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勝手に読書感想文。漫画も映画も含みます

投稿者: 管理人

  • 『生命はデジタルでできている』

    情報学で文字コード表を学び、生物学でコドン表を学んだとき、その類似性に気づいた人は多いんじゃないかと思います。

    核酸の塩基の種類は4種類(A、G、C、T)。2つ組み合わせれば4×4=16種類まで表すことができる。人体で作り出されるタンパク質を構成するアミノ酸の種類は20種類だから、2つの組み合わせでは足りない。じゃあ、このアミノ酸を指定するためには、3つ組み合わせる必要があるな。というわけで、コドン表では塩基の3つ組が使われることになる。実にデジタルな感じです。

    文字コードを作ろうとしたときに、文字が何種類あるから1文字あたり何バイト必要になるか。英数字とシンプルな記号だけなら1バイトで足りるけど、日本語だとそれでは足りないので、1文字あたりのバイト数を増やす必要がある、みたいな話とそっくりです。

    というあたりが、『生命はデジタルでできている』(田口善弘著)というタイトル兼キャッチコピー(?)につながるわけです。

    著者の田口先生の経歴を見てみると、もともとは物理学の分野から、バイオインフォマティクスに入ってきた方のようです。だからなのか、ちょっと違った観点で生物学を捉えるというところに特徴がある気がします。

    私自身は、化学と物理は履修したものの、生物学はきちんと学んだことはなかったので、田口先生の(時には厳密さを割愛した)ざっくりとした説明には非常にはまった、、、、感がありました。

    ヘモグロビンのところが、すごく腑に落ちたので紹介します。肺で酸素を受け取り、各組織で酸素を渡すことで、酸素を運ぶヘモグロビン。

    こう書くと、ヘモグロビンが何か意思のようなものを持ち、役割を担っているかのようです。しかし、なぜそのようなことができるのか、というところがブラックボックス的にみえます。

    本に書いてあったことを、私なりの理解で書いてみると・・・、分子間がくっついたりくっつかなかったりはクーロン力(電気のプラスとマイナス)による。分子の部分的な構造により、くっつきやすい形や場所などがある。反発するときも同様。くっついたら離れないような強い関係もあれば、くっつくんだけど離れやすい弱い関係もある。

    ヘモグロビンがくっつく相手は、酸素分子である。そして、ご多分にもれず「弱い結合」のパワーをフルに活用している。

    なぜ「強い結合」ではなく、「弱い結合」≒「そこそこ強い」結合なのか、

    そうじゃないと、肺で酸素を拾ったが最後、細胞に行き着いても「手放せない」からだ。周囲が高酸素濃度なら、酸素を取り込み、低酸素濃度なら放出する、という機能を果たせない

    ヘモグロビンは「ここが肺だから酸素とくっつこう」とか「ここが酸素を必要とする組織だから酸素を手放そう」などと、複雑な判断をしているではないんですね。

    高濃度だからたくさんくっつく、もちろん一部は離れていくけど、まわりが酸素だらけだから、また酸素に出会ってくっつく。低濃度だと、手放したら、まわりには酸素がほとんどいないので、次はなかなかくっつかない。結果的に、酸素を運んだ形になる。ごくごく単純な原理で、ヘモグロビンが酸素を「運ぶ」仕組みが説明できます。

    このあと、タンパク質の反応が特異的であるという話も、すでに説明した性質の具体例として登場します。ヘモグロビンは酸素と特異的にくっつくが、他の分子とはそうならない。そうなると、なんでもかんでも運んじゃうので。

    ただ、例外というか想定外だったのが一酸化炭素で、一酸化炭素がくっついたヘモグロビンは、一酸化炭素を手放せないせいで、酸素を運べなくなってしまう。なので・・・

    結果、その生物は酸素がたくさんある空気を呼吸しながら、酸欠で窒息死する。

    酸素とは結合するが、一酸化炭素とは結合しないような、そんな他のタンパク質を、酸素の運び屋として採用できなかったのか、という疑問には、

    それはたぶん、一酸化炭素とヘモグロビンは長い進化の過程でめったに出会わなかったからだ

    火を日常的に使い密閉性の高い建築物で生活する現在ならともかく、人間の歴史のほとんどの時期においては、一酸化炭素はもちろん火自体が珍しかった。そのような環境においては、一酸化炭素とは結合しないヘモグロビン的なタンパク質の獲得は、合理的な進化ではない、ということなのでしょう。

    今まで、断片的な知識として知っていたことが、一つの流れで見えてきた、そんな気がしました。

    分子生物学の教科書を読んだけれど、なんだか腹落ちしない、覚えることが多すぎて、消化しきれない、みたいなときに、本書のように柔らかい比喩を駆使した本を読んでみると、新たな納得感が得られるかもしれません。

  • 『慢性疼痛 ― 「こじれた痛み」の不思議』

    知りませんでした。そんなことが原因の痛みがあるなんて。

    『慢性疼痛 ― 「こじれた痛み」の不思議』(平木英人著)の表紙には、

    痛みという、本人にとってこれ以上ないくらい確かな症状が医学の対象となったのは、案外最近のことです

    と書かれています。はて? 医者に行って、どこかが痛いと言えば、その「原因」を見つけて(少なくとも探して)くれるし、何か痛みが生じていれば、それを和らげるような薬を出してくれたりします。

    医学の対象となっていなかったとはどういうことでしょうか?

