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勝手に読書感想文。漫画も映画も含みます

タグ: イギリス

  • フウイヌム国渡航記とガリヴァーのその後

    いよいよ、ガリヴァー旅行記 最後の第四篇『フウイヌム国渡航記』です。理知的な馬であるフウイヌムと野蛮な人間であるヤフーの国です。フウイヌムが支配していて、ヤフーは家畜です。しかも、下品で粗野でずるいダメダメな家畜扱いです。

    ところで、ヤフーといえば、ヤホーですよね。お察しの通り、語源の一つらしいです。

    Yahoo – Wikipedia

    また、ファイロとヤンは自分たちのことを「ならずもの」だと考えているので、「粗野な人」という意味がある「Yahoo」(『ガリヴァー旅行記』に登場する野獣の名前が由来)という言葉を選んだと主張している。

    そういえば、放送大学のラジオで「ヨーロッパ文学の読み方―近代篇(’19)」というのをやっていて、その第三回がガリヴァー旅行記でした。

    第3回 イギリス(2)

    スウィフト『ガリヴァー旅行記』を読む。

    【キーワード】
    風刺文学、空想旅行記、異文化接触

    執筆担当講師名:大橋 洋一(東京大学名誉教授)
    放送担当講師名:大橋 洋一(東京大学名誉教授)

    この講義の中で、この回の担当講師である大橋先生が以下のような話を紹介していました。

    ガリヴァー旅行記の翻訳者でもあった中野好夫は、その訳書のあとがきで「ほとんど我々の顔に腐った臓腑を投げつけられる思いのするのは、第三篇ことに第四篇である」と述べ、「訳者としての希望を率直に言うならば、たとえ第一篇、第二篇は読まなくとも、後半の第三篇、第四篇だけはぜひ読んでもらいたいのである」と述べています。

    中野好夫氏といえば、「吾輩」訳ですね。講義の中での朗読も、一人称が「吾輩」だったので、中野氏の訳を使っていたのでしょう。なんだか、10万63歳の彼を思い浮かべてしまいます。

    私の印象では、4つの篇の中で一番、ガリヴァーがどうかしちゃうのが、このフウイヌム国渡航記という感じでしたね。

    他の国に行ったときも、自分たちの世界(ヨーロッパや英国)について、批判的になったり、あるいは弁護的になったり、というのがありました。フウイヌム国でも最初はそんなトーンだったのですが、だんだんとあっち側のスタンスになっていきまして、帰る気なんかなくなって、すっかり住み着くつもりだったのですが、そうはいかなくなります。

    以下は、章の最初に記されている、その章の概要からの引用です。

    著者、主人より、この国から退去するよう警告を受ける。著者、悲しみのあまり失神するが、結局退去を承諾する。

    主人というのは馬です。この主人との対話を通じて、だんだん人間嫌いになっていて、ヨーロッパの人間たちも目の前にいる野蛮なヤフーと変わらない、自分はヤフーだ、他の人間もヤフーだ、そんなところには帰りたくない、という考えを持ち始めます。そんな中、主人からこんな話を聞かされます。

    それによると、最近開かれた大会議の席上、ヤフー問題が取り上げられ、いろんな代表者が、要するに野蛮な動物にすぎないのにまるでフウイヌム同様に一匹のヤフー(つまり私のことだ)を家人として養っているのは怪しからん、といって主人を非難したというのである。

    追放されたガリヴァーは丸木船でフウイヌムの国を去りますが、イギリスに帰る気はなく、無人島で一生を過ごそうとしているところをポルトガル船に発見され、なかば無理やりヨーロッパに連れ戻されることになります。

    親切な船長にも失礼な態度をとり、家族と再会したときも、

    だが、家の者たちを見た時、私の心中に忽ち憎悪と嫌悪と軽侮の念だけがこみ上げきたことを、ここに率直に告白しておかなければならない。
    (略)
    のみならず、自分がヤフー族の一匹の雌と交わってそいつに数匹の子を生ませたことを考え、私はただもう堪え難い恥辱と当惑と恐怖に襲われどおしであった。

    後半の部分は、奥さんと子供のことを言っているんですね。ひどい言いようです。そして、お金ができると、2頭の馬を厩舎で飼い、

    私の可愛い馬たちは、こちらの言うことがかなり分かるので、毎日少なくとも四時間は、話し合うことにしている。

    人間を嫌悪することになった理由はそれなりにあり、思考のプロセスなども書かれているので、気持ちも分からなくもないのですが、イギリスで普通に暮らして待っていた家族からしてみたら、帰ってきたら人間を極度に嫌悪するようになっていて、毎日を馬に話しかけて過ごすようになって、もう完全に狂人です。

