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勝手に読書感想文。漫画も映画も含みます

投稿者: 管理人

  • 『アンチ・グッドモーニング』と「あのエレベーター」

    アイキャッチ画像:Krzysztof Golik投稿者自身による著作物, CC 表示-継承 4.0, リンクによる

    芥川賞(2026年上半期)の発表前にノミネート作品を全部読んで、どれが受賞するか(心の中で)予想するという一人企画をやっています。知らんがな、という声が聞こえてきそうですが。

    八木詠美さんの『アンチ・グッドモーニング』は3つ目に読んだ作品でした。読む順番は図書館の貸出・返却状況に左右されます。だって、もう掲載されていた文芸誌のバックナンバーが売っていないんですもの。

    読み始めたときは、中国の廃墟マンションを美術館に設計しなおす『丹心/まごころ』や、空行なしで最後まで主人公の心情と発言が混在した文体が続く『ソリティアおじさんがいた頃』(過去記事)と比べると、普通の作品なのかなと思いました。

    普通というのも変ですが、文体にクセがあるわけでもなく、現代の日本が舞台で、リモートワークをする会社員が主人公ということで、すっと入っていけそうだなあと。でも、読み終わってみると、一番ぶっ飛んでいました。この「ぶっ飛ぶ」という言葉は死語のような気がしますが、死語を蘇生していこうという一人企画をやっておりまして、積極的に使っていきたいと思います。なんちゃって。

    記事につけたタイトルをまず消化しておきましょう。「あのプール」と言えば、「あぁ、あれね」という男性諸氏は多いと思いますが、全年齢対象のレーティングを標榜する当方といたしましては、これ以上プールの方は掘り下げないことにします。

    では、「あのエレベーター」とは、どのエレベーターでしょうか。

    「ドイツの黒い森地方地方には不思議な建物があるんですよ。カーニバルで有名な中世の町、ロットヴァイルにです。250メートルほどある高層ビルなんですが、窓がほとんどなくて誰も住んでいないしテナントのお店も入っていない。さて、何のためのビルだと思いますか?」

    どういう流れでこんな話が出てくるかは、読んでのお楽しみで、その答えは、

    「エレベーターの試験用のタワーで、中には12本のシャフトがあるんです。そこを試験用のエレベーターがひたすら上がったり下がったりしているんですよ。想像できます?」

    あー、知ってるー! 知ってると嬉しくなりますね。知ってるといっても、ちょっと前に読んだ小川洋子さんの『夜明けの縁をさ迷う人々』(過去記事)に収録されている『イービーの叶わぬ望み』に出てきたから知っているという、知りたてのほやほやなのでした。

    文字通り生まれながらのエレベーターボーイ(Elevator Boy)のイービーが、エレベーターを追われる(どういう状況か、想像を膨らましてみよう)ことになったときに、安住の地のように語られるのが、このエレベーター塔なのでした。なんだかガンダーラみたいに。

    ドイツの深い森に高層ビルがあり、人をのせていないエレベーターが来る日も来る日も上下し続けるというイメージは、文学の要素として魅力的ですね。

    尾崎放哉ほうさいの「咳をしても一人」が思い浮かびました。「最上階についても無人」みたいな。どうやら私には文学のセンスがないようです。

    尾崎つながりだと、尾崎豊っぽく「押されたボタンを無視したとき 自由になれた気がした 15の階」なんてどうでしょう。「エレベーターが叫んでる。大人たちが作ったシャフトを上下するのは、もうまっぴらなんだ!」とか。後者は尾崎というより、井上マーでした。

    最近、何書いてたんだっけ?ってことがよくあります。寝不足かもしれません。

    主人公の野上のがみさんはSコーポレーションという健康食品メーカーで働く女性です。このSコーポ―レーションがコンサル会社に買収された頃から徐々にブラックになっていきます。この会社「『健幸』宣言」なんてものを出していて、働きやすい職場をもつウェルビーイングを重視する会社として対外的には知られているという、なんとも皮肉な状況。ONとOFFが切り替えられないリモートワークのせいか、野上さんはある日突然、不眠になります。もがき苦しむ描写が痛々しいです。

    きっと、こんな会社あるよなあ。みたいな風刺的な側面も感じます。資料を作るときは「余白」を残すという職場の先輩のアドバイスが秀逸でした。指摘して直すところがないと上司は何か見つけだそうとして、些末なところをいじって資料がおかしくなると。

    (略)ここの部分は迷っているから相談にのってほしいって言って何かアドバイスさせれば、向こうも安心するでしょう? 仕方ないのよ、自分の手を動かさずにお金を稼ごうとする人ほど不安になりやすいの。(略)だからわたしたちは彼らの存在意義を作って、適当に安心させてあげればいいのよ。

    「アドバイスさせ」るとか、「自分の手を動かさずにお金を稼」ぐとか、「安心させてあげればいい」とか、なかなか毒が効いています。八木さんって会社員経験者?

    なんてあたりのことを書くと、隠れブラック企業を風刺する社会派小説かと思ってしまうかもしれませんが、それでは終わりません。途中からだんだん変になっていきます。どの辺からだったかなー、e-ラーニングの動画の講師「出冬覚いでふゆ さとる」が出てくるあたりからだったと思います。そう、へび苺メガネの。不眠が原因の幻覚なのか、実は眠れていて夢なのか、現実なのか(ファンタジー小説かもしれないしね)、よく分からない感じになってきます。

    いろんな要素が次々に出てきて飽きさせません。純文学とエンタメは両立するんだなと思いました。私は読書をしているとすぐに眠くなるので、小分けにして読むことが多いのですが、『アンチ・グッドモーニング』は就寝予定時間(午後九時)を過ぎていることも忘れて、一気に読んでしまいました。そして、そのあとすぐ寝ました。ぐっすり眠れました。うらやましいですか。

    いまちょっと検索してみたら、もうすぐ(2026年6月29日)単行本が出るんですね。楽しみなことは、「もういくつ寝ると・・・」なんて数えたりしますが・・・、寝られるといいですね。