    医師も、一般診療科(精神科や心療内科以外の科です)であれば、「痛みがあればそれに対応する身体的病変があるはずだ」と考え、X線や超音波、CT、MRIなどさまざまな検査を行って、その原因(身体的所見)を見出そうと努力します。

    え、そうじゃないの? 原因があるから痛んでいる。その原因を取り除けば痛みはなくなるし、痛みがあるなら身体的な原因がある・・・というわけではない???

    ですが、体に原因がなくても痛みは起こるのです。

    病院で何度検査しても体に異常がまったく見られない、または少し異常がありそうだが患者さんが訴えるほどの激痛とはなり得ないと判断され、しかもそれが六か月以上続く場合、一度は心因性の疼痛を疑ってみる必要があります。

    そのような患者さんのためのクリニックを開業しているのが、著者の平木英人先生というわけです。

    なるほど、医者に行って、痛みの原因をいろいろ調べて、それらしいものが見つからなかったら、「異常ないですね」と言われて終了。それ以上何もしてくれない(してあげられない)というクリニックも多いんじゃないんでしょうか。もう、専門分野外なんでしょうね。そういう意味で、痛み自体を対象と捉えることが始めたのは「案外最近」だということなんでしょう。

    心因性の疼痛というのは、器質的な(身体的な)原因がないのに痛みが起こることらしいです。過去の事例として、旦那さんの浮気だったり、面倒を見てくれている娘が多忙で会話が減っていることだったり、一見、かまってちゃんの詐病では?なんて思ってしまうのですが、患者にとっては本当に痛いし、患者からしてみたら、こんなに痛いのにこれが精神的なものだとは信じられない、というものらしいです。

    ちなみに私も最近、激痛を感じることがありました。痛風でした。血液中の尿酸濃度が上がり、関節付近で結晶化し、これを異物とみなした免疫細胞が炎症を引き起こし、その炎症のために痛むものです。だいたい足が明らかに腫れますし、エコーで尿酸の結晶らしきもの見えるなど、原因がはっきりしていますので、平木先生のお世話にはならずにすむやつでした。すみません、最後に関係のない話をしてしまいました。

  • 『アルプス席の母』は泣ける小説なのか

    妻が読みたいというので、自治体の図書館で予約したんですが、順番が回ってくるまでに5か月かかりました。その自治体では7冊所蔵していたのですが、予約した時点では数百番目だったと思います。

    妻が本をリクエスト(私の図書館利用者カードで予約)するときは、たいていK-City出身のFさんのおすすめだったりするのですが、今回借りたきっかけを本が届いたときに聞くと、「忘れた」とのことでした。思い出せよ、と思いましたが、考えようとさえしていないことが手に取るように分かったので、それ以上は追及しませんでした。

    タイトルは『アルプス席の母』で、帯には、「全母親が落涙必至!!」とか、「こんなん、泣くにきまってるやん。」とか書かれていて、私としては普通だったら避ける系です。

    「泣ける!」を売りにされた途端、泣けなくなります。というか、そもそも泣くことを目的とはしていないのですが、なぜ、そんなに、みんなが泣きたがっているのだと決めつけてくるのでしょうか。

    まあ、でもこういうのは大人の事情というか、出版社とか編集者によるマーケティングであり、プロモーションでしょうから、あまり気にしてもしょうがないとも思いました。

    なにより、順番が回ってくるのに5か月もかかったので、今回読んでおかないと、次はないぞ、という強迫観念にかられ、読むことにしました。

    読んでみて驚きました。この作品は、関西人の嫌なところ、高校球児の甲子園に行きたいという思いに付け込む汚い大人(学校や監督)たち、子供の活躍を自身の手柄のように勘違いし横柄に振る舞う、子離れできない親たち、などを描いた社会派作品でした。

    冒頭、母親の菜々子が甲子園の観客席にいるシーンから始まります(このあと、過去に戻って、経緯が描かれ、また甲子園の場面につながってきます)。菜々子が息子の航太郎の名前を大声で叫ぶと、他の父母たちがギョッとするという場面があるのですが、なぜかというと、

    航太郎が入学したときにもらった十数ページにも及ぶ野球部父母会の心得には、ひたすら禁止事項が記されていた。

    • 日傘禁止
    • 間食禁止
    • サンバイザーは白色のみ
    • 水分の補給は選手と同じタイミングで。たとえば試合中ならイニング間
    • 監督への直接の声がけ禁止
    • 球場では三年、二年、一年の順に前列から隙間なく座っていく
    • 後輩の親が座るのは、先輩の親が全員座るのを見届けてから

    (略)

    • 試合中の単独での声出し禁止。声援は応援団の指示通りに

    もちろん小説です。フィクションです。でも、この作品の性格上、「そんな父母会ねえよ」とか、「そんなルールありえねえ」とか、そういうつっこみをうけるような設定にはしないはずです。