    各国への渡航のラストをかざり、ガリヴァーの精神状態にとどめをさすのは、やっぱりこのフウイヌム国がふさわしかったのでしょう。巻末の解説によると、執筆されたのは1720年から1725年頃。発表と同時に大きな好評を博したが、その後、スウィフトはいろんな論文や詩を書いて、やがて狂人となって死んでいった、とのこと。

  • ガリヴァーと蚕の糸と『蜘蛛の糸』

    私の読書感想文ルール: 一つ、それぞれの「篇」について書いてもよい

    平井 正穂訳のガリヴァー旅行記を読んでいるんですが、

    • 第一篇 リリパット国渡航記
    • 第二篇 ブロブディンナグ渡航記
    • 第三篇 ラピュータ、バルニバービ、ラグナグ、グラブダブドリッブおよび日本への渡航記
    • 第四篇 フウイヌム国渡航記

    となっていて、今回は第三篇のラピュータ他です。つまりラピュ他です。各篇 盛りだくさん過ぎて、ガリヴァー旅行記の感想文と言っても、どの国のどの話を取り上げるのかが難しいところ。だったら、各篇ごとに書いてもいいじゃないかというわけです。

    第一篇は 小人国(過去記事)、第二篇は巨人国(過去記事)、一つ飛ばして、第四篇は、知的な馬「フウイヌム」が支配し、野蛮な人間「ヤフー」を家畜として扱っているような国。

    一、二、四は出てくる「国民」のクセが強めで比較的分かりやすいです。でも、第三篇は一言では言いにくい。5個も国が出てきます。おまけに日本まで出てきます。以前1回は読んだはずですが、ガリバーの日本訪問についてはまったく記憶がなく、今回読んでみて納得しました。ほとんど通過しただけで、事件らしい事件もおきず、変な国民性や風習などもあらわれませんでした。踏み絵がちょっとネタになっていたくらい。

    第三篇に出てくる「ラピュータ」といえば、あの宮崎駿の『天空の城 ラピュタ』の名前の由来になったものですが、ウィキペディアに書いてあるように、

    劇中に空飛ぶ島の物語を空想した人物としてスウィフトの名前も出てくるが、名前の借用以外は『ガリヴァー旅行記』との関連はない。

    のだそうです。たしかに、読んでみても、それらしいものは見つかりませんでした。シータも、ドーラも、「バルス!」も出てきませんでした。

    空飛ぶ島のラピュータに住んでいる支配者層が治めている地上の国が「バルニバービ」です。このバルニバービでは研究が盛んで、様々なものが研究されているんですが、トンデモ研究というか、ポンコツ博士というか、そんなんばっかり。しょうもないアイデアとか新しいものには飛びつき、伝統的なものを迫害し排除するようなバルニバービの国民性が、スウィフトがいろいろと風刺を乗せたかったとこなんだろうなと思いました。けっこう長々と書いてあったし。

    数々の変な研究が出てきます。例えば、

    研究所に着任以来この老人は、人糞をもとの食料に還元する実験を自分の仕事としてきた。人糞をそれぞれの成分に分解し、胆嚢からえた色素を除き、臭気を蒸発させ、唾液を掬すくいとるのがその仕事だそうであった。彼は、毎週、ブリストル大樽くらいの大きさの容器になみなみと入れられた人糞の配給を、研究所から受けていた。

    「食料に還元」できたとて、ですよ。還元したあと、どうするんでしょうか。私はこれ以上考えたくはありません。

    他にも、胡瓜から太陽光線を抽出する研究とか、家を屋根から作り始め最後に土台を作るという施工法を開発したという建築家とか、盲人に手触りと嗅覚で色を調合させる研究とか、畑に豚の好物を埋めて、それを掘り起こさせることで耕す労力を軽減する研究(埋めるのは耕すより労力がかかるというオチ)とか。

    ただそんな中に、蚕の代わりにクモを使うという研究があって、

    やがて、彼は、蜘蛛という家の内で飼える昆虫がこんなに沢山いるのに、世間の人々が蚕を飼うといった誤ちを永い間犯してきたことは残念だ、と言った。蜘蛛は紡ぐのもうまいが織るのもうまい、だから蚕よりも遥かに優れている、とのことであった。

    これに関しては、とんちんかんな研究というよりは、むしろいい線をついてきているような気がしています。というのも、『カラー図解 アメリカ版 新・大学生物学の教科書 第1巻 細胞生物学』をちょっと前に読んだときに、P134「生命を研究する:クモの糸を作る」に、以下のような記述を見つけまして、

    クモの糸は知られる限り最も強い素材の1つであるが、大量に得ることはきわめて困難である。産業界の生物学者は遺伝子エンジニアリングを用いてそのタンパク繊維を作っている。彼らは蚕(衣類で用いられる絹糸を作る昆虫の幼生)に、強力なクモの糸―絹糸の複合繊維を作らせるのである。