    2026年7月14日追記
    続報です。
    2026年上半期の芥川賞を予想・・・はせずに、賞を新設する

  • 『ソリティアおじさんがいた頃』の独特の文体

    第175回(2026年上半期)の芥川賞にノミネートされた作品が載っているということで、『文學界』2026年5月号を図書館で借りてきました。村司侑むらしゆうさんの『ソリティアおじさんがいた頃』という作品です。

    文芸誌を買ったことがない私は、この『文學界』なる雑誌がどのようなものなのかも、あまり分かっておりません。文藝春秋社から出ている純文学寄りの文芸誌だそうです。ややこしいのは『文藝春秋』という総合誌もあって、芥川賞を受賞した作品が、後日この『文藝春秋』に掲載されます。こちらは再掲ということですね。

    『文學界』(文藝春秋社) 、『新潮』(新潮社)、 『群像』(講談社)、 『文藝』(河出書房) 、『すばる』(集英社)あたりに掲載された小説からノミネートがされることが多いようです。

    この『ソリティアおじさんがいた頃』はすでに文學界新人賞を受賞してるんです。で、さらに芥川賞にもノミネートされたということですね。

    主人公の古井瀬ふるいせ瑠奈は30代の女性です。この瑠奈の一人称の小説なのですが、文体が独特です。瑠奈の心情と台詞がごっちゃになっていて、他の人の台詞は普通に括弧書きになっていて、構成要素はそれだけです。・・・という説明じゃ分かりませんよね。

    例をあげますと、

    「ちょっとええか、古井瀬」と、珍しく小さな平見部長の声。(略)
    「きょうの、黒野田さんのお通夜な、自分、行くか?」
    え、いえ、わたしは、大勢押しかけるなって言ったはったんで、遠慮しよかと。
    「そか。ええよ」
    用はそれだけかと思ったが、すぐには出ていかない。なんやろ、と思う。
    「川上くんは、どうやろか」
    海史? と思いながら答えを探す。え、いや、どうでしょ?
    「すまんけどな、スマホ使ってええさかい、ちょっと訊いてくれへんか(略)」

    見ての通り瑠奈の台詞が括弧に入っていないんですね。本当だったら、「え、いえ、わたしは、大勢押しかけるなって言ったはったんで、遠慮しよかと」と「え、いや、どうでしょ?」のところは括弧で括るのが普通です。でも、小説全体を通じて、この瑠奈の台詞は括弧に入れないという方針が貫かれています。つまり、瑠奈が考えていることと実際に口に出した事は表記上は区別されていません。文脈からほとんどは判断できますが、境目が曖昧な箇所もあります。

    目の前で起きたこと、考えたこと、話した事、その結果帰ってきた反応、などをつらつらと流れるように書いている文体のリズムを壊さないように、このような表記法にしたのでしょうか。初めて見ました。

    話したことを括弧で括ると、メリハリがつきすぎて、他の地の部分の、ある意味だらだらと起きたこと・考えたことを描写するテイストと合わないかもしれません。大体こんなこと言ったら、こんな反応があって、そしたらこんな気がしたので、またこんな感じのことを伝えた、くらいの「言い方までは限定しない表記」は新しい発明なのかもしれません。

    ストーリーのことをいろいろ書いても、この小説の特徴は伝わらないような気がして、今回は文体のことばかり書いてみました。思考は逡巡して、いろいろ考えるが大した根拠はなく、たった今考えたことを反省したり、思いが伝わっているのか不安だったり、相手の真意がよくわからなかったり、言おうと思ったが言わなかったり、なんでこんなことになったのか不思議だったり、ちょっとしたきっかけで決断したり、行動したり、でも、確信はなかったりするけど、後悔もなくて、結局人生は続いていく、みたいな話です。読めば分かるさ。


    2026年7月14日追記
    続報です。
    2026年上半期の芥川賞を予想・・・はせずに、賞を新設する

  • お金のかからない人生の楽しみ方『深夜高速バスに100回ぐらい乗ってわかったこと』

    BSよしもとの「第一芸人文芸部 俺の推し本。」という番組で銀シャリの橋本さんが推していた『深夜高速バスに100回ぐらい乗ってわかったこと』を読みました。

    番組中で橋本さんが「読むYouTube」みたいな例えをしていました。「○○してみた」のような企画っぽい内容が多い点を言っていたのだと思います。それもそのはず、著者のスズキナオさんはデイリーポータルZなどで記事を書いているライターさんじゃないですか。本書にもデイリーポータルZが初出の記事もたくさん収録されていました。

    読む前にはもっと派手な企画を想像していました。もっと「いいね」を! もっと注目を! もっと再生回数を! みたいな感じで、最後はYouTuberが警察に捕まったりする話も聞くので。

    スズキナオ氏さんの企画はその逆を行く感じです。私が好きだった企画は「誰も知らないマイ史跡めぐり」です。友人であるハナイさんの地元の街に行き、ハナイさんの「マイ史跡」を紹介してもらうというもの。そりゃ「誰も知らない」わけです。

    ここでよく食べたてなーというラーメン屋に行ったり、そこがすでに移転して閉まっていたり、宮沢りえが表紙の雑誌を立ち読みしていたら近くに宮沢りえ本人が立っていたという経験をしたコンビニに行ったり。(このエピソードについてかなりインパクトのある、ほぼピークに相当するものかと思います)

    あとは、子供の頃に遊んだ公園とか、中高生のときに散髪していた理髪店とか、「夜、ボーッとしてた歩道橋」とか、「好きな子に電話したことがある電話ボックス」とか。

    有名人のゆかりの地をめぐることがツアーとして成立するなら、自分にとっては関係の深い友人のゆかりの地を本人に案内してもらうことは、とても価値のあることじゃないかと。そして、そんな変な企画につきあってくれる友人がいることはとてもすばらしいことじゃないかと。

    ラーメン屋や居酒屋などの飲食店をめぐる記事も結構多いですが、よくあるグルメレポートとは違います。どこ違うんだろうと考えてみたところ、スズキさんは人にフォーカスを当てているんだなあと思いました。出てきた料理も紹介するけれど、それだけじゃなく、お店をやっている人の人生も紹介するんですよね。なぜこの店を始めたのかとか、どうしてこんなメニューなのかとか、阪神淡路の震災のときはどうだったとか(関西のお店が多いので)、ご主人と結婚したきかっけとか、けっこう個人的なことまで。

