BookBookerBookest

勝手に読書感想文。漫画も映画も含みます

カテゴリー: ノンフィクション

  • 中高生向けの遺伝子編集技術の解説書『CRISPRってなんだろう?』

    ノーベル賞(2020年の化学賞)をとった「CRISPRクリスパーCasキャス9ナイン」というゲノム編集技術のことが知りたくて読んでみました。サブタイトルに「14歳からわかる遺伝子編集の倫理」とあるように、中高生くらいから読める構成になっています。そして、技術だけでなく「倫理」面を強調した書籍になっています。

    「第1章 遺伝学の世界に飛び込もう」で、まず遺伝子についての基本、「第2章 ゲノムを書きかえる」で、CRISPR-Cas9の技術が解説されます。第3章以降は、この技術を使ったら何ができるのか、そのすばらしい可能性の側面と、それだけでなく、リスクや倫理的な問題も提起されています。

    構成がうまいです。一冊まるまる学術や技術の話をされても集中力が持続しないかもしれませんが(14歳とか、私とか)、技術の内容→何ができるかの具体例→輝かしい可能性→リスク・問題点のように観点が変化する構成になっているので、飽きずに読み進められます。著者のヨローナ・リッジさんは、児童文学作家らしいです。なるほど。

    CRISPR-Cas9の技術が鎌状赤血球貧血症という遺伝病の治療に使えること、蚊がマラリアを仲介しないようにできること、虫害・冷害・腐敗などがおきにくい野菜を作れることなど、いくつかのトピックが各章に割り当てられてます。

    技術のすばらしさや可能性だけでなく、倫理面などについても書かれているのがこの本の特徴です。どこから先を治療すべき「病気」とみなすのか、「死に至る病」から、「ちょっと不便な状態」まで病気と個性の境界は、線を引くことが難しいグラデーションになっています。近視を防ぐために遺伝子編集をするか、みたいな問題。本人の治療ならまだしも、そのような形質を避けるための産み分けとか妊娠の継続判断とか。基準がないと危うい、でも簡単に基準を定められるようなものでもありません。そのような課題意識が沸き起こる構成になっています。

    各章の後半には、「止まれ(STOP)」、「徐行(YIELD)」、「すすめ(GO)」のマークが付与されていて、各論が併記されています。遺伝子操作だけでなく、肉食や動物実験の是非など考えだしたら、気になることはいっぱいあります。「絶対にこうだ」という結論にいたらないまま、もやもやしながら読み終える本なのでしょう、これは。青少年の諸君は大いに悩んでください。

  • よく考えない人が「嫌い」のターゲット『私の嫌いな10の人びと』

    『私の嫌いな10の人びと』を読んだきっかけは、『第一芸人文芸部 俺の推し本』というBSよしもとの番組で、ガクテンソクの奥田さんが紹介していたからです。

    いきなり脱線して『俺の推し本』の話をすると、レギュラーの2人(ファビアン、ピストジャム)に加え、1人か2人のゲストが登場して、本の紹介をするというシンプルなトーク番組です。私がこの番組が好きな理由は、いかにもお金がかかっていなさそうなところです。私は贅沢が嫌いで、自分で高いものを買うのが好きではないのはもちろんですが、(あまりないですが)人におごってもらうような機会でも、安い店のほうが嬉しいです。接待費で落とすからみたいな感じ、高級な飲食店に連れて行ってもらっても、ちっとも嬉しくないばかりか、こんな無駄遣いして・・・、という感情しか湧いてきません。

    そういえば以前、違う会社の数人で飲むことになったときに、どうやら会社の接待費でおごってくれそうな流れだったのですが、お店選びをまかされた私はサイゼリヤにしときました。たらふく飲み食いして、1人当たり3000円切ってました。大満足です。

    ゴールデン番組などで、お金がかかってそうな企画をやって、山ほどゲスト呼んで、でも2,3回しかしゃべる場面がなかったり、みたいな無駄な感じになるくらいなら、数人の出演者の持ち味だけで勝負する(そして、たまに外れ回もあったりする)ような番組のほうがいいですね。そんな私ですので、『俺の推し本』が好きです。「安くてそこそこの店」みたいな感じで。

    さて、『私の嫌いな10の人びと』です。番組中ではガクテンソク奥田さんが、自分はひねくれていると語りつつ、このひねくれた哲学の先生が書いた本を推していました。何回か読んでいるとも。

    この本であげられている10の人びとは「笑顔の絶えない人」「常に感謝の気持ちを忘れない人」「みんなの喜ぶ顔が見たい人」のように、一見、好ましいとされるような属性の人だったりします。読めば分かるのですが、それ自体を嫌っているというよりは、その裏にある感覚や常識や要求のようなものを嫌っています。「嫌いな10の人びと」を語るうえで、話はあっちこっちに飛びますが、根底にあるのは、よく考えもせずに何かを信じ込んで、それを周りに押し付けてくるような人々への批判です。よく考えない人を批判するあたりは哲学の先生っぽいですね。

    著者の中島義道氏は、この本が出版された当時は電通大の教授でした。知らない人のために補足しますと、電気通信大学というのは東京にある国立大学です。地方出身の私はよく知らなくて、仕事で会った人に「電通大で○○を研究している□□です」みたいな挨拶をされたときに、「ついにあの広告代理店が研究や教育にまで触手を・・・」と思ったものです。

    この本には中島先生の大学での行動や研究界隈での言動のエピソードも出てくるのですが、およそ国立大学の先生っぽくないあたりが興味深いです。「教授」といっても正社員のようなパーマネントの教授と、一時的な研究プロジェクトに対してアサインされている特任とか特命のような肩書の教授もいます。中島先生は前者です。教授会ではさぞ変人扱いされていたことでしょう。

    この本を読んで、中島先生の考え方のすべてに納得したり共感したりする人は少数でしょう。私は半々くらいでしたね。「そうそう」と思ったところだと、ヨーロッパと日本のスポーツ中継での表現の違い。ヨーロッパは淡々と事実だけを実況するのに、日本では選手の心情にまで踏み込んでくること。ハプニングでの棄権などがあれば、「悔しいでしょう」「無念でしょう」みたいなことまで実況に混ぜ込んでくる。家族とか人生ドラマを絡めてくるとか。あと、勝つ見込みが薄くても、決してそういう表現はせず、応援ムードを醸成する感じとか。あるある。

