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勝手に読書感想文。漫画も映画も含みます

投稿者: 管理人

  • 向田邦子『かわうそ』に登場する『獺祭図』は架空の絵画

    向田邦子の『思い出トランプ』という短編集に収録されている『かわうそ』という小説に、こんな一節があります。

     学生時代に見た一枚の絵が不意に浮かんで来た。

     あれは梅原だったか劉生だったか。白く濁ったビニール袋をかぶった脳味噌では思い出せないが、構図は覚えている。
     かなり大きい油絵で、画面いっぱいに旧式の牛乳瓶、花、茶碗、ミルクポット、食べかけの果物、パンの切れっぱし、首をしめられてぐったりした鳥が、卓上せましとならんでいた。
     題は「獺祭図だっさいず」である。

    こんなのを読むと、この『獺祭図』がどのようなものであるのか見たくなります。本文中にある「梅原」とは洋画家の梅原龍三郎(1888年 – 1986年)、「劉生」とはこれも洋画家の岸田劉生りゅうせい(1891年 – 1929年)と思われますが、両氏に『獺祭図』なる作品はありません。

    ウェブで検索すると、『獺祭図』という作品を書いた洋画家・版画家として小絲こいと源太郎(1887年 – 1978年)の名前が出てきます。以下は、10年以上前に『現代日本の美術〈7〉岡田三郎助・小糸源太郎 (1975年)』という本を図書館で借りた時に撮った写真です。

    小絲源太郎の『獺祭図』
    小絲源太郎 『獺祭図』 1931年 カンヴァス 油彩 161.7 × 130.0 cm

    「かなり大きい油絵」という点、『獺祭図』というタイトル、卓上に様々なものが並べられている静物画であるという点は一致するのですが、「食べかけの果物」「パンの切れっぱし」「首をしめられてぐったりした鳥」など、一致しないものも多いです。「花」「茶碗」「瓶」らしきものはありますけどね。

    以前このことを書いたブログ記事に、「川端龍子りゅうしの絵のことではないか?」というコメントをもらいましたので、ちょっと調べてみましたが、このような作品でした。

    川端龍子 『獺祭』 1949年

    こちらは、カワウソの習性の「獺祭」を擬人化して描いたもので、小説中の静物画とは関係なさそうです。

    他に検索にヒットするものとしては、久保博孝氏が『獺祭図 -「別離」』、『獺祭図 -「Anne」』、『獺祭図 -「FLORENCE」(RED CROSS)』など「獺祭図」という言葉のつく作品を描かれておりますが、こちらは時代的にまだ新しい作品で、小説中の絵画とは関係なさそうです。

    ここからは推測なのですが、向田邦子が記述したような『獺祭図』という絵画は存在せず、小説を構成するための架空の作品であるように思います。「白く濁ったビニール袋をかぶった脳味噌」というのは、脳卒中の後遺症が残る登場人物の宅次の思考を比喩しています。なので、不確かな記憶がごちゃまぜになっていても不自然ではありません。

    カワウソの習性である「獺祭」(食物としての必要以上に獲物の魚を獲り、並べたりする)と、妻の厚子の性格や行動を重ねて、奥行きを出すための材料としての絵画です。「首をしめられてぐったりした鳥」は必要な要素だったんです。

     宅次は、牛乳瓶のうしろで死んでいる鳥が見えて来た。鳥は目をあいて死んでいたが、あの子は目をつぶっていた。
     星江は、三つで死んだ宅次のひとり娘だった。

    と、この絵を引き合いに出しています。狩猟の獲物の鳥を静物画に取り入れるのはよくやられることなので、静物画のモチーフとして違和感はありません。

    厚子の性格や挙動、カワウソの獺祭という習性、『獺祭図』という絵画、そこに描かれた死んだ鳥、という一連の要素をつないでストーリーを展開させるためのパーツとして、向田邦子はこの架空の絵画を創造した、というのが私の見立てです。

  • 『怪談』(小泉八雲)の子供向け版

    ポプラポケット文庫の『怪談』(著 小泉八雲、訳 山本和夫)を読みました。たぶん朝ドラの『ばけばけ』を見てたからでしょう、妻が図書館から借りてきました。

    子供向けの本は振り仮名がしっかり振ってあるのがいいですね。初出の漢字にはほぼすべて振ってあるし、読みが難しいものは、二度目以降にも振ってありました。いい年した大人なので大抵の漢字は読めますが、この手の話だと、地名とか昔の人名とか出てきて、そういうのは読みが特殊だったりするので、振り仮名があると安心して読めます。

    何度かあったんですよね。大人向けの小説読んでて、読み終わるまで主要人物の名前を読み間違えてることに気づかないとか。心の中でずっと違う読み方で呼んでたみたいな。

    この本、タイトルが『怪談』だったんで、オリジナルの『怪談』を子供向けに翻訳したものかと思ったら、オリジナルとは収録作品が違うんですよね。18編収録されていて、そのうち『怪談』からの収録は、前半の10編だけです。オリジナルの『怪談』は20編あるので、抜粋ですね。