    作者の早見和真さんは元高校球児で、甲子園に何度も出場している名門高校の出身です。そのあたりを踏まえると、高校野球父母会あるあるに違いないという気がしてきます。

    こんな場面もあります。佐伯さんというのは、野球部の監督です。

    「私も知らなかったんだけど、これうちの学校の伝統なんだって。毎年、新チームになったときに各家庭から八万円ずつ集めて、それを佐伯さんに渡してるって。佐伯さんが中学生のスカウトとかのために地方に行ったりするのに学校からお金が出てないらしくて、そういう活動費に使ってもらうものなんだって」

    必要な経費があるなら、会費なりなんなりの形で集めて、領収書ももらうようにして、収支報告もちゃんとやればいいのですが、メールは使うな、文書は残さない、封筒に入れて直接手渡し、と裏金臭がぷんぷんです。

    これを監督に渡すシーンが面白い。菜々子の1つ上の会計係が金を渡そうとすると、監督は

    「こんなものは受け取れません」

    いや、そこをなんとか、みたいなやりとりがあり、

    「わかりました。それでは、これは部の活動費として大切にお預かりさせていただきます。しかし、来年以降は絶対にこんなことしないでくださいね。約束してください」

    この茶番を見ていて、菜々子は思わず、聞いてしまうのです。

    「本当に来年以降はしなくていいのでしょうか?」

    まとまりかけたところで、場が凍り付く発言。ぞくぞくしますね。

    そう、この作品は高校球児を支える母親を描いた感動作、というカムフラージュをしているが、実は高校野球の暗部を描く、社会派告発作品だったのです。

    というのは、なんだか言い過ぎです。たぶん普通に感動的な作品です。おい、どっちなんだよという方は、読めばいいと思うよ。

  • アニメ『秒速5センチメートル』と『小説 秒速5センチメートル』

    新海 誠 監督の映画はけっこう見たほうなんじゃないかと思っています。まず、あれだけ話題になれば見ずにはおれない『君の名は。』から『天気の子』。たしか、テレビで見たあとに、DVDで見なおしたと思います。

    過去の作品も見たくなって、『雲のむこう、約束の場所』や『言の葉の庭』も、自治体の図書館にDVDがあったので見ました。

    そして、『すずめの戸締まり』は飛行機の中で見たような。

    ところで最近、実写版の『秒速5センチメートル』が公開されましたよね。そういえば、アニメの『秒速5センチメートル』は見ていないなかったなーと思ったんですね。見ていなかった理由は、図書館になかったから。

    で、ふと、転校した女の子に会いに、男の子が電車を乗り継いで行くんだけど大雪で到着が遅れて、みたいなアニメを見たという記憶が蘇って、何だったかなー、新海誠だった気もするし、そうじゃなかった気もするし。

    ChatGPTに聞いてみると、それは新海誠監督の『秒速5センチメートル』ですね、だって。

    図書館にないのに、見たらしい。どうやって? テレビで放送はされてないし(実はフジの関東ローカルでやっていたらしいが、それは知らなかった)。まさかと思い、家のDVD(など)入れ(プラケースに入れてしまいこんでいる)を見てみると、そこにありました。Blu-ray版のやつが。

    買っていた・・・

    買って、見て、しまって、忘れて、そういえば見てないなーと思ってました。そう、こういうのが老いるショック(©みうらじゅん)なんですね。もう一個買う前に気づいて良かったです。

    ということで、これを記念して、アニメ版をもう一度見るのではなく、小説のほうを読んでみることにしました。大学生の子供が持っていました。なんかぼろいなーと思ったら、ブックオフの値札が貼ってありました。

    新海誠の小説を読んだのは初めてです。映画(アニメのほう)を見た直後なら、細かい相違について語れるのですが、なにせ、映画を見たことも忘れていたくらいなので、違いはよくわかりません。が、あー、こんなシーンあったなーってのはありました。映画のほうは、そんなに情報が詰め込まれていなかったはずなので(タランティーノの映画みたいなしゃべり倒したりはしないので)、いろいろなディテールを確認できるのではないのでしょうか。

    ふと思ったのですが、小説のほうは『小説 秒速5センチメートル』という感じで、タイトルに「小説」ってついているんですね。アマゾンとかで区別しやすいように、でしょうか。

    でも、『アニメ 秒速5センチメートル』というふうに、「アニメ」とはついていないので、実写版と区別しにくいですね。実写版がDVD・Blu-ray化されたら『実写版 ~』という感じのタイトルになるのでしょうか。

    誰かに買ってきてと頼まれたときは、念を押す必要がありそうです。そっちのほうも見てみたかった、みたいな状況ならハッピーエンドですが、「普通、実写版とか見るかね」みたいなアニメ原理主義者だったら、関係に亀裂が入ってしまうかもしれません。

    今、ちょっと検索してみたら、コミック版なんてものがあるじゃないですか。

    あと、通常(?)の角川文庫版(でも、最初の文庫化は文庫ダ・ヴィンチ版とのこと)以外にも、角川つばさ文庫版というものもあります。

    こちらは、新海誠(作)となっているので、内容は同じなのでしょう。角川つばさ文庫というと、いわゆるヤングアダルト(中高生向け)のシリーズなので、漢字のフリガナなんかはたくさん(なんなら全部)つけてあったりするはずです。