    (略)

    クモの糸はその二次構造のおかげで大変強いタンパク質ベースの資材である。人間が利用するためには、この繊維を大量に獲得することが望ましい。クモは巣を張るために糸を紡ぎ出すが、その量は人間が利用するのには不十分である。蚕は衣類で用いられる絹糸を豊富に産生するが、絹糸はクモの糸に比べてはるかに弱い。ワイオミング大学のランディ・ルイスによって率いられる科学者の国際チームは、クモの糸―絹糸の複合繊維を大量に作らせるべく蚕に遺伝子操作を加えた。それからこれらの繊維の性質を試験し、本来のクモの糸の性質と比較した。

    クモの糸は強く、用途によっては非常に有用だが、いかんせん量がとれない。蚕はたくさんの糸を産生することができるので、遺伝子操作でクモの糸と同じ材質の糸を作り出す蚕をつくればいいのではないか、という発想です。

    ガリヴァー旅行記は芥川龍之介の愛読書の一つだったようですが、『河童』だけでなく、『蜘蛛の糸』(青空文庫へのリンク)も、この旅行記から着想を得た、なんてことはさすがにないでしょうね。

    でも、クモの糸の丈夫さを、この小説以上に語っているものはないんじゃないですかね。だって、犍陀多かんだたの重さだけでなく、

    罪人たちは何百となく何千となく、まっ暗な血の池の底から、うようよと這い上って、細く光っている蜘蛛の糸を、一列になりながら、せっせとのぼって参ります。

    ・・・なんてことになっています。一時的(犍陀多が独占欲を出すまで)とはいえ、すごい人数の重量を支えていたのですから。

    話をガリヴァーに戻しまして・・・

    スウィフトはきっと、クモの糸を絹の代わりに使うなんてのは、実現しないことだと思って、数々のトンデモ研究の中にこれを入れたのでしょう。まさか300年後に彼が考えたのと同じような着想の研究が実用化されることになろうとは、夢にも思っていなかったでしょう。

    300年も経てば何が起こるか分かりません。ということは、もしかして、「人糞」のほうも、そのうち・・・

  • ガリヴァー旅行記(巨人国)と偏見の構造

    小人国(リリパット国)に続いて、巨人国(ブロブディンナグ国)です。子供向けの絵本によっては小人国のみという構成のものもありますが、ガリヴァーは小人国から無事イギリスに帰国したあと、

    性分と運命に災いされて、絶えず動き回っていなければ気がすまない私は、帰国して十ヵ月でまたもや故国を飛び出し、1702年六月二十日にダウンズから出帆した。

    (引用は、平井正穂訳の岩波文庫版より)

    ガリヴァーのキャラ設定は、寅さんまたは裸の大将といった感じで、大変な目にあって帰ってきても、すぐにまた航海に出てしまうんですよね。

    航海の途中、水を補給しようと「大きな島だか大陸だか」にロング・ボートで上陸したところ、現れた巨人にびっくりして逃げていく仲間たちに置いてきぼりにされるというスタートです。ブロブディンナグの国民はちゃんとした文明を持っており、進撃の巨人みたいに食べられたりはしないので、ご安心を。

    リリパット国のときにいろいろなものの小ささで驚く話がたくさんあったのと同じような感じで、ブロブディンナグ国では大きさに驚くというエピソードが散りばめられてきます。ただ、単位がインチとかフィートのヤード・ポンド法なので、いまいちピンときません。注釈によると、著者による比率の換算はけっこういいかげんらしいので、あまり気にして読む必要はなさそうです。「それがぁ、すっごい、でかくてぇー」くらいの感覚で読みました。

    興味深かったのは、ブロブディンナグ国からの脱出後に、普通のスケールの人に会ったり、普通のサイズの街に戻った後の感覚のずれですね。

    そのずれはイギリス人との再会である救出の場面から始まっていました。なんやかやありまして、ガリヴァーは木でできた頑丈な箱に入った状態で海に漂うことになります。巨人にとっては持ち運べる箱、ガリヴァーにとっては居住できる一部屋ほどのサイズ感です。

    どうやら船に発見され(ガリヴァーには外がよく見えない)、外から声をかけられたときに、のこぎりで穴をあけて引っぱり出してやるという乗組員に向かって、ガリヴァーは、箱に輪がついているから、それに指でもひっかけて持ち上げてくれ、みたいなことを言います。ガリヴァーが悠々とすごせる大きさの箱が、簡単に持ち上げられるわけはないのですが、巨人の感覚になっているんですね。