    以下は私の感覚なのですが、人生ドラマ・応援ムードの前提でインタビュアーが質問を発しているときとかないですか。「今日の活躍を天国のお父様が見守ってらっしゃったと思います。そのお父様に真っ先に優勝の報告をしたいんじゃないでしょうか?」みたいな。もはや質問でもないという。

    「どうでしたか?」みたいにオープンに聞いて、そのあとに選手から「報告したい」っていう発言が出れば、それをさらに聞けばいいけど、報告したい前提で質問を繰り出す。

    前述の例ほど極端じゃないですが、「この喜びを誰に報告したいですか?」というのはよく見かけますよね。「報告したい」ことが前提になっています。「たぶんテレビ見てると思うんで、大丈夫です」みたいには答えにくい。

    「みんなの喜ぶ顔が見られたらそれでいい」(中略)彼らは自分の望みがとても謙虚なものと思っている、という根本的錯覚に陥っており(中略)その願望は、結局は自分のまわりの環境を自分に好ましいように整えたいからであって、エゴイズムなのです。

    なるほど。でもなー、こういうこという人がそんなに悪い人だとは思えない。「なぜこのような活動を?」みたいな質問されて、まあ定型的な返し文句のような気もします。「けっこう、儲かるんですよ」とか、「優勝して優越感に浸りたい」とは答えにくい。「みんなを勇気づけられたら」なんてもの、もう社交辞令かも。

    「自分の仕事に『誇り』をもっている人」での、同業者への目も厳しい。

    (略)自分に近いところから見ると、哲学(研究)者として誇りをもっている人とは、同じ部屋の空気を吸っているだけで不愉快です。私の美意識では、こんなことをして金をもらってもいいのだろうかという根本的疑問に日夜さいなまれていいはずですが、そういう仲間はことのほか少ない。

    著者の中島先生は尊大そうに見えてなかなか謙虚なのです。

    大学の先生って「偉い」ってことになっていて、そしていかにもそんな感じでふるまっている人もいるけど、私立大学にだってそれなりの税金が充てられているし、国公立大学ならなおさらです。学費だって、もとはといえば、ほとんど研究とは縁のない一般の企業で働く親御さんが払っているものです。最近の「させてもらっている」言葉は嫌いですが、大学教授に関しては「研究させてもらっている」というほうが適切なのではないかと思います。「しょーもないことほじくって、どや顔で披露して、何が研究だ」と我々には、取捨選択する権利と義務があるのです。

    中島先生は割り切っていて、「哲学がそんなに好きなら、『家で』やればいい」と言い放ち、本を書くなり、講演をするなりでお金を稼いで、大学には執着も依存もしない感じが潔いです。

    意外だったのは、「年賀状をやめるのも大変でした」というエピソード。実は私も年賀状をやめてから5年以上経つのですが、実に簡単でした。出すのを一切やめただけです。そうすると徐々に来る数も減ってきて、最近では紳士服の会社くらいからしか来ません。それはDMっていうんでしょうけど。

    中島先生は、あらかじめ来そうな人に葉書で「年賀状は全廃しました」と知らせて、来てしまったものには自分の信念を伝える葉書を出し、みたいなことをしたらしいです、でも、来るものはなかなかなくならず、そのたびに思想を伝えるようにしていて、いまだに全廃は実現していないとのこと。変なところで律儀ですね。

    無視すればいいのに、とも思いますが、立場の違いでしょうね。私の場合、こちらが出さなければ向こうも出さないわけです。力関係ですよね。私に媚びたい人はいないわけです。

    大学の先生ともなると、社会的な上下関係もあるでしょうし、媚びたい人もいれば、向こうから来なくてもこちらは出すべきだと思い込んでいる人もいるでしょう。その年賀状が中島先生を苦しめているとも知らずに。

    これが正しいんだ、こうするべきだと言われれば反発したくもなりますが、中島先生は自分が一般的な人間ではないことを自覚しつつ、それでも自分はこう考えているということを伝えたくてしょうがなくて、でも、他の人が考えを改めたり、行動を変えたりするところまでは執着しないという感じなので、読んでいても変な圧力は感じません。

    読んで、そうは思えないならそう思わなくてもいいし、読むのはいつだってやめられるし、「かなり特殊な例」を見せられているだけだし、と思えば。でも、世の中の「かなり一般的な例」も疑ってかかる必要があることを、この本は教えてくれていたりもするわけです。

  • 『フラニーとゾーイー』に出てくる『巡礼の道』は、『無名の順礼者』というタイトルで出版されている

    私がこの『無名の順礼者』という本を読むことになったきっかけは、J.D. サリンジャーの『フラニーとゾーイー』にこの本が登場したからです。

    短篇『フラニー』の中で、フラニーが読んでいた『巡礼の道』というタイトルの本が、この『無名の順礼者』です。タイトルが異なりますが、同一のものを指しています。『無名の順礼者』の表紙には英語版の書名である『THE WAY OF A PILGRIM and THE PILGRIM CONTINUES HIS WAY』というタイトルも併記されています。”pilgrim”とは巡礼者のことです。『(ひとりの)巡礼(者)の道(旅) そして 巡礼は旅を続ける』くらいの意味でしょうか。

    日本語で「巡礼」というと「巡礼する行為」を指すこともありますし、「巡礼する人」を指すこともあります。後者の使い方は前者ほど一般的ではない気がしますが、「一人の巡礼がいた」とか「巡礼さん」とか、そんな使い方もします。行為としての巡礼を表すのには “pilgrimage” という単語があるので、『フラニー』に出てきたタイトルは『巡礼(者)の道』と解釈するのが自然でしょう。

    また、日本語には「巡礼」「順礼」の2つの表記があるので、ややこしいですね。とにかく、両者が同一のものであることは、書籍の内容でも確認できました。

    『フラニー』中では、こんな感じで登場しています。ボーイフレンドのレーンから、さっき読んでいた本は何? みたいに聞かれ、フラニーは答えます。(引用は新潮文庫の野崎孝 訳からです)