    もし、小説のやつ買ってきてと言われた場合、漢字に弱そうな友人なら、角川つばさ文庫版を買って行ってあげると・・・キレられるかもしれません。

  • 『コンビニ人間』と『傲慢と善良』

    『コンビニ人間』(村田沙耶香 著)を読み直してみました。理由は、電車の中でさっと読めるもの(長編とかではなく)を家の本棚で探していて、目についたから。それほど本は買わない妻が買った本でした。

    なんとなく内容は覚えているものの、細部はもちろん記憶していないし、最後どうなったかも全く覚えていないので、新鮮な気持ちで読めました。芥川賞受賞作だと、純文学でござい、みたいなのもたまにありますが(偏見?)、『コンビニ人間』はエンタメ小説としても普通に楽しめるし、内容はほとんどコメディだと思う。主人公の女性の、他者を理解できない、合わせられないという感覚は、かなり絶望的なレベルなのですが、本人は深刻視していないところが喜劇的でありつつ、深刻視できないところは悲劇的でもある、みたいな感じ。

    以前、『傲慢と善良』を読んだときに(『何者』と『富士山』と『傲慢と善良』)、婚活が小説のテーマになる時代なんだなあと思ったのですが、読み返してみると、『コンビニ人間』も婚活をテーマにしていたことに気づきました。婚活というよりは、就職・結婚・出産などに関して、「普通の感覚」を持った人たちが振り回す無自覚な暴力に苦しめられるタイプの人間というところでしょうか。

    「なんで結婚(しようと)しないの?」、「なんで(就職しようとせずに)アルバイトなの?」なんて質問は、普通の基準に合わせるのが普通だと信じている人には普通でも、普通の基準に合わせるのが普通だとは感じられない人にとっては普通ではない。

    私自身は順調に進学して、卒業したら就職して、そろそろかなという時期に結婚して、しばらくしたら子供が生まれて、という感じだったので、この手の質問や干渉に苦しめられたことはありませんでした。唯一あるとすれば、中学・高校と一切部活をしなかったこと。何もやったことがないというのは結構少数派で、よく人が自分は何部だったからこんな感じ、みたいな話になると、私は特に話すことがなくなります。

    部活に入らなかった理由は、拘束時間が嫌いだから。学校が終わるのも待ち遠しいのに、なんでそのあとも学校に残るような活動を行わなければならないのか。部活に入る人の気がしれない、と思っていました。

    あと、スポーツも文化的な活動も含めて、それらのスキルを高めたり、知見を深めたりということに、なんら価値を感じられなかったから。体育でのサッカーの試合は楽しいんだけど、パスとかドリブルの練習とか全く楽しくないし、そんなことまでしてうまくなくなることに執着できなかった。これについては、意識が変わって、30代くらいからは、鍛錬の魅力に気づきました。なので、現在の人生のポリシーで、中高をやり直すとすれば、たぶん部活に入ります。

    話を戻して、『コンビニ人間』で興味深かったのは、人の話し方やしぐさや服装が、まわりの人の影響を受け、それを吸収し、実践し、またそれがまわりの人に伝染していくさまを、古倉恵子(主人公)がするどく観察していて、それを意識しながらも、自分自身もそれを行っている様子を、客観的に見抜いている感覚でした。

    古倉さんは、いわゆる空気読めない感じの人なのですが、そのような違和感には敏感で、古倉さんと他の登場人物のどちらが普通なのだろうかと、考えさせられます。おそらく、理屈ではなく、多数派が「普通」認定されるのでしょう。

    結構序盤に、アルバイトの研修の場面。

    私はバックルームで見せられた見本のビデオや、トレーナーの見せてくれるお手本の真似をするのが得意だった。今まで、誰も私に、「これが普通の表情で、声の出し方だよ」と教えてくれたことはなかった。

    この手のビデオや指導って、目線はこうでとか、おじぎの角度はこれくらいでとか、些末なところでこういうときにはこうしろとか、なんか本来なら各自の自由裁量で行われる行為まで踏み込んで指定してくるから、言われた通りに演じる自分に気恥ずかしくなったり、演じる他者をみると「マニュアル通りにやりやがって」なんて思ったりしちゃいます。

    古倉さんは、こうするのが普通だからこうしなさい、と言われると安心して、そうするタイプ。たぶん、そうする人は、ちょっと変な人と思われがち。

    世の中の大多数は、そんなことは人に言われることではなく、自分で判断してやること、と思っているのではないかと。でも、その一方、周りを観察し、人の行動様式を真似、話し方やボキャブラリー、場合によっては服装なんかも合わせていく。それを無自覚に行うというのが、現代の「普通」とされているのかなあと。いや、もしかしたら縄文時代(ある登場人物の口癖)から、そうなのかもしれない。

    私も高校生の輪の中に入ると、高校生みたいになるのだろうか。変な略語を使ったり、なんでも「やばい」で形容するようになるのだろうか。ちなみに、今はおじさんたちの輪の中にいるので、おじさんみたいな感じです。というか、おじさんですが。

  • 『いかにして問題をとくか』と『エレガントな問題解決』

    両者に共通しているのは、数学の問題自体ではなく、数学の様々な問題の解き方に共通するノウハウやテクニック、その習得のようなメタなテーマに焦点をあてている点でしょう。

    あと、タイトルだけ見てもと数学の本であることがわかりにくいというのも共通していますね。『いかにして・・・』のほうの原題は『How to Solve It』ですからね。直訳すれば「いかにしてそれをとくか」って感じで、「問題」という単語も出てこない。「この前のあれどうなった?」みたいな、熟年夫婦の会話のような。