    自分の家に戻ってきたときも、元のサイズに戻ったという感じではなく、何もかもが小さく見えるという感覚を味わいます。

    人が小さく見えるので、踏み殺さないようによけるのに苦労するとか(同じ大きさなのでそんな心配はないのだが・・・)。家に入るときも鴨居に頭をぶつけるような気がするとか。奥さんと再会して抱擁するときに、膝より下までしゃがみ込んでしまうとか。

    実は上記の反応って最初よくわからかったんですよね。後遺症には2パターンあって、1つはブロブディンナグにいたときと同じようにしてしまうというもの。大声で話す(ガリヴァーは小さいので大声を出さないと聞こえない)とか、上を見て話す(巨人の顔ははるか上方にあるので)とか。これは分かりやすいですよね。

    もう1つは、見えるものが小さく感じる→そのサイズにあった行動をとってしまう、という多段階の後遺症ですね。目で見えたサイズ感に対応する行動をとるのではなく、感覚のサイズ感に合わせて行動してしまうというもの。

    スウィフトらしく、これも何かの比喩になっているのかもしれません。平凡な出自なのに、何かのきっかけで上流社会の人たちと交わるようになる。その感覚にすっかり馴染んだ結果、自分もその仲間入りができたと錯覚し、平凡な人を見下すようになる。自分は何も変わっていないのに。・・・みたいな。考えすぎでしょうか。

  • ガリヴァー旅行記(リリパット国渡航記)と教義の対立

    『ガリヴァー旅行記』(ジョナサン・スウィフト著)のごく一部、リリパット国渡航記だけの感想文です。

    子供の頃に読んだガリバー旅行記(昔は「ヴァー」なんてタイトルではなかった)といえば、小人国にたどりついた巨大なガリバーが地面に縛り付けられた挿絵が思い浮かびます。髪の毛が細い束にされて、それぞれが杭につながれた絵を見て、「さすが小人、仕事が細かい」と思った記憶があります。

    子供向けのガリバーの本といえば、小人国(リリパット国)だけか、小人国と巨人国(ブロブディンナグ国)という構成だったように記憶しています。滞在した国の人間がすごく小さかったり、すごく大きかったりして、そこから生まれるエピソードというのは子供にもキャッチーですよね。「悲報! 宮殿放尿消火事件」とかね。(注:原作とは異なります)

    ガリバー旅行記の原作が子供向けのものではなく、むしろ大人でも理解が難しい風刺に満ちたものであることは、有名ですよね。どこかで聞いたことがあるでしょう? えっ、ない? じゃあ、「クルマ買い取り No.1」というのは? それはある、と。はい、今回はその話ではありません。

    リリパット国はブレフスキュ国(それぞれイギリスとフランスに対応)と戦争状態なのですが、戦争の原因の一つに「教義」があります。

    この皇帝も、ブレフスキュ帝国の全土を併呑して属領にし、総督を派して統治する、卵を大きな方の端で割るといって亡命した連中を抹殺する、全人民が卵を小さな方の端で割ることを強制する、――こうすることによって自分は全世界の唯一の帝王として安泰を誇る、ということ以外には何も眼中にはないらしかったのだ。

    なんで卵の話が? と思われるかもしれませんが、卵をどちらの側から割るのかというのが、2つの小人国の間での「教義」の対立なんですね。カトリックとプロテスタントの教義争いを、あえてこのようなどうでもいい卵の話と対比しています。

    大きな方の端で割る人をビッグエンディアン、小さな方の端で割る人をリトルエンディアンというのですが、これがコンピューターで複数バイトを扱うときの並びの規則(ハードウェアのアーキテクチャによって異なる。どちらが良いというタイプのものでもない)の語源になっていたりもします。

    ガリバー旅行記はいろいろなものの元ネタになっていますよね。人間のような野蛮な動物のヤフーも、あのYahoo!の由来(の一つ)みたいです。ラピュタも出てくるしね。

    芥川龍之介の『河童』のモチーフになっている話も有名ですよね。この話だと『フウイヌム国渡航記』のほうが語られることが多いと思いますが、『リリパット国渡航記』のほうにも、その片鱗があります。

    そんなわけで、子供が自分を生んでくれた父親や育ててくれた母親に対して、何も恩義を感じなければならぬいわれはない。人生はただでさえ悲しいことで一杯なのだ、生まれてくることなどそれ自体何も有難いことではないし、(略)

    なので、子供の教育に関して国がしっかり管理する、みたいなリリパット国の制度の話につながります。

    芥川の『河童』だと(青空文庫より)

    その代りに人間から見れば、実際又河童のお産位、可笑しいものはありません。現に僕は暫くたつてから、バツグの細君のお産をする所をバツグの小屋へ見物に行きました。
    (略)
    けれどもお産をするとなると、父親は電話でもかけるやうに母親の生殖器に口をつけ、「お前はこの世界へ生れて来るかどうか、よく考へた上で返事をしろ。」と大きな声で尋ねるのです。