    「おいしい○○」を食べに行くということだけが、お店に行く目的じゃないんだと思うんですよね。人に会うのが目的だから、動物園で飲んでもいいし、舞浜に行ってディズニーランドに入らなくてもいいし、終電を逃したつもりで朝まで歩くだけもいいんだ。そう考えると、なんだか納得しました。

  • 『夜明けの縁をさ迷う人々』

    小川洋子さんの作品を読むのは、『サイレントシンガー』に続いて二作目です。この『夜明けの縁をさ迷う人々』には9つの短編が収められています。全体的に不思議な空気が流れています。リアリティとファンタジーの境目が溶け合っている感じです。この感覚を何と呼べばいいのか、ちょうどいい表現を私は知りません。

    村田喜代子さんによる巻末の解説に、

    名前を与えられない人間たち。あだ名や、職業、頭文字だけの人物が物語の「状況」を引っ張って行くのである。

    とあって、やっぱり名前をつけていないところは、小川洋子さんの一つの特色なんだなあと再確認。『サイレントシンガー』でもそうでした。

    そういえば、桃太郎に出てくるのは「おじいさん」と「おばあさん」で、よく考えてみると「桃太郎」ってのも名前じゃなくてニックネームでしょ、って気もする。竹取物語の「竹取の翁」って職業だし、おとぎ話には個人の固有名詞は必要ないのかもしれない。星新一は「エヌ氏」をよく使っていたし、カフカの『城』の主人公は「K」だったし。

    忘れないように、そして忘れてもすぐに思い出せるように、各作品の印象を書いておきます。


    『曲芸と野球』

    今思うと、一番普通なのかも。超常現象的なことは起きません。でも、「曲芸師」という存在自体がちょっと非日常的なものを醸し出しています。

    もしかしたら他の子たちには、あの曲芸師さんが見えていないんじゃないだろうか、と思うこともあった。

    というくらい、主人公の野球少年以外は曲芸師の存在に気を留めません。

    華やかな場所で注目を集めることもあるであろう曲芸師は、他の人から注目を集めなくなったとたん、消えてなくなる存在であるかのような、そんな危うさを秘めています。少年が曲芸師の「その後」の話を聞くのも、単に噂話を通じてにしかすぎません。

    カフカの『断食芸人』で、断食を続ける芸人のことを誰も気にしなくなっていき、その生死にさえ注意を払われなくなっていったことを思い出しました。別にどこが似ているとかではなく、ただ思い出しました。


    『教授宅の留守番』

    ミステリーっぽい終焉が待っていますが、きっとそこは「おまけ」で、私としては途中の、食べっぷりと、祝いの品の届きっぷりと、部屋が埋め尽くされていくさまが、なんだかイリュージョンでコメディで、ガルシア=マルケスの『百年の孤独』を思い出しました。全然短いし、全然似てないけど。


    『イービーのかなわぬ望み』

    イービーとはエレベーターボーイのE.B.です。訳あって、エレベーターでのお産で誕生するあたりまでは、ありそうな気もしないですが、エレベーターサイズに合うように成長が止まったり、エレベーターの中で生活しだしたりすると、ファンタジーが加速していきます。エレベーターが取り壊されるようなことになれば、きっとイービーは・・・。

    2026年6月20日追記
    イービーの安住の地のように語られていたあのエレベーター塔(=ロットヴァイル試験塔)が他の小説でも出てきました。結構有名なんでしょうか。『アンチ・グッドモーニング』と「あのエレベーター」


    『お探しの物件』

    物件は人が設計し、作って、住んだもの。その住人と家とはかかわりが深いものです。かかわりが深すぎると、それは絆のようになり、呪いのようにもなり。不動産業者の人から家をすすめられているだけの話なのですが、そこに自分が住んだらどうなるだろうか、なんて勝手な想像をすると、それは素敵なもののようでもあり、ホラーのようでもあり。


    『涙売り』

    主人公は「涙売り」という現実離れした職業です。その涙を楽器にかけると、音色がよくなるという設定もさることながら、「一切の道具を使わず、自らの身体のみを使い、音を奏でる人々」である「人体楽団」に、この涙売りが出合うあたりから、悲しい恋の話なのか、ボケ倒しているシュールコントなのか分からなくなります。「関節カスタネット」って・・・


    『パラソルチョコレート』

    主人公の女の子が忘れ物をし、急遽家に帰ると、見ず知らずの老人がいて、

    「(略)お嬢ちゃんとワシは、本当は会ってはならぬ関係なのだよ」

    「(略)つまり、ワシは、お嬢ちゃんが存在していない場所の住人なのだ。お嬢ちゃんの裏側に生きておる者、とも言える」

    などと言います。幽霊のようでもありますが、生きる・死ぬというよりはあっちとこっちの世界の移住のようなイメージです。もう一つの世界があって、対になる存在がいる、みたいなモチーフは割とよくみかけますが、その設定にどう物語が絡められるのかが面白いところですね。小田扉『ぐるぐるゴロー』に収録されていた『見聞録』を思い出しました。別に似てないですが。

    なぜ、ベビーシッターさんはチェスをするのか、書斎に入るなというのか。何か知っているようでもあり、そうでもないような感じもして。


    『ラ・ヴェール嬢』

    お、固有の人名かと思いきや、アパート名からつけたあだ名です。主人公は出張専門の指圧師(足裏専門?)です。私は最初、この主人公が女性だと思い込んでいて、

    ある時ふと、もしかしたらラ・ヴェール嬢は同じ事をこの僕にも求めているんじゃないだろうか、という疑問を持った。

    というところで、え? 「僕」? 男なの? と思いました。

    ずっと一人称は「私」で、ここで初めて「僕」と一人称が2度ほど使われ、この後も「私」に戻ります。ミスリードまで狙ってないとしても、曖昧にしておく意図はあったのではないかと思います。でも、「僕」と言ったからといって男だとも限りませんが。はるかぜちゃんの例もあるし。(あのちゃんをあげないあたりに、ひとひねり)