    最近読んだのは『いかにして問題をとくか』(ジョージ・ポリア著)のほうで、こちらはもう古典ですね。昼休みに会社で読んでいたら、「ああ、その本ね」と言われるくらい。初版の発行が昭和29年(1954年)で、私が持っている版は「第11版第46刷」となっています。「もはや戦後ではない」と経済白書に書かれたのが、1956年ですから、逆説的ですが、まだ戦後感が残っていた頃なんでしょう。

    装丁やフォントが古風でいかしています。自宅の本棚に置きたくなる一冊。こんな感じ。

    例題として取り上げられているのは、高校を卒業していれば(そして真面目に勉強していたなら)分かるくらいのレベルのものです。立体幾何の例題だからといって、立体幾何に主眼があるのではなく、あくまで考え方やアプローチが取り上げられているテーマです。語り口から言って、読者として数学教師も想定している感じです。

    最初の例題は、直方体の3辺が与えられたときに対角線を求めるというもの。教室を例にして学生の興味をひくとよい、というのは納得です。長さや幅や高さを測るのはメジャーがあれば比較的容易ですが、対角線は難しそう。巻き尺だとピンと張れないし。

    そして、こんな対話例が載っています。

    ≪分らないものは何でしょう≫

    ≪直方体の対角線の長さです≫

    ≪与えられているものは何ですか≫

    ≪直方体の長さと幅と高さです≫

    ≪適当な記号をつけなさい.未知のものはどういう記号で表したらよいでしょう≫

    ≪xです≫

    ・・・

    「まだ学生がぼんやりしている場合には」、ヒントをもっと具体化しなければならないと書かれていて、

    ≪図の中に三角形を考えることができますか≫

    ≪図の中の三角形はどんな種類のものですか≫

    ・・・

    のように続きます。解法を直接は示さず、対話や質問によって、相手を真理に導いていく。なんだかソクラテスみたいですね。知らんけど。

    本文の中の例題は少なめで、むしろ言葉で何度も原則を繰り返し強調している印象です。ただ、巻末には20題の問題が載っており、本書を読んで身に着けたスキルを、これらで試せます。

    その1問目はちょっとふざけて(?)いて、

    1.一匹の熊が1点Pから南へ向けて1マイルあるき,そこで方向をかえて真東に1マイルすゝんだ.そこでもういちど向きをかえて真北に1マイルすゝんだとき,ちょうど出発点Pにもどったとする.この熊はなにいろをしているか.

    直角に(南から東、東から北)に2回向きを変えただけなら、元の場所に戻れないのでは? ああ、平面じゃないのね、というあたりは誰でも気づくでしょう。でも、熊の色? ここはちょっとトンチが効いていますね。

    オチ(答え)を言ってしまうと、北極点なのですが、本当にそれだけ? というところがミソだと思います。「あなたはそれが正しいことを証明できるか」という点が強調されていましたが、証明しようとすると、他の答えの可能性もつぶしていく必要がある。

    似たような状況が起きそうな場所に南極点付近がありそうです。南極点そのものからは最初に南には行けないから、これはない。

    南極点に近い場所なら南へ行けます。その後、東 に行き、別の子午線に沿って北へ行く。でも、北極のときと異なり、隣り合う子午線は広がっていく方向なので、元の点には戻れないはず。

    東へ歩くことにより「隣り合う子午線」へ移動する・・・。いや、もし南極点のごく近くなら、1マイル歩くことで「同じ子午線」まで戻ってこれる場所があるじゃないか。ということで、ミステリーが解けるのです。

    読んだばかりで、記憶が鮮やかだったので、長々と書きましたが、この手の数学の問題の解き方を扱った本を読んでみたいと思ったかたには、まずは『エレガントな問題解決 ―柔軟な発想を引き出すセンスと技』(ポール・ツァイツ著)の方をお勧めします。数学のいろんな分野の例題が登場し、章末の問題も充実しています。原題は『The Art and Craft of Problem Solving』です。こちらの本で、数学の Art や Craft に惹かれたら、古典である『いかにして・・・』も抑えておく、という順番でいいのではないかと思います。

    「すゝんだ」って、まじ古典かよ、って思いませんでした?


    【2026-02-07 追記】
    『いかにして問題をとくか』に誤植があったので、うだうだ書きました。
    11回の改版を生き延びた『いかにして問題をとくか』の誤植

  • A BIRTHDAY FOR FRANCES(フランシスとたんじょうび)

    こちら(ラッセル・ホーバンとアーノルド・ローベルと多読)には書ききれなかった(脱線して書くのを忘れていた)、『A BIRTHDAY FOR FRANCES』(Russell Hoban著、Lillian Hoban イラスト)に登場するアナグマの女の子 Francesの繰り出す会話や即興の歌の面白さについて。

    冒頭、妹 Gloriaとお母さんが誕生日パーティの place card(パーティのときの座席に置く席札)を作っている場面。明日誕生日を迎え、パーティをしてもらえたり、プレゼントをもらえたりする妹に、Francesはちょっとしたジェラシーを感じています。

    掃除道具入れのクローゼット中で歌っているという状況も、ちょっと笑えます。

    Frances was in the broom closet, singing:

     Happy Thursday to you,
     (略)
     Happy Thursday, dear Alice,
     (略)

    「Aliceって誰?」とお母さんに聞かれ、「誰にも見えない誰か(”somebody that nobody can see”)」だと答えます。「今日は金曜日よ」と言われ、「アリスにとっては木曜日なの」と答えます。

    その後、place card作りを手伝うのですが、妹が”pretty flowers” や “rainbows and happy tree” を描いている横で、絵を描きながら歌います

    A rainbow and a happy tree
    Are not for Alice or for me.
    I will draw three-legged cats.
    And caterpillars with ugly hats.