    「題は『巡礼の道』っていうのよ」(略)「図書館から借り出したんだけど、今学期出ている『宗教概説』っていうの、それを教えている先生が名前を挙げた本なの」

    「誰が書いたんだい」

    「知らない」(略)「ロシアのお百姓さんみたい」(略)「全然名前が出てないのよ。最後まで名前は分からないんだな。作者はね、自分が百姓だということと、歳が三十三だということと、片方の腕が麻痺してるということしか言わないの。それから奥さんがなくなったということ。みんな1800年代のことなんですって」

    説明は続きます。

    「(略)初めはね、そのお百姓さん――というのが、その巡礼なのよ――これが、聖書の中に、絶えず祈れとあるのはどういうことなのか、その意味をつきとめたいと思うの。ね、分かるでしょ。休む間もなく祈るんだわ。テサロニケ書かどこかにあるでしょ。そこで、その人はね、絶えず祈るにはどうすればいいのか、それを教えてくれる人を探してロシア全土の旅に上るの(略)」

    このあと、巡礼者は街で出会った子供に連れられて、彼らの家に行くというシーンがあります。そこで、フラニーが「これまでに読んだ本の中の誰よりも好きだわ」と形容する夫婦にもてなされます。

    では、今度は『無名の順礼者』のほうからの引用です。

    聖堂に入り、しばらくお祈りをしてからふたたび歩き始めますと、わたしのうしろから「順礼さん、順礼さん、ちょっと待ってちょうだい」という声が聞こえました。こうわたしに呼びかけたのは、さきほど教会のそばで遊んでいた、男と女の二人の子どもです。(略)「わたしのお母さんは順礼さんが大好きだから、お母さんの所へよって」

    これと同じシーンが『フラニー』にも出てきます。「順礼さんが大好き」というのも変な表現ですが、この家の「奥さま」は巡礼者に親切にしたり、巡礼者の話を聞いたりするの好きみたいな感じです。

    お昼の時間になり、その家の食卓に着くのですが、奥さん以外にも食卓に同席している女性たちがいます。その女性たちはお皿を運んだりといった給仕をしながらも、一緒の食卓で食事もしているという状況です。巡礼者はちょっと不思議に思い(通常は「主人」なのか「召使い」なのかが明確なはずなので)、

    わたしは奥さまに、「失礼ですがこのご婦人がたはご親類のかたですか」と尋ねてみました。すると奥さまは、「そうです。みんなわたしの姉や妹です」と言って一人々々をゆびさしながら説明してくれました、「この人は家のコックさん、あの人は御者の奥さん、それからそちらがわたしの小間使いの人です」

    私は最初、肉親である姉や妹がコックや小間使いをしているのかと勘違いしてしまいましたが、この「奥さま」の発言については、フラニーの説明を聞くと、腑に落ちます。再び『フラニー』からの引用。

    「みんな召使なんだけど、いつも自分たち夫婦といっしょに坐って食事をする、それはみんながキリストにおいて姉妹きょうだいだからだって」

    「みんなわたしの姉や妹です」という奥さんの発言は比喩なんですね。フラニーはこのシーンが気に入っているようで、

    「わたしはね、その巡礼が、そこにいるご婦人がたは誰かって尋ねるとこ、そこがとてもいいと思ったの」

    と言います。

    このあたりのフラニーとレーンの会話は食事中に行われています。レーンはあきらかに興味がない様子で、関係のない、かみ合わない発言を繰り返します。あげくに自分が書いたという論文を「あれをどうこうする気持は全然ないつもり」と言いながらも、「活字にするとか、なんとかね」みたいな持って回った言い回しで、スノッブ臭をぷんぷんさせてきます。

    具体的に理由までは表現されていませんが、元農夫の素朴な順礼、彼に親切にする善良な人々の話と、自分のまわりのエゴ丸出しの人間たちを引き比べて耐えきれなくなったのか、フラニーはそのまま気を失い、その後、すっかりふさぎ込んでしまいます。ここまでが連作短篇の一作目の『フラニー』。

    二作目の『ゾーイー』では、兄のゾーイーがふさぎ込んだフラニーの誤解(?)を解くために、長い長い会話を通じての説得を試みます。もちろん『フラニーとゾーイー』だけで作品として楽しめるのですが、『巡礼の道』こと『無名の順礼者』を読むことで、なぜフラニーがそれほどまでにこの本に耽溺するようになったのか、を実感することができるんじゃないかと思います。

    ちなみにこの『無名の順礼者』、現在では入手するのが非常に困難です。巻末にこんな説明があります。

    本書は1967年に刊行されたドイツ語原本による旧訳本第一の物語より第四部までと、第五部以下の第七部及び付録とを英語訳原本から訳出し完結本として刊行された。題名は「無名の順礼者」が踏襲された。

    尚、本物語の中にしばし登場する「修徳の実践」は現在未完であるが、近年中に刊行される予定である。

    ちょっと表現が分かりづらいですが、エンデルレ書店から1967年に出版されたものは、第一の物語~第四の物語が収録されていて、同じくエンデルレ書店から1995年に出版されたものはさらに第五~第七の物語が追加されているということらしいです。

    『修徳の実践』は順礼が聖書とともに持ち歩いている書物で、彼はこの本の解釈を隠修士に教えてもらったり、時には出会った人に読んで聞かせてあげたりしています。

    3書ともすでに絶版になっていて、アマゾンでは古書が1万円~2万円のような値段で売られています。また、出版元のエンデルレ書店はすでに廃業しているので、この出版社から復刊される可能性は期待できないということですよね。とりあえず復刊ドットコムのリクエストに投票しておきました。投票が多いと復刊されることがあるようです。本書については、今の票数を見ると、なかなか厳しそうですが。