    で、中から子供が答えます。

    「僕は生れたくはありません。第一僕のお父さんの遺伝は精神病だけでも大へんです。その上僕は河童的存在を悪いと信じてゐますから。」

    親の都合で生まれてくること、生まれたところで人生は困難だらけ、のように悲観的な捉え方をするあたりに共通点があります。

    第一篇のリリパット国渡航記、第二篇のブロブディンナグ国渡航記に関していうと、こんなに小さい、こんなに大きいみたいな話が(ちょっと飽きるくらい)いろいろでてきて、そこばかり目が行きがちですが、実は、ちょっとした制度、政治の仕組、国民の信条などにスウィフトの考え方が表れているような気がします。そういう観点で読んでみると、子供の頃に読んだのとは違う発見があるのではないかと思います。

    ちなみに、リリパット国の政治の世界では、出世するために、綱渡り(比喩ではなく)をしたり、王様が動かす棒を飛び越えたり、くぐり抜けたりする登用試験があるのですが、これは何を比喩しているんでしょうねえ。


    2026年4月9日追記
    小人国の次は巨人国(ブロブディンナグ国)に向かいます。
    ガリヴァー旅行記(巨人国)と偏見の構造

  • 映画『うぬぼれ』(2013英)と『悪魔』(2021英)

    BS12(トウェルビ)の「土曜しょ~と劇場」という番組があって、短篇映画を放送しています。たまっていた録画の中から『うぬぼれ』(Oliver Goodrum監督)という短篇映画を見ました。

    タイトルだけ見ると、美少年が出てくるフランスあたりの映画かと思ったのですが、全然違う重たいテーマの映画でした。

    知的障碍をもつ娘 タイラー(高校生くらい?)と、母親 アンジェラは二人で暮らしています。マイケルという少年が率いる地元のグループが、なぜかこの母娘に執拗に嫌がらせをしてくる。警察に相談しても動いてくれず、教会の神父に相談するも何の助けにもならず、追い詰められていくという話です。

    不良少年にちょっかい出されたくらいで警察が動いてくれないというのは、まだ分かりますが、そんなレベルではないんですよね。最初は、道ですれ違うときに、絡んでくるくらいだったのですが、その後、車に卵をぶつけてきたり、家や車に落書きしたり、アンジェラに向かって真っ赤な塗料を投げつけたり、タイラーが一人のときに林に連れ込んでナイフで髪を切ったり、しかもその時に故意ではなかったのだが、タイラーの頭に怪我までさせたりしてます。

    アンジェラから事情を聴いているピーター巡査は、母娘の力になりたいと思っているものの、上司にほっておくように命令され、動けないという状況。上司は「証拠無しに子供を犯罪者にするのか?」というスタンス。

    最後は自宅ドアに火炎瓶をぶつけられ、警察に電話をかけるのですが、「対応しかねます」との返答。

    いやいやいやいや、落書きやら怪我やら明らかな被害が残っているんだから、ちょっと調べれば証拠だって目撃者だって出てくるでしょう。さすがに、こんな脚本じゃ、リアリティがないよ。不良少年の動機も弱いし、なかなか動かない警察っていっても、動かな過ぎて、いかにも無理やり極端な悪役を作ろうとしているんじゃないの?

    ・・・なんて思っていたら、映画の終盤で、

    まじですか。

    外国の話とはいえ、警察がそこまで当てにならないなんてことがあるのだろうか。どこの国の映画だったっけ?と思って、巻き戻して(「早戻し」なんて言葉はしっくりこない)見てみると、2013年のイギリス映画。これが「小さな政府」ってことなのだろうか。(参考:過去記事 『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』)

    ちなみに、『うぬぼれ』というタイトルは、先述の神父が教会で説教を行っているときに(その場には、タイラーとアンジェラ、マイケル、ピーター巡査もいる)、神父が使った「This is vanity.」というフレーズからとったもの。「うぬぼれ」とか、「虚栄心」とか、「虚飾」とかそんな意味らしいです。旧約聖書の言葉を引用したらしい。(虚飾 – Wikipedia)

    神父はマイケルに向けて、メッセージを届けようとしているようにも見えるのですが、届くわけもなく。

    そして、むしろアンジェラの頭の中で、以下のフレーズがぐるぐる回り始めます。

    「そして神のそばで、本当の平穏を手に入れることができるのです。自惚れを犠牲に」

    「・・・痛みはなく、真の平穏が待っている・・・」

    この「うぬぼれ」ではマイケルは、単なる悪役という位置づけに思えますが、2021年にその後の彼を主役にした『悪魔』という映画が作られます。どんな話なのかは、また別の機会に。