    それ以外については、「約束をはたした話」(=「守られた約束」)、「果心居士の話」、「梅津忠兵衛の話」、「乙吉のだるま」は『日本雑記』から、「茶わんの中」は『骨董』から、「草ヒバリ」は『日本の面影』から、「鳥取のふとん物語」は『知られぬ日本の面影』から、のように複数の著書からのよりぬきとなっています。

    なので、『怪談』の収録作品を全部読みたいという場合には向かないですが、小泉八雲の代表作を読みたいという場合にはちょうどいいのではないかと思います。

    「怪談」と聞くと、学校の怪談とか、稲川淳二とか、本気で怖い系を想像してしまいますが、収録されているのは、怖い話というよりはちょっと奇妙な昔話といった感じです(村上豊さんの挿絵も昔話っぽいテイストだし)。気の毒だったり、可哀そうだったり、不思議だったりはしますが、夜トイレに行けなくなるような怖さではないので、ご安心を。

    「乙吉のだるま」は物語ではなく、焼津に滞在したときの体験談みたいな感じです。滞在のために二階の部屋を貸してくれたのが魚屋の乙吉で、食事も彼に用意してもらっていたみたいです。

    店に目が1つのダルマが飾ってあるのを見て、なぜ1つなのか、そのわけを尋ねるエピソードがあったり、村を去るときに、つけ、、にしていた食事の勘定をきくと驚くほどやすかったりみたいなことが伏線になっていて、去り際にダルマを見ると目が2つになっていたというオチがあったりします。起承転結を盛り込んだエッセイみたいで、なかなか面白く読めました。

  • ミラン・クンデラ著『小説の技法』のカフカのとこだけ

    (アイキャッチ画像は、František Dostál – František Dostál´s archive, CC 表示-継承 4.0, リンクによる)

    字は目で追っているはずのに、意味が全然分からない。こんなことってあるんですね。「全部聞き取れたのにー!」(©バッテリィズ エース)のような気分になります。

    あなたのヨーロッパ文学に対する造詣の深度を試してくる本です。私は試験の結果、どうやら不合格でした。入れてもらえなかったので、校門の外から、「やーい、やーい」と叫んでみます。

    あなたが間違って風車に突撃していかないように、「第一部 評判の悪いセルバンテスの遺産」の書き出しのところを引用します。

    死の三年前の1935年、エトムント・フッサールはウィーンとプラハでヨーロッパ的人間性の危機に関する有名な講演をおこなった。彼にとって「ヨーロッパ的」という形容詞は、古代のギリシャ哲学とともに生まれ、地理的なヨーロッパを越えて、(たとえばアメリカに)広がった精神的同一性のことを指している。古代のギリシャ哲学こそが〈歴史〉において最初に、世界(総体としての世界)を解決すべき問題として把握し、しかじかの実際的欲求を満たすためではなく、「人間が認識の情熱にとりつかれた」がゆえに、世界に問いかけたというのである。

    「それはさておき、今年も暑いよねー」と、話を変えたくなるような書き出しです。

    この髪の毛 多そうすぎる感じの、フッサールさんは有名な人なんでしょうか。ヨーロッパ文学に詳しい人は当然知っている人なのかもしれません。この方を知らなかった程度の私がこの本を読もうと思ったのが、そもそもの間違いなのかもしれません。「友達の友達がこんなことを言っていた」くらい、興味が湧きません。「そういえば、駅前のコンビニつぶれてたよ」と、違う話に誘導したくなります。

    ネタにされている(=書籍で言及されている)人を知っていることはとても大事だと思いました。なので、このあと出てくる人名を抜き出してみます。

    技術・数学の文脈で、「ガリレイやデカルト」の名前が出てきました。このへんは理系なら似顔絵だって書けるくらい有名ですね。細そうすぎることでも有名です。

    このあと、「フッサールの弟子のハイデガー」というのが出てきます。Are you wearing?(穿いてっか?)ということでしょうか。安心してください、ふざけるのは、もうやめます。でも、ハイデガーの名前は知っています。たしか教科書に出てきました。えーと、保健体育だったかな・・・?

    そして、「セルバンテス」が出てきます。驚安の殿堂の創業者ですね。

    そのあとは、「サミュエル・リチャードソン」「バルザック」「フローベール」「トルストイ」「マルセル・プルースト」「ジェームズ・ジョイス」「トーマス・マン」「ヘルマン・ブロッホ」

    そうですね、知っている人もまあまあ混ざってますよ。割合としては、M-1の一次予選くらいの感じです。トム・ブラウンとかも入れたくなりますね。

    そんな私でも、「第5部 その後ろのどこかに」は、楽しく読めました。カフカの話だったのですが、カフカだけは何作か読んだことがあったので、話についていけました。やっと知っている人の話題になった気分です。