    そして、だんだん官能小説になっていきます。でも、ラ・ヴェール嬢というよりはラ・ヴェール婆だったりします。歌舞伎の『勧進帳』を思い出しました。全然・・・


    『銀山の狩猟小屋』

    ある社長が狩猟小屋を売りに出しているという、ありそうな話から始まり、管理人のようでそうではない変な隣人が登場するあたりから、小川ワールドになっていきます。「サンバカツギ」は全然おいしそうじゃないです。


    『再試合』

    再び野球が登場。高校球児を応援する女子の推し活のような話が、どこからかおかしくなり、時間の迷宮をさまよい始めます。『うる星やつら2 ―ビューティフル・ドリーマー』を思い出しました。永遠が持つ恐怖を感じてください。


    こころの琴線に触れる物語を読むと、以前琴線を震わせた体験を想起します。話自体は似てなくても、人間が共通に感じ惹かれる要素の共通点を感じるのではないかと思います。存在しないはずのものへの執着とか、破滅を厭わない情熱とか、もう一つの何かへのあこがれとか、一瞬と永遠の共通点とか。なんか、そんなのがいっぱい入っている気がしました。

  • 直木賞は無理だが、芥川賞はなんとかなる

    「とれる」とか「とれない」とか、そんな話ではなく、「ノミネート作品が発表された直後に図書館で予約すれば、すぐに借りられるか」という話です。

    今日(2026年6月11日)の午前5時頃、日本文学振興会が芥川賞と直木賞のノミネート作品を発表するポストを投稿してました。

    第175回芥川龍之介賞の候補作は、以下の5作品です。
    小砂川 チト「ゾンビ回収婦」(群像5月号)
    鈴木涼美「悪い血」(文學界6月号)
    仁科斂「丹心」(新潮4月号)
    村司侑 「ソリティアおじさんがいた頃」(文學界5月号)
    八木詠美「アンチ・グッドモーニング」(文藝春季号)

    これは読まねばと思い、でも、もう予約が殺到しているかも、とも思いつつ、自治体の図書館サイトで検索したところ、3誌については他の人の予約はない状態ですぐに借りられ、2誌については貸出中だったものの順番が1位なので2週間以内には借りられる、という状況でした。

    朝5時頃にポストされ、6時過ぎには予約したのが良かったのでしょう。年寄りは有利です。

    「じゃあ、直木賞もいけるか?」と思い検索しましたが、こちらはすでに何十件も予約が入っている状態でした。直木賞はすでに単行本になっているものが対象だから(例外もあるみたいですが。過去記事:向田邦子『思い出トランプ』のイヤ~な気持ちになるところを考察する)、もうすでにそこそこ話題になっちゃってますもんね。

    一方、芥川賞のほうは文芸雑誌には掲載されているが、単行本にはなる前の状態なので、まだ世の中の大多数の人は知らないというものが多いでしょう。だって、文芸誌ってちょっとハードルが高いですよね。小さい字でこれでもかというくらい作品が詰め込まれているし(=コスパはかなり高い)。分厚いから持ち歩いたり、電車で読んだりするのも厳しいし。

    ということで、いち早く芥川賞ノミネート作品を読む方法は、
     ① Xで日本文学振興会のアカウントをフォローする
     ② ポストされたらすぐに図書館サイトで予約する
    でした。しかし、これを実行するためには、
     ⓪ 毎日早起きする、というのが必要です。

    「無ぅ~理ぃ~」というあなたは、単行本が出たら買ってください。

    今ちょっとアマゾンで検索してみたのですが、文芸誌のバックナンバーって在庫がなくなってしまうのか「この本は現在お取り扱いできません。」になっていますね。『文學界』と『文藝』については電子書籍版があるみたいです。

    「電子書籍はいやだ、紙がいい」というあなたは、やっぱり、単行本が出たら買ってください。

    鈴木涼美「悪い血」が掲載されている「文學界」6月号

    村司侑 「ソリティアおじさんがいた頃」が掲載されている「文學界」5月号
    八木詠美「アンチ・グッドモーニング」が掲載されている「文藝」春季号

  • 6ページで分かる小栗忠順(の下積み)

    世の中の人はけっこうNHKの朝ドラとか大河ドラマを見ているようで、タレントがトーク番組で話題にしたり、芸人が漫才のネタに使ったり、新聞のコラムに関連するエピソードが書かれていたり、みたいなことがよくありまして。

    私は朝ドラとか大河ドラマとかを今までは全然見てなかったので、「大河に出ました」的な芸人さんの自慢も、「CSでレギュラー持ってます」くらいの感じで聞いてました。でも、なんかおいてけぼりになるものいやなんで、世の中の流れに乗っていこうとも思っています。朝ドラや大河は絶対に話題になるんですよね。NHKがしっかりごり押しプロモーションするから。

    で、次の大河ドラマ『逆賊の幕臣』の主人公が小栗忠順ただまさという人物だそうで。「おぐり」といえば、私は「しゅん」と「キャップ」くらいしか知らないので、事前に情報を仕入れておこうと、アマゾンで検索してみました。歴史小説とか歴史の解説本みたいなのが出てきますが、そういうのはちょっと敷居が高い。ということで、子供向けの本を探すと『下積み図鑑: すごい人は無名のとき何をしていたのか?』というの本の中で、小栗忠順を取り上げているみたいなので、読んでみました。

    偉人や作家、芸術家、スポーツ選手などの芽が出る前の下積み時代に焦点をあてて紹介している本です。一人の人物に充てられているのは6ページほど。

    小栗忠順については、武士の家系で、子供の頃から意地っ張りで、武術にも熱心で、幼少期から政治のことなどを議論するのが好きで、開国論者で、クセが強かったけど優秀だったので幕府から重用されて、アメリカとの交渉の使節団の一員として渡米して、船酔いが大変だった、という感じです。