    ちなみに、BS12の土曜しょ~と劇場は、たまに再放送もやっているので、録画予約しておけば、この2作、また放送されるかもしれません。いえいえ、中の人ではございません。

  • 『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』

    以前、『私労働小説』を読んだのですが、その著者のブレイディみかこさんの『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』を読みました。

    帯に「一生モノの課題図書」と書かれていて、たしかに課題図書にしたほうがいいと思うくらい勉強になりました。サッチャーが押し進めた、小さな政府や緊縮財政の政策がどういう結果をもたらすのか。結果的に良かったとか悪かったとか、そんな話ではなく、予算を削ったことでこういうことも起きていたという話が出てきます。著者の個人的な体験、目にしたものだから、内容がすっと入ってくるし、記憶にも残ります。

    著者は日本人、著者の「配偶者」(本の中で使われている言葉)がアイルランド人、その間の息子さんが書き留めていた言葉が本のタイトルになっている「ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー」というわけです。

    この息子さんは裕福な家庭の子が多いカトリック系の小学校に通っていたのですが、その後、かなり多様性に富んだ中学校に通うことになります。カトリック系の中学校も選択肢にあるのに、なぜそっちを選ぶ!とちょっとモヤモヤしました。そのせいで、なんかひどい目にあったりする、いやーな後味の話だったらイヤだなあとか思ったんですが、読後感は明るいです。いや、いろいろ大変な目には会うのですが、この息子さんのポジティブな考え方で、むしろこんな状況にも希望があるという気持ちにもなってきます。

    友達にリサイクルの制服をあげるエピソードがあって、その子は制服なんか擦り切れているし、替えの制服を買うお金ももちろんないという家庭環境。著者がボランティアで修繕した服をその子に渡したい。貧乏だからあげるというのは本当なんだけど、いかにもそんな感じで渡すのは気が引ける。向こうだってプライドがあるだろうし。

    で、なんとか渡したあとに

    「でも、どうして僕にくれるの?」

    ティムは大きな緑色の瞳で息子を見ながら言った。

    質問されているのは息子なのに、わたしのほうが彼の目に胸を射抜かれたような気分になって所在なく立っていると、息子が言った。

    「友だちだから。君は僕の友だちだからだよ」

    そう、それでいいじゃないか。他にどんな理由がいるというのか。

    イギリスの階級社会がどういうものなのか。移民が増え人種や文化背景が多様になったり、貧富の差が広がったりすると、どんな感じになるのか。

    いや、ほんとにひどい状況なんです。日本では考えられない(知らないだけかも?)。でも、なんというか、絶望とか悲劇とかそういう感じの本になっていないのが、この本のすごいところなんじゃないかと思います。

  • 『私労働小説』

    妻が新聞の書評欄で見かけて読んだ本を、私も読んでみたというのが経緯でした。

    ちょっと読んでみて、エッセイ?と思ったが、書名が『私労働小説』だから、小説なんでしょう、たぶん。ちなみに「わたくし ろうどう しょうせつ」という読み方だそうです。

    読んだ感じで、これは小説だとか、これはエッセイだとか、なぜ感じるんでしょうか。なぜ、私は『私労働小説 負債の重力にあらがって』(ブレイディみかこ著)をエッセイだと思ったのだろうか。

    まず、書き出し。第一話「ママの呪縛」は、

    「あんたは・・・・・・、え、あんたはすごいね。ちょっとこれ本当かな、こんなの見たことない・・・・・・」

    芝居ががった声音で、何か恐ろしいものでも見たような表情の彼女が口を覆った。

    第二話「失われたセキュリティーを求めて」の書き出し・・・

    「いざとなったら、スーパーの棚に商品を積めばいい」

    英国の人々はよくそう言う。

    あれ? いきなり台詞から入るつかみなんか、小説っぽいですね。なんで、エッセイだと思ったんでしょうか。もちろんすべて一人称で、神様の視点とかはないです。「自分」以外の登場人物の心情の描写とか、「ここ」以外の場所での出来事が語られることもないです。そういう要素が揃うと、小説っぽさがなくなって、エッセイのようなノンフィクション感が出るんでしょうか。

    小説っていうと、

    午後の光は、すでに光と呼ぶにはためらわれるほど鈍く、部屋の奥に溜まった空気の層を、ため息のような角度で横切っていた。窓硝子は長年拭われていないらしく、そこに貼りついた埃と油分が、外界の輪郭を無数の曖昧な線へと分解している。向かいの建物の壁面は、本来ならば白であったはずなのに、白であることを長く忘れ、季節ごとに降り積もった雨と排気と時間の重みを、まだらな沈黙として引き受けていた。