    『無名の巡礼者 あるロシア人巡礼者の手記(ローテル訳)』 レビュー一覧 | 復刊ドットコム

    私が今回借りて読んだものは、1995年出版のほうで、川崎市の図書館にリクエストしたところ所蔵がなく、提携している横浜市立図書館から取り寄せてもらったものになります。他の自治体からの貸出は延長もできないし、取り寄せに時間もかかるので、やはり手元に置いておくか、自分が住んでいる自治体の図書館に所蔵されるのが理想です。

    第一の物語から第四の物語までが一区切りで、その後は後日談とか対談(鼎談)のような感じなので、主要な部分という意味では第四の物語まででいいと思います。薄めの文庫本くらいの量になると思うので、1000円切るような文庫本にして、『フラニーとゾーイー』(もしくは『フラニーとズーイ』)の横に並べれば、ちょっとは売れると思うんですけどねえ。そんなに甘くはないですかね。

  • お金のかからない人生の楽しみ方『深夜高速バスに100回ぐらい乗ってわかったこと』

    BSよしもとの「第一芸人文芸部 俺の推し本。」という番組で銀シャリの橋本さんが推していた『深夜高速バスに100回ぐらい乗ってわかったこと』を読みました。

    番組中で橋本さんが「読むYouTube」みたいな例えをしていました。「○○してみた」のような企画っぽい内容が多い点を言っていたのだと思います。それもそのはず、著者のスズキナオさんはデイリーポータルZなどで記事を書いているライターさんじゃないですか。本書にもデイリーポータルZが初出の記事もたくさん収録されていました。

    読む前にはもっと派手な企画を想像していました。もっと「いいね」を! もっと注目を! もっと再生回数を! みたいな感じで、最後はYouTuberが警察に捕まったりする話も聞くので。

    スズキナオ氏さんの企画はその逆を行く感じです。私が好きだった企画は「誰も知らないマイ史跡めぐり」です。友人であるハナイさんの地元の街に行き、ハナイさんの「マイ史跡」を紹介してもらうというもの。そりゃ「誰も知らない」わけです。

    ここでよく食べたてなーというラーメン屋に行ったり、そこがすでに移転して閉まっていたり、宮沢りえが表紙の雑誌を立ち読みしていたら近くに宮沢りえ本人が立っていたという経験をしたコンビニに行ったり。(このエピソードについてかなりインパクトのある、ほぼピークに相当するものかと思います)

    あとは、子供の頃に遊んだ公園とか、中高生のときに散髪していた理髪店とか、「夜、ボーッとしてた歩道橋」とか、「好きな子に電話したことがある電話ボックス」とか。

    有名人のゆかりの地をめぐることがツアーとして成立するなら、自分にとっては関係の深い友人のゆかりの地を本人に案内してもらうことは、とても価値のあることじゃないかと。そして、そんな変な企画につきあってくれる友人がいることはとてもすばらしいことじゃないかと。

    ラーメン屋や居酒屋などの飲食店をめぐる記事も結構多いですが、よくあるグルメレポートとは違います。どこ違うんだろうと考えてみたところ、スズキさんは人にフォーカスを当てているんだなあと思いました。出てきた料理も紹介するけれど、それだけじゃなく、お店をやっている人の人生も紹介するんですよね。なぜこの店を始めたのかとか、どうしてこんなメニューなのかとか、阪神淡路の震災のときはどうだったとか(関西のお店が多いので)、ご主人と結婚したきかっけとか、けっこう個人的なことまで。

    「おいしい○○」を食べに行くということだけが、お店に行く目的じゃないんだと思うんですよね。人に会うのが目的だから、動物園で飲んでもいいし、舞浜に行ってディズニーランドに入らなくてもいいし、終電を逃したつもりで朝まで歩くだけもいいんだ。そう考えると、なんだか納得しました。

  • 6ページで分かる小栗忠順(の下積み)

    世の中の人はけっこうNHKの朝ドラとか大河ドラマを見ているようで、タレントがトーク番組で話題にしたり、芸人が漫才のネタに使ったり、新聞のコラムに関連するエピソードが書かれていたり、みたいなことがよくありまして。

    私は朝ドラとか大河ドラマとかを今までは全然見てなかったので、「大河に出ました」的な芸人さんの自慢も、「CSでレギュラー持ってます」くらいの感じで聞いてました。でも、なんかおいてけぼりになるものいやなんで、世の中の流れに乗っていこうとも思っています。朝ドラや大河は絶対に話題になるんですよね。NHKがしっかりごり押しプロモーションするから。

    で、次の大河ドラマ『逆賊の幕臣』の主人公が小栗忠順ただまさという人物だそうで。「おぐり」といえば、私は「しゅん」と「キャップ」くらいしか知らないので、事前に情報を仕入れておこうと、アマゾンで検索してみました。歴史小説とか歴史の解説本みたいなのが出てきますが、そういうのはちょっと敷居が高い。ということで、子供向けの本を探すと『下積み図鑑: すごい人は無名のとき何をしていたのか?』というの本の中で、小栗忠順を取り上げているみたいなので、読んでみました。

    偉人や作家、芸術家、スポーツ選手などの芽が出る前の下積み時代に焦点をあてて紹介している本です。一人の人物に充てられているのは6ページほど。

    小栗忠順については、武士の家系で、子供の頃から意地っ張りで、武術にも熱心で、幼少期から政治のことなどを議論するのが好きで、開国論者で、クセが強かったけど優秀だったので幕府から重用されて、アメリカとの交渉の使節団の一員として渡米して、船酔いが大変だった、という感じです。

    では、大河ドラマで使われそうなエピソードを勝手に予想しておきましょう。

    1つ目:隅田川で船に乗って花見をしたときに、川の堤を見て水利(用水としてどう使えるか、洪水にならないかなど)について語り出した

    いいですね、これ。堅物かたぶつ感が出ています。

    2つ目:書画を集めるのが好きだったが、昔の人が書いたものは本人が書いたものか信用できないので、書家の大家たいかに目の前で書いてもらい、それを大事にした

    これも、いいですね。押しかけて行って、「さあ、今すぐ、ここで書いてくだされ」みたいなシーンは映えますね。

    これ、どうでしょう。

    3つ目:9歳から私塾に入門、

    14歳ですでに威風堂々たる人物になっており、煙管きせるで煙草を吸いながら議論していたという。

    あ、これはコンプライアンス的にNGでした。「NHKなんで」(©ゼネラル・エグゼクティブ・プレミアム・マーベラス・ディレクター 三津谷寛治)