    では、大河ドラマで使われそうなエピソードを勝手に予想しておきましょう。

    1つ目:隅田川で船に乗って花見をしたときに、川の堤を見て水利(用水としてどう使えるか、洪水にならないかなど)について語り出した

    いいですね、これ。堅物かたぶつ感が出ています。

    2つ目:書画を集めるのが好きだったが、昔の人が書いたものは本人が書いたものか信用できないので、書家の大家たいかに目の前で書いてもらい、それを大事にした

    これも、いいですね。押しかけて行って、「さあ、今すぐ、ここで書いてくだされ」みたいなシーンは映えますね。

    これ、どうでしょう。

    3つ目:9歳から私塾に入門、

    14歳ですでに威風堂々たる人物になっており、煙管きせるで煙草を吸いながら議論していたという。

    あ、これはコンプライアンス的にNGでした。「NHKなんで」(©ゼネラル・エグゼクティブ・プレミアム・マーベラス・ディレクター 三津谷寛治)

    この『下積み図鑑』、現大河ドラマ『豊臣兄弟!』の豊臣秀長についても取り上げており、今の大河ドラマ、次の大河ドラマを見据えた人物選択となっております。狙っていますね。ムーブメントに乗ることは大事です。

    ちょっと話は変わりますが、巻末の既刊書の案内を見ると、著者の真山知幸氏は『おしまい図鑑 ―すごい人は最期にどう生きたか?』という本も書かれています。最初と最後ということでしょうか。

    「ニッチな伝記図鑑」が刊行される際には、この二作を加えておきましょう。

  • 40歳の宇野千代と71歳の宇野千代の私小説

    宇野千代のデビュー作を含む短編集を読んだ(過去記事へのリンク)ので、引き続き初期の作品を読もうと思い、宇野千代 – Wikipedia を見てみると、

    著作
    『幸福』(金星堂、1924年)
    『白い家と罪』(新潮社、1925年)
    『晩唱』(現代短篇小説選集』(文芸日本社、1925年)
     ・・・

    どうやら、『幸福』が次に古そうということで、図書館で借りてみると、なんとそれは1972年に出版された別の『幸福』だった(過去記事へのリンク)ということがありました。48年ずれてました。宇野千代のことをいじった小説『葱』の芥川龍之介(過去記事へのリンク)が亡くなったのが35歳だということを思うと、宇野千代のキャリアのなんと長いこと。

    1924年の『幸福』を探すべく、川崎市立図書館のサイトで検索してみたときに、それが収められた全集『宇野千代全集 第1巻(中央公論社)』が所蔵されていることがわかりました。時間がなかったのか、その時は予約せずに、後日予約して、届いた本を見てみると『現代日本文学全集 45 岡本かの子・林芙美子・宇野千代集(筑摩書房)』という別の本でした。再度検索しなおして予約したときに、違う本を選んでしまったようです。宇野千代の全集で古いやつ、というアバウトな覚え方で選択したのが災いしたようです。

    せっかく借りたので、返す前に1つくらい読んでおこうと思い(全集って読み終わる気がしないくらいギチギチに字が詰まっていたりしますよね)、単行本や文庫に入っていなさそうだった『未練』という短編作品を読んでみましたところ・・・、デジャブ?

    前述の1972年の『幸福』に収録されている『この白粉おしろい入れ』に出てくるシーンとそっくりな箇所がありました。

    該当箇所は、『未練』(1936年:宇野千代は40歳)の3章と4章(長さ的には「節」くらいだけど、最上位の階層だったので「章」と呼んでおきます)、「新吉」のモデルは画家の東郷青児、「加代子」のモデルは宇野千代です。

    それに対応するのは、『この白粉入れ』(1967年:宇野千代は71歳)の7章で、東郷青児は「あの人」として、宇野千代は「私」として登場します。

    使っている言葉や言い回しはかなり相違がありますが、ストーリーを構成する部品がほぼ同じです。

    加代子(私)は、新吉(あの人)の絵を売るために、一人で大阪のホテルに長期滞在しています。そこで絵を買ってくれる男性と恋愛関係になります。そこに、新吉(あの人)から、急に大阪に来るとの電報を受取り、あせります。

    「ゴゴ六ジ、ウメダツク、シンキチ、」 ―『未練』

    「ゴゴ四ジツク。ソチラデマテ」 ―『この白粉入れ』

    慌てて、大阪の男の痕跡を消したりして、新吉(あの人)と会うのですが、うまく嘘をつけず、いろいろと口走ってしまいます。

    「八号が五枚売れたわ。」そう言ってから、加代子はしまったと思った。「誰が買ったんだ?」 ―『未練』

    「昨日一ぺんに四枚売れたのよ。(略)」「何をする男だ。」 ―『この白粉入れ』

    新吉(あの人)は何か感づきつつも、二人は神戸の画廊を訪ねたあとに、食事に行きます。

    国道へ出た自動車の中で、新吉の顔は見えなかった。神戸の画商に預けてある画の売れ具合を訊きがてら、南京街で志那飯を喰おうというのだった。 ―『未練』

    しばらく経ってから唐突に、「神戸で飯を食おう、」と言って歩き出しました。神戸にもあの人の絵の預けてある画廊があったのです。私たちは車で神戸まで行きました。 ―『この白粉入れ』

    その後、新吉(あの人)は、加代子(私)に靴を買います。

    いま画商で受取ったばかりの新しい紙幣を加代子に渡して、靴を買わせた。 ―『未練』

    そして、画廊で金を受取ると、あの人は途中でショーウィンドウを見て、私のために新しい靴を買いました。 ―『この白粉入れ』

    新吉(あの人)は、加代子(私)の話に男の影を感じたせいか、機嫌が悪くなり、黙ったまま、長い距離を歩くことになり、

    「ねえ、」(略)「あたし、足が痛いのよ、」 ―「未練」

    「ねえ、お願い。あたし、もう歩けないわ。靴が痛いのよ」 ―『この白粉入れ』

    加代子(私)が滞在しているホテルにつくと、新吉(あの人)は不貞の証拠を見つけようと、フロントで帳簿をめくって、男の名前を見つけようとします。

    田邊加代子と書いた乱暴な男文字のところまで来ると、ぴたりと眼を据えて、しばらくじっと動かなかった。 ―『未練』

    私の筆跡ではなく、確かに男の手だと分かるその人の筆跡で、大きく、乱暴に書いてありました。(略)一分間くらい、あの人は帳簿を持ったままでいました。 ―『この白粉入れ』

