を見たのはだいぶ前で、テレビ放送されているのを見ただけなのでちょっとあやふやではありますが)

    映画と違う点もありました。映画では、Willy Wonkaと父親の確執が描かれていましたが、原作には出てきませんでした。

    あとラスト近くで、映画では工場への引っ越しはChalieひとりでと言われ、家族と暮らすことを選び、工場の跡継ぎは辞退する(少なくとも一旦は)という流れだったと記憶しています。原作では最初から「家族みんなで」というWonkaからの申し出でした。それでも引っ越しは嫌だという寝たきりのおじいちゃん・おばあちゃん3人。さて、どうなる・・・? という展開でした。

    翻訳の書籍や映画でストーリーを把握したうえで、原作(英語)でそれをなぞってみるというのはハードルが低くて、なかなかよさげな感じでした。