    誕生日パーティが自分やAliceのためのものではないことを愚痴ったあとで、place cardには似つかわしくなさそうな、三本足の猫や変な帽子の芋虫を描くんだと歌いあげます。そして、絵本の絵にはそれらしきものが描かれたplace cardも描かれています。

    place card作りにも飽きて、お気に入りのほうきにまたがり、どこかに遊びに行く前に、お母さんに言ったセリフも面白みがあります。

    “Good-bye. I will be out of town visiting Alice for two weeks, and I will be back for dinner.”

    Aliceを訪ねて2週間ほど町を出ると言いつつ、夕飯には帰る、と。

    Francesシリーズを読んだのは初めて(=1冊目)なのですが、他のお話でもFrancesの皮肉の効いたトークに期待できそうです。

  • ラッセル・ホーバンとアーノルド・ローベルと多読

    『A BIRTHDAY FOR FRANCES』という本を読みました。ラッセル・ホーバン(Russell Hoban)というアメリカの作家が書いた絵本(英語)です。

    子供がすでに大人になっているような年齢の私が、なぜこのような絵本を読んでいるかというと、いわゆる多読による英語の勉強のためだったりします。難しい英語の本を辞書片手に苦労しながら読むというのではなく、ごく簡単な英語の本から初めて、英語が母国語の子供が自然に言葉を身に着けていくように学ぶ、そんな学習法です。たぶん。

    効果の程は・・・、今のところ、あまり。というか、大人の脳というのはもう子供の脳とは違うから、そう簡単にはいかないだろうと思いつつも、ほそぼそと続けています。

    英語にあまり馴染みのない人って、英語を見たときに、「無視モード」(読まないことに決める)か、どうしても読まなければならないなら、「翻訳モード」(知識を使って頭の中で訳していく)のどちらかになる感じがするんですよね。ごく簡単な英語を読んでいるときには、このどちらでもなく、自然に頭に入ってくるような、そんな感覚になるときもあります。知らない単語があっても引っかからずに、全体的にどんな感じかをざっくり理解して、分かった気になるような。そこが目指すべきところかな、と思ったりもします。

    多読で読む本には、専用のというか、意図的に語彙数をしぼって書かれた「Graded Readers」というジャンルの本もあります。これらの本は読みやすいです。ただ、なんか人工的な感じもします。細かい単語のニュアンスは、ここでは割愛します、みたいな。

    で、もう一つのアプローチが今回読んだような子供向けの絵本です。日本の絵本と同じように、言葉を覚え初めの子供向けの、1ページに2,3行くらいのものあれば、今回読んだ『A BIRTHDAY FOR FRANCES』のように、1ページに10行くらいはある、そこそこの文量のものもありますからね。自分に合ったレベルの本があるはずです。というか、図書館で片っ端から借りてみてます。

    私が最初の頃(20年以上前)に読んだものに、アーノルド・ローベル(Arnold Lobel)の『FROG AND TOAD ARE FRIENDS』があります。4冊のシリーズになっていて、日本語版では、「がまくんとかえるくん」というタイトルで訳されていますね。勉強モードではなく、英語を読んで感動するとか、くすっと笑うとか、そういう感覚を味わうことができたシリーズでした。

    Frog and Toadシリーズがなかなか良かったので、なんかそんな感じの本とか作家を教えて、とChatGPTに聞いて、紹介された作家の一人がラッセル・ホーバンでした。で、これからホーバンのFRANCESシリーズを読んでみようかなと、図書館で借りた1冊めのが、この『A BIRTHDAY FOR FRANCES』でした。

    絵本や児童書は、Graded Readersに比べると、語彙的にはちょっとハードルが高いときもあります。Graded Readersだったら編集者さんがチェックして、「ここ、ちょっと難しいんで、言い換えましょう」というのありそうですが(想像)、絵本作家はそういう妥協はしないでしょう。ここぞというときには、高校でも習わないような単語が出てくるときもあります。表現のこだわりみたいなところあるでしょうからね。

    『A BIRTHDAY FOR FRANCES』は、難しい単語というのとは、まったちょっと違うところで、悩んでしまいました。

    こんな会話が出てきます。話しているのは、主人公のアナグマの女の子(Frances)とそのお母さん。

    “Alice will not have h-r-n-d, and she will not have g-k-l-s. But we are singing together.”

    “What are h-r-n-d and g-k-l-s?” asked Mother.

    “Cake and candy. I thought you could spell, “ said Frances.