    二人がぎくしゃくしているときに電報が届き、新吉(あの人)は急遽東京に戻ることになり、その前にビジネスの話をします。

    「あと、画は何枚ある?」(略)
    「十二号と四号の風景が三枚」とうとう新吉が口を利いたという歓びは、(略)「君は二三日残って、出来次第、電報で連絡をとってくれ。」 ―『未練』

    「おい、あと絵は何枚ある。」「六枚あるわ。」「明日にでも売れるね。売れたら電報為替にするんだ。」 ―『この白粉入れ』

    他人の小説だったら盗作だとか言われそうなくらい似てますが、本人の48年前の作品ですからね。編集者が慌てて、「先生、それ、もう書いてますよ!」と、ならないのは、私小説だからでしょうか。自分の体験をベースに脚色を加えて作品にしているということになると、1つの体験に別の味付けをして、異なるの作品を作り出すということもあるのでしょう。

    高齢の大御所になると、「あ、またこの話書いてる」ってことに編集者が気づくことが、ままあるけど、誰もつっこめないし、出版側も大して気にしてない、なんて話を聞いた記憶があります。でも、誰がどこでしていた話かも覚えていないくらいなので、話半分で。

    この二作については、『未練』が出来事からあまり時間が経っていない頃のスナップショット、『この白粉入れ』はもっと長期間にわたる回想という形ですから、全体の構成で言うと全然ちがう構成になっています。

    そういえば、『この白粉入れ』には、同じ短編集に収録されている『行く』という掌編のエピソード(千代と同居していた青児の子供と30年ぶりに再会する)も含まれていました。

    短めの作品で扱ったエピソードを再利用して、別の長めの作品の部品にして、全体を再構成するというやり方は、宇野千代がよく使う方法なのかもしれません。

  • 日記は究極の信頼できない語り手 谷崎潤一郎『鍵』

    前回(死期を早めてあげるための介護とは?『スクラップ・アンド・ビルド』)からの続きです。簡単に書くと、BSテレ東の「あの本、読みました?」で、作家の羽田圭介さんが谷崎潤一郎を紹介していたので(実は読みやすい&短い!?谷崎潤一郎作品を羽田圭介が熱弁解説)、まずは羽田さんの『スクラップ・アンド・ビルド』を読み終わりまして、感想文も書きまして、今回やっと羽田さんがおすすめしていた谷崎潤一郎の『鍵』を読みました。

    番組中では「短くて読みやすい」作品として紹介されていました。168ページとのことでしたが、私の手元の番組と同じ新潮文庫版では、本文が書かれているのはP8~P173なので166ページ(引いたあとに1足すのを忘れずに)です。この2ページのズレは何でしょうか。タイトルページを入れると167ページになりますが、あと1ページ足りません。最終ページの裏側(白紙)を足せば168ページとなり数は合いますが、そんな数え方をするのでしょうか? と思って、検索してみると、出版業界? 印刷業界? 界隈ではそういう数え方をするようです。勉強になりました。どうでもいい話で10行近く使いました。

    168ページというと、私の中では「ちょっと長い短編」くらいの感じなのですが、ウィキペディアには

    『鍵』(かぎ)は、谷崎潤一郎の長編小説。

    と書かれていて、ジャンルも「長編小説」となっています。「ちょっと短い長編小説」ということでしょうか。「素敵な粗品」みたいなもんでしょうか。でも、普通の小説のように台詞の掛け合いによる改行がないので、字はぎっしり詰まっている感じがします。分量から言って、長編ということで。

    168ページなので短いというのはいいとして、「読みやすい」には物言いです。夫と妻の日記が交互に繰り返されるのですが、夫の日記は漢字カタカナまじりで書かれています。ツマリ、夫ノ日記ハ漢字カタカナマジリデ書カレテイマス。読みにくいです。でも、その読みにくくさが、最終的に快感に変わるのかもしれません。谷崎なので。

    本文は、夫と妻の日記のみです。ナレーションみたいな語り手とか、風景の描写とかそういうのはありません。交換日記というわけではなく、それぞれ別の日記です。家に置いているので、相手にこっそり読まれている可能性もありますが、それもはっきりしません。

    夫は50代、妻は40代、娘が一人という家族構成で、ここに娘の結婚相手にどうかと親は思っているけど、娘はあまり乗り気ではないという男「木村」が加わり、この4人が主な登場人物です。

    ストレートに書くと大人サイトだとグーグルに判断されたりして、ただでさえ低い検索順位が、さらに低くなりそうなので、なるべく遠回しに書きます。夫は夜になると最近ちょっと元気がなくて、でも妻は旺盛なので、なかなかサティスファイさせることができません。夫は嫉妬をするとエンジンがかかる(エンジンにはピストンがつきもの)タイプで、木村と妻が怪しいんじゃないか思うほど、パフォーマンスがあがってタスクを完遂できるという、ちょっと普通でないタイプなのです。

    で、そのことを日記に書きます。妻が盗み見をしているという想定で書きますが、本当に盗み見ているかは不明です。また、盗み見をしている想定で書いている、ということも日記に書いてます。

    妻は最近日記をつけはじめたのですが、これも途中から夫に盗み見られている可能性について、日記に言及するようになります。夫は自分が夫の日記を盗み見していると思っているようだが、そんなことはない、ということを日記の上で力説し、それが夫に盗み読まれることを想定しています。

    双方が盗み見ていれば、口ではいいにくいことをお互いの日記に書いて相手に知らせる交換日記のように機能しそうですが、相手が見ているかどうかは判然としないまま、物語が進んでいきます。

    夫が自分の性癖を日記に書く、盗み見た妻は、木村との関係をほのめかすことにより夫を嫉妬させ、嫉妬はブースター(発射だけにね)となり結果的に満足を得る。妻を満足させることは夫の希望であるので、妻は不倫のふり(あるいは本当に・・・)をすることで、主人の意に忠実な妻である、みたいな構図が成り立ちますが、各人の動機が本当にそうなのかははっきりしないのです。