    ちなみに、「可」と「不可」ばっかりの、ひどい成績のことを「カフカ全集」というらしいので、これも使ってみてください。

    この第5部は冒頭から具体的な話で、面白かったんですよね。当時のチェコは共産党の一党独裁体制だったというのを踏まえて、お読みください。プラハのある技師の実話なのですが、ロンドンの科学者会議に参加して、帰って来てみると、共産党の機関紙にその技師がロンドンでチェコの社会主義体制を批判して亡命した、と書いてあったと。内務省に確認に行くと、何かの間違いだろうが、秘密機関からそういう報告を受け取った。でも、まあ、あなたの身には何も起こるはずはないから安心してよいと。でも、その後、監視され、電話が盗聴され、尾行されるようになり、その状況に耐えられなくって、結局、本当に亡命することになった。

    「やっぱり、すべらんなー」とか言っている場合ではない話でした。で、この話が、『審判』のヨーゼフ・Kの状況と似ていると。

    カフカにおいては論理が逆転する。罰せられるものは罰の原因を知らない。処罰が不条理なのはじつに耐えがたいことだから、被告は心の平穏を得るために、おのれの刑罰を正当化したいと願う。つまり、処罰が過失をさがすのだ。

    技師も実際に亡命してしまえば、以前から反社会主義の思想を持っていた(ような気がしてくる)、だから、盗聴されたり、尾行されたりしても当然だ、というようにつじつまが合います。

    それと似た話で、全面的な共産主義者であるのに裁判にかけられた人たちが多数いて、ある女性(クンデラ氏の友人)を除いては、

    「それぞれの過去のどんな細かなことまでをも検討」し、結局想像上の犯罪を自白してしまった。

    このために死刑になります。その女性だけは「みずからの過失を探しはじめる」ことを拒否したため、終身刑ですみ、15年後に名誉回復され、釈放されます。

    興味深いのは、この女性と26歳の息子のけんかをクンデラ氏が目撃した時の話です。息子が朝起きるのが遅かったみたいな、大したことない理由で女性が泣いて怒っていて、大げさだとクンデラ氏が指摘すると、なんと息子みずから、こんなことを言っていたと。

    「(略)たしかにぼくは起きるのが遅すぎましたが、母が責めているのはそれよりももっと根本的なことなんです。ぼくの態度、自己中心的な態度を責めているんですよ。ぼくとしては母が望むとおりの人間になりたいのです。だから、あなたのまえでそう母に約束します。」

    なんか、文化大革命のときの「自己批判」みたいですね。いや、起きるの遅かったら怒っているだけだと思う、と言ってやりたいところ。

    この状況を評したクンデラ氏の言葉が面白いです。

    〈党〉が母親にたいしてけっしてなしえなかったことを、母親が息子にたいしてなしえたのである。

    社会主義体制とか亡命とか裁判とか死刑とか、けっこう重大な例をあげたあとに、この卑近な例がいい味だしてます。

    ということで、第5部は面白かったです。他はよく分かりませんでした。でも、それはきっと私の無知が引き起こしたことなので、その罪をここに告白し、反省いたします。

  • こじらせた自意識のエピソード『東京百景』

    オフィスワークに就いていて、Teamsなんかを使っている人だったら分かってくれるんじゃないか思います。チャットの時とかに発言者のアイコンが表示されますよね。あれって、昔はIDカードに載せるような、履歴書に貼るような、正面を向いて、カメラ目線で、真顔で、スーツを着ていて、みたいな、そんな写真だと相場が決まっていました。でも、最近ちょっと自由になってきて、もっとカジュアルな写真を使ってもOKみたいな流れがあるような気がします。

    自由になると、みんな個性を出してきます。ディズニーランドで撮った写真だったり、ペットと写っている写真だったり、渓流の釣り人だったり。

    趣味のテイストが出てくるのは、そんなに気にならないのですが、仕事の感じが出てくると、ちょっと不穏な空気が漂います。マイクを持って講演しているような写真を見ると「俺、壇上から教える側だけど、何か?」と、どや顔が語りかけてきます。

    子供と一緒に写っている写真もけっこう多いです。それくらいならまだいいのですが、純粋に「子供だけの写真」という人がいました。何がしたいのでしょうか。誰なのでしょうか。子供の許可はとったのでしょうか。気になります。

    何の話をしたかったのか忘れかけていましたが、作家が自著にのせる自身の写真に苦労した話が『東京百景』にありまして、自意識をこじらせた人(=又吉氏)の苦悩を思い知らされました。

    後輩がさらっと「新進気鋭の作家みたい」な写真を撮ってくれたのですが、

    その写真を見た人間の大多数が、こいつ作家を気取りやがってと鼻で笑うはずだ。

    と、却下です。

    変な顔でとってみては? とも考えるのですが、

    周りの眼を気にせず、自分の大切な初めての著書に変な顔を載せるなんて、凄く男らしくて素敵だ。

    自身が決してそういうタイプではなく、周りの人間がそのことを知っていると確信する又吉氏は、そんな偽りの「男らし」さが滲み出るようなことは許容できず、変な顔の写真も採用できません。

    目を閉じて撮ったり、走っているとこを撮ったり、歯を食いしばって撮ったりしても、違和感が払拭できず、結局、一心に蕎麦を食べている写真を使ったようです。(どの本でしょうか、知っている人がいたら教えてください)