    この『下積み図鑑』、現大河ドラマ『豊臣兄弟!』の豊臣秀長についても取り上げており、今の大河ドラマ、次の大河ドラマを見据えた人物選択となっております。狙っていますね。ムーブメントに乗ることは大事です。

    ちょっと話は変わりますが、巻末の既刊書の案内を見ると、著者の真山知幸氏は『おしまい図鑑 ―すごい人は最期にどう生きたか?』という本も書かれています。最初と最後ということでしょうか。

    「ニッチな伝記図鑑」が刊行される際には、この二作を加えておきましょう。

  • 『笑いの方程式 ―あのネタはなぜ受けるのか』で、ネタが書き起こされている芸人一覧

    お笑い好きと言っても、見るのが専門で自分が人を笑わせようとは思わない人もいれば、面白いことを言って人を笑わせるのも好きという人もいるでしょう。

    それとはまた別に、笑いの理由や構造を分析するのが好き人というタイプの人も、世の中にはきっといて、そういう人に向いている本です。そして、著者の井山弘幸氏は、たぶんそんなタイプの人です。

    まえがきに書いてあるのですが、井山氏は大学の先生で「お笑い論」の講義を5年間行ったそうです。科目名は「考える葦の冒険」です。これはステルスですね。こういうのは大抵、「お笑いの講義? そんなものはけしからん」なんて、誰かが言い出したときには、時すでに遅し、「5年間やってて去年終わりましたよ」とか、なし崩し的に実行されてしまうものです。許可をもらうより、あとから許してもらう方が楽だ、みたいな言葉ありましたよね。という意味で、この講義は「冒険」だったのでしょう。その成果の一つが、この本のような気がします。

    井山氏のお笑い論(笑いの基本構造には必ず「二世界形式」があるというもの)を理解できるか、納得できるかはさておき、この本にはたくさんのお笑いネタの書き起こしが載っており、その部分だけでも価値があるのではないかと私は思うわけです。

    今も人気の芸人もいれば、解散したグループや引退した人のネタなんかもあり、爆笑オンエアバトル世代にはたまりません。

    そして、栄えある本書の最初を飾る芸人は、ダンディ坂野です。 ・・・なんで?

    まあ、第一章 第一節の「ダジャレ」の典型例だからでしょう。そして、書き起こされているネタを読んで思いました。ダンディさんの知らないところで、ダンディさんがすべっている・・・

    いや、やっぱネタは演じているのを見ないとダメだな、なんて思いかけましたが、それは間違いでした。読み進めていくと、活字で読んで普通に笑えるネタがたくさんありました。活字だからダメなのではなく、ダンディさんだから・・・。だいたいあなた、ダンディさんのネタで笑ったことありますかっ? 私はあります。たぶんあると思います。そんな気がします。

    お笑いのネタは「作品」として残る割合が少ないということも、まえがきに書かれていました。たしかに楽曲だと、歌唱や演奏がコンテンツとして流通するだけでなく、楽譜や歌詞が記録されて、出版されたり、別の人によって演じられる(カラオケとか、カバーとか)こともありますよね。演劇の脚本も売られているし、それが時代を越えて再演されたりもしますよね。

    お笑いのネタをそのままカバーというのは、ないですね。一度、お笑い芸人が、他のお笑い芸人のネタをそのまま演じる(パロディとかではなく忠実に再現する)というのを見たことがあります。ある意味かなり面白かったのですが、それはありえない状況が生み出す面白さであって、いかにお笑いネタが他者によって再演されにくいものであるかの証明にもなるような気がします。例外は落語でしょうか。

    この本にネタが登場する(書き起こされている)芸人さんを、目次から列挙します。

    ダンディ坂野、いとうあさこ、末高斗夢、爆笑問題、今いくよ・くるよ、酒井くにおとおる、オジンオズボーン、号泣、ザ・プラン9、アンジャッシュ、ルート33、ハリガネロック、タイムマシーン3号、ラーメンズ、オリエンタルラジオ、パッション屋良、瞬間メタル、クールポコ、ヒロシ、デッカチャン、小梅太夫、出雲阿国、アクセルホッパー、ですよ、つぶやきシロー、だいたひかる、摩邪、井上マー、テツandトモ、いつもここから、レギュラー、インパルス、フットボールアワー、ライセンス、チュートリアル、ムーディ勝山、バカリズム、笑い飯、ますだおかだ、POISON GIRL BAND、タカアンドトシ、ホーム・チーム、アンタッチャブル、キングオブコメディ、THE GEESE、おぎやはぎ、青木さやか、スピードワゴン

    なんか、書き写しながら、フジテレビの27時間テレビの最後のスポンサー紹介を思い出しました。

    いやー、それにしてもパッション屋良のネタを再び味わうことになるとは思いませんでした。たしか、活動の場を地元の沖縄に移されたというのをテレビで見ました。沖縄といえば? ・・・ そうだね、プロテインだね。

    井上マーの尾崎豊ネタもよかったです。ほつれたデニムの衣装が思い浮かびます。あとバカリズムは解散前のグループの時のネタだったりします。なんか歴史的価値が漂い始めています。

    そしてこの本の特徴の一つとして、章末に練習問題があります。さすが、大学の先生です。主にネタの穴埋めなのですが、ダンディさんのダジャレネタの答えがなかなか思いつかずに、若干イライラしながら、考え込んでしまいます。ふと、「私は今、何をやらされているのだろうか?」と我に返ります。お笑いネタみたいなものに対して真面目な顔をして理屈をこねる、この本自体が壮大なボケなのかもしれません。

  • ミラン・クンデラ著『小説の技法』のカフカのとこだけ

    (アイキャッチ画像は、František Dostál – František Dostál´s archive, CC 表示-継承 4.0, リンクによる)