    このような誰がどういうつもりで何をしているかが分からないような小説にするための仕掛けとして、日記という形式がとてもうまく機能しています。

    あるタイプの小説は、登場人物Aの心情も登場人物Bの心情も語るような神様のような視点の語り手がいたりしますよね。ここで語られる内容は通常は真実として扱われます。

    「夫は妻の日記を読むようなことはしなかった。」と台詞ではなく、地の文で出てきたら、そうだということになります。

    「『俺は君の日記を読むようなことはしないよ』」という台詞が出てきたのなら、それは嘘かもしれません。

    一人称の小説で、「私は妻の日記を読むようなことはしなかった。」という形で地の文で出てきたらどうでしょうか。これは真実だと考えるのが自然でしょう。誰かに聞かせているわけではない心情に嘘が入ると、話がややこしくなります。認識の違いとか、あやふやな記憶みたいな形でひっくり返すこともできますが、通常は本当のことしか語りません。

    で、日記はどうでしょうか。日記に嘘を書くという現象はありえないことではないです。そこに、相手の盗み見を想定すると、嘘を入れる動機も十分に存在することになります。つまり『鍵』に出てくる日記に書かれていることは、どこまで真実なのかが最後まで分からない、という構造になっています。

    中盤になってくると、日記に以前こう書いたが、実はそれは嘘で、本当はこうだった、みたいなのも出てきます。でも、それも日記に書かれているので、それが本当だという保証もありません。

    ただ、日記に書かれている内容が真実度を増すこともあります。盗み読まれる可能性がなくなれば、嘘を書く動機はなくなります。そして後半、そうなります。じゃあ、盗み読む人はもういないのか? いえ、最後まで日記を盗み読みしている人はいなくなりません。そう、それは・・・・・・おまえだっ!(もうすぐ稲川淳二の季節ですね)

    つまり、それは読者ということだったりします。

  • 死期を早めてあげるための介護とは?『スクラップ・アンド・ビルド』

    BSテレ東の「あの本、読みました?」で、作家の羽田圭介さんが谷崎潤一郎を紹介していまして(実は読みやすい&短い!?谷崎潤一郎作品を羽田圭介が熱弁解説)、なかなか面白そうなので読んでみようと思いました。

    そういえば、羽田さんの本を読んだことがありません。又吉さんの『火花』と同じタイミングだったせいか、メディアも大きめに取り上げていた印象があり、羽田さんの顔ははっきり、くっきりと思い浮かびます。顔立ちのせいのような気もします。たしか、作品(書籍)がプリントされたTシャツを着てテレビに出てたりもしましたよね。本の装丁はある意味アートなので、Tシャツのプリントにするというのは、それほど不自然ではない気もします。でも、「芥川賞受賞」と書かれた帯まで一緒にプリントされていたりします。そして、ウェブで画像検索してみると、羽田氏がカメラ目線でキリっと決めたTシャツ姿の写真がいっぱいでてきます。Tシャツで自身の書籍をアピールしていたのは『スクラップ・アンド・ビルド』だけじゃないんですね。

    羽田さんの本を読んでいないのに、羽田さんの勧める谷崎の本を読むのは、順番がおかしい気がしたので、先に羽田さんの芥川賞受賞作である『スクラップ・アンド・ビルド』を読んでみました。えぇ、あのTシャツの本です。

    通勤の朝の電車で読み始めて、昼ご飯(冷凍お弁当)を食べながら読み、帰りの電車でも読み、数ページ残っていたので、寝る前に読んで、読み終わり、もやもやしながら寝ました。さっき、起きました。

    主人公の健斗は母親と祖父と同居しています。父は死別。前職を退職していて今は求職中で、家にいる時間は長く、祖父の介護を手伝っています。介護といっても、祖父は努力すれば大抵のことは自分でできる程度の要介護度です。娘(健斗の母)から、かなり邪険な扱いを受けています。

    「お母さん、お皿、お願いします」

    食べ終えた皿を祖父が差しだすと、母は舌打ちした。

    「自分で台所まで運ぶって約束でしょ。ったく甘えんじゃないよ、楽ばっかしてると寝たきりになるよ」

    さらに、

    「お母さん、薬ばもう飲んだほうがよかね?」

    薬の入った袋を掲げながら祖父が母に訊ねた。

    「勝手にしなよ、そんなの本当は飲まなくてもいい薬なんだから」

    「すみません。健斗、水くれる?」

    「健斗に甘えるな! 自分でくみに行け!」

    そして、

    「じいちゃんは邪魔やけん部屋に戻っちょこうかね」

    「いちいち宣言しなくていいんだよ糞ジジイが・・・」

    杖をつき暗い廊下へ行く祖父をにらみながら母が言う。

    こうやって、母親の言動を(意図的に)切り抜いてみると、虐待か? という感じもしかねないですが、読んでいると不思議と祖父に対する共感や同情は湧いてきません。まあ、引用しなかった部分に書かれている、祖父の言葉とか生活態度を踏まえると、無理もないという気になってきます。

    祖父は、不眠や寒さ、鈍る思考、体の痛みなどを理由に、早く死にたいということをしきりに口にします。この言葉を真剣にとらえた健斗は祖父の死期を早めてあげるべく、行動を開始します。

    ただ、その手段が興味深いのです。介護職の友人から、

    「人間、骨折して身体を動かさなくなると、身体も頭もあっという間にダメになる。(略)過剰な足し算の介護で動きを奪ってぜんぶいっぺんに弱らせることだ。使わない機能は衰えるから」

    という話を聞き、実行に移します。

    何をやるかというと、かなり熱心に「介護」します。必要なものはさっと用意してあげて、祖父が動かなくもいいようにする。薬や洋服も仕訳けてあげて、頭を使わなくてもよくする、など。はたからみると、ただ単に、優しく介護している人に見えます。こういう点をふまえると、母親のスタンスは被介護者の自立を促す愛情のあるもののようにも見えます。