    ちなみに私の手元にある単行本版の『東京百景』には、古びたアパートのドアの前で、微妙な感じ(決して「しっかり」ではないし、ポーズもとっていないし、ふざけてもいない)で立って、カメラではない方向を見ている又吉氏の写真が載っていました。これが答えの一つなのかもしれません。

    ちなみに、会社のTeamsでの私のアイコン写真は、コンビニ前の証明写真機でスーツとネクタイで撮ったものを使い続けています。

  • 又吉直樹と太宰治と自意識過剰

    普通に生活しているとたくさんの人のことを知ることになりますが、そのほとんどの人に対して特別な印象を持つことがありません。好きでもなく、嫌いでもくなく、興味もない。もっと言うと、「興味がない」わけでもありません。なぜなら「興味がない」には、もはやネガティブなニュアンスが感じられるからです。

    「人のことを知る」というのは、一緒に仕事をするとか、遊ぶとか、たまたま雑談を交わすとかもありますが、もっと広く、一方的にこちらがその人を知っているだけの、有名人のことを見聞きすることも含めています。

    私が又吉さんに対して、ニュートラルな状態でなくなった瞬間は、又吉さんが太宰治について語っていたときでした。インタビュー記事だったのか、テレビ番組だったか、もはや覚えていないし、このような言い回しを使っていたかもあまり自信はないのですが内容としては「好きな作家として太宰治をあげるのはけっこう勇気がいる」みたいなことでした。

    この感覚、どのくらい多くの人と共有できるでしょうか。太宰治を読んだことがない、イメージもないという人はこういう感覚を持ちえないでしょう。太宰治にはまって、たくさん読んで、好きな作家を聞かれて、迷いなく「太宰治が好きです」という人と共有できる感覚でもありません。

    太宰治について、暗いとか重いとかそんなイメージを持っている人は多いと思います。でも、太宰はキャッチーでもあるのです。万人受けする作家なのです。万人受けが言い過ぎなら、「千人受けする」という言い方がぴったりかもしれません。『人間失格』あたりを中高生で読んで、

    「こ、これは、俺のことを書いている・・・」

    と思う人は結構多いはずです。すでに数十万人の若者がこの体験をしていることでしょう。

    そして、どうやらそうらしい、きっとそうなんじゃないか、と思いこむと、「太宰治を愛読しています」と言うことが恥ずかしくなってきます。そんな宣言をすれば、「あらあら、文学青年気取りですか?」みたいなことを思うやつがいる(のではないかという被害妄想に取りつかれる)からです。実際はそんな意地悪な人はほとんどいないのでしょうが、太宰が自分の代弁者であるかのような感覚を少しでも感じた人間が、実体をもたない「世間」を否定しながらも、その「世間」に怯えることは十分にありうることです。

    又吉さんが書いた『東京百景』にはいろんな要素が詰まっているので一言では言い表せません。上京してきた「何者でもない」若者のエピソードが書かれたエッセイという表現は数十パーセントは表現できているかもしれませんが、それだけではありません。売れない芸人、ちょっと売れ始めた芸人、いろんなものに怯えすぎる若者、体験談に近いものもあれば、亀や流れ星が話しかけてくる妄想に近いものものもあります。自意識過剰をこじらせすぎておかしなことになっている話もあります。人に話したくなる「すべらない話」の要素も含んでいます。

    そして、『東京百景』は究極の「人生最後に読みたい本」なのですです。なぜかというと、BSテレ東の「あの本、読みました?」とう番組で、又吉氏自身が「人生最後に読みたい本」として、この『東京百景』をあげていたからです。

    作家が「人生最後に読みたい本」を聞かれて、自身の著著をあげたのです。太宰好きを公言するときに発揮したような勇気を再び発揮し、なしとげた快挙なのではないかと思います。

    これを見て私はさらに、又吉さんに対してニュートラルではなくなりました。お気づきだと思いますが、素直に好きだとは言えない状態になっています。なぜ?って。そこを汲み取っていただけない方とは、分かり合えそうにありません。

  • 後半のダラダラ感がたまらない『菊次郎の夏』

    今さらながら、『菊次郎の夏』を初めて見ました。久石譲さんのテーマ曲は知ってて(普通に生活してたら絶対にどこかで聞いていると思う)、なんとなく内容も知ってて(母親を探している子供を、おじさんが連れて歩く、くらいのレベル)、子供が出てくるVTRなんかでこの曲が流れるだけで涙腺が緩む感じになっていました。映画も見ていなかったのに。

    内容というか演出はちょっと変わっていました。途中で何度かチャプターのサブタイトル(しかもちょっとおちゃらけている)みたいなのが入ったり、コントっぽいやりとりのシーンがあったりとか。「だるまさんがころんだ」を裸でやるみたいな場面で、他のみんなはパンツ一丁なのですが、井出らっきょさんは、なぜか全裸で。そうです、期待通りです。なので、タコの絵で隠している映像の加工とか。普通の映画だったら、品格が下がりそうな演出を、あえてやっている気がします。たけしさんの台詞も、演技と素と芸人が混ざったくらいのトーンで、それがいいんだろうなと思いました。