    みたいなまどろっこしい描写があったりするじゃないですか。私こういうの苦手で、早く本題に入ってよ、って思っちゃう。ちなみに上記はChatGPTに書いてもらいました。私にはこんな文章は書けない。羞恥心が邪魔をする。

    だから、この『私労働諸説』は快適に読めました。経験として語られる出来事と、それに対する自分の心情という形で構成されているから、抵抗なく内容が入ってきます。

    そういえば学生の頃、太宰治とか志賀直哉のいわゆる私小説が好きだったのも、そういうことかも。

    今気づいたんですが、「私小説」という言葉の間に「労働」を入れて『私{労働}小説』ということでしょうか。そんな気がしてきました。

    タイトルにある通り、著者の「労働」の経歴に基づいた小説のようです。経験した職業は、ホステス(で合っているのだろうか、お酒を飲むところで、女の子が横についてくれるような感じ)、スパーマーケットの店員、アジア料理レストランの皿洗い、掃除人(お金持ちとかの家に訪問するタイプ)、衣料量販店の店員、借金返済の督促人、という感じ。

    最初のホステスと、借金督促は日本での話で、それ以外はイギリスやアイルランドでの話。本の帯に「シットジョブ」というワードがありました。「ブルシット・ジョブ」というワードは以前聞いたことがあって、その言葉に対して持つイメージは、そこそこの給料もらってたりするけど、よくよく考えると、その仕事って価値を生み出している?みたいなニュアンスでした。例えば、私が以前いた職場の部署は7人の従業員のうち、5人が管理職でした。何を管理しているんだか(自分も含めて)。

    でも、シットジョブはもっと過酷なニュアンスがありました。大変なのに低賃金の仕事で、これから良くなっていくなんて希望は全く持てないような閉塞感。あ、でも作品中には出てこなかったかも。編集者がチョイスした帯用のワードかも。

    第五話の「店長はサクセスお化け」には、「善きサマリア人」についての話がちょっと出てきます。聖書くらい読んだことがあるだろうから(お、偉そうだな)、説明は省きますが、困った人を見かけたときに、見て見ぬふりするのか、助けるのかみたいな実験の話が出てきて、宗教的な事前知識とか、善意とかそういうことより、「急いでいる」かどうかが行動に影響した、みたいな。

    「良いことだから」とか、「悪いことだから」とかではなく、「急いでいたから」、見て見ぬふりをした人が多かったという結果について神父が語ったという話。善悪に絡んでないというのは、かえって根深い問題のような気がします。だって、そこに悪意はないのだから。

    第六話の「督促ガールの手記」では、自分が正義の側にいると信じ込むことが、その人の行動にどんな影響を与えるのか、というテーマが取り上げられます。もしかしたら、そうだと信じ込まなきゃ、やっていられない仕事なのかもしれません。

    読み終わって、すべて著者が経験した実話のような気分になるんですが、そうなのかはよく分かりません。でも、なんだか、ちょっとした出来事ゆえの、ちょっとした発言ゆえのリアリティみたいなものを感じた「小説」でした。

  • 『Charlie and the Chocolate Factory』の原作(英語)と映画

    『CHARLIE AND THE CHOCOLATE FACTORY』(ROALD DAHL著)を読みました。映画の『チャーリーとチョコレート工場』(ティム・バートン監督)を見た方、知っている方は多いと思います。あの映画の原作です。

    英語の多読を始めたのは20年以上前(注:20年以上続けているという意味ではない)で、最初はGraded Readers(英語学習者のためにレベル分けし、語彙をしぼったもの)や絵本から入っていったのですが、英語を読むことに慣れてきたら、「そろそろ児童文学」「いつかは児童文学」みたいなところがあって、ロアルド・ダールと言えば、真っ先に候補にあがる児童文学作家というイメージでした。

    で、当時は結局ロアルド・ダールは読まず、『ダレン・シャン』などを読み始めたものの、挫折したという記憶があります。

    今回、『CHARLIE and …』を読み終えられたのは、映画を見たことがあったので、話の筋はある程度分かっていたというのが大きいです。登場人物のイメージはある程度できているので、人物の形容で知らない単語が出てきても気にしすぎずに、映画を思い浮かべながら「おおかた こんな意味だろう」と読み流せたからのような気がします。

    いやね、出来事の流れを書いてあるところって比較的 読みやすいんですよ。難しいのは、人物の形容のところ。

    例えば、一人目のTicket FounderであるAugustus Gloop(お菓子ばっかり食べている太ったあの子ね)を形容している箇所

    Great flabby folds of fat bulged out from every part of his body, and his face was like a monstrous ball of dough with two small greedy curranty eyes peering out upon the world.