    字は目で追っているはずのに、意味が全然分からない。こんなことってあるんですね。「全部聞き取れたのにー!」(©バッテリィズ エース)のような気分になります。

    あなたのヨーロッパ文学に対する造詣の深度を試してくる本です。私は試験の結果、どうやら不合格でした。入れてもらえなかったので、校門の外から、「やーい、やーい」と叫んでみます。

    あなたが間違って風車に突撃していかないように、「第一部 評判の悪いセルバンテスの遺産」の書き出しのところを引用します。

    死の三年前の1935年、エトムント・フッサールはウィーンとプラハでヨーロッパ的人間性の危機に関する有名な講演をおこなった。彼にとって「ヨーロッパ的」という形容詞は、古代のギリシャ哲学とともに生まれ、地理的なヨーロッパを越えて、(たとえばアメリカに)広がった精神的同一性のことを指している。古代のギリシャ哲学こそが〈歴史〉において最初に、世界(総体としての世界)を解決すべき問題として把握し、しかじかの実際的欲求を満たすためではなく、「人間が認識の情熱にとりつかれた」がゆえに、世界に問いかけたというのである。

    「それはさておき、今年も暑いよねー」と、話を変えたくなるような書き出しです。

    この髪の毛 多そうすぎる感じの、フッサールさんは有名な人なんでしょうか。ヨーロッパ文学に詳しい人は当然知っている人なのかもしれません。この方を知らなかった程度の私がこの本を読もうと思ったのが、そもそもの間違いなのかもしれません。「友達の友達がこんなことを言っていた」くらい、興味が湧きません。「そういえば、駅前のコンビニつぶれてたよ」と、違う話に誘導したくなります。

    ネタにされている(=書籍で言及されている)人を知っていることはとても大事だと思いました。なので、このあと出てくる人名を抜き出してみます。

    技術・数学の文脈で、「ガリレイやデカルト」の名前が出てきました。このへんは理系なら似顔絵だって書けるくらい有名ですね。細そうすぎることでも有名です。

    このあと、「フッサールの弟子のハイデガー」というのが出てきます。Are you wearing?(穿いてっか?)ということでしょうか。安心してください、ふざけるのは、もうやめます。でも、ハイデガーの名前は知っています。たしか教科書に出てきました。えーと、保健体育だったかな・・・?

    そして、「セルバンテス」が出てきます。驚安の殿堂の創業者ですね。

    そのあとは、「サミュエル・リチャードソン」「バルザック」「フローベール」「トルストイ」「マルセル・プルースト」「ジェームズ・ジョイス」「トーマス・マン」「ヘルマン・ブロッホ」

    そうですね、知っている人もまあまあ混ざってますよ。割合としては、M-1の一次予選くらいの感じです。トム・ブラウンとかも入れたくなりますね。

    そんな私でも、「第5部 その後ろのどこかに」は、楽しく読めました。カフカの話だったのですが、カフカだけは何作か読んだことがあったので、話についていけました。やっと知っている人の話題になった気分です。

    ちなみに、「可」と「不可」ばっかりの、ひどい成績のことを「カフカ全集」というらしいので、これも使ってみてください。

    この第5部は冒頭から具体的な話で、面白かったんですよね。当時のチェコは共産党の一党独裁体制だったというのを踏まえて、お読みください。プラハのある技師の実話なのですが、ロンドンの科学者会議に参加して、帰って来てみると、共産党の機関紙にその技師がロンドンでチェコの社会主義体制を批判して亡命した、と書いてあったと。内務省に確認に行くと、何かの間違いだろうが、秘密機関からそういう報告を受け取った。でも、まあ、あなたの身には何も起こるはずはないから安心してよいと。でも、その後、監視され、電話が盗聴され、尾行されるようになり、その状況に耐えられなくって、結局、本当に亡命することになった。

    「やっぱり、すべらんなー」とか言っている場合ではない話でした。で、この話が、『審判』のヨーゼフ・Kの状況と似ていると。

    カフカにおいては論理が逆転する。罰せられるものは罰の原因を知らない。処罰が不条理なのはじつに耐えがたいことだから、被告は心の平穏を得るために、おのれの刑罰を正当化したいと願う。つまり、処罰が過失をさがすのだ。

    技師も実際に亡命してしまえば、以前から反社会主義の思想を持っていた(ような気がしてくる)、だから、盗聴されたり、尾行されたりしても当然だ、というようにつじつまが合います。

    それと似た話で、全面的な共産主義者であるのに裁判にかけられた人たちが多数いて、ある女性(クンデラ氏の友人)を除いては、

    「それぞれの過去のどんな細かなことまでをも検討」し、結局想像上の犯罪を自白してしまった。

    このために死刑になります。その女性だけは「みずからの過失を探しはじめる」ことを拒否したため、終身刑ですみ、15年後に名誉回復され、釈放されます。

    興味深いのは、この女性と26歳の息子のけんかをクンデラ氏が目撃した時の話です。息子が朝起きるのが遅かったみたいな、大したことない理由で女性が泣いて怒っていて、大げさだとクンデラ氏が指摘すると、なんと息子みずから、こんなことを言っていたと。

    「(略)たしかにぼくは起きるのが遅すぎましたが、母が責めているのはそれよりももっと根本的なことなんです。ぼくの態度、自己中心的な態度を責めているんですよ。ぼくとしては母が望むとおりの人間になりたいのです。だから、あなたのまえでそう母に約束します。」

    なんか、文化大革命のときの「自己批判」みたいですね。いや、起きるの遅かったら怒っているだけだと思う、と言ってやりたいところ。

    この状況を評したクンデラ氏の言葉が面白いです。

    〈党〉が母親にたいしてけっしてなしえなかったことを、母親が息子にたいしてなしえたのである。

    社会主義体制とか亡命とか裁判とか死刑とか、けっこう重大な例をあげたあとに、この卑近な例がいい味だしてます。

    ということで、第5部は面白かったです。他はよく分かりませんでした。でも、それはきっと私の無知が引き起こしたことなので、その罪をここに告白し、反省いたします。

  • こじらせた自意識のエピソード『東京百景』

    オフィスワークに就いていて、Teamsなんかを使っている人だったら分かってくれるんじゃないか思います。チャットの時とかに発言者のアイコンが表示されますよね。あれって、昔はIDカードに載せるような、履歴書に貼るような、正面を向いて、カメラ目線で、真顔で、スーツを着ていて、みたいな、そんな写真だと相場が決まっていました。でも、最近ちょっと自由になってきて、もっとカジュアルな写真を使ってもOKみたいな流れがあるような気がします。