    菊次郎は子供のほうではなく、おじさん(ビートたけし)のほうです。子供は正男で、祖母と二人暮らしで。夏休みにたまたま見つけた母親の写真がきっかけで、母親に会いに行こうします。子供だけでは行けないので、知り合いの夫婦の旦那の菊次郎が子供を預かる形になるという展開。

    菊次郎は、普通だったら子供を預けたくないタイプの人間なんですね。旅行のために奥さん(岸本加世子)からもらった資金を握りしめて、まっさきに競輪場に行ったり、そのあとクラブ(?)キャバレー(?) みたいなところに行ったり。しかも正男を連れて、ですよ。でも、奥さんは「うちの人、子供好きだから」みたいな感じで、菊次郎に正男を託しちゃうという、昔の下町っぽいおおらかさ。

    ラストではなく、結構早い段階で目的を達してしまうというか、達せなかったというか、そういう状況になりまして、そのあとはダラダラと遊んで過ごす場面が続きます。でも、このダラダラ感は必要なんだろうなあと思います。やることないから、どうでもいい遊び(前述の裸だるまさんがころんだ的な)で時間をつぶす。大人になるとなかなか味わえない、永遠に続く夏休み、何の目的もないけど時間だけはある、みたいな感覚。

    計画性皆無のめちゃくちゃな旅なんですが、結果的に正男にとってはかけがえのない経験になります。

    旅の途中、正男はずっと、菊次郎のことを「おじちゃん」と呼んでいたんですね。旅の終わり、別れ際に正男は、

    (離れた場所から呼びかける)
    「おじちゃーん」

    (振り返る菊次郎)

    「おじちゃん、名前なんていうの?」

    (少し照れながら)
    「菊次郎だよ、バカヤロー。帰れ、はやく」

    言葉数が少ない正男が、名前を尋ねるという、とても淡い、でも、とても深い愛情表現です。皆様の位置からは見えないと思いますが、今、私泣いています。さようなら。

  • 宇野千代の短編集『幸福』(1972年)が重たすぎる

    こちらの過去記事を書いたときは、短編集の1作目(表題作の『幸福』)だけを読んだ状態で、最近やっと全部読み終わったので、追加の記事です。

    書籍の情報はアマゾンあたりで見れば、表紙画像や収録作など、けっこうなものが参照できると思っていたのですが、絶版の本は例外ですね。

    この1972年の『幸福』については、アマゾンの商品ページはあるものの、情報が少なくて収録作も分かりません。でも、表紙画像があるのはうれしいところ。わざわざ「1972年」と書いたのは、ウィキペディアが正しければ、同じ『幸福』というタイトルの短編集が1924年に金星堂という出版社から出ているからです。こちらはさすがに古すぎて、検索しても収録作の情報も出てきません。

    なので、1972年のものについては、収録作などを書き留めておこうと思いました。

    巻末の初出一覧です。

    収録作品発表誌一覧

    幸福      新潮  昭和45年4月号
    (第十回女流文学賞受賞作品)

    水の音     新潮  昭和44年8月号

    貞潔      海   昭和44年11月号

    この白粉入れ  新潮  昭和42年1月号

    野火      海   昭和46年2月号

    行く      群像  昭和36年5月号

    いま見るとき  文学界 昭和47年10月号

    では、それぞれメモ。

    『幸福』
     語り手は「一枝」。年齢は「七十をとうに越している」。夫の名前は出てこない。作中では「良人おっと」と記載されている(振り仮名なし)が、若い人はこういう名前かと思ってしまいそう。夫は戦争に行き、帰ってくる。一枝は十一軒目の家に住んでいる。

    『水の音』
     ごく短い作品。「今年の暮で、私は七十二歳になる」。野兎の「ピヨン吉」を飼う話。

    『貞潔』
     妻は「信子」、夫は「哲二」。哲二は画家(モデルはたぶん東郷青児)。絵を売るための苦悩。信子は破産した不倫相手のために、家からあり金全部(小切手)を持ち出す。

    『この白粉入れ』
     他の作品につけられてたふりがなによると、白粉おしろいと読むと思われる。語り手の愛人は「あの人」。新しく建てた家に、語り手は、あの人とその正妻と同居している。正妻の子が「一馬」。あの人は、かつて心中しようとして失敗した別の女性と、その後、結婚する。二人の子が「あけみ」、歌手の卵。語り手の出版記念の会で、あけみに歌ってもらう。
     嘘みたいな「設定」だと思ったのですが、かなり実話がベースになっているようです。(参考:[山口県岩国市]NPO宇野千代生家 宇野千代の人生と文学 二番目に好きだった男
     あの人は東郷青児、妻は盈子、二人の子は たまみ、がモデルになっているらしいです。

    『野火』
     「ハッパ」(発破のこと)の事故で両足を失った人の話を聞き、かつて恋愛関係(ちょっと微妙だが)にあった男も同様の事故に合い、手紙が何度か来たことを思い出す。