    結局は、ケーキとキャンディだと言っているので、スルーすればいいんでしょうが、なぜ「h-r-n-d」? なぜ「g-k-l-s」?というのが気になってしまう。辞書には載っていないし、ChatGPTの回答も的を射ません。

    法則性があるんじゃないかとか、何かの暗号になっているんじゃないかとか、いろいろ悩みましたが、結局、フランシスが単に言葉遊びをしているだけで、特に根拠はなさそうだという結論に達しました。

    正しい使い方はきっとこんな感じです。

    I do not get any I..A..K and this is not T..U..D | frances by russell hoban | Katyboo1’s Weblog

    私も長い文章をだらだらと書いていて、ちょっと眠気が出てきました。そろそろ「I-A-K」ブレークにでもしようと思います。

  • 『桐島、部活やめるってよ』に出てくる映画(『ジョゼと虎と魚たち』他)

    「本を読もうと思うのですが、何から読んでいいのか分かりません」のようなお悩みが寄せられている、みたいな話をたまに聞きます。テレビとか新聞の記事で見かけたというだけで、直接そんなことを聞いたわけではありませんが。

    なんでもいいから目についたものから読めばいいのに、と思ったりします。本を読む習慣のある人って、次に何を読もうか探すというよりは、次に読もうと思っている本が順番待ちになっていたりしません? 読もうと思っているどころか、すでに買って、積んであったりとか。そうでしょ?読書子(©岩波文庫)の皆さん。

    そんな状態になる原因の一つが、作品に出てきた作品のことが気になりそれを読みたくなるというもの。それは、本から本というだけでなく、本から映画、映画から本、みたいに戻ってくるなんてパターンもあります。音楽から映画なんてのもありますね。私が映画『いちご白書』を観たのは、「『いちご白書』をもう一度」という曲があったから。映画を観たら、原作の書籍も読みたくなったりとか、連鎖は止まりません。

    ちょっと前に『桐島、部活やめるってよ』(朝井リョウ)を読んだときにも、この感覚に襲われました。

    映画部の「前田涼也」の章。彼とその友人の武文はなかなか重要な役割を演じます。本当にかっこいいのは誰?、ダサいのは誰? って感じでしょうか。

    その武文のセリフに唐突に映画名が出てきます。

    「いやー、昨日ジョゼまた観てよー」
    (略)
    武文は犬童一新監督の『ジョゼと虎と魚たち』の話になるといつもより大きな声を出すし、テンションがあがりすぎてなぜかめがねを外したりする。

    このあとも、いろいろ映画の作品名が出てきます。

    僕はカラーページに蒼井優を見つけたので返事が適当になる。『百万円と苦虫女にがむしおんな、この田舎じゃ上映してくれなかったんだよなー・・・・・・DVD出るだろうし借りようっと。

    「『メゾン・ド・ヒミコ』もよかったし、やっぱり犬童一心最高!」

    「邦画のあの淡〜い表現方法が好きなんだ!」岩井俊二サイコー!という武文を説き伏せて、以前一緒に『BABEL』を観たことがある。
    (略)
    そのあと武文セレクトの『めがね』を観ようとしたが、チャプターを見てもどこがどこのシーンかわからなくてふたりで笑った。

    以下は、ちょっと違う文脈ですが、中学生の頃は親しくて一緒に映画を見たりする仲だった東原かすみについて、涼也が回想しているシーン。高校生になった今、かすみはアッパーな女子グループ、涼也はそんな女子たちには相手にされない「下」のグループ(だと涼也は思い込んでいる)というのが切ない。

    十四歳のあいつの声は今とあんまり変わっていなくて、 (略) 『となりのトトロ』のメイとサツキが本当は幽霊だなんて都市伝説をいまだに信じているのかもしれない。

    次のはテレビドラマらしいです(知らなかった)。武文のキャラが出ているので入れておきますと、

    「だから、真木よう子やばいよなって話!」
    (略)
    「『週刊真木よう子』とかな、あれ始まったとき、なんで俺が大人になって監督になったときにこの企画やってくれんかったんや!ってガチ思ったもん」

    監督になる前提。まだまだあるよ。

    「お前ほんと岩井俊二好きな」

    僕は半ばあきれたように返事する。

    「だってやっぱ天才やもん俺の中で。『リリイ・シュシュのすべて』とかさ。あれ観たあと二週間くらい引きずったんだよなー」

    ちょっと離れたところから聞こえるアッパー女子の声。陰口のような内容も聞こえ、「ダサい」男子組の武文が聞こえないふりをしながら、映画の話をし続けるあたりの描写は必見です。でも、そこはとばして、かすみの声・・・

    「沙奈だって、なんかの予告観て妻夫木かっこいーとか言っとったやーん」

    だって妻夫木だよ? あなたと私で『感染列島』って感じー感染しちゃうようなことがしたーい、という甘ったるい声に、馬鹿だこいつー、と笑うかすみの声が被さる。

    こちらは中学の頃のかすみの言葉を回想している涼也です。

    池脇千鶴ちゃん天才だと思った、とか、他にはどんな映画が好きなの? とか、『きょうのできごと』って作品知っとる? とか、それも妻夫木くんと池脇千鶴ちゃんだよね、とか、関西弁がかわいくてさ、とか、 (略)