    自由になると、みんな個性を出してきます。ディズニーランドで撮った写真だったり、ペットと写っている写真だったり、渓流の釣り人だったり。

    趣味のテイストが出てくるのは、そんなに気にならないのですが、仕事の感じが出てくると、ちょっと不穏な空気が漂います。マイクを持って講演しているような写真を見ると「俺、壇上から教える側だけど、何か?」と、どや顔が語りかけてきます。

    子供と一緒に写っている写真もけっこう多いです。それくらいならまだいいのですが、純粋に「子供だけの写真」という人がいました。何がしたいのでしょうか。誰なのでしょうか。子供の許可はとったのでしょうか。気になります。

    何の話をしたかったのか忘れかけていましたが、作家が自著にのせる自身の写真に苦労した話が『東京百景』にありまして、自意識をこじらせた人(=又吉氏)の苦悩を思い知らされました。

    後輩がさらっと「新進気鋭の作家みたい」な写真を撮ってくれたのですが、

    その写真を見た人間の大多数が、こいつ作家を気取りやがってと鼻で笑うはずだ。

    と、却下です。

    変な顔でとってみては? とも考えるのですが、

    周りの眼を気にせず、自分の大切な初めての著書に変な顔を載せるなんて、凄く男らしくて素敵だ。

    自身が決してそういうタイプではなく、周りの人間がそのことを知っていると確信する又吉氏は、そんな偽りの「男らし」さが滲み出るようなことは許容できず、変な顔の写真も採用できません。

    目を閉じて撮ったり、走っているとこを撮ったり、歯を食いしばって撮ったりしても、違和感が払拭できず、結局、一心に蕎麦を食べている写真を使ったようです。(どの本でしょうか、知っている人がいたら教えてください)

    ちなみに私の手元にある単行本版の『東京百景』には、古びたアパートのドアの前で、微妙な感じ(決して「しっかり」ではないし、ポーズもとっていないし、ふざけてもいない)で立って、カメラではない方向を見ている又吉氏の写真が載っていました。これが答えの一つなのかもしれません。

    ちなみに、会社のTeamsでの私のアイコン写真は、コンビニ前の証明写真機でスーツとネクタイで撮ったものを使い続けています。

  • 又吉直樹と太宰治と自意識過剰

    普通に生活しているとたくさんの人のことを知ることになりますが、そのほとんどの人に対して特別な印象を持つことがありません。好きでもなく、嫌いでもくなく、興味もない。もっと言うと、「興味がない」わけでもありません。なぜなら「興味がない」には、もはやネガティブなニュアンスが感じられるからです。

    「人のことを知る」というのは、一緒に仕事をするとか、遊ぶとか、たまたま雑談を交わすとかもありますが、もっと広く、一方的にこちらがその人を知っているだけの、有名人のことを見聞きすることも含めています。

    私が又吉さんに対して、ニュートラルな状態でなくなった瞬間は、又吉さんが太宰治について語っていたときでした。インタビュー記事だったのか、テレビ番組だったか、もはや覚えていないし、このような言い回しを使っていたかもあまり自信はないのですが内容としては「好きな作家として太宰治をあげるのはけっこう勇気がいる」みたいなことでした。

    この感覚、どのくらい多くの人と共有できるでしょうか。太宰治を読んだことがない、イメージもないという人はこういう感覚を持ちえないでしょう。太宰治にはまって、たくさん読んで、好きな作家を聞かれて、迷いなく「太宰治が好きです」という人と共有できる感覚でもありません。

    太宰治について、暗いとか重いとかそんなイメージを持っている人は多いと思います。でも、太宰はキャッチーでもあるのです。万人受けする作家なのです。万人受けが言い過ぎなら、「千人受けする」という言い方がぴったりかもしれません。『人間失格』あたりを中高生で読んで、

    「こ、これは、俺のことを書いている・・・」

    と思う人は結構多いはずです。すでに数十万人の若者がこの体験をしていることでしょう。

    そして、どうやらそうらしい、きっとそうなんじゃないか、と思いこむと、「太宰治を愛読しています」と言うことが恥ずかしくなってきます。そんな宣言をすれば、「あらあら、文学青年気取りですか?」みたいなことを思うやつがいる(のではないかという被害妄想に取りつかれる)からです。実際はそんな意地悪な人はほとんどいないのでしょうが、太宰が自分の代弁者であるかのような感覚を少しでも感じた人間が、実体をもたない「世間」を否定しながらも、その「世間」に怯えることは十分にありうることです。

    又吉さんが書いた『東京百景』にはいろんな要素が詰まっているので一言では言い表せません。上京してきた「何者でもない」若者のエピソードが書かれたエッセイという表現は数十パーセントは表現できているかもしれませんが、それだけではありません。売れない芸人、ちょっと売れ始めた芸人、いろんなものに怯えすぎる若者、体験談に近いものもあれば、亀や流れ星が話しかけてくる妄想に近いものものもあります。自意識過剰をこじらせすぎておかしなことになっている話もあります。人に話したくなる「すべらない話」の要素も含んでいます。

    そして、『東京百景』は究極の「人生最後に読みたい本」なのですです。なぜかというと、BSテレ東の「あの本、読みました?」とう番組で、又吉氏自身が「人生最後に読みたい本」として、この『東京百景』をあげていたからです。

    作家が「人生最後に読みたい本」を聞かれて、自身の著著をあげたのです。太宰好きを公言するときに発揮したような勇気を再び発揮し、なしとげた快挙なのではないかと思います。

    これを見て私はさらに、又吉さんに対してニュートラルではなくなりました。お気づきだと思いますが、素直に好きだとは言えない状態になっています。なぜ?って。そこを汲み取っていただけない方とは、分かり合えそうにありません。

  • 17歳のときに知りたかった 受験のこと人生のこと。(びーやま著)