    『行く』
     短い作品。『この白粉入れ』に出ていた一馬と同じ設定の「正夫」が訪ねてくる話。『この白粉入れ』にも同様のエピソードがある。『行く』のほうが古いので、この掌編のエピソードをふくらまして『この白粉入れ』に盛り込んだのでしょうか。

    次が最後。

    『いま見るとき』
     妻は「信子」、夫は「(佐伯)啓吉」(モデルはやっぱり東郷青児)、夫の愛人「八重」。信子は二人の関係を知っているが、見逃しているような微妙な状況。すごいシーンあります。信子と啓吉の会話。

    「待って、ここへ八重を連れて来て、」「八重を、八重を連れて来て、どうするんだ。」「あたしの見てる前で八重を抱いて、」「何だって、」「八重を抱いて。啓吉さん、あなた、いつでも、あたしの知らない間に八重にしてたことを、いま私の見てる前でして、」何を言っているのか信子にも分らなかった。

    よし、このシーン、朝ドラ『ブラッサム』でやりましょう。

    この後を引用すると、グーグルにアダルトサイト認定されてしまいそうなので、やめときます。

    そしてこの作品、すごくいやな終わり方をします。

    「アメリカ兵の車だから、賠償金はとれないわよ。ヘーイ、レッツゴー、」八重はその出来事を路上に残したまま、つれと一緒に行ってしまった。

    この直前に起きた出来事の重大さと、八重の「レッツゴー」という軽い言葉のギャップが、いやーな後味を残します。

    宇野千代の初期の作品(過去記事)は、自身をモデルにしたけっこう重たいものが多かったので、その時期を朝ドラのエピソードにするのは厳しそうだなと思ってました。

    その後、作風が変わってすっかり明るい作品になったりするのかと思ったら、70代頃に出した短編集もなかなかハードな私小説でした。朝ドラが昼ドラのようになってしまわないか心配です。

  • フウイヌム国渡航記とガリヴァーのその後

    いよいよ、ガリヴァー旅行記 最後の第四篇『フウイヌム国渡航記』です。理知的な馬であるフウイヌムと野蛮な人間であるヤフーの国です。フウイヌムが支配していて、ヤフーは家畜です。しかも、下品で粗野でずるいダメダメな家畜扱いです。

    ところで、ヤフーといえば、ヤホーですよね。お察しの通り、語源の一つらしいです。

    Yahoo – Wikipedia

    また、ファイロとヤンは自分たちのことを「ならずもの」だと考えているので、「粗野な人」という意味がある「Yahoo」(『ガリヴァー旅行記』に登場する野獣の名前が由来)という言葉を選んだと主張している。

    そういえば、放送大学のラジオで「ヨーロッパ文学の読み方―近代篇(’19)」というのをやっていて、その第三回がガリヴァー旅行記でした。

    第3回 イギリス(2)

    スウィフト『ガリヴァー旅行記』を読む。

    【キーワード】
    風刺文学、空想旅行記、異文化接触

    執筆担当講師名:大橋 洋一(東京大学名誉教授)
    放送担当講師名:大橋 洋一(東京大学名誉教授)

    この講義の中で、この回の担当講師である大橋先生が以下のような話を紹介していました。

    ガリヴァー旅行記の翻訳者でもあった中野好夫は、その訳書のあとがきで「ほとんど我々の顔に腐った臓腑を投げつけられる思いのするのは、第三篇ことに第四篇である」と述べ、「訳者としての希望を率直に言うならば、たとえ第一篇、第二篇は読まなくとも、後半の第三篇、第四篇だけはぜひ読んでもらいたいのである」と述べています。

    中野好夫氏といえば、「吾輩」訳ですね。講義の中での朗読も、一人称が「吾輩」だったので、中野氏の訳を使っていたのでしょう。なんだか、10万63歳の彼を思い浮かべてしまいます。

    私の印象では、4つの篇の中で一番、ガリヴァーがどうかしちゃうのが、このフウイヌム国渡航記という感じでしたね。

    他の国に行ったときも、自分たちの世界(ヨーロッパや英国)について、批判的になったり、あるいは弁護的になったり、というのがありました。フウイヌム国でも最初はそんなトーンだったのですが、だんだんとあっち側のスタンスになっていきまして、帰る気なんかなくなって、すっかり住み着くつもりだったのですが、そうはいかなくなります。

    以下は、章の最初に記されている、その章の概要からの引用です。

    著者、主人より、この国から退去するよう警告を受ける。著者、悲しみのあまり失神するが、結局退去を承諾する。

    主人というのは馬です。この主人との対話を通じて、だんだん人間嫌いになっていて、ヨーロッパの人間たちも目の前にいる野蛮なヤフーと変わらない、自分はヤフーだ、他の人間もヤフーだ、そんなところには帰りたくない、という考えを持ち始めます。そんな中、主人からこんな話を聞かされます。

    それによると、最近開かれた大会議の席上、ヤフー問題が取り上げられ、いろんな代表者が、要するに野蛮な動物にすぎないのにまるでフウイヌム同様に一匹のヤフー(つまり私のことだ)を家人として養っているのは怪しからん、といって主人を非難したというのである。