    私、『チルソクの夏』とかすごく好き

    ふたりで『ニライカナイからの手紙』を観に行った帰り、マクドナルドに寄った。

    再び、テンション高めの武文です。

    いやー最近やっと『サマータイムマシン・ブルース』を観てさ! (略) あと『檸檬のころ』みたいな、もうもどかし〜い甘酸っぱ〜い心臓きゅってなる〜みたいのも好きやし、 (略)

    どんだけ出てくるんだよって感じですね。あらためて読み直しながら抜き出してみたのですが、他にもこれが出てたよ、というのがあれば教えてください。観ます。

    ほとんどの映画が観ていない作品だったので、観ないといけないような気がします。そんな強迫観念に駆られます。そして、映画には原作の本があったりもします。これも読まなくてはいけません。連鎖は当分続くのです。


    2026年3月20日追記
    映画好きなら、こちらもどうぞ。
    『国宝』を撮る25年前の李相日監督の映画も紹介『12歳からの映画ガイド』

  • 『教養主義の没落』と岩波文庫

    『教養主義の没落』(竹内洋 著)を読んだきっかけは、BSテレ東の「あの本、読みました?」という番組で、米津玄師さんがインタビューでこの本に触れたところ、20年以上前の本にも関わらず売上がすごく伸びた、みたいな取り上げ方をしていたから。米津さんインタビュー→ファンが反応→その反応にネットが反応→テレ東が反応→私が反応、という、又聞きの又聞きの周回遅れみたいな状況。

    実は私は、この没落した教養主義の片鱗をちょっとだけ感じた世代でした。私が約35年前に出た高校は旧制中学が前身とかで、古風なしきたりが残っていました。旧制中学というのは、小学6年のあとの5年間なので、中学と高校が混ざったようなものでしょうか。知らんけど。

    古風なしきたりというのは、「ファイアーストーム」と呼ばれていて、毎年、校庭の真ん中にでっかいキャンプファイヤーみたいなを焚いて、その周りで寮歌や逍遥歌を歌ったり、走り回ったりするというもので、この準備のために歌を覚えたり、走り回る陣形を練習したりと結構大変な一大イベントでした。

    寮に入っているわけでもないのに(私の出た高校に寮はありません)、「寮歌」ってなんだと思うでしょうが、私も当時そう思っていました。どうやら、そのイベントは旧制中学や旧制高校の流れを組むものだったみたいです。寮歌も旧制第一高等学校の寮歌(「嗚呼玉杯に花うけて」)などでした。

    あ、でも高校生活自体は普通でした。このイベントだけなんだか妙にレトロでバンカラで。このイベントに参加する(義務があり、権利がある)のって男子だけだったんですよね。今だったら、問題になりそうな。

    で、その後進学した大学も、いわゆる旧帝大ってやつで、決して裕福ではない家庭で育った私は学生寮に入りまして、そこにも旧制高校の片鱗が残っていました。入寮の最初のイベントで、寮歌の類を覚えさせられます。で、飲み会のあとのもりあがったところでみんなで合唱したりします。居酒屋でもやったりしてので、たぶん迷惑だったでしょう。

    で、この本を読んでいて懐かしかったのが

    寮やクラスコンパでは「アインス、ツヴァイ、ドライ」の掛声で旧制高校の寮歌が歌われた。

    ドイツ語で1,2,3なのですが、よくこれやってました。他にも、

    エッセン(食事)やゲル(お金)、メッチェン(若い女性)などの旧制高校生用語も使われていた。

    これらもドイツ語ですね。英語じゃなくて、ドイツ語ってあたりが旧制っぽいです。私の世代はこれらの言葉を使ったりはしませんでしたが、寮の食堂のホールに「エッセン」という名前がついていて、なんか旧制高校生用語のなごりなんだろうなと。

    旧帝大の学部別の統計データは興味深かったですね。出身や経済状況や読む本や趣味など。〇〇大学の学生はこんな感じとか、〇〇学部はこんな感じとか、そんなステレオタイプを話をネタにしたことがある人も多いと思いますが、それを本書では真面目に論じてました。

    帝大だけじゃなくて、私立の大学や、当時多数派だった高卒相当(今の高校とは微妙に違うみたいですが)などとの比較が出てくると、もう次はNHKの「100分で名著」でもやっていたピエール・ブルデューと絡めた考察ですね。こういう考察に興味を持つハビトゥスと、そうではないハビトゥスがあるよなー、というのが私の考察です。

    あと、取り上げれられている話題としては岩波文庫のエピソードが面白かったです。私の岩波文庫との出会いは高校生の頃。世界史の先生が「読むなら岩波文庫を読みなさい。角川文庫とかじゃなくて(笑)」みたいな、ことを言ったんですよね。たしかに角川文庫はエンタメ系が多くて、岩波文庫は古典や学術系が多いけど、なんか岩波なら何でも良い、間違いない、みたいな言いっぷりが、教養主義っぽい。

    かく言う私も、電車でスマホをいじるよりも、読書をするほうが、そしてそれは岩波文庫であるほうが、かっこいいと思うハビトゥス(使い方合ってる?)を持っています。

    そう、教養主義者は少数派にはなりましたが、没落はしていません。いつの日か復権を果たし、主流派になることを目指すための秘密結社も、すでに・・・。信じるか信じないかはあなた次第です。

      

    ・・・信じないでください。