    苦労すれば歩けるであろう被介護者でも、転ばれたらやっかいなので車いすにのせ、食事も運んでやり、なるべく体を使わせないような介護のやり方を、健斗は嫌悪します。やっていることは同じでも、祖父のために死期を早めるという動機なのか、業務上の効率を追い求める動機なのか、という違いを重要視します。逆に、母親の介護のやり方とはまったく対立しますが、祖父のためを思ってという点では一致しており、むしろ理解を示すという、妙な共感の関係が生じます。

    もし、直木賞受賞作であれば、このあと、えげつない感じで健斗が目的を達成したり、まさかという出来事がきっかけでどんでん返しが起こったり、なんて展開もあるかもしれませんが、そんな流れにはなりません。異常な感じがするのは健斗の思考の中だけで、表面的に起きている事象は、ごく普通の日常のようにストーリーは流れていきます。

    古い建築物を壊して新しいものを作りなおす「スクラップアンドビルド」という言葉が、どうしてこの本のタイトルに使われているのかは読んでのお楽しみ。筋トレしたくなるかも。

  • 『笑いの方程式 ―あのネタはなぜ受けるのか』で、ネタが書き起こされている芸人一覧

    お笑い好きと言っても、見るのが専門で自分が人を笑わせようとは思わない人もいれば、面白いことを言って人を笑わせるのも好きという人もいるでしょう。

    それとはまた別に、笑いの理由や構造を分析するのが好き人というタイプの人も、世の中にはきっといて、そういう人に向いている本です。そして、著者の井山弘幸氏は、たぶんそんなタイプの人です。

    まえがきに書いてあるのですが、井山氏は大学の先生で「お笑い論」の講義を5年間行ったそうです。科目名は「考える葦の冒険」です。これはステルスですね。こういうのは大抵、「お笑いの講義? そんなものはけしからん」なんて、誰かが言い出したときには、時すでに遅し、「5年間やってて去年終わりましたよ」とか、なし崩し的に実行されてしまうものです。許可をもらうより、あとから許してもらう方が楽だ、みたいな言葉ありましたよね。という意味で、この講義は「冒険」だったのでしょう。その成果の一つが、この本のような気がします。

    井山氏のお笑い論(笑いの基本構造には必ず「二世界形式」があるというもの)を理解できるか、納得できるかはさておき、この本にはたくさんのお笑いネタの書き起こしが載っており、その部分だけでも価値があるのではないかと私は思うわけです。

    今も人気の芸人もいれば、解散したグループや引退した人のネタなんかもあり、爆笑オンエアバトル世代にはたまりません。

    そして、栄えある本書の最初を飾る芸人は、ダンディ坂野です。 ・・・なんで?

    まあ、第一章 第一節の「ダジャレ」の典型例だからでしょう。そして、書き起こされているネタを読んで思いました。ダンディさんの知らないところで、ダンディさんがすべっている・・・

    いや、やっぱネタは演じているのを見ないとダメだな、なんて思いかけましたが、それは間違いでした。読み進めていくと、活字で読んで普通に笑えるネタがたくさんありました。活字だからダメなのではなく、ダンディさんだから・・・。だいたいあなた、ダンディさんのネタで笑ったことありますかっ? 私はあります。たぶんあると思います。そんな気がします。

    お笑いのネタは「作品」として残る割合が少ないということも、まえがきに書かれていました。たしかに楽曲だと、歌唱や演奏がコンテンツとして流通するだけでなく、楽譜や歌詞が記録されて、出版されたり、別の人によって演じられる(カラオケとか、カバーとか)こともありますよね。演劇の脚本も売られているし、それが時代を越えて再演されたりもしますよね。

    お笑いのネタをそのままカバーというのは、ないですね。一度、お笑い芸人が、他のお笑い芸人のネタをそのまま演じる(パロディとかではなく忠実に再現する)というのを見たことがあります。ある意味かなり面白かったのですが、それはありえない状況が生み出す面白さであって、いかにお笑いネタが他者によって再演されにくいものであるかの証明にもなるような気がします。例外は落語でしょうか。

    この本にネタが登場する(書き起こされている)芸人さんを、目次から列挙します。

    ダンディ坂野、いとうあさこ、末高斗夢、爆笑問題、今いくよ・くるよ、酒井くにおとおる、オジンオズボーン、号泣、ザ・プラン9、アンジャッシュ、ルート33、ハリガネロック、タイムマシーン3号、ラーメンズ、オリエンタルラジオ、パッション屋良、瞬間メタル、クールポコ、ヒロシ、デッカチャン、小梅太夫、出雲阿国、アクセルホッパー、ですよ、つぶやきシロー、だいたひかる、摩邪、井上マー、テツandトモ、いつもここから、レギュラー、インパルス、フットボールアワー、ライセンス、チュートリアル、ムーディ勝山、バカリズム、笑い飯、ますだおかだ、POISON GIRL BAND、タカアンドトシ、ホーム・チーム、アンタッチャブル、キングオブコメディ、THE GEESE、おぎやはぎ、青木さやか、スピードワゴン

    なんか、書き写しながら、フジテレビの27時間テレビの最後のスポンサー紹介を思い出しました。

    いやー、それにしてもパッション屋良のネタを再び味わうことになるとは思いませんでした。たしか、活動の場を地元の沖縄に移されたというのをテレビで見ました。沖縄といえば? ・・・ そうだね、プロテインだね。

    井上マーの尾崎豊ネタもよかったです。ほつれたデニムの衣装が思い浮かびます。あとバカリズムは解散前のグループの時のネタだったりします。なんか歴史的価値が漂い始めています。

    そしてこの本の特徴の一つとして、章末に練習問題があります。さすが、大学の先生です。主にネタの穴埋めなのですが、ダンディさんのダジャレネタの答えがなかなか思いつかずに、若干イライラしながら、考え込んでしまいます。ふと、「私は今、何をやらされているのだろうか?」と我に返ります。お笑いネタみたいなものに対して真面目な顔をして理屈をこねる、この本自体が壮大なボケなのかもしれません。