    追放されたガリヴァーは丸木船でフウイヌムの国を去りますが、イギリスに帰る気はなく、無人島で一生を過ごそうとしているところをポルトガル船に発見され、なかば無理やりヨーロッパに連れ戻されることになります。

    親切な船長にも失礼な態度をとり、家族と再会したときも、

    だが、家の者たちを見た時、私の心中に忽ち憎悪と嫌悪と軽侮の念だけがこみ上げきたことを、ここに率直に告白しておかなければならない。
    (略)
    のみならず、自分がヤフー族の一匹の雌と交わってそいつに数匹の子を生ませたことを考え、私はただもう堪え難い恥辱と当惑と恐怖に襲われどおしであった。

    後半の部分は、奥さんと子供のことを言っているんですね。ひどい言いようです。そして、お金ができると、2頭の馬を厩舎で飼い、

    私の可愛い馬たちは、こちらの言うことがかなり分かるので、毎日少なくとも四時間は、話し合うことにしている。

    人間を嫌悪することになった理由はそれなりにあり、思考のプロセスなども書かれているので、気持ちも分からなくもないのですが、イギリスで普通に暮らして待っていた家族からしてみたら、帰ってきたら人間を極度に嫌悪するようになっていて、毎日を馬に話しかけて過ごすようになって、もう完全に狂人です。

    各国への渡航のラストをかざり、ガリヴァーの精神状態にとどめをさすのは、やっぱりこのフウイヌム国がふさわしかったのでしょう。巻末の解説によると、執筆されたのは1720年から1725年頃。発表と同時に大きな好評を博したが、その後、スウィフトはいろんな論文や詩を書いて、やがて狂人となって死んでいった、とのこと。

  • 芥川龍之介『葱』と宇野千代と今東光

    2026年後期のNHKの朝ドラ『ブラッサム』のモデルは作家の宇野千代です。もちろんフィクションですが、きっと宇野千代のエピソードがいろいろと盛り込まれることでしょう。そして、このエピソードは絶対に入ってくるのではないかというのが、「デート中のネギ購入事件」です。ウィークエンダー風に再現VTRを作ったりすると盛り上がりそうです。「小説によりますと・・・」

    小説ではあるんですが、宇野千代に関するエピソードを人から聞いて、それを作品に仕上げたというものみたいです。この『葱』は青空文庫で読めます(芥川龍之介 『葱』)。

    「お君さん」のモデルが宇野千代、「田中君」のモデルが今東光こんとうこう(作家)だそうで。

    まずは、待ち合わせのシーン。

    「御待たせして?」

    お君さんは田中君の顔を見上げると、息のはずんでいるような声を出した。

    「なあに。」

    田中君は大様おおような返事をしながら、何とも判然しない微笑を含んだ眼で、じっとお君さんの顔を眺めた。それから急に身ぶるいを一つして、
    「歩こう、少し。」

    どうやら、サーカスを見に行く予定だったみたいですが、食事に変更です。

    「お君さんには御気の毒だけれどもね、芝浦のサアカスは、もう昨夜ゆうべでおしまいなんだそうだ。だから今夜は僕の知っている家へ行って、一しょに御飯でも食べようじゃないか。」

    「そう、私どっちでもいわ。」

    お君さんは田中君の手が、そっと自分の手を捕えたのを感じながら、希望と恐怖とにふるえている、かすかな声でこう云った。

    なんか、いい雰囲気です。その後、路幅の狭い町を歩いていると、一軒の八百屋があります。

    お君さんは思わずその八百屋の前へ足を止めた。それから呆気にとられている田中君を一人後に残して、あざやかな瓦斯の光を浴びた青物の中へ足を入れた。しかもついにはその華奢な指を伸べて、一束四銭の札が立っている葱の山を指すと、「さすらい」の歌でもうたうような声で、
    「あれを二束下さいな。」と云った。

    やっぱり「葱」というのが効いていますね。ズッキーニでもルッコラでもなく、ネギというのがポイントです。八百屋で何か買おうとする時点で興ざめな感じはありますが、ネギというのがさらにそれを盛り上げます。バッグにさっと入る形状でもないし、独特の匂いもあるし、生活感野菜の王様です。

    小説はこのあと、あきれたような様子の田中君と、お得な買い物ができて嬉しそうなお君さんの対比で幕を閉じるのであります。

    どうやら実話がもとになっているであろう、このエピソードを芥川に書かれた宇野千代は、『老女マノン』の中で、登場人物の「小母おばさん」が若い頃、ある作家に自分についての小説を書かれたという設定で、逆にネタにするという、さらなるおまけエピソードにつながります。(過去記事

    私は、芥川龍之介というと、『杜子春』や『蜘蛛の糸』のようなおとぎ話系のやつではないもので、作家としての自分を登場するものだと『或阿呆の一生』のイメージが強くて、暗い、重いものを想像してしまいます。でも、この『葱』は軽く書いたような演出がなされてて、印象が違いました。