    難しいでしょ。ちなみに太字イタリックは私が知らない単語。よくよく考えるとmonstrousがmonsterの形容詞だというのは分かるんだけど、出てきた瞬間にはピンとこない。あと、doughもピザやパスタを作るって話の流れで出てきたらすぐに理解できるけど、人の形容で”a monstrous ball of dough”と言われても、はて?となっちゃう。一行に一つ以上知らない単語が現れるとさすがに厳しい。

    でも、このあたりは映画を思い浮かべつつ、太ってて、貪欲で、なんか醜い感じを表現しているんだろうなー、くらいで流してしまうのが良いような気がします。

    チャーリー以外の4人の問題児や、彼らの工場での受難(因果応報)は映画で忠実に表現されていたような記憶があるので、そこはそれを思い出せればOKということで。(映画を見たのはだいぶ前で、テレビ放送されているのを見ただけなのでちょっとあやふやではありますが)

    映画と違う点もありました。映画では、Willy Wonkaと父親の確執が描かれていましたが、原作には出てきませんでした。

    あとラスト近くで、映画では工場への引っ越しはChalieひとりでと言われ、家族と暮らすことを選び、工場の跡継ぎは辞退する(少なくとも一旦は)という流れだったと記憶しています。原作では最初から「家族みんなで」というWonkaからの申し出でした。それでも引っ越しは嫌だという寝たきりのおじいちゃん・おばあちゃん3人。さて、どうなる・・・? という展開でした。

    翻訳の書籍や映画でストーリーを把握したうえで、原作(英語)でそれをなぞってみるというのはハードルが低くて、なかなかよさげな感じでした。

  • 『ハリー・ポッターと賢者の石』と『マルコヴィッチの穴』

    今さらながら、『ハリー・ポッターと賢者の石』(J.K.ローリング 著)を読んでみました。子供(中学生)から借りました。「賢者の石」は、シリーズの第一作目で、私が読んだのは、「1-1」と「1-2」の2冊に分かれた新装版の文庫本です。2冊に分けるほどの分量ではないのですが、字が大きめで薄めの文庫なので、電車の中で読むのにはとても都合がいいです。

    私は知らなかったのですが、ハリー・ポッターの日本での翻訳・出版権を持っているのが、静山社という小さな会社(今ホームページを見てみると、社員数は6名と書いてある。……6名?)で、そのあたりのエピソードは「1-2」のほうのあとがきに書かれています。

    で、ハリー・ポッターといえば、キングス・クロス駅の「9と3/4番線」ですよね。同意してもらえなくても結構。

    帯に書いてあるし、「9と3/4番線からの旅」という1つの章になっているくらいです。

    ハリーは、とてもいやな感じのバーノンおじさん・おばさんに預けられて、そこで育ったのですが、駅に送ってもらうときに、バーノンは、

    「そーれ、着いたぞ、小僧。九番線と・・・ほれ、十番線だ。おまえのプラットホームはその中間らしいが、まだできていないようだな、え?」

    のように、例によって、小ばかにしたような言葉を残して帰ってしまいます。

    「中間じゃないよ。ちょっと10番線寄りだよ」と、ハリーは言いませんが、どうやって9と3/4番線から列車に乗るかは、読んでのお楽しみ。そして、こんな中途半端な数字が振られたロケーションといえば、「7と1/2階」が登場する映画『マルコヴィッチ穴』ですね。

    ちなみに、マルコヴィッチの穴に登場するオフィスビルの7と1/2階で降りる方法は、エレベーターの緊急停止ボタンを押して、ドアをバールでこじ開ける、というものでした。

    ハリーもバールを使うんでしょうか。

    そして、中途半端な分数と言えば、S&Bが昔「5/8チップ」というのを出してました。

    ポテトチップス – Wikipedia

    日本では1976年にヤマザキナビスコ(現・ヤマザキビスケット)が「チップスター」を発売[22]。1978年にハウス食品工業(現・ハウス食品)が「ハウスポテトチップス」、ヱスビー食品(通称・エスビー食品)が「スナックチップ」を発売。さらにヱスビーは1979年に一口サイズで箱入りの「5⁄8チップ(はちぶんのごチップ)」を発売した。

    当時は、そのキャッチーな(?)名前に惹かれて、今でも記憶に残っているのですが、一口サイズにするってのは画期的だと思うんですよね。口元でかじって割りながら食べるとぼろぼろ落ちるし。

    なので、歌舞伎揚げとかもそういうサイズで出してみれば、と思ったら、すでにありました、「ひとくち歌舞伎揚」。

    よく考えたらプチシリーズなんか、そういうコンセプトかー。私が考えそうなことなど、とっくに誰かがやっている、の好例でした。

    JRもやってくれないですかね、ホームを増やすときとかに、9と3/4番線。