    ウェブの記事(17歳のときに知りたかった受験のこと、人生のこと。 | ダイヤモンド・オンライン)を読んで、面白かったので、図書館で借りてみました。けっこう予約が入っていて、2,3か月は待ったと思います。

    この本のすごいところは、大人はみんな薄々感じているけど、中高生くらいの若者に正面切って伝えることはないような、世の中の仕組みをストレートに伝えていることです。それは、日本はいかに学歴社会であるか、という点です。

    他の先進国に比べて日本が特別に、というわけではないのですが(本書には中国、韓国、アメリカの事例についても触れていました)、少なくとも日本も学歴社会である、と。

    まず、ネガティブな側面が強調されます。学歴が与える偏見や学歴による差別など。何も迫害されるわけではありませんが、比較・評価されるときに、学歴がいかに「効く」か。逆にそれがない人がどれだけ不利になるか。

    まずは就職ですよね。大手企業にはたくさんの就職希望者が集まります。人事の人もちゃんと見てられないですよ。有名私立や国公立の大学名でフィルタせざるを得なくなる。1次選考通過者のデータがもし手に入れば、その法則性は簡単に読み取れると思いますよ。

    機械学習をやったことのある人ならイメージがわきやすいかも。就職希望者のデータといったら何があるんですかね。説明変数です。年齢、性別、大学名、学部・学科、大学での成績、浪人・留年の有無、資格、大学の立地・居住地。あとは、自由記入欄のキーワードなどから特徴量を抽出して・・・といろいろ頑張って、ランダムフォレスト(ごくごく素朴な手法)かなんかで数秒で学習が終わって、変数の重要度を見たら、大学名で90%決まってます、みたいな。他の変数も効いているけど、数%ずつとかね。

    就活において、「学歴がすべてではない」というのは真実ですが、そのあとに補足が必要ですね。「でも、ほとんどである」と。

    あ、なんか体裁をそれっぽくすると、格言みたい。

    Educational background isn’t everything, but it’s almost everything.
           Nanka=Sonna=Kigasuru (1973-2026)

    就職のあとも、他者と比較される場面はそれなりにありまして、異動のときとか(希望者の募集とか、プロジェクトメンバーの抜擢とか)、あとは昇進試験とかね。転職するときは、ふたたび履歴書に書くことになるだろうし。

    以前勤めていた会社での話なのですが、普段は誰がどこ大学だなんて、気にもしないのですが、ふとしたことでそんな話題になったときに、まわりじゅう早稲田・慶応だらけでびっくりしました。派閥の人事採用枠でもあるのか?と思うくらい。

    面接官をやったことのある人なら分かると思いますが、めちゃくちゃ疲れますし、時間もとられます。できることなら、人数をしぼってから、少人数を面接したいと思いますよ。学歴フィルタは必然の流れです。

    あと、大手企業で面接官をしている人は、たいてい高学歴ですからね。親が自分の受けてきた教育を過剰に良いものだと判断して、自分の子も同じようにしたがる(女子校に行ったお母さんは娘を女子校に行かせたがる)という話を聞いたことがあります。面接官が、自分の歩んできた道と似た道を歩んできた志望者をひいき目に見ないとは言い切れません。

    これも若干ネガティブな響きになるのですが、あなたが天才なら学歴はいらないけど、そうではないでしょ?という話。大谷翔平選手やZOZOの前澤友作氏、吉野家の河村泰貴社長(現在は会長)が高卒である例をあげてました。そういえば、藤井聡太名人にいたっては学歴上は中卒になりますからね。でも、高学歴が不要な職業は存在しますし、経営の手腕みたいなものに必須なものでもないのでしょう。でも、それはごく一部の例外であると。

    ドラゴン桜の「バカこそ東大に行け」みたいなフレーズとも共通点がありますね。バカなんだから、学歴くらいつけておかないと、搾取される側になるぞ、みたいな。

    では、不利にならないようにするためにだけ、意味のない学歴を身につけるべく、今は我慢しなさい、みたいな後ろ向きな話ばかりかというとそうではなく、なぜ学歴に意味があるのか、というあたりもちゃんと語られています。

    学歴は、あなたが「頑張れる人」であることを証明してくれる

    範囲が決まっている勉強も頑張れない人がほかのことでも頑張れるのだろうか

    学歴だってその人が頑張った立派な証じゃないか

    など、学歴の意味を確認できたり、モチベーションを高めたりできるようなフレーズも散りばめられています。

    3つ目のものを補足すると、3年間野球に打ち込んで甲子園に行った、というのは大抵評価されるし、大っぴらに語られるのですが、 勉強を頑張って東大に合格しました、というその部分を特に強調することはあんまりないですよね。

    甲子園に行った人に、「プロ野球選手にならないんだったら、意味なくない?」みたいなことを言う人はいません。たぶんいないと思う。いないんじゃないかな。ま、ちょっとはいるかも。(©さだまさし)

    明確なルールがある同じフィールドで努力して、優秀な成績を収めたんだったら、それ自体に価値があるし、それを誇ってもいいんじゃないかということですよね。

    私が感銘を受けた部分はほとんど第一章(本書では「1時間目」と表記)に載っていました。わたくし的には一番「濃い」章でしたね。後半はだんだんライトになっていく印象でした。これもやっておいてもいいかも的な話とか。より今の高校生の人に向けたメッセージに近いところかも。オバフィフ(50代以降)の私としては、話が若すぎてピンとこないところもありました。「こう考えちゃうかもしれないけど、こうですよ」という話の展開で、「こう考えちゃう」・・・のか? と、話が入ってこなくなる感じ。私が言いたいこと伝わってますでしょうか。まあ、いいや。(年をとると諦めが早くなる)

    語り口が軽いのと、細かく段落が切ってある(ウェブ記事っぽい)のと、対談のページなんかもあるので、分量的にはさっと読める感じです。私は、通勤時の、行き、昼休み、帰り、で読み終わりました。昼ご飯も食べたし、満員電車ではずっと読めるわけじゃないけど、それを引いても1日で読める分量でした。

    では、勉強に戻らなきゃいけないので、このへんで。