    冒頭も、

    おれは締切日を明日みょうにちに控えた今夜、一気呵成かせいにこの小説を書こうと思う。いや、書こうと思うのではない。書かなければならなくなってしまったのである。では何を書くかと云うと、――それは次の本文を読んで頂くよりほかに仕方はない。

    みたいな始まりかたです。他にも、気障きざなキャラの田中君のような人を見たければ、音楽会や展覧会に行けばいい、そんな奴は2,3人は必ずいる、みたいな流れで、

    だからこの上明瞭な田中君の肖像が欲しければ、そう云う場所へ行って見るがい。おれが書くのはもう真平御免まっぴらごめんだ。

    と、物語の中に作者が登場してきます。最後の方では、

    まあこのままでペンをこう。左様さようなら。お君さん。では今夜もあの晩のように、ここからいそいそ出て行って、勇ましく――批評家に退治されて来給え。

    のように、登場人物に語りかけたりします。これが小説? なんだかエッセイっぽい書き方のような気もするので、この話がそのまま実話なんじゃないかという気もしてきますが、やっぱり小説なんですよね

    ちなみに、宇野千代の『老女マノン』のほうでは、そのようなことはあったが、その男性とは恋愛関係にはなかったし、登場している女性は自分とは全然似ていない(一方、登場する男性は実在する人と似ている)みたいなことが書いてありました。まあ、こちらも小説(フィクション)なんですが。

  • 映画『メメント』と白いトランクス

    私の感想文ルール: 一つ、昔見た映画を思い出しながら書いてもよい

    見たのが昔とは言え、かなり繰り返し見たので、ギャメル刑事がレナードに会いに来た時に、

    Lenny!

    と呼びかける、ちょっと怪しい笑顔も鮮明に脳内再生できるほどです。

    主人公のレナードには、妻を殺された事件の時に、自身も頭を殴られ、記憶が10分程度しか持続しないという後遺症があります。自分の名前や昔のことは覚えているけど、新しい記憶が保持できないという状態です。

    これをどう表現するか? です。レナードはちょいちょい、「あれ? 今、俺 何してたんだっけ?」みたいな状況になります。この感覚を見ている人が疑似体験するために、編集上の工夫がこらされています。

    例えば、各アルファベットがある「時点」だとして、A→B→C→D→Eという時間の流れだった場合、これをこの順番で見ていくと、映画を見ている人は因果関係を自然に理解できる反面、「今、何してたんだっけ?」という感覚は共有できません。

    これを、

    D→E、C→D、B→C、A→B

    というシーン割りで見せることによって、各シーンの先頭で鑑賞者は、どういう場面なのかを、今与えられている断片的な情報から推理しなくてはいけない状況になります。これはある意味、鑑賞者のストレスになるんですが、レナードの心理状態を共有するという点で、非常に有効な演出になっているわけです。

    ・・・みたいな話は、ウィキペディアとか、読み解きサイトにきっと書いてあるので、そちらにお任せするとして、私としては、

    レナードがはいているのは白いトランクス

    という点に着目したいと思います。

    レナードは記憶が持続しないので、覚えておかなくてはいけないと思ったことはメモに取ります。人の顔も覚えられらないので、ポラロイドカメラ(チェキのもっと立派なやつ)で写真をとり、写真にその人の名前や、どういう人物なのか(「こいつを信じるな」とか)を書き込んだりします。

    メモや写真は無くしてしまう可能性があるので、本当に大事なことは体に書き込むのがよい、という正気の沙汰とは思えないポリシーに従い、レナードの体はタトゥーだらけです。きっと、日本の温泉には入れないでしょう。

    このタトゥーは映画の重要な要素なので、それをさりげなく見せるべく、レナードはよく裸になります。往年の井出らっきょさんのようです。そのときに、どんなパンツをはいているかは、笑福亭鶴光師匠じゃなくても、気になるところです。

    レナード(ガイ・ピアース)は、なかなかの細マッチョです。もし、ビキニのセクシーなパンツをはいていたとしたら、それが気になって、話の筋を見失ってしまう可能性があります。そう、観客のほうが記憶を失ってしまうかもしれません。

    無難なトランクスをはかせることにしても、それが水玉だったりペーズリーだったり、微妙な柄だったり色だったりすると、レナードが置かれた悲劇的な状況の描写の邪魔をします。高級スーツやジャガーとも合いません。

    ここはなるべくクセを排した、白のトランクス一択となります。

    白いトランクス(上部)
    白いトランクス(下部)

    私はこの映画を見て、白のトランクスって意外とありじゃん、と思い「♪あれも!これも!デイリーファッションパレット♪」という店内ソングでおなじみの衣料品店「パレット」で、イメージに近いものを発見し、購入してみました。

    しかし、私はガイ・ピアースのような細マッチョではなく、どちらかというと太ポッチャの中年であるため、妻によれば「おじいちゃんみたい」な仕上がりになりました。

    「Don’t wear white trunks.」というタトゥーを、お腹のあたり彫っておこうと思います。